天主物語 1.第一話

 長い戦の一日が終わろうとしている。誰の目にも、劣勢は明らかだった。鎧武者たちの顔には、あせりとあきらめが交互に宿った。
 田島行兼は、家の子郎党を見回した。
「ここまでか……!」
「お館様」
たっぷりと雪を持った小枝がついに折れるように、武者も足軽も、その一言にがっくりと肩を落とした。そこここで、号泣が沸き起こった。
 天神城は陥ちようとしていた。田島の治める領地は、猫の額ほどである。天神城はその領地の南のはずれにあり、険しい山城であった。この戦国の世にあって、その堅牢さが唯一、近隣の領主たちから田島家を守ってきたのだが、今度の寄せ手は、人ではなかった。
「先祖伝来のこのお城が、よもや、猿どもに奪われるとは……」
男泣きに泣きながら、家老が叫んだ。
 その声に呼応するように、外からは下品な高笑いが響き渡った。寄せ手の大将である。手下を従えた、巨大な猿の妖怪だった。
「それ、今一押しじゃ。きゃつらをいぶりだせ!」
足軽が飛び込んできた。
「お館様、あやつら、火攻めにいたすようでございます!」
「なんと!」
田島、家老をはじめ、男たちはあわてて武者窓へ走った。長い戦の一日も、はや夕暮れに近づいていた。西日の中、眼下の猿の大群の中から、そだを担いだ者たちがわらわらとでてきて、城壁の下へ積み始めた。
「殿様!」
絹の悲鳴が響いた。白装束の女たちが、田島の妻を守ってやってきた。
「あやつらが、あやつらめが」
「言うな。ここまで持ちこたえたが、もはや」
残りの言葉を田島は呑み込んだ。妻もただ泣くばかりだった。
 彼女は近隣の有力な領主の娘で天神城が攻められたときは義父が援助する約束になっていたが、頼みの援軍はついに送られてくることはなかったのである。
「火攻めならちょうどよい。せめて人の手で、浄土へ送ろう。そなたらの遺骸は、辱められぬまま、焼かれるはずじゃ」
「はい、私も、綾も」
田島は胸をつかれた。綾、というのは、娘の名である。長男は他家へ人質に取られていたが、綾はこの城に暮らしていた。
「綾も不憫なことだ。が、世を恨め。来世はせめてましなところへ生まれつけよ」
綾は、母のすぐ後ろにいた。気丈に涙をこらえてうなずいた。
「では、父上様。介錯をお願いいたします」
母と娘、そろいの死装束で膝を並べ、数珠をたぐって首を差し伸べた。周囲の武者たちから、すすり泣きが起こった。田島は、刀を差し伸べた。
 そのときだった。
「お館様、外を、外をご覧下され!」
誰かが叫んだ。
「なんじゃ、騒々しいぞ!」
「猿めが、下がりまする!」
「なに!」
妻と娘の命を奪うのを先に伸ばせるだけでもうれしやと、田島は階下へ駆け下りた。いっせいに武者たちがあとを追う。
 城門の前には不思議な光景がひろがっていた。死屍累々の戦場から、猿の妖怪どもがいっせいに後退していくのである。その上空に旋回しているものがあった。
「双頭の飛竜とな」
みたこともない奇獣が夕日の中を舞っていた。奇獣の背にあって手綱を取るのは、まだ若い男のように見えた。飛竜が舞い降りると長い白銀の髪がその背にたなびいた。飛竜の騎手は、ふわりと地面に降り立った。
「なんと、ばさらな」
負け戦のことも忘れ、田島はつぶやいた。
 空からやってきた男は、袂の長い小袖に袴をつけ、その上から胴鎧を着用している。なんともあでやかな流水文様の細帯がその鎧を飾っていた。まるで、都の若い公達が、髷も結わず、たわむれに皮衣を右肩へかけただけで直衣もつけぬまま、遠乗りに出たようないでたちだった。
 ふと田島は、公達の左の袖が、不自然になびくのに気付いた。隻腕であるらしい。
 貴公子はあたりの人目をまったく意に介さないようすで天神城を見上げた。
「きさま、どこからわいた!」
猿怪の大将が、そのとき怒声を浴びせた。貴公子は振り向きもしなかった。おかげで田島たちには、上臈と見まがうほどの、白皙の美貌がよく見えた。
 猿の雑妖たちはざわめいた。
「若造、その匂い、犬の一族か!よくも顔を出せたものじゃ。それは、我らが落とす城。とっとと出て行け!」
ゆっくりと若者は向きを変えた。朱唇が開いた。
「きさまが、去ね」
あでやかな外見とは違い、腹に響くような、低い声音だった。いっせいに雑妖が退いた。
「なんだと、若造が」
「この城が、気に入った。おまえたちは邪魔だ」
猿怪は歯をむき出した。
「わしを上総の総大将、玄一猩々と知ってか!」
若者は軽く首をかしげた。異様に爪の長い右手が、腰に佩いた剣のうちの、一振りの柄にかかった。環頭の太刀はするりと引き抜かれ、落日の最後の光を受けて輝いた。
「さきの播磨が一子、殺生丸」
そう、名乗った。
「ならば、殺生丸、覚悟!」
長い鉄棒を頭上にかまえて、巨大な猿怪が飛び掛った。殺生丸と名乗った若者は、低く気合を発した。
「はっ」
玄一猩々に向かって片足を踏み出し、青光りのする刀身を無造作に振り切った。一合すら戦っていない。が、猩々の動きがとまった。かくご、と叫んだその口の形のまま、猿怪の首から血が噴出し、そのままごろりと落ちた。
 一拍おいて、猿どもが大混乱に陥った。われさきに逃げようとする者、歯をむいて威嚇する者、大騒ぎだった。殺生丸は二三歩猿の群れに歩み寄った。恐るべき剣は、花でも持つように片手にさげたままだった。
「むさい」
一言つぶやいただけで猿たちは水を打ったようになった。殺生丸は、浅靴の先で猩々を蹴った。
「片付けろ」
数匹の猿妖がおそるおそるでてきて、大将のなきがらを引きとった。そのまま潮が引くように、猿たちは逃げ去っていった。
 田島は我に帰った。
「こうしては、おれん!」
あわてて外へ飛び出した。
 ちょうど、双頭の飛竜から、別の人影が降りてくるところだった。幼い少女と、ひねこびたカッパのような妖怪である。
 だが、殺生丸は連れを無視して、すたすたと城へ近づいてくるところだった。
「お待ちください!」
田島が声をかけると、氷のような視線が初めて田島を捕らえた。田島はすくみあがった。やはり、人間ではない。琥珀色の瞳だった。
「邪魔立てするか」
「めっそうもない、御曹司」
田島はその場に腰を下ろし、両手の拳を地面につけた。
「これは田島行兼と申すもの。命をお救い下さいましたこと、御礼申上げます」
「貴様らを助けたわけではない。わたしは人間がきらいだ。拾った命が惜しければ、早々に立ち去れ」
「我らの願いを、お聞きくださりませ」
「くどい」
取り付く島もなかった。
「御曹司!」
「邪見、行くぞ」
カッパは、邪見、という名であるらしい。奇妙な杖を抱えて、主の後を追って行く。だが、もう一人の連れは、どうやら人間らしかった。
「あのう」
少女は、ひれふしている田島と天神城の武者たちの前で足をとめた。
「殺生丸様に御用ですか?あたしでよかったら、あとでお伝えしますけど」
まだ十にもならない幼さの、利発そうな子だった。市松模様の裾の短い小袖を身につけている。どこにでもいそうな小娘だったが、田島は腹をくくった。
がばっと平伏して、田島は言った。
「お方様に、申上げます!」
少女はとまどったようにきょろきょろした。自分のことを言われたとは思わなかったらしい。だが、前を行くあやかしの足が、そのとき止まった。
「妖しの君がこの天神城をご所望なれば、さしあげまする。われら一同、殺生丸様を城主にいただき、ご奉公申上げたく存ずる」
「え、ええっ」
少女は目をまるくして主を見上げた。
「物好きなことだ」
殺生丸はつぶやいた。
「わたしは犬の妖しだ。おまえたち人間が、妖怪に仕えると言うか?」
冷たい視線がまっすぐに見下ろしてくる。田島はツバを飲み込んだ。
「田島が領地は、ここ数十年、近隣の有力な大名の言いなりになってまいりました。が、この城がいざ攻められても、誰一人助けに来る者はおりませなんだ。田島は、人を見限ってござる。このうえは、力あるご城主なれば、妖怪であろうと、犬であろうと、おすがりいたします」
「わたしの本性は、獣だ。むごい主かも知れぬぞ」
田島は一度苦笑し、吐き出すように訴えた。
「田島は獣に不慣れと、なにゆえ思しめさる。なんのこのあたりの大名は、みな人の皮をかぶった獣でございまする!」
ふん、と、本物の獣らしき若者はつぶやいた。沈黙がおりた。田島は腹に力を入れて、じっと貴公子を見上げた。
「ならば」
と、殺生丸は言った。
「天守をよこせ」
「は?」
「天守を我が物とする。その下は、田島が差配せよ」
やった、と田島は胸中に叫んだ。額を地面にこすりつけた。
「かしこまりまして!」

 すでに夜になっていたが、城中騒然としていた。なにしろ、戦のあとである。味方の死体を弔い、城内を清め、戦仕度を取り払うといったルーティーンのほかに、天守をきれいにして新しい城主の気に入るように改装する、という大仕事が待っていた。
 天守閣は天神城で最も高いところにあった。さきほど田島と武者たちがつめていたのが、この天守である。周囲の状況を見渡すことが出来、また寄せ手が来たときには最後まで応戦して、そのときがきたら討ち死にするための場所だった。
 田島は案内しながら、いったいこの天守のどこが(猿にせよ、犬にせよ)あやかしの意に沿うのかをはかりかねていた。
 矢狭間を取り払うと天守からは上総の国を一望できた。たしかに眺めは絶佳だが、相手はその気になれば飛竜を駆って天空を行く妖怪なのだ。
「見事でございますなぁ」
邪見が声を放った。
「邪見殿、見事、とおっしゃいますと?」
田島が聞くと、ひねこびたカッパはぐいと胸を張った。
「気脈じゃ、気脈。この城はな、いくつかの気脈が交わるところにたまたま立っておるんじゃ。人の目にはまず見えぬが、豊かな気脈がまことに快い。特にこのくらいの高さがあると俗塵もなく、すがすがしいのう」
「へえ、そうなんだ。りん、ちっとも気がつかなかった」
少女はそう言って、ものめずらしそうにあたりを眺め、それから主の元へ近寄った。
「殺生丸様、お月様が見える」
「これ、りん、お邪魔をするでない」
従者たちのあれこれを気にとめる風でもなく、殺生丸は窓の一つに拠って腰をおろした。そばに、りんと呼ばれている少女がすわりこんだ。軽く目を閉じ、ほほを染め、夜風をいっぱいに吸い込んでいる。
「うん、気持ちいいね、邪見様」
「おまえ、人間だろうが」
「でも、気持ちいいもん」
片膝立てた殺生丸のそばにふわふわと広がる銀白の皮衣に、りんはじゃれつくようにうずくまった。
「邪見」
ぽつりと殺生丸がつぶやいた。
 田島は目をみはった。どうやらこの強力な妖怪は、従者に命じてこの少女を寝かせようとしているらしい。さきほどの“お方様(第二夫人)”呼ばわりは、あながち間違いではないらしかった。
「はぁ?」
間の抜けた声で邪見が聞いた。じろ、と殺生丸が視線を飛ばした。
「あ、りんでございますか?ええ、どこへ寝かせたものか」
「あちらに円座がございます、邪見殿。お小さい方なれば、まにあいましょうか」
「おお、それじゃ、それじゃ。来い、りん」
「ん~、もうちょっと、殺生丸様のとこにいるの」
眠そうにりんが言った。だが、主は言った。
「りん」
りんはそれ以上ごねもせずに起き上がった。
「はい。おやすみなさい、殺生丸様」
田島はりんを、天守の中央にあるきざはしの上、天井は同じだが床の一段高くなったところへ連れて行った。円座をすすめ、上からありあわせの夜具をかけた。
「ありがとう、ございます」
眠そうに少女はつぶやいた。
「いえいえ、こちらこそ」
心から田島は言った。