野薔薇の咲く村 1.シスター・ファナ

 のぼりの続いた坂道がとぎれた。濃い緑に隠れて見えないが、とうとうと音を立てて豊かな水量の走る音がする。近くに川があるのだった。
道の突き当たりに古い木の柵があり、壊れかけた木戸がちょうつがいでぶら下がっていた。
 真夏である。木々の間を吹き抜ける風が涼しかった。
杖の先でその木戸を押し開け、ルークは緊張した足取りで、柵の中へ入った。
長く、深く、震えながら息を吐く。
「サンタローズ!帰ってきた」
 深山のふところから流れ出るひとすじの清流、その流れが長大な年月をかけてえぐりぬいた谷間の土地、野ばらの咲く村、サンタローズ。
 少年のころ、ルークはやはりこうして、のぼり坂になった山間の小道を、勢いをつけて登ってきたのだった。そして、父のパパスが荷物を背負って、あとからゆっくりと姿をあらわし、声をかけた。
「ルーク!そんなにあせるな」
はっとしてルークは振り向いた。声の主は父ではなく、友達だった。
「空気、薄いんじゃないのか?こたえるな」
ヘンリーは襟をとめるひもを緩め、マントのはしで額の汗をぬぐった。
「ここが村の入り口なんだな?」
「ああ、そうだよ。本当は木戸番のおじさんがいるはずなんだ」
「誰も見えないが、まあ、メシ時だからな」
「おじさん、サンチョと仲がよかったから、まず消息を聞けると思ったんだけど」
ルークとヘンリーはサンタローズへ到着したばかりだった。
「サンチョなら、父さんの若いころの事を知っているはずなんだ。母のことも、たぶんね。貴重な旅の手がかりになるよ。そう言えば……」
気はいいが酒に目のない男だった、と木戸番のことをルークは思い出してくすっと笑った。
「昼寝かもしれないね。勝手に通らせてもらおう」
「おまえんち、まだ遠いのか」
「こっちだよ」
ルークは先にたって、崖に板きれをはめこんだ粗末な階段をのぼった。
「この村は谷の中にあるから、川のこっちとあっちに分かれてるんだ。川が一番低くて、みんなの家のあるところは山の上」
「それじゃ、行き来がたいへんだろ」
「山と山の間に橋がかかってるよ。橋の上から見ると村の全体が見渡せる。ほら!」
流れの音が大きくなった。川風が吹き上がって汗を冷やす。眺望が突然開けた。ルークは橋の中央に立って懐かしい村の風景を見下ろし、そして、ぎょっとして体をこわばらせた。
「なんだ、これは」
 巨大な山塊は堂々と村を圧して屹立している。はるかに霞むその峰、人の手を拒む深い樹海、暗い洞窟から流れ出す川、風景はすべてルークの記憶と寸分たがわなかった。
 しかし。
 ことごとく、家は壊されていた。黒く焼け残った木材の中に、レンガの塊や鍋釜がころがっている。
 平地を縫うようにして作られた畑は、どれも人手に見放され、立ち枯れている。
 わずかに村の教会が、瓦礫の上に真昼の影を短く落とすのみだった。
 動くものはおろか、生き物の気配すらない。
 むせるような緑の匂い、どうどうと響く川音、無残に明るい太陽の光。サンタローズは死の静けさに覆われていた。
「こいつは、ひどい」
痛ましげにヘンリーがつぶやくのも、ほとんど耳に入らなかった。
 突然、女の声がした。
「旅の方ですか?この村に、何の御用?」
それは、やせた中年の女で、修道女の法衣をまとっていた。
 まさか、とルークはつぶやいた。この村には、昔、半人前のシスターがいた。リンゴのように頬の赤い、ドジだが優しい、シスター・ファナ。パパスを出迎えて、気取った挨拶をした直後、飛び上がって叫んだ、無邪気な人。わーい、わーい……
 ルークは彼女の前に立った。
「ルークです。シスター。パパスの息子の、ルークです」
ファナの、血色の悪い顔から、警戒するような表情がみるみるうちに消え、ぱっときらめきが宿った。
「ルーク、あの坊や?まあ、立派になって。パパスさんはどちらに?ああ、帰ってきてくださったのね。これで村も」
明るいおしゃべりは、いっそ残酷だった。
「ま、どうしたの?まさか」
かろうじてルークはうなずいた。
「父は、10年前に……」
シスター・ファナは凝然と立ち尽くした。
「では、もう」
生きる支えを奪い取られた時、人はこんな表情になる。あの忌まわしい場所で、ルークは何度も見てきた。
「シスター」
ファナは大きく息を吐いて、指を組み合わせた。
「すべてはマスター・ドラゴンの思し召しのままに」
 そこにいるのは、無邪気なだけの半人前シスターではなく、精神的に村を導いてきた不屈の心の聖職者だった。
「教えてくださいませんか。この村は、なぜ」
ファナは、のろのろと橋の手すりをつかみ、サンタローズを守る山々を見上げた。
「何年か前の、ある夜。村はいきなりラインハットの兵士の一団に襲われたのです」
ヘンリーが叫んだ。
「なぜ!」
「わかりません。隊長らしい人が兵士に命令して、家を全部焼き払って、村のみんなを、年寄り子どもまで教会前の広場に集めて、パパスさんをかくまっているのは誰かと聞いていました」
ファナの目が、憤りに燃えた。
「パパスさんが、王子様の誘拐に、かかわっているはずがないのに!」
ヘンリーが激しく息を吸い込む音が聞こえたが、何も言わなかった。
「村のみんなは、ほめてくださいね、パパスさんを悪く言う者は一人もいやしなかったんですよ。でも隊長は、みんなから何も聞き出せなくて、それで、一人、一人」
ファナは指の先で目を抑えた。
「時間稼ぎでした。みんな、サンチョさんがつかまったら危ないのがわかってましたから、必死で逃げる時間を作ったんです」
「では、サンチョは」
「ええ。あの夜からお姿を見ていません。無事にお国へ帰られたといいのですけど」
心を静めるかのようにシスターは黙り込み、それから静かな笑みを浮かべた。
「しばらく村にいらっしゃるの?私は教会にいます。会いに来てくださいね」
そして、肩を丸めるようにして、橋を渡っていった。
「ルーク」
ヘンリーは、何かを懸命に抑えるような表情をしていた。
「ヘンリーのせいじゃないよ。きみがかかわっているはず、ないんだから」
「おれがいたころのラインハットの兵士は、こんなことのできるやつらじゃなかった。なまけものぞろいで、訓練不足だったし」
泣き笑いのような声だった。
 ルークは首をふって歩き出した。
「どこへ行くんだ?」
「やっぱり帰ってみる。何か手がかりが残っているかもしれないし」