野薔薇の咲く村 2.廃屋の子

 橋を渡りきると、左手に渓流を見ながら高地を歩いていく。
 この二階家は武器屋だった。その隣の廃墟はお菓子作りのうまいおばあさんの家。畑の間の道。いたるところに咲いていた野ばら。あの遅く来た春、いっせいに白と薄紅の花をつけていた。東サンタローズでひとつだけの井戸。井戸端会議のおばさんたちに、サンチョはよくまざっていた。
 井戸の前に立ったとき、ルークは声も出せなかった。
 ルークの家が、なくなっていた。
 他の家は、がらんどうでも屋根が残り、壁が残りしているのに、ルークの家だけは、悪意を見せ付けるかのように根こそぎにされていた。汚い水たまりの中に土台石がわずかに見えるだけである。
 ルークは呆然と足を進めた。思い出のない場所などない。
「ここは、サンチョの大事な庭だったところ。ここが台所。ここが食堂、テーブルのあったところ。サンチョの席、父さんの席、ぼくの席」
足に何かあたった。きれいな茶色の筋の入った、白い丸い小石だった。つまみ上げると、家のそばにいた男の子と目が合った。
「それ、ぼくの」
ルークは無言で小石をほうってやった。
「ありがと!」
子どもはそういうと、しゃがみこんで、他の小石といっしょに並べた。
「村の人じゃないよね。どっから来たの?」
「……オラクルベリー」
「聞いたことないや。西へ行くとアルカパだし。東へ行くとラインハットだよ」
男の子は屈託なくしゃべった。
「これ、きれいでしょ?河原で見つけたんだ。これは宝石なの。こっちは赤いからルビーだよ」
言ったとたんに、赤い小石が転がりだした。子どもは、もうっと言って、後を追いかけた。
 ぼんやりと、その姿をルークは見ていた。
「あれえ、どこいったろ?こっちかな」
こどもは無造作に、本当なら壁のあるところを踏み越えて食堂のあった場所へ入り込んできた。
「ここかな?」
「きみ、やめなよ」
ルークは言ったが、子どもは耳に入らない様子だった。
「苦労して見つけたのに」
「やめろと言っただろ!」
ルークはつい大声を出した。
「え~、なんで?」
子どもは振り向きもしない。突き上げる怒りに駆られて、ルークは叫んだ。
「ここはぼくの家だ、勝手に入るな!」
男の子はビクッとした。ルークを見上げ、数歩後ずさりすると、くるっと振り向いて逃げ出した。
「おい、何やってるんだ」
後ろからヘンリーの声がした。
「おまえ、おかしいぞ。子どもを怒鳴るなんて」
ルークは聞きたくなかった。元は階段のあったほうを振り向くと、地下室への入り口が見えた。
「そうだ、地下室!何か、残ってるかもしれない」
足を踏み出すと、ずしゃ、という湿った音がした。
「ばか、やめろ」
ヘンリーが追いついてきて、肩に手をかけた。
「放してくれ、確かめなけりゃ」
「自分で何やってんのか、わかってるか?!」
「放せっ」
ヘンリーは背中から組み付き、体重をかけてきた。力づくの態度に、ルークの苛立ちがつのった。ルークはひじを振り回すようにして暴れた。
「放せと言っただろ!」
「痛いぞ、おいっ。動くな、何もないに、決まってるんだ!」
「行ってみなけりゃわからないじゃないか!」
ルークはもがいた。何か、とても大切なものが、地下でルークを待っているような気がした。
「放せ、行くんだ、きっと、いる、サンチョ、父さ……!」
ゴッという音がしてあごがゆがんだ。ヘンリーが殴ったのだった。ヘンリーは、ルークの頭をつかむようにして地下室への階段の方へ突き出した。
「よく見ろ、水が地下室の入り口までいっぱいだ!何かあるわけ、ないだろう」
ルークは愕然とした。みじろぎすると、波紋が起こり、その下で地下室の入り口が揺らいだ。
「それに、誰もいないよ」
ヘンリーは静かに言った。ルークは、かっとした。真正面から言葉をたたきつけた。
「ああ、誰もいないさ!それもこれも、みんな」
言いかけてルークは胸をつかれた。ヘンリーの目、深く傷ついたその目がルークを見ていた。
 全身に水を浴びたような気持ちだった。
「ごめん、そんなつもりじゃ」
「いいから言えよ。この村のありさまも、パパスさんも、何もかも、ラインハットとおれのせいだ」
「ヘンリー、ぼくは」
ルークはその場に立ち尽くした。自分の肩をつかむヘンリーの指が、細かく震えていることにやっと気がついた。恥ずかしさと後悔で、視界が一瞬、赤くなった。ルークはうつむいた。
「ぼくは……、ごめん」
「おい」
水しぶきをあげてヘンリーは草地へ出て行き、ぶっきらぼうに言った。
「それがいけないって言ってんだ。一番つらいのはおまえなのに、無理に押さえ込むな!おまけにおれにまで気を使いやがって」
ばしゃばしゃとルークはあとを追った。
「ぼくは」
「おれのせいでもラインハットのせいでもいい、とにかくちゃんと泣いとけ」
ヘンリーは大真面目だった。
「いきなり泣けって言われても」
「そろそろ10年の付き合いになるんだぞ?おまえが気持ちを内側に閉じ込めると、あとがたいへんなんだ」
ヘンリーはふいと後ろを向いた。
「こっち向いててやるから、いっぺん大声出して、疲れるまで泣いちまえ」
そして、哀しいほど優しい声で付け加えた。
「ここで、おまえは幸せだったんだろ?」
 その瞬間、鼻の奥がひどく熱くなった。慌てて片手で鼻を抑えると、何かが両目にじわっと集まってくるのがわかった。
 こみあげてくる。
 熱いものが。
 それは、陽気でおしゃべりなサンチョや、無骨だが心から愛してくれた父パパス、そして、彼らと、ルーク自身と、キラーパンサーの幼獣の、短い、だが限りなく幸せだった日々だった。
「ううっ」
 涙で視界がゆがみ、ヘンリーの背がぼんやりと霞む。真夏の大地の匂いが鼻孔を打つ。しらずしらずに友だちの肩にをつかんで、ルークは声を放って、泣いた。
 父が死んだあの日からはじめて、声を上げて、泣いた。

 気がつくと、あたり一面に西日があたっていた。上を向いていた側のほほが熱い。
 ゆっくり体を起こすと、ヘンリーは草の上に座り込んでいた。
「起きたか」
ヘンリーは振り向いた。
「ほら、むこう。すごい夕焼けだ」
白い雲の下はしが豪華な茜色に染まり、金色の筋を引いている。ルークはヘンリーの隣に座り直して、夏の高原の日没の、現実離れした美しさに酔った。
 しばらくして、ぼそっとヘンリーが言った。
「どうする、これから?」
「宿に泊まらないと。でも、その前に、その、あの子に会えないかな。怒鳴ったりして悪かったと思って」
「おまえらしいよ、まったく」
ヘンリーはあきれたようにつぶやいて立ち上がり、草の葉を払い落とした。
「そんなに人口の多い村じゃない。さっきのシスターがたぶん知ってるだろう。行くか」