森と湖の王国

 茫漠とした広がりを見せる水面。寄せる波。薄い霧の中で鳴き交わす、水鳥の群れ。海と少しも変わらなかった。
「これで湖なのか」
ヘンリーがつぶやいた。
「キマッザ湖です。でかいですな」
『黄金の馬』号の船長が答えた。
「オラクルベリーから外海の航路を通り、河口から遡ってここまで、ざっと二ヶ月かかりましたが、もうじきです。霧が晴れれば、あちらの方角にグランバニアのお城が見えてもいいはずですがね」
「おう。楽しみだな」
ヘンリーは甲板の手すりをつかんで、身を乗り出した。
「殿下、危ないですよ」
ネビルがはらはらした。
「ルークさんといやあ、あの杖を使う凄腕のお人でしたね」
身辺警護のために同行したバンゴは、頓着せずに手すりにもたれた。
「そう、あいつの親父殿は別として、おれが知る限り最高の戦士だった。今度は国王か」
「いい戦士がいい国王になるとは限りませんがねぇ」
「まあね」
ヘンリーはひとつうなずいた。
「でもルークは、洞察力も思いやりもあるし、誰からも慕われる。ルークを国王にいただく事ができたら、きっとグランバニアの国民は幸せになるだろうよ」
ヘンリーは大きく伸びをした。
「一方、国王という商売にルークくらい不向きな人材もいない」
「そりゃまた、どうして」
ヘンリーは肩をすくめた。
「ルークが生まれたとき、きっと天はあいつに特別な運命を与えたんだ。だからあいつはどこからか呼び声を聞くと、王国の一つや二つ軽々と蹴り捨てて飛んでいっちまう」
「とんでもないですな」
にやっとヘンリーは笑った。
「だろう?手紙によれば、身重の奥方を城におきっぱなしで、これから洞窟へもぐりに行くのだと。正式な即位はそのあとになるそうだ」
「しかし、その手紙は届くまでずいぶん時間がかかったはずですね」
「そうさ。ルークなら洞窟なんて朝飯前だろう。とっくに即位したはずだ」
船長が叫んだ。
「殿下、見えましたよ、あれじゃないですか」
北から吹く風が湖の霧を払いつつあった。行く手には荘厳な樹海があり、その中央に、風格漂う石造りの城が聳え立っていた。
 船長が双眼鏡から目を離さずにつぶやいた。
「なんか、おかしいですよ」
「なに?」
「普通、新しい王様が即位したら、もっと雰囲気が、こう」
ヘンリーは双眼鏡を借り受け、しばらく黙って見ていた。そばにいたネビルには、ヘンリーの横顔が次第に厳しくなってくるのがわかった。
「はるばる来たのに、縁起の悪いことを言わないでください、船長」
ネビルはつい文句をつけた。
「気のせいですよ、ねえ、殿下」
「いや、気のせいじゃない」
ヘンリーはやっと双眼鏡を離した。
「何もなかったんなら、どうして城の旗が半旗になってるんだ?」

 もう酒は飲まない、とサンチョは心の中でつぶやいた。誰がなんといおうと飲むものか。
 あの日からもう一月はたとうかというのに、いまだにどこか二日酔いのような気持ちがしていた。
 グランバニアの兵士は国境警備隊にいたるまで動員して、大捜索網を敷いている。その日もひっきりなしに部隊が城を出入りして、落ち着かない事この上なかった。
 万事取り仕切っていた大臣が行方不明で、城の中は混乱が続いていた。どこに何があるかもわからない状態で、しかも赤ん坊は双子ときている!オジロン殿はついに目を回してしまった……。
 サンチョはしかたなく城へ詰めきりで、オジロンの妃アントニアとともになんとか城内をきりまわしていた。
 その日、サンチョはひさしぶりに、城の城壁内にある自宅へ着替えを取りに戻ろうとしていた。
 サンチョは玉石の階段を踏んで城の階下へ降りた。グランバニアが誇る城塞都市は、どこか騒然としていた。二人、三人と固まって、眉をひそめて語り合っている。サンチョは首を振って歩き出した。
 斜め前から、武器屋の隠居が小走りにやってきた。サンチョは目をあわせないように通りすぎようとした。王妃様はご無事ですかい、王様はいつ御戻りに、そう聞かれるのがわかっていたし、サンチョには“わからない”と答えるのがつらすぎた。
「サンチョさん」
サンチョはびくっとした。
「すいませんが、ちょっと」
「なんだい、ご隠居、今忙しいんで」
隠居は街門のほうを指差した。
「あっちで誰か、よそ者がケンカしているみたいなんですよ。大きな声だし、ちょっと見てもらえませんかね」
「ああ、城の警備も今は手いっぱいだからね。あまりよそ者は入れないようにあたしが言ったんだ。しょうがない、あやまってひきとってもらうよ」
サンチョは、半ばほっとして街門へ足を向けた。
「何度も申し上げた通り、ただいま国王陛下には御目通りできません」
「だから、理由を聞いている!」
「だめなものはだめです!」
まだ不慣れな少年兵を街門の警備に使わなくてはならないのが、今のグランバニアのつらいところだった。少年兵はむきになって外来者を追い返そうとしていた。
「おいおい、もう少し丁寧に応対しなさいよ」
「あ、サンチョさん」
少年兵はほっとした顔になった。
「外国の方なんですが、どうしても陛下に会いたいとおっしゃって」
 押し問答をしていたのは、外国の貴族と、その家臣たちだった。先頭で金切り声を上げていた従僕がサンチョに詰め寄った。
「グランバニアの城は遠来の客を門前払いにするんですか!」
「そういうわけではありませんが、ただいま取りこみ中でして」
「しかし、新しい国王陛下は即位なさったんでしょ?」
「はい。一月ほど前に」
「今、どちらに?」
「申し上げられません」
従僕の主人らしい貴公子が話しかけた。
「王妃ビアンカ様のご容態はいかがですか?」
どきりとしてサンチョは口ごもった。
「ご出産は無事に……ですが……なんでそこまで……」
貴公子は眉をひそめた。
「即位もした、出産も無事。それでなぜこうなる?」
貴公子は心配に青ざめた顔をサンチョにまっすぐ向けた。
「何があったのか教えてください。おれはヘンリー、ルークの友達です」

 紫紺の地にグランバニア風にデフォルメされた金の鷲の図形は、グランバニアの王室を意味する。その紋章図形の下のゆりかごに、ヘンリーはかがみこんだ。
「驚いたな。そっくりだ。眉と、口元。姫君は、母上似か」
「王子殿下は“天の霊気”アイトヘル様、王女殿下は“天を支える者”カイリファ様、と坊ちゃん、じゃなくて陛下が名づけられました」
サンチョは思わずため息をついた。
「乳母を雇っておりますが、こうして無心におねんねの御顔があたしゃ不憫で、不憫で」
ずずっとすすりあげる。オジロンがいやそうな顔をした。
「御客人の前だ。やめんか」
「御気持ちはわかります」
ヘンリーはそっとゆりかごをゆすって立ち上がった。
「つまり最初に誘拐されたのはビアンカ嬢のほうだったわけですね」
「今は王后陛下ですが。しかもご出産のあとで、普通の御体ではない。国王陛下が心配のあまり探しに行かれたのも、無理はないのです」
「一人で行ったわけではないでしょう?」
「同行したのは、ああ、来たか」
グランバニア以外の城では、まず考えられない。城の最奥の王族居住区に、モンスターが出入りするのだ。
 スライムナイトのピエール、キラーパンサーのプックルがはいってきた。ヘンリーの眉が逆立った。
「ピエール、きさまがついていながら、何てざまだ!」
サンチョは思わず首をすくめたほど厳しい言葉だった。誇り高いスライムナイトが、そのときうなだれた。
「面目ないである」
「おい、おい」
ヘンリーは拍子抜けがしたようだった。プックルが仲間をかばうかのようにピエールとヘンリーの間に割って入り、ふぐるるるぅと情けない声で鳴いた。
「ああ、悪かったよ」
ヘンリーはプックルのたてがみの間に指をあそばせた。
「ピエールも、ごめんな」
「ルーク殿をみすみす行方不明にしたとは。情けないである」
「そう思いつめるな」
サンチョはまた、深いため息をついた。
「どうしてわが国でこうも行方不明が多いかなと思うのですよ。マーサ様、パパス様、ビアンカ様、それに坊ちゃんと、四人目ですか」
「でもサンチョさん、おれも十年ばかり行方不明でしたよ」
「はい?」
「“行方不明”がどれだけあてにならないものか、おれは知っています。ルークだって、長いあいだ行方不明だったのにグランバニアへ帰ってきた。あいつはもう、六歳の子供じゃない。きっとここへ帰ってきますよ。これから十年かかったとしても」
オジロンは、泣き笑いのような顔になった。
「十年ですと?縁起でもない。しかしグランバニアの民は辛抱強く、不屈です。待ってみせましょう、何年でも」
「さすがですね」
ヘンリーは微笑んだ。サンチョの目頭が熱くなった。
「つかぬ事をうかがうが」
 照れくさそうにせきばらいをしてオジロンは言った。
「オラクルベリーの大公とおっしゃったが、もしやエリオス殿のご子息では?」
ヘンリーは一度帽子を脱いでかるく手櫛を入れた。
「すぐばれるので困っています。父は昔、こちらへ伺った事があるようですね」
「もうだいぶ前になりますが。ご即位直後のエリオス殿がお見えになりましたよ」
オジロンは懐かしげに目を細めた。
「華やかな貴公子で、城中の女たちが夢中になりました。失礼ながら身重の奥方がおられるとは思えないほどで」
ヘンリーは苦笑いをした。
「気障なくらい婦人に丁寧なのは、むしろ脅えていたり照れくさかったりしたからだと思います。本音をマナーで隠していただけですよ」
「そうですか?当時、私も含めてグランバニアの男たちは圧倒されましてね。そのはしゃぎ方に、兄などは面と向かって軽佻浮薄呼ばわりを、いや、失礼。で、エリオス殿はエリオス殿で、がちがちの石頭と言い返す」
「おれもパパス殿にお目にかかりましたから、だいたい見当がつきます。お互いに一番苦手なタイプじゃないかな」
「どうして兄とエリオス殿が固い友情で結ばれるようになったのか、ほんとのところは誰にもわからないのですよ」
不思議そうにオジロンは言った。
 サンチョは咳払いをした。
「あたしゃちょっと詳しいですよ」
「ほう。言ってみろ」
「よろしいですとも。あれはパパス様が、ほかならぬマーサ様の生まれ故郷へいらしたときの事でした。実際あたしらは、パパス様、エリオス様それにあたしですが、漂流したんですよ。どこともわからない村にたどり着いたのは、えらい幸運でした」
「漂流だと?初耳だぞ」
「食糧は何とかあったのですが、モンスターが恐ろしく強いもんで往生いたしました」
「おぬしはなにもせんかったんだろうが」
「そこはそれ、パパス様はグランバニア一の剣士でいらっしゃいましたからね。あたしの出る幕なぞ、とてもとても」
オジロンはヘンリーに向き直った。
「グランバニア・スタイルの剣をご存知かな?わが国に伝わる、実戦重視の剣法で、一つ二つダメージを食らってもとにかく懐へ飛びこんで、敵の体力を減らす事に力を注ぎます」
誇らかに説明するオジロンに、ヘンリーはにやっとしてうなずいた。
「わかります。おれは昔、目の前で、パパス殿が二体の獣魔を屠られたのを見ました。力強く、むだのない、見事な太刀筋でした」
「それにくらべて」
とサンチョは続けた。
「エリオス様の剣は電光石火、変幻自在と申しましょうか」
「それはラインハット・スタイルですね。実戦よりスポーツ向きで、フェイントを多用し、型の美しさを極める。さぞお荷物だったでしょう」
「いえいえ、正直、この目で見るまで、実戦でエリオス様があれほどお強いとは思っていませんでしたよ。おまけに呪文は使うわ、口も達者だわで」
「親父はなんか言ったんですか?」
「今だから申し上げますが、パパス様にあのマーサ様を盗んで逃げろ、とそそのかしたのは、エリオス様で」
「これ、サンチョ、何を言うか」
「そんな事だろうと思ってました」
ヘンリーは苦笑した。
「駆け落ちするようなお人には見えなかった」
「でございましょう?行きは三人、帰りは四人で、お帰りのあいだ中、エリオス様のご機嫌のいい事といったら。『殿はけっこう手が早かったんだな』と大喜びでした」
サンチョはしばらく若かった日の思い出に浸った。
「なんのかんの言っても、パパス様が国民思いの立派な王様で、計画的に都を造っていらっしゃるのを見て、エリオス様としちゃ差をつけられた気がしていらしたんですなあ。エリオス様がお国へ帰られたのは、パパス様とマーサ様のご婚礼のすぐあとでしたが、“余もがんばるぞ”、とおっしゃってました。マーサ様がさらわれたのは、その翌年のことでしたか……」

 『黄金の馬』は、ゆっくりと桟橋を離れた。見送りの中に、ラインハットから同行した船大工の老匠とその弟子たちがまじっている。
 快速船を建造し、できあがり次第その船に乗ってラインハットへ戻る手はずになっていた。
「オジロン殿のご好意の賜物だな」
わざわざ港へ出向いて見送ってくれるグランバニアの宰相に向かって、ヘンリーは船の中からもう一度礼を送った。
「よかったですね、仕事が済んで」
「まあね。デールと最高会議にいい報告ができるのは嬉しい」
嬉しいと言ったわりにはヘンリーは冴えない顔をしていた。ネビルはヘンリーを見上げた。
「ご心配なんですか?」
「ルークは強い。あいつはきっと戻ってくるさ。賭けてもいい」
「じゃあ、なにか」
ヘンリーはためいきをついた。
「いや、すべての発端は、うちの不良親父がそそのかしたからだと思うと、ちょっとな……」
「もう済んだことだし、気にしないほうがいいですよ」
わははっとヘンリーは笑い声を上げた。
「おまえの神経の太さだけは、かなわないな」
グランバニアの森が次第に遠ざかっていく。船長がやってきた。やや興奮ぎみだった。
「出る前に船大工の親方と話をしたんですが、新しい船は凄いヤツになりそうですね」
「そりゃあもう」
やっといつもの笑みがヘンリーに戻ってきた。
「技術を尽くして最高の船を作るんだ。親方がはりきっていたよ。材木も、いい素材を見つけたそうだ」
「名前は決まってんですか?」
と、船長が聞いた。
「なにね、この船は『黄金の馬』でしょう?オラン商会の持ち船は全部『黄金の』がつきまして。景気がいいでしょうが」
ネビルが口を挟んだ。
「叔父のとこは『女王』です。セルジオ商会の品格ってやつですね」
「知らなかったな」
「モナーラさんとこは鳥尽くしですよ。隼とか、燕とか。早そうでしょ。名前を聞けば、どこの持ち船かだいたいわかるんですよ」
船長もネビルも、期待を込めてヘンリーを見た。だが、ヘンリーは唇の端をちょっと持ち上げた。
「悪いな。もう名前は決まってるんだ。ちょっと縁起をかついで、とびきり運のいい名前に決めてあるんだよ」