お帰り 第一話

 薄紅の縁取りのある白い、金貨ほどの花で、街路で、店先で、広場で、いっせいに花咲き、オレンジに似た香りを都中に漂わせる。
 城に登る人々の衣服や帽子にもメリメの花びらがふわふわと舞い落ちて、謁見の大広間に集まった人々はかすかな花の香りがした。
 大広間の一番上の段には、ラインハット王の大紋章、王冠やマントなどのアクセサリーをつけた“緑の地に金の波型十字”の盾を大きく描いた幕を張り、その下に玉座が据えられていた。国王デール一世の座である。そしてその横に、子供用のスツールが用意されていた。王太子コリンズの席だった。
 数段下がった場所にラインハットの家臣団が集合している。家臣団筆頭の地位にある王国宰相ヘンリーは、略礼装のケープではなく、毛皮をふんだんに使った引きずるほど長いローブを肩からかけ、宰相の職掌を示す杖を手にしていた。その日、ヘンリーは国王の代理として、新しい法律を発表することになっていた。
 人々のざわめきがやんだ。楽師がファンファーレをたからかに吹き鳴らし、国王があらわれた。八歳になるコリンズが、せいいっぱい胸をはってその後にしたがっていた。
 王国の各地を代表する人々、領土を持つ貴族たち、高級官僚等は、うやうやしく出座を迎えた。家臣団も威儀を正して国王とコリンズ殿下が席につくのを待った。
 触れ役が前に進み出て、新法が発表されること、異議あるものは後から申し出ることなどを大声で知らせていた。
「コリンズ、きみの父上のお仕事をよく見ておきなさい」
玉座の上から王は小さな甥にささやいた。
「はい、叔父上」
「父上がおられなくなったとき、全部きみができるようになっていなくてはならないよ」
コリンズは固くなってうなずいた。
 デールは立ちあがった。ヘンリーは数段の階を上り、王の手からロウで封印を施した羊皮紙の巻物を受け取って、優雅に一礼した。ローブのすそをさばいて巻物を手に、聴衆の前へ進み出る。
 その双肩に王国を担う宰相、オラクルベリー大公ヘンリーは今年二十七歳。本日発表される新しい法律は、王国の税体系を根本的に改革するためのもので、ヘンリーが閣僚たちを率いて、ほぼ一年がかりでまとめあげたものだった。
二箇所の封印をはがして左手に掲げ、右手で勢いよく巻物を広げて、宰相は聴衆の上に凛とした視線を向けた。
「ラインハットの民に告げる……」
謁見の大広間に、朗々とした声が響く。その横顔は、威厳と自信に満ちて精悍だった。
 この法律を作るためにどれだけヘンリーが閣僚や利害関係者と会議を重ね、意見を戦わせたか、そして会議場以外のところで、秘密の会見、説得、脅迫、贈賄まがいなど、どれほど奔走したか、官吏や役人を叱咤して果てしないと思えるほどの事務作業をやりとげさせたかを、コリンズはほとんど知っていた。
 さらに、そのヘンリーを支えるために、コリンズの母、マリアをはじめ、城の者たちがどれだけ苦労を重ねてきたかも、わかっていた。
 コリンズは、胸をいっぱいにして、ただ息を詰めて見守った。
 少し離れたところで、国王の従僕がキリとささやき交わすのが聞こえた。
「ほれぼれするような宰相ぶりだな」
キリは、コリンズが王太子になって以来ずっと従僕としてコリンズに仕えている。元はラインハットの下町の物売りだったそうだが、頭がよいのでデール王の作った王立学問所に入れてもらい、ヘンリーがコリンズ付きの従僕に抜擢した。
 背の高いキリは、ちょっと頭を傾けるようにして答えた。
「あの人には男が惚れますからね」
 デールは何も言わなかったが、おそらく聞こえているのだろう。うすく、微笑んでいた。
 コリンズは、かっこいい父上が自慢で、うれしくて、顔が熱くなるような誇らしさを味わっていたが、そんなふうに感じる自分がちょっと気恥ずかしくて、わざとぶっきらぼうに、でも小さな声でつぶやいてみた。
「みんなそんなこと言ってていいのか?父上が何を考えてるか知ったら、みんな驚くぞ」

 襟の詰まった服を着た年配の女官が足を止めた。
「まあ、コリンズ様、どうなさいました」
コリンズは回廊の床の上をなめるように見て回り、掲げられている絵や刺繍の裏側を丹念に改めていた。
「ペットが逃げちゃったんだ」
恰幅のよい女官はペットと聞いてひるんだ。コリンズのペットがトカゲだのカエルだの、ぬらぬらしたものばかりだということは、城内では有名だった。
「手伝ってくれるかい?」
無邪気な眼でコリンズが聞いた。女官は咳払いでごまかした。
「申し訳ございませんが、大公妃さまの御用で外出いたしますので」
「ああ、母上のお買い物か。じゃ、いいや」
女官は明らかにほっとしたようすになった。
「あとで、誰かお手伝いを差し回しましょうか」
「いいよ。今、キリが来るから」
実際、キリの仕事のかなりの部分は、コリンズのペットの世話だった。
「さようでございますか」
と言って女官が立ち去ったので、コリンズはほっとした。
 キリは、来ない。わざと用を言いつけて、コリンズは一人でこの、城の東側の回廊へ出てきたのだった。ペットが逃げたというのもウソだった。コリンズはカエル・ブリーダーとして数年の経験を積んでいる。いまさら逃がすようなへまはしなかった。
 コリンズは、待っているのだった。
 回廊のつきあたりは、ほとんど全面がガラスになっていて採光がいい。そこからのぞきこむと城の周囲に廻らされているお濠を眼下に見ることができた。
 しばらく待っていると、大きな窓のむこうに、突然カーテンが垂れ下がってきた。ところどころに結び目をつくって、ひも状にしてある。その結び目を足がかりにして、さきほどまで堂々たる宰相をやっていたヘンリーが降りてきた。
「父上」
「うわっ」
ヘンリーは結び目から足を踏み外して手だけでカーテンにぶら下がった。ガラスを隔てて父子は向かい合った。
「どこ行くの、父上?」
ヘンリーは大げさな式服を脱いで、上着にケープという、王宮の役人のように姿に装っていたが、明らかに冷や汗をかいてあわてていた。
「なんでおまえ」
「へっへぇ。おれも連れてってくれる?」
「ガキはだめだ」
コリンズはしゃがみこんで、両手で自分の顔をはさみこみ、にっこりした。
「じゃ、ショーンを呼ぼっかな」
ショーンは、コリンズ付の侍女頭であり、城の東翼の責任者でもあった。ヘンリーは顔をしかめた。
「このクソガキ」
「外壁にいつまでも張りついてると、トムの部下に見つかっちゃうよ?ここを開けてほしかったら、おれも連れてくって約束してよ」
ヘンリーはうめいた。
「あれ、ネビルの声がしたみたい。父上が部屋を逃げ出したの、ばれたのかなぁ?」
「わかった。わかったから、そこを開けろ」
コリンズはすぐに内側の掛け金を開いた。ヘンリーは入り口に片足を掛けて上体を中に入れ、憤然として言った。
「親を脅迫するなんぞ、いつ覚えたんだ?」
「さ、いつだったかな?環境が悪いんで、そういうことはすぐ覚えるの、おれ」
「ふざけている場合か。王太子位をなんと心得る。国王に何かあったら、即座に一国の命運を決定する立場だぞ」
コリンズは肩をすくめた。
「時間がないよ、父上。おれは用意できてるからね」
「脅しがきかなくなったな」
ヘンリーは天を仰ぎ、それから急に口調を変えた。
「トムが厩舎に手を回したらしい」
どこか生き生きと輝きはじめる眼を見て、コリンズはうれしさにぞくぞくした。父上はおれを連れて行ってくれる気だ。
「厨房もだめだよ。メルダがトムと話してた」
「ちっ。しかたねえ。正門から堂々と出る。つかまりそうになったら強行突破だ。おまえ、ついてこれるか?」
「まかせとけ」
そして言われる前に、コリンズのほうから言ってやった。
「父上がトムにつかまりそうになったら、おれは先いくからな。足手まといになんなよ?」


 その日、オラクルベリーの港に、一艘の船が入港した。船が掲げる旗は紫の地に翼を広げた金の鷲だった。船名は「三つの指輪」号。港の役人は石版に船の名を書きつけ、船から下りてきた男に尋ねた。 
「失礼ですが、どちらからおいでですか?」
「グランバニアです」
と、男は答えた。
 役人はためらった。その人物の、見当がつかなかった。
 僧侶と言うにはたくましすぎるが、戦士にしては優しすぎる。ほんの若造かと思うとその瞳に深い英知が浮かび、世の辛酸を舐めてきたかと見ればあまりにも純粋だった。
 彼は不思議な目をしていた。
 紫のマントを翻して男は船のほうを振りかえった。船の中から、彼によく似た金髪の少年が身を乗り出し、大きく手を振った。
「役目上お尋ねします。乗員数は?申告する貨物はありますか?」
「八名です。人間はぼくを含めて三人。貨物は特にありません」
「そうですか。オラクルベリーへようこそ」
「いい港ですね」
土地っ子の役人は胸を張った。
「大きさでは世界一ですよ」
長大な桟橋の列に、遠距離航行用の巨大商船がいくつも係留されている。セレモニーに参加する貴婦人たちのように、誇らしげに並んで旗を風になびかせていた。
「ねえ、あれ、グランバニアで造った船だよ」
船から下りてきた少年が叫んだ。
「坊ちゃん目がいいねえ」
オラクルベリー生まれの役人は笑いかけた。
「あれが、“タル”。ラインハットが誇る快速船だよ。“タル”のつくった記録は、まだどの船も破っていないんだ」
 港育ちの者にとって、早い船は憧れの的である。役人が胸を張っていうと、少年は子供らしいようすで、目を輝かせた。
「へえ、すごいんだね」
「坊やは運がいいよ。見てごらん、“メタル”が入港するところだ」
“タル”に形の似た、やや細身の船が、悠々と波を切ってこちらへ向かってくるところだった。
「あれもグランバニアで造られた船だよ。“タル”ほど早くないが、大事なお役目があるんだ」
船に詳しいものが見れば、一目瞭然だった。“メタル”は、舷側に砲口をいくつも見せていた。
「航路を海のモンスターから守ってるんだね?」
「賢いなあ!」
少年はうれしそうに笑った。
「でもおじさん、どうして“タル”とか“メタル”とか呼ぶの?船にはちがう名前が書いてあるよ」
役人は頭をかいた。
「いや、本当の名前があんまりかっこよくないから、みんなあだ名で呼ぶんだよ」
「へえ、名前、誰がつけたの?」
「御領主の大公様なんだけどね。あの人はどえらい宰相だけど、名前のつけ方はめちゃくちゃなんだ。普通、船は『天翔ける隼』とか、『真珠の女王』とか、いい名前をつけてもらうんだけど」
そう言って役人は言葉をくちごもった。
 “メタル”と呼ばれる船の腹にはくっきりと「戦うはぐれメタル」、“タル”にいたっては「ヨシュアの漏れ樽」と書いてあった。
「あれじゃあねえ。大公様だけだよ、縁起がいいからいいんだと言い張ってんのは」
最初に下りてきた男が笑いながら言った。
「いや、ぼくもそう思いますよ。運のいい名前だ」
役人は目をむいた。
「本気ですか?」
男は笑って、妙な名前のついた船を見上げた。
「だいいち、ヘンリーらしい」
オラクルベリーの領主を本名で呼ぶこの男を、役人はまじまじと見た。
「失礼ですが、お名前を」
その男は微笑んで、役人の石版を手にとって自分の名を書き込んだ。グランバニアのルーク、と読めた。

 “陽気な漁師亭”の女将は、丸顔に満面の笑みを浮かべた。
「ああ、坊ちゃんたちじゃないか!お久しぶり。お泊りかい?」
去年の秋、オラクルベリーで仮面祭のあったときに、アイルとカイはこの宿に泊まっていたのだった。女将は二人のことをちゃんと、覚えていてくれた。
「今日は、ご挨拶にきました」
とカイが言った。カイは、隣にいる父、ルークの服の袖を握っていた。カイの髪を、ルークがかるくなでた。
「こんにちは。うちの子供たちが御世話になったそうで、ありがとうございました」
女将はちょっと赤くなった。
「いやですよ、商売ですからね、お礼なんていわれちゃ」
ルークの手をカイが軽く引いた。
「プックルたちにも、優しくしてくれたの」
「そうかい?よかった」
女将がアイルに小声で聞いた。
「こちらさんが、こないだ言ってた小父さんかい?」
「ううん、お父さんだよ」
「へえっ、若いねえ」
「う、うん。ちょっと事情があって、八年くらい年をとってないんだ」
女将は一瞬妙な顔をしたが、けらけらと笑い出した。
「あら、うらやましい。あやかりたいわ」
オラクルベリーの市民は、根っから明るいらしい。アイルはほっとした。
「男前のだんなさん、ブイヤベース、食べていかないかね?うちの名物なんですよ。たったいま、つくりたてだよ」
にこ、とルークは微笑んだ。
「ごめんなさい。今日は、この街に古い友達を訪ねてきたんです」
「そりゃ、残念。この次は必ずお寄りくださいましね」
「ありがとう。あの、領主館にはどう行けばいいでしょうか」
「ここいらは下町だから、だいたい坂を上がっていけば見えますよ。領主館には旗があがってるから」
横にいた女中が口を挟んだ。
「今日は旗ありませんでしたよ、女将さん」
女将はぽんと手をたたいた。
「そういや、ラインハットのお城で法律の発令があるって言ってたから、御領主はお留守なんだ。それじゃ旗はたっていないね」
「そうですか」
“陽気な漁師亭”を出るとルークはなつかしそうに町を見ていた。
「ラインハットまで飛ぶの?」
「いや」
ルークは、なにかおもしろがっているような表情を浮かべた。
「馬車の旅にしよう。野宿でもいい?」
アイルはうなずいた。
 サンチョのように、なにもかもこまごまと世話を焼いてくれるわけではないけれど、てきぱきと指示を出して野宿の支度をするルークが好きだった。
 優しい声、大きな手。それがすぐそばにあり、手を伸ばせば実体を持って捕らえることができる。それだけのことが、アイルにもカイにも、うれしくてたまらなかった。
 たとえば森の中の小さな草地で火をおこして、その前にルークがすわり、かたわらにプックルがよりそう。巨大な猫の滑らかな毛皮に半身を預けてもたれた父の姿は、絵のように美しく、とても自然で、グランバニア城にあるときより、ずっと王の名にふさわしく見えた。
 そんなときは、カイはまっさきにルークにすがりついて、いかにも安心したように眠ってしまう。大事な宝物のようにルークはカイを見守り、ピエールもメッキーも、モンスターたちはみんなルークの回りに寄ってくる。
 なんとなく出遅れて、アイルがただその情景を見ていると、ふとルークがアイルのほうを見て、人差し指を唇に当て、そっと微笑む。
“お父さん?”
“おいで”
アイルは差し伸べられる手をつかみ、思ったよりもずっと強い力で引き寄せられる。そうして、父の膝にもたれ、眠気がさしてくるまで昔語りをしてもらう……
「野宿でいいよ。楽しみだね、お父さん」
 プックルたちは船で留守番することになり、馬車は親子だけを乗せて動き出した。オラクルベリー大橋を渡れば、広大なレヌリア大陸が広がっている。