花に鳴くうぐいす 第二話

「White Letter」 〔byGonGoss様〕二次創作

 その声は聞こえなかった 聞こえないけれど通じた
「それ」を探してと言われた だから「それ」を探し始めた

 公園の一画に、広大な芝生があった。ちょっと不思議なところだった。公園は都心の真ん中にある。すぐそばの道路には車がうるさく行き交い、道路を隔てた向こうにはビルが林立している。
 そんな乾いた散文的な背景の前に、綺麗に整えられた緑の芝生があり、はしには花壇がある。桜も咲かない早春のことで、まだ花壇に花はなかった。
 二人の男がその花壇のそばへやってきた。ひとりはセーターにジーンズ、サングラスという姿で手には使い込んだギターを抱えている。花壇の前に腰を下ろすと、膝に楽器を抱えて音を調べ始めた。
 弦を何度か弾いて確認すると、ギターの男は隣の相棒に軽くうなずいて見せた。相手は小さく笑った。
 細身のボトムの上に、すその広がった白いコートを重ね、首には青いマフラーを巻いている。
 普通に大人、二十代だろうと思われるのだが、笑顔はあどけなく無邪気だった。
 二人の周辺には特に人はいなかった。早春の平日の昼下がりである。真冬の寒さはもうないが、昼寝が出来るほど暖かくもない。この公園を近道に使う人々が早足で通り抜けていくだけだった。
 コートの若者の靴がとん、とんと芝生を踏んだ。
「1、2、」
ギターの男がそのリズムを受け取った。弦を爪弾く。
「Hallow,Darkness,my old friend」
コートの若者が歌いだした。
 曲は「サウンド オブ サイレンス」。この時代すでに伝説的名曲となっている作品だった。オリジナルを歌ったデュオと同じように、ごくひそやかな伴奏で最初のコーラスが始まる。空気の乾いたその空間に、琥珀のようにきらめく声が響いた。
 数人の足が遅くなった。なかには足を止めて彼らをまじまじと見つめる者もいた。
 歌う若者は真摯な表情をわずかにゆるめ、聴衆にほほえみかけた。ギターの男は力強く弦を掻き、ギターに疾走感が加わった。
 その歌は一種の幻想的なビジョンだった。
「And in the naked light I saw……むき出しの灯りの下には、一万人もの人々がいて、何を話すでもなくただしゃべっている。耳を傾けるでもなくただ聞き流している。そして、誰も歌ってみてくれない歌を書いているんだ……」
まさに見てきたように、確信を込めて若者は歌った。
 次第に人々は歌い手のまわりに集まってきていた。若者の声はよく通る。それをもっとよく聞こうとすると自然に芝生へ、花壇の周りへ来てしまうのだった。
 聴衆の中に長い髪の少女が混じっていた。彼女は目を大きく開けてじっと歌い手を見つめていた。
 その少女に気付いたのか、若者は一度彼女と視線を合わせた。
「"Fools," said I, "you don’t know…Silence like a cancer grows"…馬鹿な、と僕は言った。沈黙は癌のように大きくなる。みんな、僕の言葉を聴いて。僕の手をつかんで」
片手を胸に当て、片手は聴衆へさしのべて、若者は歌い続ける。歌の主人公になりきったかのようにりりしく誠実に彼は訴えるが、歌の中の、沈黙に囚われた人々に救いは届かない。とまどいと悲しみのまま歌は静かに終わった。
 一呼吸置いて、長い髪の少女が手をたたいた。聞いていた人々は我に返り、あわてて歩き出した。何人かはその前に、町の真ん中に降臨したこの歌い手に拍手で報いた。
 若者とギターの男は互いに顔を見合わせて照れくさそうに微笑み、聴衆にかるく頭を下げた。
 最初に拍手をした少女は急にひるんだようだった。身を翻して行こうとした。
「あのう」
少女はふりむいた。白いコートの歌い手だった。
「君、初めてじゃないよね。何度か聞きに来てくれてる?」
少女は赤くなってうなずいた。
「三回目くらい?」
彼女は首を振った。
「四回目か五回目。はじめは正面にいられなくて、後ろで聞いてたから」
若者は笑った。
「ありがとう。お茶飲む?」
どうしようか、と少女はとまどい、視線をさまよわせた。が、こくりとうなずいた。

 丸テーブルの上のポットから紙コップに液体を注ぐと、見事な湯気がただよった。
「どうぞ」
白いコートの若者が差し出した紙コップを美玖は手に取り両手でかこった。指先が温まってくるのがわかった。
 芝生の一画に、公園を訪れた人々のためのテーブルといすが何組か置かれている。雨でも降ればずぶぬれになるしろものだが、今は乾いていて、二人のほかには誰もいなかった。
「あの」
美玖はとまどっていた。ここ数週間、ずっと胸にわだかまっていたものがある。公園の歌い手の笑顔に出会ったとき、なぜか打ち明けたくなった。
「いいよ、なんでも話して」
「え?」
心のつぶやきが聞こえたかのようなことを突然言われて美玖は驚いた。
「だって、ずっとそんな顔をしてたでしょ」
こともなげに彼は言った。相棒のギター弾きは少し離れたところに坐り、自分も温かい飲み物をそばに置いて、一人ギターを弾いていた。
「この公園に来るの、いつも午後だね。学校の帰り?」
「はい」
「家に帰りたくないの?」
「そんなんじゃなくて」
どう説明しようかと美玖は考えた。
「探しているんです。あの、最初は、家を探しました」
無邪気な顔で彼は見つめている。
「子供の頃に一度行ったきりなので行き方も忘れてしまったんだけど、大きな駅を出てちょっと歩いたところにある古めかしい家でした」
「見つかった?」
美玖はうなずいた。
「たぶん」
記憶にあるよりも小さく、いっそう古く、でも懐かしかった。
「でも空き家になってました。ラジカセとか、家にあったものがいろいろと捨てられていました」
思い出にあるあの曲をカセットテープで聞かせてくれた赤いラジカセさえ、あの人は捨ててしまったらしい。
「じゃあ、引っ越したんだね、その家の人は」
美玖はぽつりと言った。
「家を処分して、外国へ行くって聞きましたから」
「あ、知り合いだったんだ、その人と?」
「そう言いませんでしたっけ?」
と美玖は言った。
「ごめんなさい、最初から話しますね。去年引越しの話を聞いて、私からその人に手紙を出したんです。遠くへ行くなんてやめて、私と一緒に暮らしませんか、って。返事は、茶道の先生のところへ初釜にうかがった日に来ました」
「その人もお茶をやるの?」
「はい。茶道が、私たちの接点でした」
手の中の紙コップから温かい紅茶を美玖はすすった。
「その、その人はなんて返事をくれたの?」
「手紙は、白紙でした」
コップから美玖は顔を上げた。
「これって、“もう会えない”って意味ですか?私は困ってしまって、とにかくもう一度会って話がしたくて、その人に会いに行きました。その人の仕事場を知っていたから、新宿のビル街の中のオフィスへ。でも、手遅れでした。そこはもう、辞めてしまったみたいなんです」
 鳥が飛び立つように、というたとえの通りに、あの人は痕跡をいっさい残さずに消えてしまった。ビルの谷間で呆然と美玖は立ち尽くしたのだった。
「あとできることはいくつもなかった。それからいろんな駅前を歩いて家を探しました。でもさっき言ったように空き家になってました」
足元のおぼつかないような心もとなさを、どう説明しようか、と美玖は思った。
「一緒にいたいなんてわがまま、言わなければよかったんですか?せめて一言謝ろうと思って、私、その人といっしょに行ったことのある場所をずっと歩き回ったんです。水族館とか、教会とか、デパートとか」
「この公園も?」
「そうです。でも」
あの人はいなかった。
 数週間分の疲労がどっと押し寄せてきた。テーブルに両肘をつき、手で顔をおおった。
「あたしは」
言葉が詰まる。胸に何かがつかえている。人前で泣きそうになって美玖はあせった。この優しい白い歌い手を困らせるようなことはしたくなかった。
「あの」
美玖の状態に何も気づいてないかのような緊張感のない声で彼は言った。
「その手紙、持ってる?見せてもらっていい」
「あ、はい」
かばんの中から手紙を取り出し、こっそりティッシュも探し出した。横を向いて目をぬぐっている間、若者は熱心に白紙の手紙と封筒を見ていた。
「古今集、仮名序か」
と彼はつぶやいた。
「やまと歌は人の心を種としてよろづの言の葉とぞなれりける」
古典の一節を彼はすらすらとつぶやいた。
「世の中にある人、事、業しげきものなれば、心に思ふことを見るもの聞くものにつけて言ひいだせるなり。
 花に鳴くうぐひす、水に住むかはづの声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。
 力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女のなかをもやはらげ、猛きもののふの心をもなぐさむるは歌なり」
美玖は驚いて黙っていた。
 くす、と若者は笑った。
「ひどいなあ、そんなに意外?」
「いえ、そんなことないんですけど。私の知ってる人でその仮名序を好きだった人が、女の人だったもので、あの」
「ちょっと女性的?でも、これ書いたの紀貫之だよ」
白い封筒をあらためて彼は差し出した。
「この表書きに書いてあるのは、仮名序の中の文章だよね」
花に鳴くうぐひす、という筆文字をじっと美玖は見つめた。
「これ、宛名なんです」
と美玖は言った。
「差出人と私の間で通じる冗談みたいなものだけど、これは私のことなんです」
宛名かぁと若者はつぶやいたまま、しばらく黙っていた。
「いや、これ、メッセージじゃないかな」
じっと彼が見上げている。
「この宛名の一行の後ろに、メッセージの一行が隠れてるよ。ぼくにはそう読める」
まさか、と美玖は言って笑おうとしたが、口をついたのは別のことだった。
「なんてメッセージですか?“もう連絡しないで”?“早く自立して”?」
ううん、と彼は言った。
「“歌って”だって」
「え?」
若者は真顔だった。
「仮名序の意味わかる、現代語で?」
「だいたいは」
「“やまと歌は人の心を種としてよろづの言の葉とぞなれりける”」
彼は仮名序を語って今度は一行目で切った。
「『日本の短歌は、人の心という種から生えてきて言葉になったものだ』」
ざっと現代語になおして美玖が語った。
「“世の中にある人、事、業しげきものなれば、心に思ふことを見るもの聞くものにつけて言ひいだせるなり”」
「『世間の人はいろいろな経験をして、その時心に思ったことを、見聞きしたことに託して表現してきた』」
二行目を追え、問題の三行目である。
「“花に鳴くうぐひす、水に住むかはづの声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける”」
「『ウグイスやカジカの声のように、生きとし生けるものはすべて、歌を詠んでいる』」
若者は小さく微笑んで首を振った。そして、美玖が口にしたスタンダードな古典の解釈に、新しい意味をかぶせてみせた。
「『花に鳴くうぐいすのような人へ。およそこの地上に、歌わない生き物がいるでしょうか』」
美玖は一瞬、言葉を失った。探しても見つからないあの人が、この若者の口を通して語りかけてきたようだった。
「続けるよ。“力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女のなかをもやはらげ、猛きもののふの心をもなぐさむるは歌なり”」
「『力も入れないのに天地を動かし、目に見えない鬼や神の心もひきつけ、男女の仲を親しくさせ、荒々しい武士の心をなだめるのは、歌なのだ』」
反射のように現代語訳を美玖はつぶやいた。そして息をつめて彼を見守った。
「『あなたの歌が天地を動かす。あなたの歌に鬼神すら涙する。恋の歌を、癒しの歌を、どうか、歌っていてください』」
「私は」
美玖はそのまま絶句した。
 頭では、そんなメッセージはこじつけだとわかっていた。
 古典に言う「歌」とは、短歌のことで音楽ではない。
 にもかかわらず、どうしようもなく心が震えていた。彼が紡ぎだしたメッセージは、美玖の知っているあの人がまさに言いそうなことだった。
「“歌って”って、私に?」
今度こそ本当に、鼻の奥がつんとしてくる。
「うん」
と、彼は言った。
「つらいお別れみたいだけど、もう会えないなんて言ってないみたいだよ」
美玖は両ひじをついて指で顔をおおった、
 こぽこぽと音がする。彼が紙コップへもう一度熱いお茶を注いでいるようだった。
「その人は、歌い手だったのかな」
なんどか咳払いをして美玖は答えた。
「はい、でも」
熱い塊を飲み込んでやっと口がきけた。
「天地を動かすだなんて、私、そんなごたいそうな歌、知りません」
あはは、と笑い声がした。
「探せばいいよ」
美玖は指をはずした。若者は屈託のない笑顔を見せていた。
「そしていつか、その人にまた会えたら、歌ってあげるといい」
「会えるかな」
「会えないとは限らないでしょう」
 ここ数週間ずっとわだかまっていたものが、心の中から溶けて消えていくのがわかった。捨てられたのではなかった、という安心感が、その空白を静かに満たしていた。
「お茶、ごちそうさまでした」
「もう帰る?」
「はい。私、探しに行くつもりです。今度は、歌を」
「見つかるといいね」
邪気のない表情で白いコートの歌い手は微笑んだ。
 美玖は立ち上がり、通学かばんを手に取った。一礼して帰ろうとしたとき、ふと思いついてふりかえった。
「あのう」
「はい?」
「お名前を伺ってなかったんですけど」
ええと、とつぶやいて、彼は口ごもった。視線がきょろきょろとさまよっている。困らせてしまったようだった。
「あ、ごめんなさい」
「いや、その」
と言ったのが二人同時だった。
「わけあって本名はちょっと。僕のことは、そうだね、“湾岸太郎”とでも」

 シンプルでミニマムな春用のコートを身につけた美女が、有名なベーカリーのロゴの入った大きな袋を提げて現れた。
「差し入れ持ってきたわ」
自称“湾岸太郎”とギターの相棒は顔を輝かせた。
「めーちゃんは女神様だっ!」
芽衣子は異母妹が消えたほうをちらっと透かし見た。
「もう帰ったのね、あの子」
「うん、元気だしてくれたみたいだよ」
「あんたは言いくるめるのだけはうまいからね」
 褒めたのかけなしたのかわからないようなことを言われても“湾岸太郎”は気にしていないようだった。先ほどまで美玖のいたテーブルにどんと置かれた袋からいそいそとサンドイッチを取り出している。心からうれしそうだった。
「言いくるめたっていうか、ぼく、けっこうあの解釈には自信あるよ?」
言う声が半ばもぐもぐとくぐもっている。手を伸ばして少し冷めた紅茶の紙コップを手に取った。
「何それ、お茶?勘弁してよ」
缶ビールを取り出すと、タブを引っこ抜いてぐっとあおった。
「いいのかい、昼間っから?」
「仕事は辞めてきたわ」
「ええっ、結婚しても子供できるまでは仕事続けるって」
「大学でいくつか講座を取って、空いた時間で父さんの秘書をやるの。いろいろ勉強しておかないとね」
「それで政策秘書になって、ゆくゆくは立候補か」
「立候補?何ちっちゃいこと言ってるの。もちろん衆院選を勝ち抜いて入閣狙いよ。総裁選まで行ってやるわ」
「めーちゃん、かっこよすぐる」
おほほっと芽衣子は機嫌よさそうに高笑いをした。
「この国は改革を必要としているの。それをやるのがあたしでどこが悪い」
「一生ついていきます」
彼は婚約者を見上げてうっとりと言った。
「よろしい」
 もう一口ビールを飲んだ後、さりげなく芽衣子は言った。
「よく似てたそうよ、美玖と、美玖を産んだ女(ひと)は」
「歌い手さんだったの?」
「才能のある声楽科の学生だったって父さんは言ってた。父さんとの交際のせいで家族ともうまくいかなくなって結局音大はやめてしまったそうだけど、カセットテープで聞かせてもらったかぎりではたしかに綺麗な声だったわ」
「そうか」
「そのひと、父さんに美玖を預けたとき自分から、“母親とは名乗らないし二度と会わない”って約束したんですって。うちの母さんに申し訳ないからって。なんと去年までその約束を守りぬいたわ」
「頑固っていうか、芯の強いひとだねえ」
「ところが、娘のほうも頑固だったわけよ。自分でかなりのことを調べて会いに行ったらしいの」
「あ~あ」
それきり二人はしばらく黙っていた。
「あの頑固もの、どうするかしらね。あんたが煽ったのを真に受けて探し続けるかもしれないわ」
「サポートするんでしょ?」
「全力でね」
芽衣子は空を見上げた。
「大丈夫よ。明日見つかるかもしれないし」
空を覆う雲がわずかにきれて、昼下がりの太陽がさしこんでいた。

迷いも無く 理由も無く 探し続けるの
明日 見つかるかも 「それ」のありか 期待して

いろんな所を探した ビルの谷間には無かった
砂場を掘っても無かった 壁の向こうにも無かった

今でも「それ」を探してる…
今日も「それ」を探している…

(雲の切れ間からヒラヒラ...)

(ヒラヒラ)