日曜日、午前4時 第二話

「SPICE!」 〔byみなと(流星P)様〕二次創作

 鏡音家はマンションの2階にあった。
「市警の神威ですが」
ドアホンを通して来意を告げると、ドアが細めに開いた。
「今、父も母も留守なんですけど」
鏡音レンは答えた。
 虫も殺さない子供の顔だった。幼児のもつ柔らかさはなくなっているが、その顔は成人の皮膚とあきらかにちがう。陶器人形のようなすべすべしたほほだった。
 男でも女でも大人になれば宿命として引き受ける汚れ、垢、汗、傷、皺、そんなすべてからこの子はまだ完全に自由でいる。
 身長はかなり伸びているが、骨格が未完成で体型は子供とあまり差がない。筋肉のつき方まで中性的だった。
「かまわないよ。君に会いに来たんだ」
ふーんとレンは言った。
「こういうとき、見せるもんがあるだろ?」
ポケットから二つ折りの警察手帳を取り出して、わざわざ相手の手に乗せた。
「入っていいかな」
「勝手にすれば?」
14歳、中学二年生の少年……の演技だった。大人に対して腹の底で見下しているが、表面的にはそこそこの無作法にとどめている、そんな子供のふりをしている。
 家に上がり、リビングのソファのひとつに腰掛けて、彼はまじまじと子供を観察した。
「僕に用ってなに」
レンは向かいの赤いソファに坐って足を組んだ。
 調査では、学校での成績は優秀だった。おそらく中三になれば県下の有名私立を狙うことになるだろう。クラスでは数人の男子生徒とよく一緒に行動し、女子生徒のウケもいいらしい。
 なんとご立派な猫かぶり。
 何も言わないでいると、レンは見知らぬ大人を警戒する目になった。
「僕、子供だから別に知ってることなんてないけど」
「はは」
思わず笑ってしまった。
「子供とはね。私は18だったかな」
レンの表情が変わった。警戒している子供の顔が、一気に成熟する。長い足をもてあますようにレンは椅子の上に両足を引き上げあぐらをかいた。
「ふーん、遅かったんだね」
なんのことを話しているのか、十分にわかっている、とレンは目で告げていた。
「失礼な。友達のあいだじゃ、一番乗りだったのに」
「そんなこと言うの、友達同士で?」
くすっとレンが笑った。
「最大の関心事だった」
彼女ができた、デートをした、そこまで持ち込んだ、それは苦労話であり、玉砕であり、とんびにあぶらげであり、ごくまれに自慢話だった。そこにはいつも下心や四苦八苦がつきものだった。だが、この子はそんな経験をたぶんまったくしたことがない。
「バカみてぇ」
 いとも、やすやすと。
「昨日、咲音先生が署へ来たよ」

午前四時のコールで目を覚ます「昨日誰とどこに居た?」なんて
言い逃れと言い訳を交互に使い分けて楽しんでる

「キミだけだよ」なんてね
ベタ過ぎ…笑えちゃう誰かと繋がっていたいだけ?

苦くてホットなスパイス君だけに今あげるよ
夢中にさせる僕のテイストを体中で感じて?

 その名前は、レンの笑みの前に無力だった。
「へえ。先生、なんて言ってた?」
「証言をかえたいそうだ。事件のあった日曜日の午前4時、咲音先生は君と一緒に自宅にいたと言ってる」
「あーらら」
その笑顔はひどく軽い。
「ルール違反じゃん。せんせのくせに」
「秘密にする約束だったんだね?」
「約束?言わないだろ、JK?」
 どこまでわかっているか、と刑事はしばらく考えた。その証言のために、彼女は未成年との性的接触があったことを認めざるを得ない。おそらく教諭としての地位にとどまることはできないだろうし、性犯罪者のリストに名を連ねることになる。場合によっては実刑さえ覚悟しなくてはならないだろう。
 スーツのうちポケットから無意識に煙草とライターを取り出していた。
「ごめん、灰皿ないんだけど」
と、レンが言った。
「君は何を使ってるんだ?」
「カンヅメのあいたの」
からかわれているらしかった。
「ねえ」
とレンは奇妙に無邪気に言った。
「先生は僕を味わいたかっただけ。僕は先生と繋がってるの、悪くなかった。それだけ」
男女関係と言うにしては何か欠けている。それが、次第に見えてくる。それはいわば汗の臭いだ、と思った。あまりにも、やすやすと。
「君は交友関係に不自由はなかった。友達もいたはずだ。どうして彼女と?」
さあ?と肩をすくめるしぐさは遊びなれた男のもの。同時に見せる笑顔はあどけない天使のもの。
「ともだちってもんに、なにか夢見てる?」
思わずためいきがもれた。
「咲音先生は、君のほうから告白した、と言っていた」
「『先生のこと、好きです。入学してたときから憧れてました。一回だけでいいから、僕を愛してくれませんか』」
せつないような言葉を、にやにやと笑いながらつむぐ。そのきれいな唇を背筋が寒くなるような気分で見ていた。
「ひっかかったのか、いい大人が」
「ひっかかったよ。ひっかかりたかったんだろ?あとは簡単。『メイコってかわいいとこあるんだ』、『キミだけだよ』、『ぼくが美人に弱いって知ってるだろ?』」
くすくすとレンは笑った。
「思い出すだけで笑える。クサイわ、ベタだわ、コテコテだわ」
「やっぱり一服吸わせてくれ」
 なんてガキだこのやろうと思いつつ、緑のソファを立ってキッチンへ行った。ちゃんと灰皿があるのを見つけて拝借してきた。今までのこちらからの働きかけはすべてはたき落とされたに等しい。なんとか仕切りなおしをしたいと思いながらリビングへもどった。
「あのさ」
と少年の顔をした男が言った。
「咲音先生の話を聞いてあなたがここへ来た理由がわからないや。午前4時にぼくと先生は先生の家にいて、それで?事件と何の関係があるの」
「確かに犯行時刻のアリバイだな。それによって君は事件から除外される。本当ならね」
もういちどソファにすわりこみ、煙草に火をつけて煙を吐き出した。
「だが咲音先生の直後、初音未来さんが面会に来て、まったく同じ証言をした、と言ったらどうだ?」

「直接会って話したいんだ」 持ち掛けた僕のネライ アタリ☆
愛し合えばどうでも良くなるよ? 鍵を開けて ラビリンスへ

「愛してる」だなんてね
駆け引きだよ 恋のゲームは 落ちた方が負けでしょ?

苦くて甘いシロップ 僕だけに舐めさせてよ
重ねた肌とキミのテイストで 僕のことを満たして!

 レンは目を丸くした。最高の冗談を聞いたかのように口元を押さえ、両肩をゆすりながら笑い出した。
「ああ、もう、ミクったら!」
ぱん、ぱんと音を立てて膝をたたいた。
「彼女はまじめなんだ。すっごく!自分じゃ大人だと思ってるけど、素直だったらない」
「簡単だったのか、初音嬢も」
「ミクはリンとなかよしで、よく電話してた。遠くから見たこともあった。あのストーカー事件の後、僕のほうから連絡したんだ。このあいだのことが心配だから、直接会って話したいって。一度でOK」
「体格的にどうかと思うが、ムリヤリ?」
レンは肩をすくめた。
「ミクが本気でイヤだと思ったなら、はねのければいいだろ?そのくらいのことはできたはずさ、体格的に。一度彼女は僕を味わい、それから拒否することができなくなった。それだけ」
まただ、と思った。この二番目の証言をするために、初音未来はおそらく一度内定した就職先を失う。大学の学籍さえ不安定になる。というよりも彼女の性格からして、このままの生活をそ知らぬ顔でつづけていけるとは思えない。こうして差し出された犠牲は、少年の笑みにぶつかって砕け散る。
「一回だけ聞くが、彼女たちのうちどちらが本命だった?」
「二人ともかわいいよ?うそつきだけどね」
お前が言うかと思ったが、こちらからのアクションは今のところすべて無効にされていた。
「ではどちらも遊びだった?」

愛する事を知らない 僕にはこれで調度良い
愛情なんて必要としない 恋の方が楽でしょ?

ねぇ 僕のスパイス 君だけに今あげるよ
夢中にさせる僕のテイストを 体中で感じて

「遊び?恋って呼んでくれない?」
澄んだきれいな目でレンはうそぶいた。
「恋はゲームなんだから、勝つためにはなんでもありでしょ」
何を言っても、言葉がレンのコアになっている部分に届かずに落下していく。
「頼むからさ、思いやりとか愛とか言わないでよね。マジ、かんべんして」
「君にとっては『愛』もただの言葉か?」
「なんぞそれ、おいしいの?食ったことないなあ。見たこともない」
口元に笑いを張り付かせたままレンは冷たく言った。
「父さんも母さんも、そんなもの、ぼくにはくれなかったよ」
指に挟んだ煙草がもう短くなってきていた。
「これも念のため聞くだけだけど、あの日、午前4時、君はどっちといっしょにいた?」
ふー、やれやれ、とおおげさにレンは首を振って見せた。
「ねえ、ぼくは、『先生のほうが無理に迫ったんです、僕は被害者です』とか言い訳しなかっただろ?」
男にしては長いまつげがあがった。
「だからあなたもそういうくだらないこと聞かないでよ」
正面からこちらを見据えてそう言った。きゃしゃな骨格と嘘を紡ぎだす唇が、大きな壁となって立ちはだかっていた。
 指先で煙草を取り、灰皿に強く押し付けた。彼は立ち上がった。
「では、仕方ないな」
レンは肩をすくめた。第一ラウンドはレンの勝ちだったし、レン自身がそのことを知っていた。
 刑事は赤いソファの前を通り過ぎ、リビングの入り口でふりかえった。
「鏡音リンの証言を取る」
レンの微笑が凍りついた。
「ふざけんなよ」
「部屋はこっちか」
後ろで足音がした。背中に衝撃があった。
「リンは関係ないだろう!」
 かわいい字でRINと描かれたネームプレートを掲げたドアの背中にかばってレンは立ちはだかっている。たった今まで日向にうずくまり前足をなめていた猫が、毛を逆立て爪をむき出して威嚇し、うなっていた。第二ラウンドの開始だった。神威刑事は笑った。
「なんだ、いい顔になったじゃないか?やっと本性だしたか」
部屋の中で誰かが動いた。
「レン?」
レンが叫んだ。
「部屋にいろ、出てくんな!」
中で立ちすくむ気配がした。
「彼女は重要参考人だ」
「バカ言え!」
「松元成則の人間関係からは、動機のある者はまったく見つかっていない。通報者の咲音教諭も除外された。残っているのは鏡音リンだけだ」
つきつけた事実が、レンを取り巻いていた壁をたやすく切り裂いていく。
「証拠なんかないじゃないか、もう帰れっ、出て行け!」
ドアのほうへ押し出そうとしてくるレンの手首をとらえるのは簡単だった。
「放せ!」
「妹さんに聞こえるぞ。リビングのほうがいいんじゃないのか?」
少年の両手首を片手でつかんで有無を言わさずリビングまでレンを引きずってきた。暴力だ、体罰だ、くらいのことはわめくかと思ったが、プライドの高い少年は歯を食いしばってもがくだけだった。だが、中学生と警察官では体の出来が違いすぎる。
 レンが刑事の足を狙って蹴り上げてきた。
「やめろ、話がある」
だがレンはまだ暴れている。完全に逆上しているようだった。しかたなく、足を外側からかけてリビングの床へ押し倒した。
「何をする気だ!」
「あんまり暴れるからだ」
上からのしかかり、動けないように床に体をおしつけた。手は彼の両手首を抑えているので、口を使うしかない。顔を少年の髪のなかにうめるようなかっこうになった。レンの髪は細くしなやかでシャンプーの匂いがした。
「だから、何を!」
「いつもゴムでとめているよな」
黒いゴムを見つけ、歯にひっかけてあごを横へ引く。髪の先は肩にふれるほどの長さがあった。
 唇からゴムを吐き出して彼はつぶやいた。
「本当はかなり長い」
ゴムを取られたレンはうるさそうに頭を振った。
「悪いか!」
「校則があるだろうと言ったんだ、中学生」
「あんただって髪長いだろう、公務員!」
「警察から君へ、わすれものを返すよ。白いリボンだ」
レンはもがくのをやめた。
「スーツの胸ポケットに入ってる。見えるか?」
それは現場で発見された白い布だった。
「日曜日の午前四時、君は松元成則を呼び出した。妹の服を着て髪を下ろし、リボンをヘアバンドにして前髪をピンでとめた」
光る目がじっと見上げている。
「14歳か。ぎりぎり女装できる年だな。しかも君はリンの声でしゃべれる。松元はだまされた」
雨が降っていたことも幸いしただろうと思う。傘をさしているので、よほど近寄らないと顔を確認できないのだ。
「君だ。松元を突き落としたのは、君しかいない」
「悪いか」
リビングの床に押し倒され手首をつかまれたまま、レンは真上に向かってそう言い放った。
「あの男がリンを死ぬほど怖がらせたって言うのに、大人は誰も助けにならなかった。リンを守ってやれるのはぼくだけだ」
「殺意があったんだな?」
レンは笑った。さきほど見せていた笑顔よりずっと獰猛だった。
「ぶっ殺してやろうと思ったよ」
ふてぶてしい顔で彼はせせら笑った。
「突き落としなんかじゃない。ちゃんとナイフを持って行ったさ。あいつが逃げようとして落ちたんだ。よりによって学校に!最後まで使えない野郎だ」
神威刑事はゆっくりレンから離れた。おおいかぶさっていた体が離れて、レンは驚いたようだった。自分も上半身を起した。
「こういうとき、持ってくるもんがあるだろ?」
「逮捕状かい?そんなものはないさ」
「てめえ」
「事件としてもう成立しないんだ」
リビングの床にすわったまま淡々と彼は言った。
「同僚が病院へ行って、被害者の供述を取ってきた。『酒を飲んであのあたりを通りかかり、草地で小便をしようとして、うっかり落ちた』と松元は言っている」
レンは目を見開いた。
「よほど怖がらせたらしいな。松元は被害届を出さないそうだ」
「じゃあ」
「咲音教諭と初音嬢の証言も記録されない。感謝することだな。二人とも誰が松元を突き落としたのかをうすうす察して、犠牲を払って君のアリバイを確保しようとしたんだ」
「よけいなお世話だ」
ぽつりと彼は答えた。
「松元の骨折は全治三ヶ月だ。あいつが退院してきたら妹さんにつきまとうかもしれない。気をつけたほうがいい」
「よけいな」
と言い掛けてレンは黙った。
「やっぱり、何の解決にもなりゃしない。今度こそ殺ったほうがいい」
「世界は君を中心に回っていると思ってるのか?中二病まっさかりだな」
「じゃあ、どうしろっていうんだ」
「化学の始音先生に相談しな」
レンがかっとなった。
「冗談じゃないっ、あいつにだけは絶対に、っていうか、あんなへたれがリンを守れるもんかっ」
「あの人が本気出したところを見たことがないんだろ?」
言いながら神威刑事は立ち上がった。
「じゃあな」
帰る前に一度だけふりむいた。
 レンはまだ大人になりきれないが、子供にはもうもどれない。中途半端で危うい存在だった。レンはうつむいて、じっと虚空をにらみつけている。さきほど渡した白いリボンがレンの手の中で握り締められてふるえていた。
 本当に、また殺しに行くかもしれない。自分と妹を脅かす雑魚の存在を許すほどこの子は寛容ではない。雑魚のために自分が泥を被るなんてばかばかしいんだぞ、と言ってやるべきなのだが、なぜかそんな説教めいた言葉を吐くのはためらわれた。
 少年期最後の輝きを身にまとうレンは、あまりにも美しかった。