やめて、やめてと繰り返しながら美空は両手で顔を覆ってふるえていた。薬剤はもう一段強いものと交換してあった。助手はカウンセラーにつぶやいた。
「正解の選択肢がないなんて、どういうことでしょう」
カウンセラーは首を振った。
「一筋縄じゃいかん。最初からわかっていたさ」
カウンセラーはそっと美空の肩をたたいた。
「さあ、落ち着いて。もう選択肢なんか忘れましょう。あなたのいるところからギャラリーはすぐ近くでしょう。ギャラリーから玄関ホールまでの行き方はわかっているはずですね」
ようやくふるえのおさまった美空が小さくうなずいた。
「どこにも寄らないで、まっすぐ玄関ホールへ行きなさい」
「でも、カイトが」
蚊の鳴くような声で美空が言った。
「走り抜けなさい。カイトが追いつく前に扉から飛び出せばあなたの勝ちです」
●
どうしたら家に
帰れるのかな?
常夜灯の下でミクは手紙をポケットへ無理におしこんだ。
「この廊下をまっすぐ進んで、曲がり角を曲がる」
誰が来たってかまわない。ミクは足を早めた。
「曲がったところをまっすぐ進む」
無人の廊下は怖かった。だが正面に月明かりのさす玄関ホールが見えてきた。どこかでがちゃ、とドアノブを回す音がした。が、かまうもんかとミクは思った。
あの主人の居間に入るドアが目に入ったが、無視して通り過ぎた。
「最初からこうすればよかったんだわ」
ミクは足を止め、耳を澄ませた。鼻歌は聞こえなかった。
大きく一つ深呼吸をして、ミクは玄関ホールへ足を踏み入れた。かつんと音がした。このホールは絨毯のたぐいを敷いていなかった。よく磨いた床に靴音は高く響いた。
かっ、かっ、かっと音を立ててミクは足早に玄関ホールを横切っていった。
「お嬢さん、お待ちなさい」
その声はいきなり降ってきた。ミクは小走りに正面扉を目指した。
「こらこら、人の話は聞くものです」
カイトの声だった。
ミクは扉にたどりついた。取っ手をつかみ、両手で押し開けようとした。
扉は、動かなかった。
「うそっ!」
あはははは……とカイトは笑った。その声が玄関ホールいっぱいに響いた。
ミクは扉に背を押しつけて玄関ホールに向き直った。誰もいなかった。
あわててミクは薄暗いホールの中を目で探した。
「ど、どこ」
そのときだった。耳障りな音がしたかと思うと、ミクの背後のドアに何かがぶちあたってめりこんだ。
「きゃあっ」
狙撃された、そう悟ってミクは壁際を走り出した。身を隠せるような調度品はこのホールにはなかった。
バンッバンッと、走る足下に着弾する。その轟音に狂ったような笑い声が混じった。
「その扉、壊れてるんですよ、悪いね」
笑いながらミクをからかうようにすれすれをねらって弾を撃ち込んできた。
ようやく二階へ続く大階段の後ろへミクはうずくまった。走ったために呼吸が乱れ、汗で脇が冷たくなった。
哄笑は収まったが、あの鼻歌が聞こえた。ガチャガチャと金属のあたる音がした。
「待っててね。今もう一丁の銃に弾をこめているから」
ミクはたまらずに叫んだ。
「やめて、助けて!」
「あの部屋を見てしまったんだよね」
ふふふ、とカイトは笑った。
「殺人事件のことなら、誰にも言いません!」
「ええ?殺人?」
どことなく無邪気な言い方だった。
「だって、執事が言ってた、嫉妬深い男が女とその恋人を斬り殺したって」
「それじゃ棺三つ分にしかならないよね」
ぞくっとミクはふるえた。あの部屋は文字通り棺の山だったのだ。
「あれはね、ぼくのコレクションなんだよ」
小学生がおもちゃを見せるように、自慢そうにカイトは言った。
「コレクション」
何を集めたというのか。
「狩猟シーズンに狐や鹿を捕ると、みんな頭を剥製にしたりするだろ?」
獲物。文字通り、カイトにとって、この館へ入ってきた人間は獲物だったのだ。
「いやぁ!」
柱の陰でミクは悲鳴をあげた。
このホールはだめだ。とにかく別の出入り口を探さないと。ミクは自分が入ってきた廊下を見つめた。あそこへ逃げ込めば、なんとか再出発できる。
「さあ、仔ウサギちゃん、出ておいで」
また空気を切り裂く音がした。銃の用意は終わったようだった。だが、その弾は正面扉に当たっていた。
「あたしがどこにいるかわからないんだわ」
今しかない。もう死ぬのは嫌だった。入ってきた廊下は暗い長方形として数歩の距離の先に見えていた。ミクは靴を脱いで両手に抱えた。靴下だけなら、音は響かない。忍び足で柱の陰を離れた。
「どこにいるんだい?」
歌うように言うと、カイトは玄関ホールのど真ん中に銃弾を放った。
ミクは足音をたてないように廊下へ向かった。
「おやおや、つまらないなあ」
真上からその声は聞こえた。びくっとしてミクは顔を上げた。
吹き抜けになった玄関ホール。ホールから二階へ続く大階段は、ホール上部を取り巻く回廊につながっている。その回廊のうち、逃げ道である廊下に続く部分の真上に、カイトはいた。
王子様のような美しい姿で、カイトはほほえんだ。その手には、最新式の猟銃があり、銃口から薄く煙が上がっていた。
「こんなトリックにひっかかるなんてね」
ミクは悟った。カイトは、ミクのいる場所がわからないフリをしていただけだった。
最後にミクが見たのは、うっすら微笑みながらミクに狙いをつけて引き金を引く、彼のりりしい姿だった。
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セクションナンバー422 こうしてあなたは死にました。
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美空は眠りながらむせび泣いていた。どんなに暗示をかけても、美空の恐怖はおさまらなかった。
「どうします」
と助手がつぶやいた。
「私はひとつの仮説を持ってるんだ」
とカウンセラーが言った。
「というと?」
カウンセラーはためらった。
「いや、もう少し待ってくれ。まだルートは残っている」
カウンセラーは、美空の背に片手をあてた。幼児をなだめるようにそっと手を押しつけ、やさしくたたいた。
「美空さん。大丈夫ですよ。今度は私たちの言うことをよく聞いてその通りに動いてください。きっとあなたをあの館から連れ出してあげますからね」
うっ、うっと美空は嗚咽をもらしたが、首がこくんと動いた。
「辛いでしょうけど、もう一度秘密の部屋の直後へ戻ってください」
「でも」
「いっしょに行きます。大丈夫」
カウンセラーは力強く言い切った。
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ミクは不思議の館の暗い廊下に立っていた。
「どこへ行けばいいの」
「窓から出ようという考えは悪くない。ギャラリーに鍵のかかっていない窓があったのはひっかけです」
頭の中で知っているような知らないような声がそう語りかけた。
「いいですか?静かに動きましょう。メイコに見つからないように、窓を探すんです。そうしたらガラスをたたき壊して誰か駆けつけてくる前に外へ出ればいい」
「わかったわ」
すぐそばのドアと次のドアは鍵がかかっているとわかっているし、その次の部屋はギャラリーだった。ミクはそこを避けて歩き出した。
「ここはだめ……これも」
なかなか開いているドアがない。
「焦らないで」
「うん……」
廊下の行き止まりは大きな窓になっていた。
「これが開けば!」
ミクは走り寄ってがちゃがちゃと取っ手を動かした。
「だめだわ」
「落ち着いて。何か堅いものを見つけましょう。ガラスを割るんです」
ミクは、しぶしぶ取っ手をはなしてきびすを返した。その瞬間、ミクは顔がひきつった。
「何してるの~?」
レンが立っていた。
「ひっ」
硬直するミクの脳裏に声がささやいた。
「止まるな!彼の横を走り抜けて、さあ!」
考える暇もなく、ミクはレンを突き飛ばして走り出した。
「リン、そっちへ行ったよ」
無邪気な声がそう告げた。あはははは、と誰かが笑った。レンのようでもあり、リンのようでもあった。
「た、たすけて」
次々と廊下の曲がり角が迫ってくる。どこを曲がっても無邪気な笑い声が追いかけてきた。ミクは泣いていた。
「あ、あたし、どこにいるの?ここ、どこ?」
頭の中で誰かがちっと舌打ちした。
「しまった」
「ねえ、どうすればいいの!」
「落ち着いて」
ミクは壁に片手をついて立ち止まった。立っていられない。足ががくがくしていた。
「どうすれば」
夜中の館の廊下を、冷たい風が吹きすぎた。ミクはぞくっとした。
「あらあら」
美しい声が背後から聞こえた。ミクは弾かれたようにふりむいた。
「こんなところをうろうろしていてはだめよ?」
冷たい白銀のカミソリがすっと空を走った。
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セクションナンバー422 こうしてあなたは死にました。
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料理をしているグミに見つからないようにすり抜けることができれば。ストーブの上の鍋をかきまわしているグミの背後を、ミクは忍び足で進んだ。もう少しで勝手口にたどりつく。古びた取っ手に手をかけようとした時だった。
「グミ!うしろ、うしろ!」
リンの声だった。まるでかくれんぼだった。
あわてて取っ手を握って回そうとして、強い抵抗があり、がちりと音がした。ドアは開かなかっった。
「お客様、どうなさいました?」
グミの声が後ろから聞こえた。振り向かなくても、背中にナイフの切っ先を感じることができた。
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セクションナンバー422 こうしてあなたは死にました。
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ミクはじっと執事の動きを見つめた。彼は話し続けながら、日本刀の鞘を払った。
「その泣き声に激昂した紳士は」
ミクはあとずさった。が、部屋の扉は、執事の後ろにある。
「返す刀を」
後ずさるミクに一歩づつ執事が迫った。ミクはふりむいた。書架は、あらかじめ梯子を引き寄せてあった。
「泣き叫ぶ婦人の上に振り下ろしました」
刀がミクの上で煌めき、まっすぐに降りてきた。
ミクは真後ろにある梯子と書架の間にもぐりこんだ。長大な刀は梯子の段にあたり、がっと食い込んだ。
「今です!」
ミクは走り出した。とらえようと手を伸ばす執事の手を振り切って、廊下へ飛び出した。
「きゃあっ!」
図書室の扉の向こうには、グミが立ちはだかっていた。くすっと笑ってグミは言い放った。
「お兄ちゃんのドジ!」
自分に言われたのではないことをミクは知った。それは、背後の人物に。
「おまえに言われるようじゃ、おしまいだ」
刃うなりがした。頭の上から、死が降ってきた。
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セクションナンバー422 こうしてあなたは死にました。
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カウンセラーはカルテのフォルダから一枚の見取り図を取り出した。
「それは?」
助手がのぞきこんだ。見取り図は細かい書き込みでいっぱいになっていた。
「前回までのカウンセリングから作成された、"不思議の館"の平面図さ」
カウンセラーは一点を指さした。
「夢の中の館なのだが、美空の夢は毎回驚くほどの整合性を見せている」
「モデルがあるということですか?」
ん、とカウンセラーはうなり、患者の方へ視線を向けた。
美空は薬剤と催眠暗示によって、深い眠りに入っていた。
「実際に彼女が育った家とはまったく違うのだがね」
カウンセラーはフォルダから別の記録を取りだして助手に渡した。
「これは目を通したか?」
「はい、一応」
助手は言った。
「患者は三人兄妹の末っ子で、両親と一緒に東京近郊の一戸建て住宅で育ったということですが?」
「その隣家に父親の弟、つまり叔父が住んでいた。叔父も既婚で双子を含め4人の子持ちだった。この両家族は仲が良く、しょっちゅう交流していた。美空はかなりの大家族の中で育ったと考えていい」
助手は記録に目を走らせた。
「が、美空自身は、小さい頃からあまり家族とうまくいっていなかったと自己分析しています」
「彼女は兄妹や従兄弟たちとしょっちゅう比較されると感じていた。かなりの不満を家族に対して抱いていたらしい」
「現在は?一人暮らし?」
カウンセラーはペンでカルテをそっとたたいた。
「一人暮らしをせざるを得ないのさ。ライフヒストリーに登場する両親、兄弟、叔父、叔母、従兄弟、すべて他界しているんだ」
「なっ」
助手は絶句した。
「彼女が16歳になったばかりのころ、ある事件のために二つの家族が死に絶えた。美空はただ1人の生き残りだ」
「では……」
カウンセラーは片手を振った。
「いやいや、"不思議の館"は彼女の育った家とはまったく違っているし、館の住人は彼女の家族親戚とは似ても似つかない。しかし、美空は、自分も家族と一緒に死ぬべきだったのでは、と心の中で信じていた可能性はある」
助手はうなった。
「それで夢の中で自分の死を繰り返しているわけですか?」
「死ななくてはならない、でも死にたくない。その板挟みになっている。それが私の仮説だ」
カウンセラーは再び見取り図を取り上げた。
「さあ、もう一度やってみよう。本当は死にたくないのなら、こちらが脱出できるようにリードすれば成功するかもしれない」
助手はうなずいた。
「具体的にはどうするつもりですか?いままでのルートは、成功しそうになるとリンかレンが密告してしまうし、住人1人を出し抜いても他の住人がサポートしてしまいます」
「まったく新しいルートを与えてみよう」
カウンセラーはペンで見取り図の一カ所に書き込みを始めた。
「新しい出口がある、と美空に暗示を与えるんだ」