パラケルサスの犯罪 28.第五章 第五話

 清清しい、とホレイショ・ヘイバーンは思った。三日目の朝がやってきたのだった。常駐部隊の隊長によると、いまいましい錬金術師のガキはこの三日間、練成陣を描いたり消したりしているだけで、温室に手を出してはいないということだった。
「おまけに、今日でやっかいばらいだ!」
今ごろは管理部が、錬金術師たちを駅へ送り出す準備をしているはずだった。のりをきかせてプレスしたシャツに手を通し、ヘイバーン院長は小さく鼻唄をうたった。
 今日は特別な日だった。この日のために長い間努力を続けてきたのだから。
 セントラルから、特別な視察が来る。
 ヘイバーンの案内で地下の大温室を見学し、阿片の力を知り、その生み出すところの富を試算し。
 そして、びっくらこいて、セントラルへ飛んでいくのだ。“わが国はすばらしい財産を手に入れました。ホレイショ・ヘイバーンです!”。
 笑いがこみ上げてくる。鏡をのぞきこむと、そのすみに看護婦が映っていた。シャーロット・ターナーの代わりに、院長の個人的な世話をさせるために配置した者だった。気味悪そうな顔でこちらを見ていた。
 院長は咳払いをした。
「予定は!」
「あ、はい」
看護婦はうろたえ気味だった。ぐずぐずした女が院長はきらいだった。今度、ましなのと交代させよう。
「正午に、セントラルからボーマン少将がお見えになります」
「ボーマン少将だと?リア准将ではないのかね?」
院長がセントラルから招いたのは、別の軍人だった。阿片計画に賛同しそうな男を、院長は注意深く選んだのだった。その男、アイヴァン・リア准将が視察にきて、彼のパイプで大総統府へ食い込むつもりだったのだが。
「視察の予定の方が、調査部で事情聴取をされているそうです」
リア准将は、上昇志向丸出しのぎらついた男だった。今の地位にいたるまでにそうとう危ない事をしてきたらしいようすもうかがえた。今まで調査部にひっかからなかったほうが不思議なのだ。
 まあ、いい、と院長は考えた。上へ通じていさえすれば、誰でも同じだった。ボーマン少将とやらも、阿片のとれる花畑を見せれば、簡単に懐柔できるだろう。院長には自信があた。
「駅までお車をお出しして、院長先生はこちらでお迎えということになります」
「車の手配は遺漏ないだろうな?」
「はい、随員の方のお席も」
「ああ、一人で来るわけではないだろうしな」
「警備の方、秘書の方、それに」
もごもごしている。院長はいらだった。
「それと、なんだ!」
「セントラルから、容疑者のひきとりのために人が来ます」
「もう来るのか」
もっとうっぷんばらしをしてから引き渡したかったが、今日はそれよりも大事な晴れの日だった。院長はふん、とつぶやいた。
「しかたがない、渡してやれ。被告がいなくては、軍事法廷も開けまい」
証人として、堂々と法廷に立つ己の姿を想像し、院長は機嫌を直した。

 髪は編みなおした。手袋もはめた。赤いコートに袖を通し、トランクを手にとった。
 エドワード・エルリックはこれを最後、と、半月近く暮らした部屋を見まわした。今はもう生活の名残はあとかたもない。おびただしい実験道具は、夕べからボイドの大型ケースに納まっている。
「行くぞ、アル」
「うん」
アルが立ち上がった。いつものことだが、山が動き出したほどの存在感だった。すぐ後ろにこの金属の弟がいてくれるのを感じるのは、心強かった。
 細工は流流。

 その日もよく晴れて、微風があった。グラン・ウブラッジは、今日は全科にわたって診療をしないことにした。医師も看護婦も、全員病院正面にて威儀を正し、セントラルからの賓客を待っている。
 病院のほかのスタッフや入院患者も窓に鈴なりになったり、外へ出てきたりして、視察の一行が来るのを見物にきていた。
 院長は、視界の隅に黒服の集団を見つけた。憲兵たちが、手錠をかけられたままのペインター大尉を取り囲んで立っているのだった。大尉、いや、元大尉は、これから調査部に引き渡され、軍事法廷で裁かれることになる。院長は、ふん、とつぶやいた。
 憲兵たちのそばに、青ざめた顔のシャーロット・ターナーを見つけ、院長は顔をしかめた。彼女の後ろには、三人の錬金術師と、あの鎧の男が立っている。車を待っているようだった。
 ふと、院長は不思議に思った。
「あの豆はどこだ?」
口に出してつぶやいたとき、のどかな風景の中を、T型フォードが進んでくるのが見えた。グラン・ウブラッジ正面で、車はそっと停車した。
 兵士たちの片手があがる。院長も指先をそろえ、ピシッと敬礼した。
 車から降りてきたのは、立派な押し出しの軍人だった。青い軍服の肩に、略綬がいくつもかけてあった。初老だが貴族的な顔立ちで、上背があり、眼光鋭い男である。
「グラン・ウブラッジへようこそ、ボーマン少将閣下」
「わざわざの出迎え、おそれいる。ヘイバーン院長」
よく響く声で少将は答え、片手を差し出した。
「とてもすばらしいものを拝見できるそうで、楽しみにしているよ」
院長は、誇らしさに体がふるえた。握手を返して、院長は胸を張った。
「国家に捧げるささやかな贈り物、といったところです。が、閣下のご足労は無駄にならないと信じております。どうぞ、こちらへ」
院長は少将と並んでグラン・ウブラッジの正面から中へ入ろうとした。正装した常駐部隊の兵士たちが、一糸の乱れもなく敬礼を捧げる。
 そのとき、正面入り口から誰かが出てきた。院長は眉をひそめた。ついさきほど目で探していた“豆”だった。
 若い錬金術師は、ボーマン少将のために用意された赤じゅうたんを踏んで、恐れ気もなく歩いてきた。数歩の距離でエドは立ちどまった。
 いやみの一つも言うつもりか?院長は思わず身構えた。エドの左手は古びたトランクの柄を持っているが、ポケットにつっこまれていた彼の右手が、白手袋に包まれたまま出てきて、額の高さへあがった。
「おひさしぶりです、少将」
院長は目を疑った。つねづね親の顔を見てやりたいものだと思っていた礼儀知らずのくそガキが、正式な敬礼をしている。
 少将は、声を上げて笑った。
「君か。錬金術師くん。ええと」
「エルリックです。エドワード・エルリック」
「そうだったな。おぼえているとも!君の国家試験は、いまだに大総統府の語り草だよ。あんなにひやひやしたのは、わたしにとっても近年まれだった」
院長はあっけにとられていた。なぜ、このガキが、セントラルの要人と面識がある!
「おそれいります」
「今日はあの時と違って、ずいぶんおとなしいじゃないか。こんなところで会えるとはね。まさか、病気だと言うのではないだろうね?」
「いえ。ヘイバーン院長の要請を受けて、東方司令部から派遣されました」
「ああ、君は今、マスタング君のところにいるのだったな。何か、仕事かね。科学者どうし、ヘイバーン院長と共同作戦というわけか?」
にや、とエドの口角があがった。院長はぞっとした。