今日すれ違ったイケメンが伝説の魔物使いだった件について

 駐車場の自分の車の前に立って、ジェシーはメールでもアプリでもなく電話で姉に連絡した。
「写真送った猫のことだけど、譲ってもらえそうよ」
 電話を通して聞こえる声は、安堵しているようだった。
「さすがはオラクルベリーね。田舎とは違うわ。キャラメル色の子猫なんてものがさっくり見つかるんだもの」
 年の離れた姉はアルカパの郊外に住んでいる。キャラメル色の猫が欲しい、というのは、姉の長女でこの連休に七歳の誕生日を迎える姪のキャシーからの注文だった。
「そういう団体でボランティアをしている友達が協力してくれたおかげ。ただ、その友達が言うにはあの子は保護された猫で、元の飼い主がわからないんだって。だから病歴も体質も性格も不明」
「大丈夫。うちのキャシーといっしょに飼い方をだいぶ勉強したの。まずは健康診断ね」
 姉はおおらかにそう言った。
「伝説の魔物使いよりちょっと落ちるだけっていう触れ込みの獣医さんを、近所で見つけたし」
 ずいぶんと盛ったものだとジェシーは思ったが、そこは黙っていた。
「次の問題なんだけど、このキャラメルちゃん、車に乗せるとめちゃくちゃ暴れるんだって。あたしの車が使えないから鉄道で帰るしかないかも。少し遅くなるね」
 あら~と姉は言った。
「今から切符が手に入る?ジェシー、苦労かけるわね。交通費はこっち持ちだからいい席できてね」
「ありがと、姉さん」
 通話を終わって、ジェシーはためいきをついた。自分の車には旅行用の荷物を載せてある。このまま高速に乗ってアルカパへ行くつもりだったのだが、どうやらおろさなくてはならないようだった。
「しょうがないわ、キャシーのためだ」
 そうつぶやいたとき、誰かが遠慮がちに声をかけた。
「ジェシー、ちょっといいかな?」
 猫の保護団体に所属している友達だった。手に掲げたキャリーには姪っ子がお待ちかねの子猫が入っていた。
「この子なんだけど、ちょっと見せてくれないかっていう人が来てるの。ふつう譲渡が決まった後は断るんだけど、どうしてもって言われちゃって」
 友人は困り切っているようだった。
「こっちも事情があってキャラメル猫は譲れないわよ?姪のキャシーの誕生祝いなんだから」
 友人は振り向いた。
「ひと目見れば、探している猫かどうかわかります。見るだけでも、どうか」
 連れの男がそう言った。
 友人といっしょに来たのは、長めの黒髪を首の後ろでまとめた、背の高い男だった。ダークグレーの三つ揃えに淡いラベンダーのシャツ、鮮やかな紫のネクタイを締め、同色のハンカチを胸ポケットに納めている。そしてめったに見ないほどの美貌だった。
――ちがう、この男どっかで見た。
「というわけで、いいかな、この人に見せても?」
 この友人が、昔から顔のいい男に弱いのをジェシーは思い出した。
「それじゃ、見るだけね」
「無理を言ってすみません、ええと」
「ジェシーと呼んでください」
「では、僕のことはルークと」
 友人はいそいそとキャリーの扉を開け、問題の子猫を抱き上げた。
 まだ頭が小さく目が大きく見える。耳が長めでぴんとしていて、毛皮の毛は短め、尻尾は長い。
 体色は大部分が暗めの金色というか、オレンジがかった明るい茶色というか、キャラメル色だった。手足の内側にやや白っぽい毛が生えていた。
「たぶん特定の種ではなくミックスで、男の子です。毛色はちょっと珍しいですよね。お目々はイエローの瞳に小さめの黒い光彩ですね」
 ルークはかるく屈みこんでキャラメルの顔をのぞきこんだ。
「そうか……いい子だね……」
 何かつぶやいているが、外国語のようだった。子猫は黙ったまま男を見つめている。見つめ返すルークの表情が独特で、ジェシーはぞくっとした。
「あのう」
とジェシーが言うと、彼は身を起こして笑いかけた。
「やっぱり違ったようです。すいませんでした」
 どっとジェシーは安心した。
 そのままルークは友人にも軽く礼を言って、駐車場を出て行ってしまった。
「ほっとしたような、残念なような」
と友人が言った。
「ほんとにいい男に弱いよね」
 思わずジェシーがそう言うと、冗談めかして友人が答えた。
「あの目で見つめられたら、つい、くらっと」
 ふとジェシーは気づいた。
「ルークさんて、歴史の教科書に載ってたグランバニアの王様に似てない?」
「え?ほんとに?」
 ジェシーはうなずいた。
「グランバニア王ルキウス七世、ってあら名前も同じだわ」
「よく覚えてるね」
「世界史は成績良かったのよ、あたし。それじゃあの人、もしかして末裔なのかしら」
「だとしたらグランバニアの王族じゃないの!」
「まさかぁ!」
 ひとしきり冗談を言い合った後、友人はあらためてキャラメル猫を渡してくれた。
「キャリーはここに置くわね。じゃ、姪っ子ちゃんによろしく」
 譲渡会の会場へ友人が帰っていったあと、ジェシーも出発することにした。
「キャラメルちゃん、先にキャリーへ入ってくれるかな?」
 どこかで聞きなれない音がした。
 最初、鳥の鳴き声だと思った。小鳥ではなく、猛禽のように聞こえた。だが、こんな町中にそんな鳥はいないと思い直した。
「ふぃぃぃぃぃ、きぃぃぃぃ」
とその音は聞こえた。
 突然キャラメルが、ジェシーの腕の中で身をよじらせた。
「ちょっと、おとなしくして」
 抱え直そうとしたとき、キャラメルは機敏に飛び出した。
「こらっ」
 野生動物そのものの勢いでキャラメルが駐車場の外へ走り出た。
 冗談ではない、姪の注文でやっと見つけた猫なのだ。ジェシーはとっさにキャリーを拾い上げて後を追った。
「うわっ」
 誰かが叫んだ。
「すいません!」
 通りへいきなり飛び出したあげく、誰かにぶつかりかけた。
「俺は大丈夫。お嬢さんは?」
 男の声だった。ジェシーは顔を上げた。
 青いダブルの上着、白シャツの襟を広げ中にアスコットスカーフを巻いた男が歩道の植え込みに片足をつっこんだまま、そこにいた。
「すいません、猫を見ませんでしたか?」
「あれですか?」
 すぐそばの植え込みに、きゃしゃな子猫のシルエットが見えた。
「ああ、よかった」
 じゃ、これで、という声を背中に聞きながら、ジェシーは猫に近寄った。
「……あんた、誰」
 毛皮の色は金茶色で似ているが、額の上に先ほどまで絶対になかったM字模様がある。瞳の色はブルーだった。
「にゃあ」
 人なつっこく子猫はすり寄ってきた。ジェシーは途方に暮れた。
「まいったわ、猫違いなんて」
 どこかにキャラメル猫がいないか、とジェシーはきょろきょろした。
 どきりとしてジェシーは立ち止まった。
 大通りの反対側、一ブロック先を歩いていく男。グレーのスーツの背に黒髪。男はちらりとこちらを見て、足を早めた。
「あれは、ルーク……」
 ほんの一瞬、ルークの腕のあたりに金色のものがひらめいた。キャラメルのしっぽだ、とジェシーは直感した。
 青目の子猫をキャリーに入れて抱え、ジェシーは早足で歩き出した。
 取られた、と思った。
 どんな方法かしらないが、ルークというやつ、キャラメルをおびき出して連れていった。そして身代わりに別の子猫をあてがった。
「アスコットスカーフの男は、たぶんグルだわ」
 そう独り言を言ってから、どうしてそう思ったのだろう、とジェシーは不思議に思い、それから自分で納得した。
 緑の髪をボブに切りそろえたちょっときざな物腰のあの男。ラインハットのヘンリーに似ているのだ。グランバニア王とラインハットの宰相は、世界史上に名高い名コンビだった。
 グルかどうかはともかく、ルークはキャラメルを連れて車に乗ることはできない。そんなことをしたらキャラメルは大暴れして、最後は吐くと友人は言っていた。
 同じ徒歩ならなんとか追いつけるはず。ジェシーは小走りになった。けっこう差をつめたところで道は交差点になった。
 信号を見てジェシーは勝ちを確信した。ここを渡ればルークに追い付ける。ジェシーは横断歩道に足を踏み入れようとした。
「ちょっと道をお尋ねしたいのですが」
 丸顔の男が斜め後ろに立っていた。
「すいません、急いでるもので」
「そこをなんとか。サンタローズから出てきたのですが、右も左もわかりません」
 背は高くないががっちりした体つきの、丸顔小太りの男だった。まん丸い鼻が顔の真ん中にちょこんと乗っている。古風なスーツに蝶ネクタイ、山高帽、帽子の下からはウェーブのかかった茶色の前髪が見えていた。
「優しげなご婦人をお見掛けしてつい、おすがりしたくなりました。カジノのある広場はどちらでしょうかな?」
 古風な言葉遣いと鼻の下のつつましいひげのせいで、ジェシーは亡くなった祖父を連想した。
「ええと、この通りをまっすぐ行くと右手にカジノが見えます。お城みたいなクラシックな建物です」
 山高帽の男は、くりくりした目を細めて笑った。
「おお、そうですか。行ってみましょう。ありがとうございます、お嬢さん」
 ぺこぺこと頭を下げ、何度もお礼を言って彼は歩いて行った。
 ジェシーはためいきをついた。通りの反対側へ渡ってみたが、ルークの姿は見えなくなっていた。
 キャリーの中から、心細そうな鳴き声がした。
「ごめんね。あきらめる前にもうちょっとだけ探してみるわ」
 大通りのこちら側はオラクルベリーの旧市街だった。中世から港湾都市として発展したオラクルベリーの、中心部だった場所に当たる。現在のオラクルベリーは旧市街の周囲が開発されてできたものだった。
 先ほどの男が向かったカジノこそ旧市街のさらに中心にある、オラクルベリーのシンボルだった。
 旧市街の西側には、迷路のような市街がある。古風な家屋が丁寧に保存され、ここも観光名所になっている。ジェシーが今いる通りをまっすぐ北上すればその迷路地区へたどりつく。ルークという男はそこへ向かったのではないかという気がしていた。
「すいません、こっちのほうに、猫を抱いた男の人が来ませんでしたか?」
 そぞろ歩く女性の二人連れに、ジェシーはそうたずねた。
「ええ、来ましたよ」
 一人があっさり答えた。
 この人たちは観光客かしら、とジェシーは考えた。来たと言ったひとはブルーグリーンのフレアワンピースにオレンジのストールを巻き付け、豊かな金髪を三つ編みにしてサイドへ流した、色白の美人だった。
 もう一人の女性は清楚で上品な紫のスーツ姿で、さらさらした長い髪の髪の間から金の十字架型のイヤリングが見えていた。
 タウン観光というより、いいレストランでディナーを楽しむようなスタイルだった。
「その人、どっちへ行きました?」
 スーツのひとが答えた。
「教会のほうへ歩いていかれました」
「あ、すいません」
 彼女たちは会釈して、行ってしまった。
 ジェシーはキャリーを抱え直して顔を上げた。このあたりは思いがけない行き止まりがあったりして、地元民にすらわかりにくい。
「どこかで道を聞かないと」
 一瞬、違和感があった。
 地元民の自分さえわからないのに、どうしてあの女性たちはその男が教会へ向かったとわかったんだろう。
 もう一度話を聞きたい。ジェシーはあの二人を探してきょろきょろした。
 通りの角に、男の子が二人いた。教会の儀式でもあったのか、小学生くらいの年なのにおしゃれだった。ブラウンのベストと太めのハーフパンツ、白い靴下に黒の革靴がいっちょ前でかわいらしい。一人は緑、一人は紫の蝶ネクタイをしめ、頭部全体を覆うようなキャスケットをかぶっていた。
 目があった瞬間、男の子たちはその場を離れ、通りの奥へ向かった。やはりクラシックなスタイルの女の子が路地から出てきて合流した。白い丸襟と白カフスのついた臙脂色のワンピースが愛らしい少女だった。
 紫の蝶ネクタイの男の子とワンピースの女の子は顔が似ている。双子なのだと思った。
「そんな、まさか」
 世界史は、得意だったのだ。
 キャラメルを連れて行ったのはグランバニアの伝説の王、ルキウス。さきほどの三つ編みの美人は、その妃ビアンカ。そして双子の王子と王女。
 先ほどのアスコットスカーフの男がラインハットのヘンリーなら、もう一人の緑の蝶ネクタイの男の子はその息子コリンズ二世。そして紫のスーツの女性は、大公妃マリア。
 では、山高帽の男は?セヴァンテスのサンチョ、と自動的に答えが出た。
 グランバニアファミリーがほとんど総出で自分を阻止にかかっている。ジェシーは軽くめまいを感じた。
「そんな、まさか」
と、もう一度つぶやいた。どうして、今、この時代に、何百年も前に生きていた人々がうろうろしているのだろうか。
 そんなにあの猫が大事?
「猫じゃないんだ」
 やっとジェシーは悟った。ただの猫なら、伝説の魔物使いが時を越えて執着する理由がない。猫じゃないなら、何?
「……モンスターなんだわ」
 現代にはいなくなってしまった生き物だが、もしそんなものがいるとすれば伝説の王が保護しに来るのも理解できる。
 ジェシーの胸に沸き上がったのは、猛烈な好奇心だった。
 ビアンカマリア組はおそらくジェシーに教会のほうへ行ってほしかったのだろう。それならその逆へ向かえばいい。
 ジェシーはペット用のキャリーを改めて抱えあげて歩き出した。あの子供たちはいつのまにか姿を消していた。
 しばらくは何事も起こらなかった。周囲はジェシーのよく知っているオラクルベリー旧市街の観光地だった。カフェや土産物店、書店、ケーキショップ、アンティークショップ、ブティックなどが、古風な街並みに調和したしつらえで花やグリーンを配し、センスのいい飾りつけで客を誘っている。
 ジェシーはショウウィンドウを眺めるふりをしながら迷路地区を北へ向かって歩き続けた。
 一瞬、ショウウィンドウのガラスにあの子供たちが映った。ジェシーの後ろから見張っているらしかった。
――来る。
 そう思った時だった。誰かが咳払いをした。ガラスには、ジェシーの後ろに制服の男がいるようすが映っていた。上腕にエンブレム、胸ポケットの上に階級章をつけた深緑の上着とそろいのパンツ、同色の制帽というスタイルはオラクルベリー警察の巡査が身につけるものだった。
 ジェシーはグランバニアファミリーのリストをあらためて頭の中に広げた。若い男性でこのスタイルに該当する人物は?
「ピピン?」
 警官がぎくりとして足を止めた。
 ジェシーは振り向いた。
「お巡りさん?ちょうどよかった、あたし、困ってるんですけど」
 ピピンとおぼしき警官は明らかにひるんだが、何とか答えた。
「あ、はい、ボクでよければ」
「ペットを盗まれました。警察署でお話します。被害届を出したいんです!」
 警官は目を泳がせた。
「え、あ~、そのう」
「パトカーはどこ?ないんですかっ?じゃあ、走りましょう。警察署です、け・い・さ・つ!」
 もし彼が数百年前から来たのなら、今のオラクルベリーのどこに警察署があるかなんて、知っているはずがない。案の定、ピピンはきょろきょろし始めた。
「もうっ、犯人が逃げるじゃないですかっ」
 ピピンの視線の先には、さきほどの子供たちがいた。三人ともこっちを見るなという手つきで手を振っているが、ピピンは困り果てているようだった。
「あ~、その~、上官に相談してきます~」
「それじゃ間に合わないわっ」
「お、応援呼んできますからーっ」
 情けない声でそう唱えると、ピピンが逃げ出した。
――ああ、そっちなのね。
 本当はグランバニアの兵士であるピピンの上官は、ルークなのだから。ジェシーは落ち着いてピピンのあとをつけ始めた。

 道は石畳で覆われ、細めの街路は両側にレンガを積んだ壁が築かれている。ほとんど迷路のようなその街を抜けていくと、とあるところに地下へ降りる階段があった。
「ルークさま、ルークさまっ」
 あたりにはばかることなく大声を上げてピピンは階段を駆け下りて行った。
「しっ。ピピン、静かにしてね」
 ビアンカは人差し指を唇にあててそう言った。
「今、鏡を使うところなの」
 ピピンはばつの悪そうな顔になり、制帽を脱いで手に持つと壁際に控えた。
 その場所は、かつて牢獄だった。今は鉄格子を取り払い、四方を石積みの壁に覆われた地下空間となっていた。
「ほんとにこいつなんだな?」
とヘンリーが聞いた。
「大丈夫。今度は自信があるんだ」
「おまえ、この前もその前もそう言ったぞ?」
 言葉に詰まったようすのルークを、横からマリアがフォローした。
「この時代にたくさんいる猫の中から特定の一匹を探すのですもの、ルークさんにだってたいへんなことですわ」
「マリアの言うとおりだな」
 この親分は、あいかわらず好きな子には骨抜きになってしまう。だが、今のオラクルベリーに合わせて装ったラインハット夫妻はいかにもおしどり夫婦で互いにお似合いだった。
「マリア、きれいだよ。この猫が本命だったら、仕事もおしまいだ。あっちへ帰る前にデートしないか?」
 まあ、とかわいらしくマリアがなじった。
「お城でデールさまがお待ちですのに」
「でもさ~」
 ルークがこちらを見て、目を輝かせた。
「ヘンリーたちがデートなら、ぼくまた猫カフェ行きたい。天国みたいなんだ」
「ビアンカ奥様」
とヘンリーが低い声で言った。
「そいつを猫カフェに入らせてはなりません。そいつが猫カフェ入ると、半日は出てきません」
「でも~、みんな仲間になりたそうな顔でぼくんところへ来るんだよ?」
「知ってるさ。フロア中の猫がおまえめがけて殺到して、よじ登ろうとするのを見たからな。いいか、毛玉を仲間にしてどうする!おまえと七匹の猫でパーティ組む気か!?」
「ちょっとぐらいなら」
 ヘンリーは足を開いて立ち、腕を組んでにらんでいる。語調も厳しくなってきた。
「いいや、ダメだ。そもそも俺たちをこのオラクルベリーへ連れて来たのはおまえだぞ。それなのに肝心の仕事を放り出して猫カフェのハシゴたぁどういう了見だっ」
 ルークは粘った。
「それもすべて探索のため」
「だまされないぞ。あっちこっちの店になじみを作ってせっせと貢ぎまくったくせに」
「なんでヘンリーが知ってるの!」
 ふっと小鼻から息を吐き、どや顔で親分はのたまった。
「長年の親分に隠しごとができると思うなよ?」
 ルークの肩を、ぽんとビアンカはたたいた。
「あちこちの店のなじみに貢いだって、猫用のおやつのことよね?」
「あ、うん、もちろん」
 そう、と言ってビアンカは笑顔を作った。
「それなら私はかまわないわ。でも、あっちでプックルにただいまを言うときは、いろいろ覚悟した方がいいわよ?」
「わかっちゃうかな、プックルには」
「そりゃ、他の猫の匂いをたっぷりつけて帰るんだもの」
 しまった、と言う顔でルークは絶句した。
 ぱんぱんとヘンリーが手をたたいた。
「とにかく、ラーの鏡でそいつが元に戻るか見よう。この猫じゃなかったら、最初からやり直しだ」
 壁際にいたサンチョが、ふ~と息を吐いた。
「やり直しは勘弁していただきたいです。そろそろお城が心配なんですがね」
 子供たちがサンチョを囲んで慰め始めた。
「きっとこれが当たりよ、サンチョさん」
「みんなで一緒に帰ろうよ」
 ヘンリーは床を指した。地下室の中央には、チョークで描かれた魔法陣があった。
「そういうわけだ。とにかくやってみようぜ」
 ヘンリーに向かって、うん、とうなずいてみせてから、腕に抱いた金茶色の子猫にルークは話しかけた。
「さあ、元の姿に戻してあげるからね」
 みぃ、と心細そうに子猫は鳴いた。
 ルークは魔法陣の中央に進み出て、子猫をそっとおろした。大きな手で猫の胴を抱え、正面を向かせた。
 ルークが猫の目の前に差し出したものがあった。周辺に八つの魔石を配置した円形の大きな鏡だった。
「ラーの鏡よ、真の姿を映し出せ」
 ルークの求めに応じ、鏡はよみがえった。鈍かった鏡面に光が生まれ、みるみるうちにみなぎり、ついに白熱した輝きを放った。
 ビアンカはとっさに顔をそむけた。子供たちがうめくのが聞こえたが、その場の者たちはなんとかラーの鏡の光を避けた。
 真正面にいる子猫だけがその光をまともに浴びた。
 最初、暴れようとした子猫は、しだいにおとなしくなった。いかにも猫の鳴き声だったものが、いつしか言葉になっていく。
「……あ、ボク、なんで」
 ビアンカは用心しながら視線を戻した。
 それは人間の子供くらいの大きさへふくらんでいき、やがて二本足を踏まえて立ち上がった。
 体が昆虫のように節でできていて、そのひとつひとつが金茶色だった。頭は体に比して大きく、頭の両側に動物のように湾曲した角が二本左右に向かって生えていた。まるでコガネムシが後ろ足で立ち上がったように見える。が、その目は黒い点に見えるほど小さくまん丸で、どこかあどけない表情だった。
「おかえり、ターク」
 そう言ってルークは微笑んだ。
「ぼくのことを、覚えてるかい?」
 タークと呼ばれたモンスターは、無邪気なようすで首を傾げた。
「ボク……よくわかんない。誰だっけ」
 子供のような甲高い声だった。
「僕の名はルーク。君は、魔界で『地獄の帝王』と呼ばれたエスタークの子供なんだ。ぼくは魔界で君と出会った。そして、魔王ピサロが君を預かって養育してくれた」
「ぴさろ、のことは、少し覚えてる。でも、えすたーく……わからない」
 ルークはためいきをついた。
「君たち親子は、そういうとこあるよねえ。ピサロが言うには、変身呪文モシャスの練習中に君は魔法的な事故に巻き込まれて、この町へ流されてしまった。ぼくらは魔王の依頼で君を連れ戻しに来たんだ」
 内ポケットからスマホを出して確認し、ルークはひとつうなずいた。
「ピサロが迎えに来たみたい。向こうへ帰ろうね」
 そっか、とタークはつぶやいた。
「じゃあ、帰る」
 ルークは手を伸ばして、タークの角と角の間を撫でた。
「いい子だね」
 ルークは片手を差し出した。タークはおずおずとルークの手を握った。
 ビアンカはようやくほっとした。
「そのまま外に出ると、タークはちょっと目立つわ。これ着せてくれる?」
 用意していた子供用のレインポンチョを手渡した。
「じゃあ、ぼくたちにまざって」
 双子とコリンズがレインポンチョを着てフードをかぶったモンスターの周りについた。
 ふいにヘンリーが、牢獄の入り口にある階段へ視線を向けた。
「そこのお嬢さん、そういうわけで、俺たちは帰るよ。お邪魔して悪かった」
 こっそり見ていたジェシーはその場で固まった。グランバニアファミリーの眼が集中しているのを感じて、猫用のキャリーを抱えたまま一歩前に出た。
「あ、あたし、あの」
 にこ、とルークが微笑んだ。
「ジェシーさん、ペットの猫を取っちゃってごめんなさい。代わりと言ってはなんだけど、姪ごさんにその子をかわいがってとお伝えください」
 はっとしてジェシーはキャリーを抱え込んだ。
「この子猫も、もしかして、あの」
「その子はこっちのオラクルベリーの猫だよ」
 まだ高い声で少年勇者が言った。
「貰い手のなかった子です。幸せにしてあげて」
 その妹姫が言い添えた。
「それじゃあ、ここで」
 そう言って、ファミリーが階段へ向かってきた。
「待って!」
 何を言っていいかわからない。ジェシーはとっさに問いかけた。
「もう、来ないんですかっ?!」
 ヘンリーが、にやっとした。
「きっと来るんじゃないかな」
 予想外の言葉にジェシーは固まった。
 ふわりといい香りがたった。マリアとビアンカが、ジェシーの脇を通って階段へ向かった。
「先ほどは、嘘を教えてごめんなさいね」
 マリアが片手を口元に添えてそう言った。
「またすれ違うかもしれないわね?」
 ビアンカがそう言って微笑んだ。
 三人の子供たちとモンスターがあとにつづいた。
「ずっとここに住んでるんでしょ?またいつかね」
「俺、プラモショップ気に入ったんだ。また来るよ」
「今度はもっとお話しできるといいなって思います」
 敬礼しながらピピンが通り過ぎた。
「ボクは、あとをつけられたんですね。すっかりやられました」
 そう言ってにっと笑った。
「機転の利く賢い美人て、タイプなんですよ。今度会ったらよろしく」
 サンチョは山高帽のふちをちょっと持ち上げて笑った。
「優しいお嬢さん、また会うまでお元気で」
 彼らが狭い階段を昇って行ってしまうと、ルークが近づいてきた。ぽうっとしてジェシーは彼に見とれた。あの、とルークが言った。
「あなたがジェシーで、姪ごさんがキャシーなら、サマンサさんもいませんか?」
 ジェシーはめんくらった。
「サマンサは姉ですけど」
 ルークは無邪気な笑顔になった。
「やっぱり。えんぷ」
 横からヘンリーが口をふさいだ。
「エンプーサなわけないだろう。口を慎め」
 引きずるようにヘンリーが相棒を連れ出した。まって、ヘンリー、待って、とルークが騒いだ。
「ぼくたちは、あなたのそばにいます。三十年前から、ずっと。三十年後も、きっと。またいつか、きっと会える……」
 ルークの声は遠くの方で響いて、やがて消えた。
 牢獄だった地下室の階段の一番下の段にジェシーは座り込んだ。頭がくらくらしていた。
 キャリーの中の子猫が、にゃあ?と鳴いた。
「誰に言っても信じてくれないわよね」
 ジェシーは両手で自分の体を抱きしめた。ほんのりと幸せな気持ちがわきあがってきた。