大穴30倍 7.ルークのワンダー・ランド

 サイクスは怒りで震える手で自分の服の膝をつかんだ。隣で、セルジオが席を立ったのが見えた。
「わからないものですな、勝負とは」
口元に、サイクスの嫌いな気取った微笑が浮かんでいた。
「さて、今夜は儲けさせていただいた。大穴三十倍とはね」
「セルジオ殿には、かないませんなぁ」
なんとかそう返事をして、サイクスも立ち上がった。ずかずかとレース係のほうへ歩いていく。浮かれて興奮気味の周囲に悟られないように、声を潜めてサイクスは言い渡した。
「おい、あの青スライム、処分しろ」

 支配人は、ふるえる足で支配人室へもどった。主人の怒りが恐ろしい。赤スライムの実力を信じていたのに。
「グールドさん」
誰かが呼んだ。
「なんだ?あとにしてくれ。忙しいんだ」
そのとき、目の前に何かが突き出された。
「お?」
カジノ用のコインの入った袋だった。
「こいつで、青いスライムを売ってくれない?」
グールドは、目をぱちぱちして、そのずうずうしい相手の顔を見た。
「おまえは」
それは、その日の昼に辞職したウェイターたちだった。
「おっと、今はお客様だぜ?あの青いスライムが欲しいな。売ってくれよ」
「何をぬかす」
支配人は鼻で笑った。
「たしかにカジノはコインで動いているが、本当の金じゃない。そんなことはわかっているだろう」
「百も承知」
ヘンリーは、コインの入った袋をゆすって見せた。
「おれたち、紳士的に頼みに来たんだぜ?べつにあんたが昨日赤スライムに食わせた“特別料理”のことを吹聴しにきたんじゃない」
グールドはぎくっとした。
「何が言いたい」
ヘンリーはにや、と笑った。
「おれが言いたいのは、大穴のことさ。青は強い。マジで強い。しかも、ここにいるルークの言うことをきく。今おれが持っているコインは30枚だ。それを全部、青に賭けたら、またバカ勝ちしてくれるはずだ」
「倍率は、下げる!」
「勝手にしな。下がったら、このあいだみたいに走らせないだけだ。で、これぞ、というレースのときに、ごっそり巻き上げてやる。30倍の、30倍の、そのまた30倍はいくらになると思う?」
グールドは口もきけなかった。破滅の予感が、足元から確実にはいあがってくる。
「おいおい、天下の支配人様が震えるなよ、みっともねえな。客の言いなりになるレーススライムがいちゃ、困るだろ?だから引き取ってやろうと言ってんだ。この、コイン30枚とひきかえにな」
グールドは、自分の口を、ぱくぱく開いたり閉じたりすることしかできなかった。 もう一人の元ウェイター、ルークが言った。
「ごめんなさい。ぼくはあの子が、青が好きなんです。本当は売ってください、なんて言いたくない。でも、コインと交換してくれるなら……」
そのすがるような目にあったとき、グールドは、自分が勝てないのを悟った。
「わかった。連れて行きなさい」
ルークの顔が輝いた。
「はいっ。どうもありがとうっ」

 バニーガールが一人、フリルのついた白いエプロンをつけて、地下へ降りてきた。
「おはようございま~す。長いことお休みしてて、ごめんなさいね」
レース係の助手は、曇りがちな顔を上げて、ほっとしたように笑った。
「おかえり。ここんとこ、たいへんだったんだよ、もう」
「ダービーがあったんですって?お世話したかったなぁ」
「スライム世話係の鑑だね。そうだ」
助手は、ちょっと声をひそめた。
「復帰の初仕事がこんなんで悪いんだけど、処分のスライムが一匹いるんだよ」
「ええ?どの子?」
「青」
「だって!勝ったのに」
「サイクスさんの命令なんだ。赤に賭けてたんだって。青は、ごほうびの霜降り肉ももらえずに、お払い箱さ」
「主人の気まぐれというわけね?もう、かわいそうに。青ちゃんはがんばっただけなのにね。いいわ。ひきとるから。今夜はちょうどいいわ」
そう言って彼女は後ろを向いた。
「いっしょに来てるの。ひさしぶりに、モンスター格闘場のようすを見たいんですって」
「先生がいっしょか。じゃ、頼むよ。すぐ連れてくる」

 レース係の助手は、空っぽの檻の扉を開け、逆さにしてゴミを出していた。思わずためいきがこぼれた。あのウェイターたちが青スライムにかかわってきて以来、青はすばらしいレーススライムになっていた。
「いつか、おまえが、もう一度ここで走る、なんてことはないかな」
そうつぶやいたときだった。入り口の扉が開いた。
「青いスライムは、こっちへ戻ってますか?」
黒髪の元ウェイター、ルークだった。
「いや、え、聞いてないの?」
「何を?ぼくたち、グールドさんから、青をもらえることになったんです」
ルークはうれしそうだった。目がきらきらしている。
「あのグールドさんが?本当か?」
「おれが説得したんだ」
ヘンリーが横から言った。
「それなのに、上には見当たらない。こっちでご褒美の肉を食ってるのかと思ったんだけど、あいつ、どこだ?」
「サイクスさんの命令で、青は処分になったんだ」
「処分?そんな」
「もうちょっとあんたたちが早かったら……」
ヘンリーがずい、と前に出た。
「入れ違いなら、まだ間に合うかもしれないな。誰に渡した?どこにいる?」
助手は扉へ駆け寄って大きく開いた。
「この廊下をまっすぐ行くと、地下出入り口がある。青は、エプロンつけたバニーに渡した!」
「行こう、ルーク」
「ああ!」

 バニーガールは振り向いた。
「待って、待ってください!」
 地下出入り口は、カジノに出演するモンスターの専用通路だった。めったに自分以外の人間は通らない。その道を、走ってくる人影があった。
「あの、青いスライムは」
黒い髪を背中で一つに結んだ若者だった。その後ろから、緑の髪の若者が走ってくる。
「はい?」
「グールドさんから、許可をもらったんです。処分、待ってください。あの子は」
「スライムを引き取るって言うの?あなたたちが?どうして?」
緑の髪の若者が答えた。
「かわいいんだってさ」
はあ、はあ、と息を継いだ。
「いっしょに旅に連れて行きたいそうだ。変わったやつの変わった頼みだが、頼むよ、バニーのお姉さん」
「あたし、イナッツって言います。たしかに変わってるけど」
黒髪の若者は、不思議な目でイナッツを見つめた。
「あなた、先生みたいね」
「先生って?」
イナッツは先を歩く老人のほうを向いて呼んだ。
「先生、青ちゃんを引き取りたいって人が来てます」
「なんじゃと?」
前を行く老人が足を止めた。
 老人の服の長い袖が、急に膨らんだ。ぽこぽこ暴れたかと思うと、すぐに中身が飛び出してきた。青い小さなスライムだった。
「ぴきぃ、ぴきぃ!」
スライムは鳴きながらはねていた。“先生”は、両手でスライムをすくい上げて、手のひらに載せた。黒髪の若者が、近寄った。
「その子を処分するようにサイクスさんが言った、と聞きました。でも、もし野性に返すのなら、そのまえにぼくと旅するのを許してもらえませんか?その子はもう、ぼくの仲間なんです」
若者は、時々つっかえながら、一生懸命話し続けた。だが、先生は、話を聞いているようすではなかった。若者の不思議な瞳に見入ったままだった。
 オラクルベリーに知る人ぞ知る、モンスターじいさんと呼ばれる老人の顔を、驚愕の表情がゆっくりと覆っていく。
「あの、“先生”?」
モンスターじいさんのあごが下がって、長い口ひげがだらりと垂れた。逆に真っ白な眉があがり、ふるふると震えた。
「あんた」
「あ、はい」
老人の手の中で、青いスライムがぴょんとはねた。モンスターじいさんは震える手でスライムをおさえた。
「ちょい待ち、スラりんや」
「スラりん、ていうのか。それが、その子の名前ですね?」
老人は答えなかった。再び、若者の目をのぞきこんだ。歯の抜けた口から、興奮を抑えきれないようなため息が長くもれた。
「いやいや……これほどの資質は、見たことがない」
黒髪の若者は、めんくらったようだった。
「ぼくが、なんでしょうか?」
ぐ、と老人はあごをひいた。
「まず、Sクラス※か、それ以上。天性のモンスター使いの目じゃ。系統※の頂点に立つ魔物たち、いや、魔王でさえ、おぬしに心を開くじゃろう」
「系統?魔王!?」
老人は、震える手で自分の額をおさえ、くく、と笑った。そして片手でそっと、若者の額に触れ、きらきら光る眼でルークを見た。
「おぬし、気づいてるか?魔物使いの相が出てるぞ……」
そうしてモンスターじいさんは、スラりんを若者に渡した。若者はあっけに取られていたが、破顔して微笑み、すぐにスライムを指でなでてやった。
「ぴきぃ……」
スラりんはうれしそうにふるえた。
 こうしてこの日、オラクルベリーに、希代のモンスター使いが誕生した。後に“聖獣王”と尊称される、グランバニア国王ルキウス七世である。