大司教降臨 第二話

 オレストが別れていったあと、ユージンは久しぶりに肖像画の回廊へ足を向けた。そこはラインハット城内で昔から国王の謁見を待つ人々の溜まり場になっていた。
 光の教団は、一度は国教に近い地位にあった教えである。なぜ今ごろ息を吹き返したのかは定かではないが、宮廷内でヘンリーに対する陰口がどの程度高まってきているのか、ユージンは気になった。
 先代国王の大きな肖像画の下に親戚筋の婦人を見つけてユージンは近寄って挨拶した。
「まあ、タンズベールの伯爵様。おひさしぶりですこと」
従妹にあたるその婦人は、いつもより冷ややかに言った。この前会ったときは、夫を要職につけてくれるようにヘンリーへ口をきいてくれと泣きついてきたのである。
「お元気そうですね。本日は陛下にお会いになるのですか?」
婦人は含み笑いをした。
「ええ、まあ。主人が、大公殿下の事で聞き捨てならないものを見つけまして、その事で陛下にご報告を、ね」
やはり、とユージンは思った。
 気がつくと、周囲が聞き耳を立てている。逆に、聞こえよがしに言う者もいた。
「若さと強引さは別物ですわ」
「民の声は天の声とか」
「陛下も身びいきがすぎました。お気づきになるとよろしいが」
「陛下が御困りになる前に大公殿下は辞職という道を」
 よく見ると、元老会議でヘンリーにさんざんやっつけられた者も多くまじっていた。ユージンが視線を向けると、ふいと目をそらしてしまう。だが、彼らの一番奥に、ヘンリーの政敵、クレメンス子爵が立っているのをユージンは見つけた。わざと視線を合わせ、にやにやしている。
 クレメンス子爵の横には、ロクサス伯爵が立っていた。ユージンは嫌な気がした。元老会議に参加できるほどロクサス卿は由緒ある家柄ではなかった。だとしたら気位の高いクレメンスは、何のために彼をそばにおいているのだろうか。
 ちょうどそのときだった。従僕が謁見室の扉を開き、若い国王が侍女を従えて出てきた。
 回廊にたむろしていた貴族たちはいっせいに威儀を正し、貴婦人たちはドレスの裾をおさえて腰を屈めた。デールは、ときおり貴族の誰彼に礼儀正しく話しかけながら、回廊を通りすぎていった。
「お待ちくださいませ、陛下」
国王の言葉を待たず、自分から話しかけた者がいた。
「ロクサスの伯爵」
デールは気を悪くした風もなく立ち止まった。
「しばらくお見かけしませんでしたね」
「おそれいります」
 ジュリアス・オブ・ロクサスは、若い頃は粋な青年貴族として有名だったが、今は目を血走らせているようで古典的な二枚目がだいなしだった。
「実はオラクルベリー大公について、聞き捨てならない噂を耳に挟みまして」
軽い諦めを見せてデールは応じた。
「そのうわさなら、朝から十回ほど繰り返して聞いています」
「一度や二度ならばいざ知らず、十回とは」
伯爵は食い下がった。
「大公をお呼びになり、ご指導なさいませ」
「さて、いまのところ私は、大公のすることに一つも文句はありません」
柳に風と受け流す。だてに国王はやっていないと、ユージンはひそかに感嘆した。
「母上様のひそかな御望みをご存知でありましょうや」
 デールは立ち止まった。ロクサス伯爵は、国王デール一世がまだ幼い頃、未亡人となった母アデルの秘密の恋人、と噂されていたのである。
 だが、ユージンは、それは噂だけのことだ、と思っていた。亡くなったエリオス王やその兄弟の大公たちを知っていれば、ロクサス伯爵はしょせん二流、ただのまがいものにしか見えない。
「デール様、ヘンリー様のご兄弟が、むやみと光の教えを目の敵となさるのをやめ、正しき道に進まれる事こそ」
 そのときだった。デールは話しつづける伯爵にくるりと背を向けた。
 宮廷貴族たちの間に驚きの声があがった。それは宮廷人なら考えられないほどの非礼だった。ロクサス伯爵はあっけにとられて口をつぐんだ。クレメンス子爵が青ざめるのを、遠くからユージンは見かけた。
「タンズベールのユージン殿」
突然に呼ばれて、ユージンはびくっとした。デールは何もなかったかのような穏やかな微笑を向けていた。
「ちょうどよかった。お話したいと思っていました」
「光栄でございます」
なんとか宮廷式に答えて、ユージンはデールの傍らを歩き始めた。
「つまらないものを見せましたね」
歩きながらデールは言った。
「はあ。その、大公殿下への非難は多いのでしょうか」
「ここ数日、持ちきりです」
こともなげにデールは答えた。
「叔母は、グレイブルグ大公妃ユリアは、他人の領地を奪うのが好きという困ったお人でしたが、一つだけいい事をなさった」
兄のヘンリーに似た人の悪い笑みをデールは口元に浮かべた。
「叔母のおかげで今この国には、オラクルベリー大公をのぞいて、有力な大貴族がいないのですよ」
ユリア大公妃から没収した広大な領土は二、三の例外を除いて王家の直轄地になっている。
「どれだけ騒ごうとごまめの歯軋りです。財力、兵力ともに取るに足りません。宮廷内のうるさい雀は、私が押さえます。兄には、指一本触れさせません」
ふだんは病気がちで青白いほどのデールの頬に、ひと刷毛の血の色がのぼった。
 大公はご存知なのだろうか、とユージンは思った。国王の座にある弟ぎみは常に宮廷の前に立ちはだかり、全力で大公をかばっている。
「大公殿下が何を御考えになっているのやら、私には見当もつきません。あの怪文書の出所を調べ、根を絶つべきかと存じます」
「でも、兄は動かない。それどころか、行くそうですよ、オラクルベリーへ」
「そんな」
ユージンは絶句した。暴徒と化した狂信者の群れに囲まれて引き裂かれるヘンリーの姿が目に浮かび、ユージンは身を震わせた。
「だいじょうぶ。兄には考えがあるようです。このところ、兄は赤子が何人も誘拐される事件に取り組んでいましてね」
穏やかにデールは微笑んだ。
「以前に読んだ歴史書に、今回のと類似した事件が記録されていました。兄も私も、とても興味を持っているのですよ」
「赤ん坊がさらわれることが、以前にもあったのですか?」
「ラインハットではありませんけどね。バトランド、という国のでき事です」

 「オラクルベリーに過ぎたるものは」、とは、昔からあるざれ歌である。その続きは、時代によって変わる。
「オラクルベリーに過ぎたるものは、美女とカジノとセルジオの店」、と長く唄われてきた。が、最近になって新しいバージョンが出た。
「オラクルベリーに過ぎたるものは、快速船と大公妃」、というのである。快速船というのは、オラクルベリー大公自らがグランバニアへ赴いて発注した、長距離航海用の船のことで、先ごろ完成してオラクルベリーへやってきた。実にグランバニア~ラインハット間を、三十日というスピードで結ぶ。
 そして大公妃とは、優しく慈悲深いマリア大公妃に他ならなかった。
 質素な衣服を身にまとい、修道院の尼僧たちを率いてオラクルベリーの街中へ出向き、、孤児を、年寄りを、行き倒れを救う。
 最近は豪商セルジオの次女、才媛の誉れ高いリルシィが秘書としてマリアに付くようになり、マリアはオラクルベリーの行政にも参加するようになった。本来この町が持つ明るさ、自由さにくわえて、ラインハットよりもオラクルベリーのほうが暮しやすい、と感じる住民が多くなった。
 オラクルベリーの至宝とも、太陽とも言われ、マリアは特にこの町では、アイドルの扱いだった。
 一児の母とは思えない清艶な容姿も、人気の原因だった。
「このあいだのお祭りはよかったなあ」
 オラクルベリーの下町で、若い者が寄ると触るとその話をする。
「早く来年の仮面祭が来ないかなあ」
「気の早い野郎だぜ。おまえ、何の仮面にすんだ?」
「えへへへぇ、マリア様が猫だったから、おれ来年は猫にするかな、と思って」
「なんだ、おまえもか。モナーラ商会じゃ、今から猫の仮面を大量生産だとよ」
 額から鼻の上まで、顔の上半分を覆う仮面をつけるのがオラクルベリーの仮面祭だった。白い猫の仮面をかぶったマリア大公妃は、祭りの夜には広場へ現れて、慣わしどおり町の誰彼となく手を取って踊りに興じた。
 仮面をはずして踊る最後のダンスの時は、夫の大公のそばに少女のような姿を見せ、オラクルベリーの住人に、なるほど似合いの一対と感嘆させた。
「このごろ港に変なやつらが増えたな」
ひとしきり噂したあと、若い衆の一人が言いだした。
「ああ、あれだろう?光の教団てやつ。すっかりしおたれてたのにな」
「うちの二階にも、どっと来てるよ」
と宿屋の若旦那が言った。
「ラインハット中から、なんとかいう人のお迎えをするために集まってくるらしい」
「あいつら、しんきくさくてさ」
「すぐ世界が滅ぶって言うんだろ?」
「どうせ滅ぶならおれは楽しいことしてからがいいな」
「あ~あ、おまえら、救われねえぞ」
 その場は笑い話だったが、樫の月が近づくにつれて、オラクルベリーの町は太陽と門の印をつけた信者であふれかえるようになった。
 しゃれにならないほど多い。うっかり教団を冗談の種にしようものなら、信者からまなじりを決して詰め寄られるのを覚悟しなくてはならなかった。

 ショーンはオラクルベリーの細工師の娘で、最近大公邸で勤めを始めたところだった。
「たしか、ご兄弟が多かったわね?」
「はい、リルシィお嬢様」
大公妃の秘書、リルシィは、父の細工物を高く評価してくれる大商人セルジオの娘であり、ショーンは子どもの頃から知っていた。
「お嬢様じゃないわよ。リルシィさん、ぐらいにしてね。小さな子の世話は慣れているの?」
「弟、妹あわせて五人は面倒見ました」
「よかったわ。今日からショーンはコリンズ様付きよ。目が離せないのよ、うちの若様は」
「あら、だって。今、おいくつでしたっけ?」
「一歳半よ。でも、わたし、若様がよちよち歩き出してから、真剣に鈴をつけたらどうかと思ってるの……あっ」
リルシィは子ども部屋の扉を開けたところだった。無人だった。
「さては、隠れたわね」
つかつかと窓際に歩み寄ると、カーテンをいきなりめくった。小さな赤ん坊が、ぺたんとすわっていた。
「コリンズ様、めっ」
 幼いコリンズはぷっとほほをふくらませ、赤子ながら濃い眉を寄せて、めっ、という表情をし返した。
「ちびのくせに、えっらそうに!」
 ショーンはつぶやいた。ショーンの豊富な育児経験から照らしても、こいつはけっこうなやんちゃ坊主だった。しかも全身で、おまえの言うことなんかきかないぞ、という態度を表現していた。
 ショーンは腕まくりしたい気分だった。相手にとって不足のないワルガキである。そのとき、大公邸の召使がやってきた。
「ヘンリー様がお帰りになって、コリンズはどうしている、とうるさくお聞きになりますので」
そのうしろから、そのヘンリーが顔を出した。
「コリンズ~」
赤ん坊はやおら立ち上がった。
「おやぶ~」
ひどくうれしそうに、てちてちとコリンズは歩いて父親へ寄っていき、当然の権利とばかり、抱き上げてもらった。
「おやぶ~じゃないぞ、“親分”だ」
「おやぶ~」
ショーンは思わず、リルシィの顔を見た。あきれたような顔つきだった。ため息をついてリルシィが言った。
「ふつう、館の主は、子ども部屋などへは足を運ばないものですが」
「そうだけどさ。こいつ、おもしろいんだぞ?」
「はいはい。お連れになってけっこうですから、せめて若様付きの侍女にコリンズ様をお渡しください。ショーンと言って、信頼のおける娘です」
「そうか、息子を頼むよ、ショーン」
あわててショーンは、コリンズを抱きとった。
「まだコリンズはお昼寝をしないだろ?いっしょに来てくれ」
 というわけで、ショーンは、逃れようと暴れるコリンズ様をしっかりと抱いて、大公邸の客間へ入っていったのだった。
 なかでは、セルジオ商会の主がマリアと話をしていた。
「水晶の日まで、あと何日もありません。殿下は何を御考えになっておられるのですか?わたしどもはいつでも信者という信者をこの町から追い出してご覧に入れますよ」
「ご心配をいただき、ありがとうございます」
マリアは優しく言った。
「オラクルベリー商人組合のみなさんが後ろ盾になってくださると思うと、心強いですわ」
「それではお許しを得て」
いえ、とマリアは真剣な口調で言った。
「それはなさらないでください。私もヘンリーも、戦いを始めようと思っています」
そのとき、弾むような声が聞こえた。
「そうさ。おれのマリアは無敵だって知ってるか、セルジオ?」
笑いながら言うと、ヘンリーは座っているマリアの上にかがみこんだ。
 大公夫妻は仲がよく、独身には目の毒に近い。ほとんどいちゃいちゃとマリアとたわむれているヘンリーの背中にむかって、セルジオは咳払いをした。
「オラクルベリーで何をしておられるのですか?水晶の日が近いというのに」
「だから帰ってきたのさ。ボアレイズの出迎えにね」
「バカな事を」
セルジオは眉をひそめた。
「宮廷は国王陛下が押さえ、軍は忠実なオレスト殿が握っている。ラインハットの経済界は、はばかりながらこのセルジオが束ねております。殿下の権力は小揺るぎもいたしません。何を好んで狂信者につきあおうとなさいます」
「ボアレイズに会いたいんだよ」
 にこっと笑ってヘンリーはショーンの手からコリンズを受け取り、腹をくすぐってあやした。きゃっ、きゃっと声をあげて、コリンズは喜んだ。
「中途半端な敵は作らないのが鉄則ですぞ」
セルジオは真顔で言った。
「完全に取り込む事ができなければ、叩き潰すのみです」
「セルジオ家の家訓か、そりゃ」
セルジオはためいきをついた。
「では、水晶の日には、ボアレイズに適当な範囲での布教を御許しになるのですな?」
「いや、逆だ。あいつに思い知らせてやりたいんだ。どうして教団を絶対に許さないかをね」
ヘンリーはそっとマリアの肩に手を回した。
「ならばボアレイズの上陸を御許しにならず、信者たちを強制的に解散させるべきです」
「いいや、ボアレイズが上陸してきたところで話を聞き出したい。なぜ今、よりによって、あいつがまたラインハットを狙ってきたと思う?」
セルジオは言葉に詰まった。
「あなた」
マリアが優しくたしなめた。ヘンリーはにっと笑った。
「あまり年寄りを困らせるものじゃないな。水晶の日には、セルジオにも手伝ってもらおうか」