大司教降臨 第一話

 “赤子の手をひねる“とは、よく言った。
 ラインハット城内にある宰相の執務室でオレストはそう思った。
 つい先ほど元老会議が終わったばかりである。ラインハット貴族たちが既得権を主張するための会議だったのだが、ふたを開けてみると代表者たちはヘンリー・デール兄弟にまるっきり翻弄されていた。
 特に高齢の貴族たちは名誉に目がなく、実体のない地位や役職に目がくらんでしまう。
 若い世代を代表していたクレメンス子爵が歯軋りしてくやしがるのをしりめに、王国の実権はまんまと国王へ集中してしまった。笑いをかみ殺してオレストが会議室を出ようとするとき、ヘンリーがオレストを執務室へ誘ったのだった。
 前の宰相ゴーネンが使っていたころより、執務室は多少内装が地味になっている。窓際に立つと、湖から水をひいて城外にめぐらせた濠がよく見えた。
「気になることがあるから、少し時間をくれないか?」
とヘンリーは言ったが、今彼を悩ませているのが何なのか、オレストにはよくわからなかった。
 元老会議はヘンリーの圧勝だった。また、ヘンリーが宰相に就任して以来、国内も安定してきた。農相によれば、ゴーネン宰相のころには廃村の数は増えつづけていたが、ようやく増加がとまり、減少傾向に転じている。
 人口は安定して増え、官僚も兵士も、農夫も職人も商人も、優秀な若手が育ってきていた。
 オレストにとっては、元老会議の手から軍を完全にとりあげた今、国内各都市を結ぶ街道に軍を計画的に送って人々が安心して行き来できるようにすることが大事な仕事になっていた。
 ぱさりと音を立ててヘンリーが報告書を机に置いた。
「座ってくれ、オレスト。この報告はおまえの部下が書いたものだな?」
オレストは報告に目を向けた。エイブの署名があった。
「その通りです。私も読みました」
「エイブはカンがいい」
ヘンリーは人差し指で報告書をたたいた。
「ばらばらの地域で起こった誘拐事件に目をつけて、関連を指摘している」
「関連?一歳児がさらわれた事ですか?」
「決まって、男児。それも一定以上の月齢の赤ん坊しか狙われていない。エイブの報告をよく見ろ。ディントンで起きた事件の犯人は、赤ん坊の母親に子供の誕生日を確認している」
オレストは眉をひそめた。
「特定の時期に生まれた男児が危ないという事ですか?」
「ああ。ディントン事件で誘拐されそうになった男の子は、月齢より体格が大きい赤ん坊だったそうだ。犯人は誕生年月日を確認したあげく、こう言っている。『まちがった、この子じゃない』」
「それで、誘拐されなかった」
「そうだ。手当たり次第ではない。誰か特別な男の子を探しているとしか思えない。しかも」
ヘンリーは言葉を捜しているようだった。
「ある事件の犯人グループの首領は、片腕がないとも報告されている」
「それが何か」
「おれとルークがラインハットへ戻ってきたとき、光の教団の尊師と名乗る男に出会った。そいつの片腕をふっ飛ばしたのはルークだ。血が青紫だったよ」
 オレストは思わず腰を浮かせた。
「モンスターがラインハットの都市の中で好き勝手をしていると言うのですか」
「落ち着け、オレスト。おまえが町の安全にどれだけ苦労しているか、おれはよく知っている。だが、モンスターも光の教団の仮面をかぶれば町へもぐりこむ事ができる」
オレストは再び腰を下ろした。
「市街の警備にも気を配るように、部下たちに厳しく言っておきます」
ヘンリーはなだめるようなしぐさでオレストの憤りをおさえた。
「光の教団はなぜ人間の赤ん坊を欲しがると思う?誰でもいいわけではない、特別の赤ん坊だ」
「赤ん坊ですからな。いけにえでしょうか」
「いい線かもしれないな。何らかの理由で特殊ないけにえが必要という状況。うん、デールに相談してみるか。オレスト、いま、教団はどうなっている?」
「おとなしいもんです」
とオレストは答えた。
 光の教団に深く帰依していたアデル太后は、実は偽者で、化け物だった。正体を暴いた直後に、光の教団の指導者と信者は全員ラーの鏡の審判を受けるよう宰相が命令を下した。
 そのとたん指導者の多くが国外へ逃亡してしまい、信者も今は散り散りとなっている。
「そのうち動きがあるような気がする」
「かしこまりました。警戒を強めておきましょう」
「おれも心当たりに手紙でも書いておくかな」
ヘンリーがそう言ったとき、ジュストが執務室へ入ってきた。なれた手つきでコーヒーを入れてくれた。カップを受け取ってヘンリーは言った。
「ありがとう」
 ジュストがヘンリーの従僕を務めるようになってから二年が経つ。もう二十四になり、世間並に言えば嫁をもらってもおかしくない年だった。
 ジュストはオレストの妹のせがれで、かもめ亭という宿屋の後継ぎでもある。オレストは妹から何度も、ジュストの嫁のことで相談されていた。
「この間、実家へ帰ったんだよな?かもめ亭の女将はお元気か?」
「おかげさまで」
如才なくジュストは言った。
「実はヘンリー様に、ご相談したい事があるのですが」
「おまえ、嫁をもらう気になったか」
思わずオレストが言うと、ジュストは首を振った。
「御暇をいただいて、家業の宿屋を継ごうと思います」
おい、とオレストはつぶやいた。
「ついにお袋に泣き落とされたか」
「そんなんじゃありません」
憤然とジュストは言った。
「実は、このコーヒーにはまったんです」
「なんだと?」
「コーヒーを出す店を、カフェをやりたいと思います。かもめ亭を改造すれば一階に店を出せます」
「そう言えば、オラクルベリーには、あるな」
とヘンリーが言った。
「抜け目のないサイクスが出したんだ。コーヒーより習慣性の強いものは売るなと釘をさしておいたが、けっこう客が入ってるぞ」
ジュストの顔が上気した。
「御供をしてオラクルベリーへ行ったときに、実はサイクスのカフェを見ました。おれならもっといい店にしてみせます」
ヘンリーは微笑んだ。
「がんばれよ、ジュスト。有能な従僕に辞められるのは痛いが、これでかもめ亭の女将から、跡取を取られたと恨まれなくて済む」
「私からもお詫びいたします、ヘンリー様」
オレストは仕方なく言った。
「ゆくゆくは私の後を継がせようと思っていたのですが、残念です」
ジュストは妙な目つきでオレストを見た。
「伯父さんも結婚して、後継ぎを育てればいいじゃないですか?」
「だまんなさい」
「おれにも不思議なんだけど、どうしてオレストが城内の独身会の長老なんだ?そろそろ、おまえを連れて、義母上のところへごきげんうかがいに行くころあいか」
「大公殿下まで。私の勝手でございます!」

 一つの前兆もなく、それはとうとつに始まった。家の戸口の下に、店の鎧戸の中に、通りの道端に、それは置かれていた。
 八方へ光輝を突き出した太陽のなかに門を描いた印がついている。忘れもしない、光の教団の記章だった。
 バートンは人のいないことを確かめてから、記章を上部に飾ったその羊皮紙をさっとひったくって手の中に隠した。なんとなく、見られてはいけない物だという気がした。
 親方の家の二階にある自分の部屋へ羊皮紙を持ち帰って、バートンはそっと広げてみた。階下からは、バートンの雇い主で師匠の鉄細工師が、口うるさい おかみさんに小言を浴びせられているのが聞こえた。
「おまえさんは弟子に甘すぎんだよっ。バートンが頭痛?細工師の弟子ってのはねぇ、腕が折れたって仕事場を休んじゃだめなんだ。あの怠けもん、どうしたってものにならないよっ!」
 のっそりとした態度はともかく、親方の腕前だけはバートンも尊敬しているのだが、このおかみさんには最近、ほとほとうんざりしている。バートンは肩をすくめて、拾ってきた羊皮紙を広げた。
 光の教えを今なお信じる者たちよ、という呼びかけでその檄文は始まっていた。
 大司教ボアレイズの不在の間に光の教えが衰微したのは、来るべき光の国が下した法難であること、法難をくぐりぬけ、光へ至る道を歩みたい者は、今こそ立たなくてはならないこと、今を逃した者には、恐るべき災厄が振りかかること、などをその文章は説いていた。
「樫の月、水晶の日、大司教ボアレイズ様がオラクルベリーへ上陸し、すべての法難の源である大公ヘンリーを折伏される。今こそ大司教を御迎えして、その御導きのもと、光の道を歩め」
バートンは身を震わせた。
 二年前、バートンは世間のあまりのひどさに義憤を覚え、光の教団に入団し、仲間とともに活動した。しかしそれも、緑の髪の若者が現れて、バートンの信じてきたものがすべてまやかしだったと証明してみせるまでのことだった。そしてそれが、今の王国宰相、オラクルベリー大公ヘンリーである。
「どうすりゃいい」
そうつぶやいて立ち上がると、バートンはおかみさんの目を盗んで親方のところを抜け出した。かつての信者仲間、ポルトが、ラインハットの店のひとつで働いているのをバートンは知っていた。店の裏へまわると、ポルトは、ふうふう言いながら樽を転がして運んでいるところだった。
「これ、知ってるか?」
ポルトは足をとめ、チラッと見ただけで、言った。
「ぼくも見たよ、それ」
「どう思う?」
「どうって」
ポルトは渋い顔になった。
「あのころぼくが教団についていったのは、生まれ故郷の村がユリア大公妃のためにひどい状態だったからだよ。でも結局尊師はユリアの手先だったし、光の教団がなくなった今のほうが、村はよくなったんだ。悪いけど、もうボアレイズ様は信じられない」
ポルトの生まれた村では、厳しい年貢取立てのために一度逃げ出した村人が今は帰ってきて、のどかに落ち着いている事をバートンは聞いていた。
「この国がよくなったのはヘンリー様のおかげだよ。ジュストもそう言ってたよ」
「そりゃ、ジュストは言うさ」
バートンはむかっとした。
「ジュストは将軍になった伯父さんのコネですごい出世だろ?悪く言うわけないさ」
「バートン、ひどいよ、その言い方」
バートンはがっかりした。ポルトもジュストも冷たいのだとバートンは思う。
「おまえはおめでたいよ。ジュストが何をしてくれたんだ?」
バートンの父は当時傭兵に逆らって投獄され、母とバートン兄弟はその日の暮らしにも困るはめになった。親戚も誰も助けてくれなかった。子供ごころにも、ひどい世の中だと思った。
 そしていざ政権が交代してみると、ジュストだけがうまい汁を吸ったような気がする。誰もバートンのことを、ひどい目に会って、一番かわいそうなバートンのことを思い出しもしない。
「もういい、それ返してくれ」
「どうするの?」
「決まってるだろう。オラクルベリーへ行くんだ」
「大司教を迎えに?よしなよ」
店のほうで、ポルト、まだか、と呼ぶ声がした。すみません、今やります、とポルトは大声で答えた。バートンはへっとつぶやいた。
「おれに指図はやめてくれよ、ポルト」
すっかり飼いならされやがって、とバートンは心の中で腹立たしく付け加えた。

 タンズベールの伯爵ユージンの手元には、光の教団の檄文が何通も届いていた。いずれも拾った者が、ヘンリーが名指しで非難されているのを見て、驚いて相談しに持ってきたものである。
 ユージン自身もどうしていいかわからずに、オレスト将軍に見せた。オレストは興味深そうに檄文を読み、ふんふんとうなずき、貸して欲しいと言った。
「どうぞお持ちになってください。たくさんあるのですよ」
常日頃からヘンリーびいきのオレストが、読むなり破り捨てたりしなかったのが、ユージンには意外なほどだった。
「一枚でけっこうですよ。大公殿下にお見せして、予想があたりましたと申しあげるだけなので」
「殿下は予測していらしたのですか?」
「の、ようですな」
オレストは我がことのように誇らしげに答えた。
「それにしては、殿下は何もおっしゃいませんね」
「まことに。こちらがはらはらします。まあ、いつものことですから」
オレストはヘンリーのやることには慣れているようすだった。
「実は宮廷内にも出まわっているようです。鬼の首を取ったかのように喜ぶ者がいまして」
オレストは苦笑いした。
「もともと宮廷は光の教団の信者が多かったですし、大公は前から評判が悪いですからね」
宮廷族のお気に入りのゲーム、派閥間の綱引きに参加しない人間は、彼らから忌み嫌われる。庶民の娘とさっさと結婚するなど、彼らには許し難いのだ。ユージンは首を振った。
「情けないですよ」
珍しくオレストが微笑した。
「伯爵の周りの人は、うまいことを言っていますよ。伯爵家の世間知らずの若君であられた頃より、苦労された分だけ人を見る目がおできになった、と」
ユージンは赤面した。
「貧乏貴族でしたので、やりくりには多少自信がありますが、このような問題は手に余りますね」