見習い修道女

 夜が退いて朝に代わるとき、その日一番の寒さが訪れる。子供のころ兄が教えてくれたことをマリアは久々に思い出した。
 息が白い。だが見習修道女に許されるのは、大きな袋のような服と頭巾だけだった。
 マリアは外へ出て、井戸から瓶に水をくみ上げた。まだ暗い水平線の上に明けの明星を見つけてにっこりして、水瓶を両手に抱えて台所へ運び上げ、そしてマリアはふと、回廊から礼拝堂を眺めた。
 レヌール古王国のころから守りつづけられた信仰の火が、薄暗い堂内で燃えている。中央正面に立つ精霊の乙女像は、微かな陰影に揺らいで微笑むように見えた。
 そのときマリアは、誰かが入ってきたことに気づいた。
 若い貴公子のように見えた。織りも仕立ても上等な貴族の服に、腰までのケープをつけ、細身の剣を佩き、ラインハット風の大きな帽子をかぶっていた。
貴公子は精霊像の前に来ると、帽子をとって膝を折り、なにごとか熱心に祈り始めた。
「ヘンリーさん?」
マリアが近づいて声をかけると、ヘンリーは顔を上げた。
「やあ、マリア」
力ない声に、マリアは胸が痛んだ。
「ルークさんの無事を祈っていらしたのね」
ヘンリーは立ち上がって帽子をかぶりなおした。そして少しためらってから聞いた。
「昨日、行ったよ。ビスタ港を出る、一番早い船で。どうしてやつの見送りに来なかったの」
 一昨日、ラインハットからわざわざ使者が来て、次の朝にルーク殿がラインハットを立つので見送りに来てくれ、と連絡があった。トムというその使者が心配そうな顔で、できれば来てください、と言い添えた。
「殿下はすっかりふさぎこんでるんです」
トムが言った通り、ヘンリーは普段の彼ではなかった。
 あらためてマリアは驚いた。ルークとヘンリー、この二人が単独でいるところは、めったに見たことがないことに気づいたのだった。パンのかけらも、むごい制裁も、脱走のたくらみも、口にしない思いも、彼らはいつも共有していた。
はじめて見たときから、二人は一対だった。
 最初から一人きりだったよりも、ずっとつらいだろうとマリアは思った。 
「院長様から、御許しが出なかったわけではないわ。わたしが行かないことに決めました」
「どうして」
ヘンリーはとまどったようすだった。彼らしくもなく、もじもじしていた。
「あいつのことが好きじゃなかったの?」
返事の代わりにマリアは、精霊の乙女像に一礼した。
「マリア」
「海岸へ流木を拾いに行きます。いっしょに行きますか?」
ヘンリーは後を追ってきた。
 夜明けの海岸は寒風が肌に厳しかった。わずかな草が生えるばかりの荒地を踏んでマリアはいつものように海辺へ出た。
「わたしたち、ここへ流れ着いたんでしたね」
「ああ」
海上の青い薄闇の彼方から、波頭のみが白く、くり返し、くり返し、おしよせてくる。
「今ごろ、ルークさんが乗った船はどのあたりかしら」
「もう、ずっと遠くだろうな」
ヘンリーは、見えない船の影を追うように、じっと沖を見つめた。
「知ってた?マリア、おれ、ルークが何を考えているか、そのときそのときでだいたいわかったんだ」
 空と海が出会うあたりからこちらへ向けて、風が吹き寄せてくる。ヘンリーの声は風にまぎれそうで、苦みに満ちていた。
「それが、あいつが行っちまったとたん何もわからなくなった。置き去りにされたような気がしてさ。裏切ったのはこっちなのに」
 消え残る月のすぐ下のあたりに、マリアはルークの幻を見た。マリアとヘンリーに背を向けて、月を目指して歩いていく姿だった。
「置き去りも裏切りもないと思います」
マリアは静かに言った。
「ルークさんは、魂に翼を持っているのでしょうね。だから運命に呼ばれると、どこまでも飛んで、追いかけていくのよ」
 精霊の乙女像の前で一心に祈りつづけて得た答えをマリアはなんとか説明しようと言葉を探した。
「ルークさんと一緒に飛べるのは、きっと、同じように翼ある魂の持ち主だけでしょう」
マリアは微笑みかけた。
「わたしには、ありません」
ヘンリーは、まぶしいものを見るように顔をそむけた。
「そんな、マリアならきっと、あるよ。おれには、そんなものはないけど」
「ヘンリーさんは、自分の魂の姿をご存じないんですね」
「……どういう意味」
マリアは微笑んだ。責任感も正義感も人一倍強いくせに、わざとそっぽを向く。いっぱしの策士を気取り、クールなポーズを決めたがる。
 そんな彼が唯一わからないものがおのれの姿だ、というのは、マリアには不思議でもあり、おかしくもあった。
「今日はわたし、オラクルベリーへ、修道女の方々と一緒に、奉仕に出かけるんです」
「奉仕って?」
彼に、その優しさをさらけ出させるような話をしてやったらどうなるか、マリアには興味があった。
「カジノの裏口へ行ったことがありますか?」
マリアは熱をこめて話した。ダンサーをしている母親を待つ幼児たち。いちもんなし。飲んだくれ。行き倒れ。世界一の大都市の、ほんの片隅にうごめく人々の話だった。

 二人が海岸を歩いて修道院へ帰ってくると、炊事当番の尼僧が待ち構えていた。
「マリア、まあ、マリアったら」
「おはようございます、シスター。流木はどこへ置きましょうか?」
ヘンリーは軽々と二、三日分の流木を運んできてくれた。
「あら、おそれいります。あの、では、あちらへお願いできますかしら」
「喜んで」
ヘンリーの後姿を見送って、尼僧はマリアに言った。
「若い殿方と何を話しこんでと言おうとしたら、あれはヘンリーさんではないの。見違えたわ」
マリアは微笑んだ。シスターが最後にヘンリーを見たとき、彼は確か、逃亡奴隷だった。
「マリア」
ヘンリーが戻ってきた。
「助かりました。ありがとう」
「どういたしまして。あのう、また来てもいいかな」
「ええ。お待ちしています」
ヘンリーはシスターにも目礼を送り、すぐ身を翻して歩いていった。広大な荒地の中に長身の貴公子が遠ざかっていく。
「王宮にお帰りなのねぇ。王国を立て直そうというんだから、たいへんだわ。でもまあ、あの人ならできるんでしょう。タフそうだから」
シスターは感心したようにそう言った。
「いいえ、タフどころか」
誰よりも柔らかく、傷つきやすいのです、とマリアは言おうとして、やめにした。
たった今かいま見たヘンリーの素顔を、なぜか突然マリアは、自分だけのものにしておきたくなったのである。