たとえ、どんなに

 ラインハット城はまだ眠りについていた。人影のない廊下を、国王付きの侍女エリスが足早に歩いていく。
 今朝も早くから国王臨席の会議が開かれるはずなので、城の厨房をメルダやかもめ亭の女将たちにまかせて、掃除にきたのだった。
 ゴーネン宰相が失脚して以来、城の会議室は連日大騒ぎだった。
 あの日、新宰相となったヘンリーは、ゴーネンを城内へ連行し、秘密の金蔵をすべて開かせ、帳簿類を押収した。役人たちのうち、ゴーネンから悪事の分け前をもらっていた者は連座を恐れてすばやく逃げ出したが、下っ端のほうはそのまま持ち場にとどまっていた。
 実はエリス自身も、もともと宰相の部下の手で国王付きの侍女に送りこまれ、金をもらって国王の身辺の情報を宰相へ流していたのだが、 ことここにいたって直接の上司に逃げるかどうか、相談をもちかけた。上司は首を振った。
「なあ、エリス、何もかも陛下にお話してお許しを乞うほうがいい。おれもヘンリー様がみえたらそうするつもりだよ」
「でも、許してくださるかしら」
「ヘンリー様はな、ご自身をひどい目に会わせた太后様や王座を横取りした弟ぎみまで御許しになったんだ。きっと許してくださるよ」
これが貪欲なゴーネンの下で鬼といわれた能吏が言うことかとエリスは思い、あっけにとられた。
 どのみちゴーネンが失脚しているので、助けてくれるところはなかった。エリスはしかたなくデール王に、さきの宰相のスパイでしたと告白した。
「心を入れ替えて働きますから、私を置いてくださいませ」
 驚いたことに、朋輩のフィリア、シビルをはじめほとんど全員の侍女が紐付きで、次々と名乗り出た。国王は苦笑した。
「兄は私を許してくれました。あなた方を罰することはできない。ただ」
そう言って国王は、厳しい目をジョアナとアネットに向けた。
「おまえたちは別です。ジョアナ、アネット、わたしは光の教団へ話が漏れるのは許せない」
結局ジョアナとアネットは城をだされた。

 解雇のあったその日から、すでに数日がすぎている。ラインハットは奇妙な酩酊状態にあった。あれほどギスギスして、他人を蹴落とすことに血道を上げていたとは思えないほど、国中に和解と許しの雰囲気が漂っている。
「不思議なことに」
と、昨日も会議室でオレストが言っていた。
「殿下は王位を蹴ったことで、正統の王の特性を手にいれてしまったわけだな」
「許しの力、癒しの力、ですか」
トムが答えた。
「おれは、よっぽど大量の人間を追放しないとこの国はよくならないと思っていたんだが、どうしてどうして、悪いやつらが心を入れ替えちまった」
「誰だって、本心から好きでボスについていたわけじゃないんですよ。ボスにつかないと、自分が危ないからでね。ゴーネンと偽太后が消えたとき、てっぺんから派閥の締め付けが消えて、みんな楽になっちまったんでしょうなあ」
フウ、とトムは息をついた。
「結果としちゃ万万歳なんですが」
「うむ。が、おれはやはり、ヘンリー様を主君にしたかったね」
「ねえ、隊長、おれたち、やり方間違えたんじゃないんですかね。ヘンリー様がラインハットについたそのときに、とッ捕まえてふんじばって、国境から放り出して二度と来るなと言えばよかったんですよ」
「?」
「そうすれば、あのアマノジャクのことだから、うおおぉって勢いで王様になっちゃったんじゃないすか?」
オレストは膝を打った。
「その手があったか!」
 そのとき、書類の山がなだれを打って崩れ落ち、そのうしろから当のヘンリーが顔を出した。
「きさまら、おれがここにいるの知ってて漫才やってるだろ」
「めっそうもない」
「ちっとも存じませんで」
トムもオレストも平然としていた。
「少しは手伝え。見ろ、この書類の山。真剣に頭痛いぞ」
この時点でヘンリーは、例の人狩りで捕らえられた“志願兵”を解放し、傭兵のほとんどを国外追放にしている。
「ユリア叔母はどうなった?」
グレイブルグ大公妃ユリアは、あの日騒ぎにまぎれて、兄のボガードともども自分の領土へ逃げていった。
「どうやら立てこもっているようです。おれのドジです、殿下」
打って変わって真剣にトムが言った。ヘンリーは手を振った。
「トムのせいじゃない。おれたちの計算違いがあったんだから、彼女まで手が回らなかったのはしかたないんだ」
「新徴の隊をグレイブルグ領の境へ詰めさせています」
オレストが言った。それは、ゴーネンが集めた傭兵たちのなかで、ラインハットにとどまることを選んだ者たちからオレストが作り上げた隊だった。
「あいつら、どこまで本気なのか」
「みんな、殿下のためなら水火を辞さないと言ってますよ」
オレストはにやっとした。
「連中の隊長などは、ああ、バンゴという猛者が隊長になったのですが、ラインハットに骨をうずめると言っていました。なんでも、殿下の意気に感じたそうで」
すぐそばにいたスライムナイトが突然言った。
「何が許しの力だか。こやつくらい短気で、喧嘩っ早い男もおらんのだが」
「こらこら、ピエール」
ルークがたしなめ、いきり立ちそうなヘンリーに書類をつきつけた。
「まだやらなくちゃいけないことは多いよ、ヘンリー」
スライムナイトにいまいましげな視線をくれて、ヘンリーはイスに沈み込んだ。
「わかってんだけど、おれ、行政の経験なんてないんだけどな」
「だいじょうぶだよ。国民を幸せにするっていう事だろ?ヘンリーならできるよ」
「それは指針としては正しいですね」
タンズベール伯ユージンは羊皮紙にすごい勢いでペンを走らせながら、そう言った。
「よろしいですか、殿下。よそへ戦をしかけようとしたくらいですから、金も物資も豪勢にあります。ゴーネンが押さえこんでいただけですからね」
「タイミングを計って放出していけばいいわけだ」
「そのとおりです。問題は人的資源です」
ユージンは羊皮紙に目を走らせた。
「この都だけならとにかく、地方での人口の減少は恐ろしいほどです」
「あの怪物は、この国から人だねがなくなっても痛くもかゆくもなかったんだ」
ルークはユージンの書いていたものに目を落とし、つぶやいた。
「この村も……働き手がいないんだ。かわいそうに。子どもたちを守らなくちゃ、ヘンリー」
ユージンは、オレストに小声でたずねた。
「あのルーク殿はどういう方ですか?まるで生まれついての王のように考えることができる」
「殿下のお友達としか知りません。が、彼の父上は、きわめて威厳のある戦士でしたよ」
「ルーク殿が殿下の補佐をして下さったら」
オレストは首を振った。
「先日もお話してみたのですが、ルーク殿には旅を続ける意志があるということで断られました。殿下にお留めするように申し上げたのですが、『そんなこと、どの面さげて言える!』とご立腹で」
「そうですか。惜しいことだ」

 エリスが掃除を終えるか終えないかというころに、さっそくヘンリーたちが集まってきた。
 朝食もままならない彼らのためにメルダが作ったスープの、できたての熱々をエリスが会議室へもってきたとき、ちょうどデールがヘンリーに、羊皮紙を渡しているところだった。
「祝賀会も儀式も全部なしにしていいなら、城でいるものはせいぜいこんなものだよ」
ヘンリーはメモに目を通してうなずいた。
「ああ。こんなもんだな。じゃ、宮廷の管理は全部デールな?」
ユージンが忙しげに口を挟んだ。
「殿下、本日の最優先課題はアルカパとサンタローズに人を派遣して、自治権を返還し、さらに援助を」
そのときだった。ジュストが入ってきて、一つ咳払いをして言った。
「ビスタ港の封鎖が解けました」
会議室は凍りついた。
 デール王が、オレストが、トムが、ユージンがいっせいにルークと、そしてヘンリーを見た。
 ルークは一度目を伏せ、友人に向かってはっきりと言った。
「ぼくは、明日、立つよ」
ヘンリーは黙ってうつむいていた。
「ごめんね、ヘンリー」
「謝るのは、おれのほうだ」
ルークの手が、ヘンリーの腕にかかった。
「やめよう。お互いに、謝ったり、気兼ねしあったりしない約束だよ」
デールがそっと席を立ち、続いてオレストたちもその場をはずした。
「昔、パパスさんはおれにこんな約束をしてくれた」
ぼそっとヘンリーは言った。
「いい子でいたら、一緒に旅につれていってくれるって」
「うん。最後の約束だったね」
「地面の下の、地底湖に流れ落ちる滝や、女王の治める砂漠の城や、不思議な民の住む隠された村を見せてくれるって」
「うん」
「おれの代わりに、おまえが行ってくれ。ずっとここで待っているから、おれの代わりに見てきてくれ」
「うん」
 エリスは、いたたまれなかった。目頭を抑えて、エリスは会議室を出た。廊下へ出たとき、二人のどちらかがつぶやいた言葉の断片が耳に入った。
「たとえ、どんなに……」