孤独な国王

 緞子のカーテンをそっとずらせて高窓から見下ろすと、湖面は黒みがかった暗青色で、細かな波が白く立っていた。
 空には雲が重く垂れ込め、ところどころ縁の部分が、真珠色に耀いている。大きな鳥が翼を返して舞いあがった。
「今夜は雨か」
ラインハット王国国王、デール一世はなげやりにつぶやいた。
 デールの母摂政太后アデルの書記官は、いらだちを隠さなかった。
「恐れながら、陛下、緊急のご承認を必要とする書類ばかりでございますので、ご署名を」
 デール一世が生活する居住区は、歴代国王の居室からやや離れた、奥まったところにあった。即位する前から王は虚弱な少年で、政務を母である太后に預けて、病気療養に務めている。
 病人の毎日は変化に乏しかった。
 寝室で遅い朝食の後、書斎をかねる私室で午前中を読書と勉強にあてる。食欲があれば小食堂で昼食をとり、午後は居間か私室で摂政太后からの使者を引見する。あたり障りのない報告を聞き、言われたとおりに書類に署名をする。
「軍事は緊急を要します、陛下」
やせて長身のグラフトン書記官は堅苦しく言った。髪を後ろにぴったりと撫で付けたこの書記官が、実はクジャクのように自信過剰であることをデールは見ぬいていた。
「レヌリア大陸制圧の件であれば、先月に署名したばかりだが」
グラフトンはできの悪い生徒に対する家庭教師のようなため息をついた。
「元レヌール王国の領土にはろくな町も残っておりませんでしたからな。このたびはそれよりはるかに重大な軍事出動となります」
あなたにはわからないでしょうが、と書記官が胸の中で付け加えるのを、デールは聞いた気がした。
 十代の若い国王が外界に触れる機会は少なかった。御飾りのような国王にわざわざ交誼を求める宮廷人も少なかったので、何か用のある客でも来なければすることもなく、日によっては私室の窓の、一番眺めのいいのを選んで、ずっと湖を見つめていることもあった。
 その日は月に一度、光の教団の大司教ボアレイズその人か、直弟子の一人が訪れる日にあたっていた。判で捺したように体調について質問し、同じような薬を与えていく。
 訪問そのものにも、また常に辛抱強く、従順な患者としてふるまうことにも、デールは内心うんざりしていた。
「陛下、御薬をお持ちいたしました」
侍女が湯気の立つゴブレットを銀盆に載せてささげていた。
「ああ、ありがとう、ジョアナ」
デールはおとなしく薬を飲んだ。
「少し、薄いようだ」
たくさん飲ませないと、いくら私でも死なないよ、とデールは皮肉ったが、ジョアナは微笑んだ。
「また夜に差し上げます」
 国王付きの召使は少なくなかったが、デールは身の回りの世話をする者はだいたい顔と名前を覚えていた。
 ベッドでうつらうつらとしながら、侍女の誰かが自分の部屋を探し回るのを聞くと、その娘がどこからの回し者か、だいたい見当がつく。
「アネットは大司教のスパイ。エリスはゴーネン宰相がよこした者。ジュディスはユリアおば様から。フィリアはロクサス伯ジュリアスが差し向けた。そして、ジョアナは母上にすべてを報告している」などなど。
 裏切りも寝返りも珍しくない。ルチアという侍女が、王座を巡ってライバルどうしであるボガードとジュリアスの二人から金をもらって動いていたときもあった。デールはルチアの神経の太さに感嘆し、彼女の動向をおもしろく観察したが、どうやらルチアはばれてしまったらしく、ある日を境に出仕しなくなった。
 田舎へ帰って結婚するためにルチアはおいとまをいただいた、と後から聞かされ、デールは心中ひそかにルチアの冥福を祈った。
 朝から晩まで、デールは常に彼女たちの監視下にあった。寝起きに少し咳き込むと、午後にはあちこちから見舞いの使者がやってくる。後どれくらい生きるのかを測りに来るのだとデールは知っていたが、無邪気を装い、おとなしく応対して、少しの不満も見せないようにしていた。
 素の自分に帰るときというのが、デールにはほとんどない。そのかわり、何も知らないふりをして侍女たちに皮肉を言うのが、ささやかな楽しみだった。
「このごろ母上の御顔を見ないのだけど、御元気にしておられるだろうか」
「恋しくていらっしゃいますか。今日は宰相閣下が太后様を閲兵にお連れしていると思いますが」
「そう。ジョアナに聞くとなんでもわかるね」
ジョアナは無表情だった。
「陛下、ご署名の件は母君も御早くと御望みになっていらっしゃいますが」
グラフトンが噛みつくように口を挟んだ。デールは薬のゴブレットをジョアナに渡した。
「このたびはどこと言われただろうか?」
グラフトンは辛抱強く答えた。
「エルファンネル大陸でございます」
 それは、ラインハットのあるレヌリア大陸から内海を挟んで対岸にある、古来あまり交流のない地域だった。
「母上はなぜ、エルファンネルを御望みなのだろうね」
高山と荒地ばかりが多く、エルファンネル大陸は耕作には適さない。大きな町があるともきかず、ただ歌と伝説に秀で、古の教えを忠実に守る民の不思議な村があるばかりとデールは聞いていた。
「我がラインハットに対して不穏の動きありと報告がありました」
それは、レヌリア大陸征服の際に使ったのと同じ言いがかりだった。始めに高圧的なやり方で金や物資を取り上げ、相手が抗議するのを待って侵略するのだ。デールはため息をついた。
「それは、その、苦労に思う。ただ」
「なんでございましょう」
「ここから見ると、ラインハットの民はあまり豊かではないらしい。遠征に耐えるだけの国力があるのだろうか?」
「陛下にご心配いただくことではありませんが、ゴーネン宰相がオラクルベリーの商人たちに合力を命じられた由にございます」
鼻高々とグラフトンは言った。そのとき、侍女のフィリアが来て、ジョアナになにごとか告げた。ジョアナは首を振ったが、デールはフィリアが出ていくより先に声をかけた。
「どうしたの」
フィリアはしぶしぶ答えた。
「さきほどからセルジオ商会の者が控えておりますが、陛下がお呼びよせになったのでしょうか?」
 デールの部屋に訪問者があったりすれば、彼女たちはさっそくそれぞれのボスに報告するはずである。
「そうだね、ジョアナを通さずに人を呼んだりはしないけれど」
ジョアナの小鼻が、満足そうにふくらんだ。
「以前セルジオに本のことで調べるように言っておいたから、その返事を持ってきたのでしょう」
「手紙で済みましょうに」
私室の戸口のあたりに、他の侍女たちが好奇心まるだしでちらちらしている。デールは心を決めた。どうせ言うなりに署名させられるとわかっていても、グラフトンを少し困らせてやりたかった。
「よほどよい返事らしいね。セルジオはいつもよくしてくれるから、顔をつぶしたくない。ここへ通しておくれ」
「陛下」
グラフトンがあわてた。
「署名はあとでします。今日は珍しく忙しい。夜にでも取りに来てください」
「せめてこちらだけでも」
グラフトンは羊皮紙の巻物を取り出し、デールは内容に目を通した。
「この法律では、どんな高位の官僚でも、国王の判断一つで罷免できることになっているね」
「もともと王国とはそのようなものですが、軍人はとやかく言いたがります。前の将軍を罷免するために、この法律が必要となってまいりました」
グラフトンは早口に言った。
 では、今度権力争奪戦で敗北するのは、どうやら軍の関係者らしい、とデールは思った。宮廷人という人種が、飽きもせずに派閥をつくり、派閥どうしの綱引きに熱中することをデールは知っていた。
 宮廷人のおもちゃに署名を与えると、グラフトンは嬉々として引き下がった。
「あとからボアレイズ様の御使いがお見えになりますから、ごく短い時間でお願いします」
ジョアナはそう言い渡すとアネットを呼びにいった。ほとんどの侍女が集まってセルジオの使いという者を検分していることだろう。
 つかの間、監視の目を逃れて、デールはほっと息をつき、机の上にどっしりした古書を載せた。本はかなりの古語で書かれており、さすがのデールにもわからないところが多かった。
 セルジオに依頼したのは、この書籍の注釈書だった。
 羊皮紙のページがもろくなっている。デールは慎重にめくった。
「空に高く存在せし城ありき。しかしその城、オーブを失い地に落ちる…」
黄ばんだ紙面には彩色された城の図が描かれている。雲海の中を悠々と行く城の姿が、デールは特に好きだった。
「陛下、セルジオの使いを連れてまいりました」
ジョアナが告げ、アネットが二人の使者を先導してきた。他の侍女たちがぞろぞろと付き従い、壁にそって控えた。
 国王の私室は楕円形の広い部屋だった。十人程度の入来では、狭くもならない。青と緑の間の多彩な色調が、壁紙や敷物、家具調度の色として、ぎっしりと部屋を埋め尽くす。
 毛足の長い敷物を踏んで、使者たちがやってきた。作法どおり、離れた位置で立ち止まり、そろって片膝をついた。
 セルジオ商会の社員にしてはたしかに若く、デール自身と同じくらいの年齢だった。一人は紫色の、もう一人は白いターバンで頭を覆っている。ラインハットの風俗ではない。身にまとうものも旅人のそれであった。
「セルジオの使いとか」
紫のターバンの若者が顔をあげて答えた。
「セルジオ殿にご紹介をいただきましたが、旅の者です。陛下の御探しものについてご用を承ります」
「では、こちらへ」
デールは机の近くへ招いた。
「とある学者が、この古い伝説の本に注釈を施したはずなのですが、この城にはその注釈書が見当たらない」
本は大型でずっしりと重い。
「この本そのものも、サンタローズから来た旅人が残していったものなのです。表紙の裏側に、見なれない蔵書印があります」
「拝見いたします」
紫のターバンの若者は進み出て古書を手に取った。
 白いターバンの若者は、貴人の前をはばかるかのようにうつむいて歩き、連れのうしろ、デールの前で立ち止まった。そして、何気なく顔を上げた。
 デールは息を飲んで彼の容貌に見入った。明るい青緑の瞳。何より、記憶を強く刺激するその雰囲気を前に、デールは立ちすくんだ。
「陛下の御探し物はずっと昔に城外へ持ち出されたのではないでしょうか?」
その声。記憶にあるよりも低く、力強い。
 記憶?デールは記憶の糸を必死で手繰った。頭に血がのぼり、息が詰まりそうになる。とてつもなく大事なことが、今にも心に浮かび上がりそうだった。
 侍女のエリスが呼びにきた。
「陛下、ボアレイズ様のお弟子様がお見えになりました」
「待って、今は」
デールはとっさに叫んだ。侍女たちはそろって眉をひそめた。
「まあ今日に限って、そんなわがままをおっしゃって」
態度を取り繕うこともできなかった。デールは指で顔を覆いたくなるのをこらえた。
「私どもはこれにて失礼いたします」
白いターバンの若者がそう言ってさがろうとした。
「待って、頼むから」
デールは手を伸ばして彼の服をつかんだ。ジョアナははっきりと不審そうな顔をした。
「陛下、御早く」
白いターバンの若者はなだめるように言った。
「また参ります。ここはこのまま、御放しください」
「いやだ」
若者はそっと顔を寄せてささやいた。
「しかし陛下、子分は親分の言うことを聞くものですぞ」
その瞬間、デールの心は十年の歳月を跳んだ。
「ヘンリー?」
記憶の中の自分が、おぼつかなげに呼びかける。
「親分と呼べ」
ぶっきらぼうに、だが、最大の親しみをひそめて、幼い兄が言った。
「うんっ」
デール自身のまだ高い声が嬉しそうに答えた。
 デールの足元がぐらりと揺れ、生身の体が前へ崩れ落ちた。
「陛下」
侍女たちが駆け寄って来た。
「ジョアナ、めまいがするよ。このあいだの薬を」
ジョアナは叫び声をあげた。
「まあ、あれは切らしたままですわ」
「いや、寝室のベッドの脇にまだあったような気がする」
「エリス、寝室を御探しして。フィリア、おまえもよ」
侍女たちはあたふたと動き始めた。
「息が苦しい。ジョアナ、せめて水を」
「ただいま」
侍女たちがすべていなくなった瞬間、デールはしっかりと彼を両手で捕らえて抱きしめた。
「ヘンリー?本当に兄さん?」
ヘンリーは抱き返してくれた。
「そうだよ。長いことおまえ一人にしてごめんな」
「助けて、兄さん。ここから連れ出して」
ヘンリーは腕に力をこめた。
「できるなら、このまま連れて行きたいよ」
「陛下」
紫のターバンの若者が声をかけた。
「ぼくはルークといいます。昔お目にかかったこともあるのですが」
デールは目を見開き、そしてうなずいた。
「そうだ。あのサンタローズの方の」
「はい。父です」
ルークは室外へ目を走らせた。
「時間がないので簡単に申しますが、今、陛下一人をお連れしても、ラインハットは変わらないのです」
デールはうなずいて、そっと兄から離れた。
「今ラインハットはどうなってるんだ?」
デールは指で机の表面を軽くたたいた。
「オラクルベリー公ゴーネンが官僚と軍政を支配し、次の王にジュリアス・オブ・ロクサスを据えようとしています。一方ユリア・オブ・グレイブルグは宮廷を仕切り、利権をあさり、実兄のボガード・オブ・ディアラを王にしようと画策中。
光の教団は表向きゴーネンもユリア叔母も非難していますが、実はどちらにも援助を与えてあやつっています」
ヘンリーは目を丸くしていたが、そのときようやく言った。
「おまえ、けっこういろいろ見てるんだな」
デールは苦笑を浮かべた。
「でも、見ているだけで、何もできない身です。唯一の頼みは母上ですが、このごろはめったに会う事も」
デールは言葉を切った。ヘンリーの顔をまともに見ることができなかった。
「なあ、デール、もしおれとルークの考えが正しければ、義母上は義母上じゃない」
「兄さん?」
「確かめたいことがあるんだが」
部屋の外であわただしい足音がした。
「お使者の方々はお引き取りください」
入ってくるなり、ジョアナがきっぱり言った。
「待って、ジョアナ」
「陛下、御体に障ります」
「そこの黒檀の手箱の中に、鍵があるでしょう。城の書庫を私のかわりに探してもらうから、彼らに渡して」
「まあ、まだそんなことを」
デールは奥の手を使った。
「渡してくれないのなら、今日は誰にも会わないよ」
ジョアナは王宮の侍女にしてはやや荒っぽく鍵を取りだすと、若者たちに与えた。
「これでよろしゅうございますね?さあ、お居間のほうへ」
「わかった……」
 デールは侍女たちに急き立てられるように連れていかれた。振りかえることさえできなかったが、無事に脱出してくれとデールは心の中で祈った。
 居間にはボアレイズの高弟マリグが来ていた。
「陛下には急なご病気とうかがいましたが、いかがですか」
デールはいつものようにおとなしげな笑いを浮かべた。
「ちょっとめまいがしたのです。もう直りました」
「さようでございますか。本日はむしろ、お病気のわりには御顔の色がよろしいように御見受けいたしますが、なにかよいことでもありましたか?」
「そんなふうにみえますか?」
「どことなく、微笑んでいらっしゃる」
デールは唇を押さえた。
「昔、大事なものをなくしたのですが、今日やっと見つけたのです」
「はあ、さようで」
デールは誰にともなく微笑みかけた。とても幸せな気分だった。
「もう、二度と、手放さないつもりです」