オラクルベリーの豪商 第一話

 とん、と音を立てて杖の先端が、黒褐色の地面についた。そのまま線を刻んで動き出した。杖はよどみなく進み、線はやがて大きな楕円になった。
「これがレヌリア大陸」
杖を手にした若者はそう言って、楕円左端の一点を杖の先で押さえた。
「ここが大陸西端の村、グロット」
もう一人の若者が、原始的な地図をのぞきこんだ。
「光の教団はまだあまり現れていない。ラインハットの噂も聞かれなかった」
杖の若者はうなずいて、グロットから先へ線を延ばした。
「レヌリア大陸を東西に横断する街道は、グロットを発して荒野を抜け、古代の王国首都レヌールに至る」
「レヌールは廃墟だ。幽霊すらいない」
線はレヌールにあたる場所を越えて下へ折れた。
「ここがアルカパ。風光明媚な古都」
「三日前に泊ったな。教団の信者がいた。それにラインハットの侵略の噂でもちきりだった」
街道を示す線はアルカパからしばらく東へ、地図の右側へ伸びて止まった。
「最初の分岐点だ。海のほうへ進めばビスタの港」
「一昨日、ビスタへは立ち寄った。が、むだ足だった。船は来ない。ここでもラインハットの噂を聞いた」
街道はぐっと北のほうへ曲がっていく。
「高原の町サンタローズ」
その声には、言いようのない懐かしさ、痛ましさが同居していた。連れの若者はしばらく無言だった。やがてため息とともに言葉を吐いた。
「ラインハットによって、滅ぼされた町」
しばらくして杖は再び東へ向かって動き出した。
「ここに二つ目の分岐がある。海側は貿易都市オラクルベリーへ続いている。山側へ進めば、国境の川ボルダを渡り、ラインハットへ」
「おれたちがいるのはこの分岐のそばだな」
連れの若者は、最初の若者から杖を借りた。
「このあたりに、ボルダ川をくぐる地下通路がある。たぶん兵士が守っているはずだ。そこから北上すればラインハットの城があるが、街道はさらに大陸東端のタンズベール伯領までつながっている」
楕円の右端に線が到達した。若者は杖を返した。
「ラインハットへ行かない限り、ぼくらはこの大陸から出ることができないわけだ」

 ネビルは、ブーツと同じ色目にそろえたマントが形よく広がるように注意してから、馬車を降り立った。ネビルを見て、護衛の兵士の中から数名が付き従ってきた。
「こいつらにはがまんがならない」
ネビルは独り言のようにつぶやいた。
 大陸を横切るこの街道をオラクルベリーからラインハット方面へ進んできて、もう少しでボルダ川を渡るというところで道が通れなくなったのである。ネビルから心づけをもらっている兵士はうやうやしく頭を下げた。
「しかし街道の前方をガスミンクの大群が渡っておりますので」
ネビルは足を止め、わざわざその兵士の顔をねめつけた。
「それは先ほど聞いた。我がセルジオ商会がなんのために大枚を払っておまえたちを雇ったと思っている。こういうときに下賎のいかがわしい輩に囲まれるのを防ぐためだろう!」
「これは季節はずれの渡りで」
ネビルは最後まで聞かなかった。
「このたびのラインハット行きはきわめて重要な条件なのだ。商会の主である我が叔父上セルジオ殿が、おん自ら国王陛下、太后陛下に拝謁するのだ。セルジオ殿は秘書である私を信頼して護衛の人選を任せてくださったのに、これでは面目がたたん」
単語の一つ一つを、ネビルはうっとりと発音した。廻りには、足止めを食った旅人たちが大勢いた。叔父がいかに重要な人物で、その叔父からどれだけ自分が信頼されているかを、ネビルはいつも周囲に思い知らせずにはいられなかった。
 仕方がない、とネビルはいつも思っていた。セルジオ商会の主人の秘書という地位がどれだけのもの、愚民には判断もつかないのだから。見ろ、どいつも、こいつも、あほづらさげて。
 ネビルは足を止めた。街道の脇に一台の馬車が停まっているのが目についた。
「ついてこい」
ネビルは護衛を呼び集めると、大またに馬車のほうへ歩いていった。
「おい、おまえたち」
 馬車のそばで二人の若い旅人がなにか話し合っているようだった。ネビルと同じくらいの年頃だったが、ネビルにはなぜか、他の旅行者のように二人を見過ごすことができなかった。雰囲気がまるで違った。
「さっきから、ついてきたな」
地面に描いた地図を靴の先で消して、緑の髪の若者がふりむいた。
「それがどうした?」
黒い髪をターバンで覆った若者が穏やかに言った。
「ぼくたちはあなた方と同じ方向へ進んでいるだけです」
ネビルは身構えた。
「われわれがどこへ行くか、知っているのか!」
「だから、ラインハットだろう?おれたちもそうだよ」
ネビルは気に入らなかった。
 旅人たちは二人とも、少年からやっと大人になりかけたような歳だった。身にまとうものは雨風にさらされ、街道のほこりにまみれていたが、日よけのマントを肩へずらせていたので、鉄の胸当てが見えた。
 緑の髪の若者は、かなり使い込んだ鋼鉄の長剣を腰に帯びている。もう一人は節くれだって重そうな握りの杖を離さなかった。年齢よりは旅慣れていた。
 着古した服、みすぼらしい馬車、護衛の一人も置かないのに、この二人の放つ雰囲気はなんだろう。落ち着きか、貫禄か、あるいは人をひきつける魅力というものか。
 ネビルが欲しい欲しいと願い、毎朝鏡の前で練習してもなかなか身につかないものを、こいつらは無造作にまとっているのだった。この、貧乏人どもが。
「同じだと?」
ネビルの唇が反り返った。
「きさまらと同じ所へ行ってたまるものか。私の叔父上のセルジオ殿は、オラクルベリーを支配する豪商の中でもっとも富裕で高貴な大商人なのだ。セルジオ殿の血管には、ラインハット王家の血が流れているのだぞ」
ネビルはあごを振り上げた。
「私にもだ」
緑の髪の若者はゆっくりとネビルに向き直った。
「おうい、勘弁してくれよ」
ネビルは逆上した。
「きさま、誰に向かって」
「ネビルさま」
護衛の一人が声をかけた。
「こいつら、かなり使います。相手になさらないほうがよろしい」
「おじけづいたか!わたしの命令だぞ、ぶちのめせ!」
「金持ちケンカせず、ですよ。それに、どうやらセルジオ様がお呼びのようで」
ネビルはためらい、気に入らない連中をもう一度見た。無礼な緑の髪は手をはっきりと剣の柄にかけていた。ターバンのほうは杖を持って立っているだけだがネビルの屈強な護衛たちに囲まれているのに、妙に不敵な態度だった。
 ネビルはふんとつぶやいた。
「そうだった。私も叔父上も忙しいのだ。同じ所へ行くだと?叔父上は国王陛下と太后陛下にお目にかかることになっている。おまえたち、そのなりで宮廷へ出る気か、ええ?」
 捨て台詞を残してネビルは足早に引き返した。国王陛下と言ったとたん、あの二人がぴくっとしたのが、せめてもの慰めだった。

 セルジオ商会の主人、八代目セルジオは、贅沢な衣装をまとい、馬車の詰め物をたっぷりいれた座席に一人座っていた。オラクルベリー商人組合を取り仕切る豪商の中でも、セルジオはひときわ若かった。
 四十代のはじめである。商人というより武将のような、険しく端整な顔立ちの持ち主で、時に堅実、時に大胆な投資で商いを大きく広げてきた。セルジオの両手の中には、細長い革張りの箱がある。セルジオは今、オラクルベリーの未来を握っているのだった。
「ただいま戻りました、叔父上」
セルジオは、ネビルに視線を向けた。
「旅人を脅したそうだな」
ネビルの顔に、チラッといやな表情が浮かんだ。
「われわれのあとをついてくるようなので、けん制しました」
セルジオは、護衛の一人からネビルの素行を逐一聞いて知っていた。年の離れた姉の息子で、商売を覚えさせるために秘書として使っているが、ネビルが時々見せる軽率さをセルジオはきらっていた。
 馬車はゆっくりと動き出した。護衛の長がこのあたりの森林に詳しい道案内を見つけたと言っていたから、森の中の迂回路を進んでいるのだろう。
「番犬はよく選ぶものだ」
セルジオが言うとネビルは怪訝な顔になった。
「私が雇った護衛のことですか」
「いや、これは家訓の一つだよ、ネビル。聞いたことはないかね」
「ないと思います」
「この言葉を残したのは、初代セルジオだそうだ。レヌール王国が崩壊したときのことだという」
 街道でつながれたグロットからタンズベールまでは、古代王国レヌールの最大版図に等しい。しかし、王国の終わり頃、東からラインハットが起こり、大陸を二分する戦争になった。
「その頃からオラクルベリーは大商人の都だった。初代セルジオは商人たちを説き伏せて、全オラクルベリーを上げてラインハットに味方し、武器、食量の調達や輸送の面で貢献した」
「はい、それでラインハット国王は、その功に感じてオラクルベリーに御免状をくだされたのですよね。同意なき増税と兵役を免除し、まんいちのときは、ラインハット正規軍がオラクルベリーを守るという」
セルジオは咳払いをした。すぐに人の話の腰を折るのはネビルの悪い癖だった。だが、ネビルは夢中でしゃべりまくっていた。
「特にセルジオ商会は代々の国王陛下の御おぼえがめでたく、二代前のセルジオに姫君を妻として賜ったほどです。叔父上も本当なら王族として扱われてしかるべきと」
「王族というのは、王位継承権のある者のことだ」
セルジオは突き放すように言った。
「王座を巡ってじたばたする種族を王族というのだ。私は断じて違う」
セルジオは厳しい目を甥に向けた。
「おぼえておきなさい、ネビル、われわれは商人であって、王族ではない。初代セルジオにとって、王は番犬にすぎなかったのだ」
ネビルは絶句した。
「レヌールにつくか、ラインハットにつくか、初代セルジオは考え抜いた。あげくに、ラインハットを番犬に選んで、オラクルベリーを守らせることにしたのだ」
ネビルは口がきけないようすだった。
「私は、先代の国王陛下の友人だったよ。学友として傍にはべり、外国へ遊学に赴かれた時期を除いて、常に近侍した。お人よしで気さくで、ほれっぽくてお調子者で、そう、いい友達だった。私が父にそう言ったとき、父はこの家訓を教えてくれた」
 先代国王エリオス六世は、明るい屈託ない人柄だった。青年王はタンズベール伯爵の娘を王妃に迎えた。ヘレナ王妃は清楚で美しい乙女だった。要するにセルジオは、若者らしい憧れをこの王室にたっぷりと抱いていたのだった。
 ヘレナ王妃が第一王子ヘンリーを産んでそのまま亡くなった時、セルジオは王とともに目がとろけるほど泣いた。その時、父はセルジオに家訓をひいて言い聞かせた。番犬はよく選ぶものだ。感情移入してはいけない、と。
「いいか、ネビル、王族にとって、商人は歩く金袋に過ぎないんだぞ。あれは番犬。そう思うくらいがお互いちょうどいいのだ」
「今の陛下はそんなこと思っていませんよ」
ネビルは唇を尖らせた。
「気弱だし、病気がちだし」
 エリオス六世はヘレナ王妃の死後まもなく再婚した。相手はラインハットの小役人の娘というが詳しい素性を知るものはいない。それこそがアデル王妃であり、現在のアデル太后だった。
 アデル王妃の産んだ第二王子が、現国王デール一世である。影の薄い、ネビルごときまでが軽んじるような君主だった。
「どんな性格かは問題ではない。要は王族の本質という事だ」
「でも、みんな言ってますよ。デール陛下は独身だし、結婚しても御世継ぎができないのではないかって。もし王家の血統が絶えてしまったら」
セルジオは舌打ちした。
「セルジオ家が王位につくことはあるまいよ」
「それはわかりませんよ」
にわかにネビルは生き生きした。
「第一王子は子どものころ行方不明になってるし、王家を継ぐものはもう」
こいつは何もわかっていない、とセルジオはいまいましく考えた。
 そのときだった。馬車がいきなり停まった。
「このへんでいいだろう」
護衛兵士の長がそう言うのが聞こえた。
「セルジオ様、ちょっとおでましを願います」
セルジオは思わず膝の上の革箱を強くつかんだ。完全に油断していた。
「なんだ、いったい」
ネビルが軽く立ち上がりかけたのを、セルジオは大声でとめた。
「出るな、ネビル」
だが、数本の腕が突っ込まれ、ネビルをかっさらっていった。
「おまえら、何をする」
ネビルが甲高い声でわめきたてるのが聞こえた。セルジオは頭を抱えた。
「かわいい甥ごさんがお待ちですよ、だんな様」
 先ほどまで護衛だった男が無遠慮に馬車の扉を開け放った。セルジオは体で革箱を包み込むようにして馬車を降りた。
 そこは手入れもされないまま草が伸び放題になった、森のはずれの荒地で、なんとも淋しいところだった。めったに人通りのないところを選んだのだとセルジオは思った。遠い山の端に日没の耀きがやっと残っていた。
「やめろ、金ならやるから」
すぐそばでネビルが兵士に囲まれていた。半分べそをかいて、やみくもに手を振り回している。
「御荷物を御預かりしましょうか」
「どうせ宰相閣下のところへ持っていくつもりだろう」
兵士長はいやな笑い方をした。
「気の毒だとは思いませんかね、旦那。宰相閣下はオラクルベリーの公爵をかねているのに、自由に税もかけられねえんですよ」
セルジオは時間を稼ぎながら、必死で周囲をうかがった。
「仕方なかろう。文句があるなら、御免状をくだしたラインハットの王国開祖に言ってくれ」
「そりゃ大昔のことだ。公爵様は、いつまでも甘ったれてるんじゃねえと、こうお思いになったんだな」
兵士長はあごで合図した。体格のいい部下が二人、セルジオを押さえにかかった。
「ネビル、逃げろ!」
セルジオは叫び、ネビルの手に革箱を押し込むと、兵士に体当たりを食らわせた。あわわわ、と言葉にならない悲鳴を上げ、ネビルは腰まで茂った草の中を走り出した。
「隊長、おれが行きます!」
ネビルの腰ぎんちゃくだった兵士たちが飛び出した。
「あの威張りくさったちびすけを、いっぺん殴りたかったんだ」
ネビルの逃げ足に頼るしか今は方法がなかった。セルジオは祈る思いだった。ネビルはたちまち見えなくなったが、兵士たちが追いすがったらしく、高い悲鳴が聞こえてきた。
「大金持ちにしちゃ悪あがきだねぇ、セルジオ旦那」
「大金持ちでも命は惜しい」
セルジオは兵士長の顔をうかがった。
「今からこちらに乗りかえる気はないか。宰相閣下はけちで有名だ。私とあの革箱を無事に太后様のところへ届ければ、オラクルベリー商人組合はいくらでも支払う。それだけの値打ちはあるぞ」
「そいつはすげぇ」
兵士長はおどけて目を丸くして見せたが、いきなり巨大な握りこぶしをセルジオの下腹に叩き込んだ。セルジオは思わずうずくまってむせた。
「太后様にあの箱の中身をお見せすれば、あんたの大事なオラクルベリーは助かると、そう思ってたんだろ?」
兵士長はむしろ優しく言った。
「甘いねぇ。宰相閣下と太后様はぐるなんだ。二人してオラクルベリーをしゃぶり尽くすつもりなのさ」
 目の前で草の葉が夕日を浴びて微風に揺れていた。セルジオは心の中で、自分の甘さをのろった。歩く金袋!
「おい、あれをもってこい」
「本当にやるんですか」
セルジオは頭上の会話に聞き耳を立てた。あの革箱が手を離れた以上、宰相の部下はセルジオを生かしておく理由がないのだった。
 何か、妙な匂いがした。腐った肉のような。獣の巣穴のような。
「わりいな、億万長者さん」
地面すれすれに顔を上げると、兵士長は数名の部下を連れてセルジオの馬車に乗りこむところだった。
「他の連中は残しておく。遊んでやってくれ」
 馬車は動き出した。セルジオは異臭の中に取り残された。このあたりの者なら子どもでも知っていた。ふくろうの顔と熊の体をもつ攻撃力の高いモンスター、アウルベア特有の臭いだった。