炎のサントハイム 5.クリフトの悪夢

クリフトの悪夢

(いつか、来るとわかっていたことです…)
神が、見えない。
礼拝堂で祈ると、頭に神が浮かぶ。それはある時は黄金色の龍であり、あるときは神々しい人神であり、そしてある時は自分がもっとも信仰する、勇ましき女神でもあった。
だが、今のクリフトにはどの姿も浮かばない。ただ、闇の中に色々なものが浮かぶ。
デイルの顔。抱かれていく肩。遠ざかる後姿。
(手に入れたかったわけじゃないはずです…でも…)
今、こんなにも胸が痛い。目の届かない所に行ってしまうことが。
(どうにも、ならないことなのに。どうしようも、ないことなのに)
本当に、どうしようもなかったのだろうか?
デイルは、一度も手を伸ばさなかった自分を、「恐れて」一度も手を伸ばそうともしなかった臆病者の自分を、どこかあざけるように笑っていたのではないか…そんな風にさえ、思えてしまう。
(私には、嘆く権利すらない。)
一度も告げようとしなかったのだから。神が、見えないのはそのためなのだ。
コンコン。
礼拝堂に木の音が響く。ノックの音だった。
「空いておりますよ。」
その言葉でゆっくりとドアが開く。長い影が伸びる。人影は、小さかった。
「こんな所におったのか。」
「ブライ様…」
「姫様のお輿入れの話は聞いたか?」
「ええ、グローサー様と婚約なさったようで…」
「それで、おぬしはどうする?」
「どうする…とは?」
ブライの顔を意外そうに見る。その表情を見て、ブライはあきれた顔をした。
「まったく、おぬしはあきれた奴じゃ。旅に出て少しは性根が変わったかと思ったが…」
「ブライ様?ブライ様は今度の婚約に、反対なのですか?」
意外そうに見る。だが、ブライは笑う。
「ほっほっほ。まったく…おぬしはまだまだ未熟者じゃ。ただ、わしらの仕事はまだ終わっていない、そう言うことじゃよ。」
それだけ言うと、ブライは去っていく。
「婚姻の手伝いを行え…と言う事でしょうか?」
背中に問い掛ける。聞こえていないはずはないのに、ブライは何も言わずに礼拝堂を出て行った。
「…ブライ様?」

それから、アリーナは毎日デイルと話をしていた。
「お父さまもブライもとっても喜んでいたわ。嬉しいわね。」
「ブライ様…あの伝説の魔術師でいらっしゃいますよね。王の教育係であったとか…」
「そうなの。わたしのお祖父さんみたいな人。本当はもう、とっくに引退してもいい年齢なんだけど、私の教育と、それからお父さまのわがままでいまだ現役なの。」
「そうですか…でもそれでは、そろそろ身体もお辛いでしょうね…」
「そうね…旅をしていても、やっぱり一番辛かったみたい。」
「でも、だいじょうぶです、アリーナ。これからはわたくしが貴方を守ります。ブライ様のように、貴方に助言をして、二人で生きていく事ができます。ですから、そろそろブライ様にも恩賞をお与えになるべきではないでしょうか?」
「そうね…でも恩賞って?」
「そうですね…」
デイルはしばらく考えていった。
「アネイルに屋敷を与えると言うのはどうでしょう?お疲れでしょうし、近くにいてはまた頼ってご負担をかけかねませんし。」
「いいわね…でもちょっと寂しいわ。」
そう言うアリーナにデイルは笑う。
「アリーナはキメラの翼で、いつでも尋ねていけるじゃありませんか。そうですね、毎回視察のあとに尋ねて、ご報告するというのはいかがですか?」
「そうね!うん、別荘って形でもいいんだし。…うん、考えておこうかな。」
「ええ、きっとブライ様も喜んでくださいますよ。そこでしたら研究もはかどるでしょうし。」
そうやってデイルと話していると、退屈しないと感じる。とても新鮮なのだ。今までになかった会話の運び…
(対等ってことなのかしら?)
父から押さえつけられるわけでもない、家臣から見上げられるわけでもない、そう、旅をしていた頃に非常に近い…
(ううん、それとも違う。もしかして、これが『特別』って気持ちなのかしら…?)
恋をしていると言う自覚はなかったが、もしかしたらこの感情がそれに近いのかもしれない、とアリーナは考える。
(うん、きっと、幸せになれる。大丈夫…)
不安をむりやりに押さえつける。大丈夫。デイルはとても優しくて話のわかる、理想どおりとも言える人なのだから…

「そう言えば、結婚はいつにするのだ、アリーナ?」
あいかわらず、にこにこ顔の父。
「え?え、っと…いつって…」
「わしはそろそろ引退して孫をあやしたいのだがな…」
「お父様、私はまだ18だわ。婚約して準備して、気が付いたら5年も経っていたって話は王族では珍しくないじゃない。」
「何を言うておる。リック王子とモニカ王女の結婚なぞ、電撃のようだったではないか。」
「あれは、戦争の回避やモンスターの事もあってでしょ?だいたい、この間誕生パーティーが終わったばっかりなのに…」
「祝い事は多いほどいいじゃろうが。わしゃいつデイル殿から婚約破棄を言い出されんかと心配で心配で…」
「そんなことはありませんよ、王。わたくしは、いつだってアリーナを想っております。」
階段のふち。デイルが笑顔で立っていた。すっとアリーナの横に立つ。
「アリーナ。不安に想っているのですか?わたくしとの結婚を。…わたくしとしましては、いますぐにでも貴方と愛を誓い合いたいくらいです…が、アリーナがお嫌だと言うのなら、わたくしは…」
「嫌だなんて、言っていないわ、デイル。」
アリーナは笑う。思い出して。旅の仲間だった女性の、とびきり甘い笑顔を思い出して同じように笑ってみせる。
「嫌だなんて、言わないわ、デイル。ただ、ちょっとね。」
「どうしたのだ?アリーナ?だいたいお前が大仰な式を望むとは思わなかったのだが…?」
父は、この結婚に喜んでいる。だから、アリーナはとびきり甘い顔でデイルに笑いかける。そしてとっさに思いついたことを言う。
「だって、城の神父さん、この間腰が痛いって嘆いていたのよ。あの方は、お父さまの結婚式を仕切った方でしょう?もういいお年だわ。なのに王族の結婚式を取り仕切ってもらうのは、ちょっと辛いんじゃないかしらって。」
「ふむ…そうだな。あやつもなかなか年だからな。」
「アリーナはお優しいのですね。」
苦しい言い訳だったが、なんとか通ったようである。
「かと言って、結婚でしょう?そこらへんの神父さん連れてきて、って言うのは私、嫌だわ。それに、やっぱりゆっくり準備して、デイルと息が合うようになって夫婦になりたいわ。そうすれば…私の夢も叶うんだし。デイルだってちゃんとゆっくりサントハイムの勉強、したいわよね?」
「わたくしの為なのですね…本当にお優しい方です、アリーナは…」
「おお、アリーナがそこまでしっかり考えてくれているとは思わなかったぞ!わしは、嬉しいぞ!!」
二人は満面の笑みで喜んでいる。とりあえず即刻に結婚と言う事にはならないようである。
(とりあえず、今度マーニャさんとミネアさんに相談してみようかしら…)
心でそう胸をなでおろした時、デイルが手を打った。
「そうだ、こういうのはどうでしょう?式はクリフト様にしていただくというのは。」
「クリフトに…?」
「じゃが、クリフトはまだ若い。結婚式は執り行った事はないはずだ。初仕事が王族の、しかもアリーナの式というのは少々酷ではないか?」
心配したように言う王に、デイルは頷いた。
「もちろん今すぐではありませんよ。アリーナが心配してくださったとおり、わたくしの勉強もございますし。ですが、クリフト様は優秀な方です。しかるべきところで勉強なされば、すぐにその資格が得られるような教養を身につけられるでしょう。人柄等も信頼が置けますし。」
「しかるべきところって…?」
「クリフト様をゴットサイドに留学していただくと言うのはどうでしょう?それに恥じない実績はあげていらっしゃるはずです。」
「おお、それはいいな。うむ、たしかにクリフトならばサントハイムの代表として恥ずかしくない。神学にあれほど勤勉なクリフトなら、聖地ゴットサイドの留学も喜ぶはずだ。わしは喜んで手配を整えよう。」
「王様、よろしければ私の口から、クリフト様にお尋ねしてもよろしいでしょうか?式のこともお頼みいたしたいですし。」
「おお、そうしてやってくれ、クリフトもさぞ喜ぶだろう。なあ、アリーナ?」
始終無言のアリーナに、王は尋ねる。
「え、ええ、そう、ね。クリフトは優秀だもの…」
それでも、声に元気がない。
「どうしたのだ?アリーナ?」
そこにフォローしたのはデイルだった。
「王様、アリーナはこれから始まる新しい生活に、少し不安なのですよ。それで信頼のおける方…クリフト様を頼りにしてらしたのだと思います。」
「うむ、お前はよくクリフトに相談をもちかけていたな。」
「その気持ちはお察しします。ですが、アリーナ。クリフト様の為にも、ご決断なさいませ。他にもお友達はいらっしゃいますし、何よりこれからはわたくしがおりますよ。」
「そ、そうね…でも、ブライもいなくなってクリフトも…って思ったら…」
「ブライ?ブライがどうかしたのか?」
その言葉に、デイルがまたしても答える。
「アリーナと相談していたのです。ブライ様もそろそろお疲れでしょうし、アネイルあたりに恩賞として家をお与えになってはいかがでしょう、と。」
「ふむ、わしも寂しいがあやつも色々文句も言っておるしな…よいかもしれん。デイル殿は、本当に頼りになるな。」
「いいえ、アリーナがお優しいのですよ。」
首を振った。
「そんな事ないわ…全部デイルが考えたんだもの…」
そう、これらはデイルが考えたことなのだ。そう、全てデイルが。
「ふむ。これからはデイル殿と相談してやっていくがよい、アリーナ。」
「そうね…デイルは、とっても頼みになるもの…」
「では、わしは色々手続きを取っておこう。デイル殿、よろしく頼むぞ。」
「はい、かしこまりました。」
…その会話を、アリーナはどこか遠くのことのように聞いていた。下へ降りていくデイルの姿をぼんやりと眺めていた。ただ一つ、違和感を心に掴みあげて。

夕日がステンドグラスに照らされて、非常に幻想的な風景が、そこにはあった。
そして、悪夢は来た。
「私が…留学?」
目の前が真っ暗になる。
「ええ、貴方ほど勤勉な方なら、ゴッドサイドでもサントハイムの名に恥じないだろう、と王の言葉です。」
「王の、命令なのでしょうか?」
振るえる唇を抑え、クリフトはいたって冷静を保った。
デイルは嬉しそうに軽やかに笑う。
「いえ、命令などではありませんよ。ただ、アリーナたっての希望なのです。わたくしとアリーナの結婚式には是非クリフト様に執り行って欲しい、と。」
言葉も出なかった。
…正直に述べよう。クリフトは、何度もありえない妄想を見た。
美しく着飾ったアリーナ。白く美しい花嫁。…そしてその横に嬉しそうに立ち、微笑みあう自分を…
この期に及んで、まだそんな幻想を見ていた自分にあきれる。
現実は、そこに立つのは目の前にいる男で、自分はその二人を間近で見ることになる。
暗くつぶれされそうな未来だった。だが、選択肢はない。
「…喜んで、お受けいたします、とアリーナ様にお伝えください…」
それが、アリーナの望みならば、自分はなんだってやらなければならない。…それが、どんなに辛い事でも。
「ああ、喜んでくださると、思っていました。結婚式、貴方なら立派なものにしてくださると、信じております。お願いいたしますね。」
「はい、お二人の幸福をお祈り申し上げます…」
そう言うと、デイルは満足げに去っていく。
側にいることも許されない。見ることも、声を聞く事も許されない。
クリフトは、アリーナに拒絶されたような気がした。
”もう、いらないの、クリフトなんて”そんな声が聞こえた気がした。
(姫様…)
実らない恋だと知っていた。
なら、もう、いいではないか。そう思う心は、ちゃんとあるのに。
(側で、いつまでも、そばで姫を守りたかった・・・)
想いが叶わなくても告げる事が許されなくても、それだけはやり遂げたかった。
…だが、それも絶たれた。もう、何も許されない。
そこにあるのは、闇と絶望。…他には何も見えなかった。