10年目の奇跡 1.第一話

 汗を冷やすような、心地よい風が吹いた。
 池の水面にさざ波がたった。
 すらりとした糸杉の林が、その向こうの教会の、歳月に色あせてしっとりと落ち着いたレンガの壁が、奥の大きな宿屋の豪勢なかまえの、夏の光を受けて青く輝く瓦が……水面に映るその影が、いっしょにゆらめいた。
 古都、アルカパの、美しい夏である。
 がたがたと音を立てて、馬車の列が町の門に集まってきた。どれもかなりの荷を積んでいる。
「徴税役人が、ラインハットへ帰るらしいぞ」
「やっと出て行くか!」
「またごっそりと持っていきやがる」
町の者は、横目で馬車の列を見ながら、頭は低く下げて立ち働いていた。
かっぷくのいい徴税役人は、見せびらかすように派手な装束で、馬車の最初の一台に乗り込んだ。供をするのは、妙にがらの悪い戦士たちだった。
「やっと帰れますね、へへ」
そのうちの一人がそう言って、卑しげな顔で笑った。どう見ても傭兵上がりである。
 馬車の列の向こうに、兵士の別の一団がいた。どれも正規兵に支給される、ラインハット王の紋章のついたサーコートを身に着けていた。
「役人どの」
兵士たちのリーダーらしい人物が、ぎこちない表情で呼びかけた。
「あの、われわれは」
「ああ?」
うるさそうなようすで徴税役人がふりむいた。
「なにか聞きたいのかね、え?」
兵士長は、口ごもってから、ようやく言った。
「われわれも、その、帰国するべきではないかと」
役人は大げさな仕草で手を振った。
「バカ言うんじゃない、アルカパをほうっておくわけにいかんだろう。おまえたちは駐屯するんだ」
兵士たちがざわめいた。
「そんな、ばかな」
「傭兵はラインハットへもどるのに」
役人が傭兵の方を見ると、傭兵の頭が前に出てきた。
「おいおい、おれの耳がオカシイのか?命令不服従の声がしたんだがな」
兵士たちは沈黙した。
「ようし。おとなしくしていりゃあ、そのうち交代が来るさ」
「だ、だが、このあいだも、その前も」
「そりゃあ、あんた、王さまにも都合ってもんがあるんだろうよ」
小ばかにした口調でそう言って、傭兵隊長は手を振った。
「さあ、宿舎へもどりな。解散だよ、解散。わからねえか!」
兵士たちは無念のようすだったが、それでも三々五々、宿舎の方へもどっていった。兵士長だけは、形ばかりは敬礼をして、ラインハットへ向かう馬車の列を町の出入り口で見守った。
 馬車の列が門を出て行くと、兵士長はまだむっとした顔つきで肩をそびやかせた。ただでさえおそろしいラインハット兵、さわらぬ神にたたりなし、と、市民は顔をあわせないようにうつむいた。
 池のほとりで飲んだくれている若い男さえ、こそこそと逃げ出そうとした。
「おい、おまえ」
酔っ払いはびくっとした。
「どこの所属だ?」
うぃっく、という音が、男の喉から漏れ出した。
「質問に答えろ」
そのとき、池の反対側にあった家の扉が開いて、頭巾に前掛けの中年女が転がるように飛び出した。
「隊長様、うちのせがれでございます!」
女は叫んだ。
「なんだと?」
兵士長は、女をにらみつけた。
「こいつの、このなりはなんだ!」
若い男は、びくびくしているようだった。だが、その男が着ているのは、よれよれになってはいるが、緑の地に紋章の入ったサーコート、ラインハット兵士の制服だった。
「ラインハットのお城で、チェスが、せがれがいただいたものです」
「やっぱり兵隊か。こんなとこで酒とは、いいご身分だな」
兵士長はくちびるをゆがめて笑った。
「きさま、脱走兵だな?」
「この子は!」
女の声は、血を吐くようだった。
「うちの跡継ぎで、それで、じょ、除隊を願い出ましたので」
「なに?」
兵士長は、必死の形相の女と、どろんとした目の若者を見比べた。チェスと呼ばれた若者は、トリのようにこくこくと首を振っていた。
「ちょっと調べればすぐにわかるんだぞ?」
チェスは目をむいた。酔いも醒めてしまったようだった。
「隊長様、これを……少のうございますが、お茶代に」
女が握らせたものは、ゴールド金貨だった。兵士長は一瞬顔をこわばらせた。が、けっとつぶやくと、金貨を受け取って枚数を確かめた。
「あのう」
「あまり外に出るなよ」
言い捨てると兵士長は、町で一番大きな酒場のほうへ行ってしまった。
「おい、酒だ、酒だ!やっていられるかっ」

 女はしかりつけた。
「おまえはっ。家の中にいなきゃ、だめだろう!」
「わかってるけどよ」
小声でつぶやくと、チェスはまた、池のそばに座り込んだ。母親はぶつぶつ言ったが、あきらめたのか、家にもどっていった。
ヒューは、そろそろとチェスに近寄った。
「あぶなかったな」
チェスは、また酔っ払いのとろんとした目で、ヒューを見上げた。
「ああ。厄日なんだ」
「昨日もそう言ったな」
「今日も厄日さ。明日も厄日。ずっと厄日なんだよ」
「そんなことはないだろ」
「おおありよ。幸運のお守りを持ってないんだ」
ヒューはうんざりした。
「またその話か。あきらめろよ。十年たってんだぞ」
「そうかぁ?だから厄日なんだ。十年も」
酔っ払い特有のしつこさで、チェスは繰り返した。
「あの、猫。前足を切って持ってれば、おれは今ごろ」
「もうよせよ。あの猫はビアンカちゃんがほしいって言ったんだから、しょうがないだろう?」
「ビアンカにやったんじゃない。あいつだ。宿に泊まってた、よそ者だ」
「ったく、またかよ。名前もおぼえてないくせによ」
名前は覚えていない。十年前、ひと冬だけアルカパにやってきたよそものである。だが、ヒューは、そいつの顔だけは、鮮明に覚えていた。
「おれは、八歳だっけか。あいつはちょっとガキに見えたな」
ガキではあったが、不思議な目をしていた。その目でじっと、チェスとヒューを見て、その猫を放してあげて、と、その子は言ったのだった。
 ヒューは口からでまかせに、猫が欲しいなら、毎晩レヌール城ですすり泣く幽霊を退治して来い、と言ってしまった。ただならぬ風が吹き雷鳴の響くあの夜、あいつはビアンカといっしょに真夜中のレヌール城へ出かけていった。
 ビアンカ!8歳のころでさえ、アルカパで一番かわいい少女だった。アルカパの村長さんの奥様がお祭りの日に着飾ったとしても、ビアンカの横に立てばかすんでしまう。
 男の子と取っ組み合いをしたり、木に登ったりした後でさえ、泥をふきとればつやつやと輝くような薔薇色の肌に、あの豪華な金髪の三つ編み。怖いものを知らない瞳。ちょうど今日のような、夏のアルカパの空の色の目をしていた。
 ビアンカとあいつは、どんな方法でか、幽霊退治をなしとげたのだった。それ以来、レヌール城で幽霊が泣くのは、聞かれなくなった。
 しかたなく、ヒューはその猫をあきらめた。朱色の毛束を額にもった、その変な仔猫は、ヒューの手を離れるやいなやその不思議な目のよそ者になつき、甘ったれた。今思い出しても、ちょっと口惜しいくらいだった。
「だから、おれは、ここで待ってるんだ」
チェスは言い張った。
「ここにいりゃ旅のもんが来るのが見えるだろ?あの猫を連れたやつがきたら、取り返すのよ」
「バカ言ってんじゃねえよ。十年前のことなんだぞ。いいかげん、目ぇさませ」
「バカはヒューのほうだ。見てろよ、今に来るぜ」
あまり自信たっぷりな言い方なので、ヒューはつい、町の入り口のほうに目をやった。緑の滴るような木立の中を、街道が通っている。時には木戸番の立つこともある、アルカパの出入り口だった。
 旅人がやってきた。二人連れらしい。背の高い若者たちだった。一人がたちどまり、あたりを見回すようにした。
「なつかしいな。全然変わってないや」
紫のターバンに、同じ色のマント。手に、太い握りのついた杖を持っている。長い道のりを歩いてきたらしい。ブーツの上から足に布を巻いて、しっかりと足ごしらえをしている。だが、彼の姿からは、疲れたようすはうかがえなかった。
 ふと旅人は池のほうに視線を向けた。
 ヒューは、その場に凍りついた。
 不思議な瞳。
 見るとチェスも、とびだしそうな目つきでその男を見つめていた。
「あいつだ」
チェスはよたよたと動き出した。足元がふらついて、転びそうになる。ヒューはあわてて支えてやった。
「おい、ルーク、あの奥の、大きな宿屋か?」
連れの若者に呼ばれて、彼は振り向いた。
「うん。あれだよ。ビアンカの家」
「うわさの彼女に、やっとお目にかかれるな」
「うわさなんか、したかい?」
「おれの耳にタコつくりやがっておまえ、いまさら」
楽しそうに話ながら、旅人たちは、アルカパで一番大きい宿屋へ向かって歩いていく。
「待った、おい、あんた」
紫のターバンの男が足を止めた。
「ぼくですか?」
教会の横まで来て、やっとヒューたちは追いついた。
「る、ルーク、か?」
不思議な目の若者は、ヒューを見つめた。
「君たち……プックルの……」
そして、笑った。
「そうだ、あのとき、プックルをくれた子たちだね?」
ヒューはあっけにとられた。人を疑うことを知らないような、あけっぴろげな笑顔だった。
「おまえ、あの、猫をどうしたんだ?」
チェスも、毒気を抜かれたようだった。
「猫じゃなかったんだよ、あの子は。“キラーパンサー”って言ってね」
今度は少し寂しげにルークは言った。
「今は、野生にかえったんじゃないかな」
「逃がしたのか!」
「まあ、そんなようなこと」
ルークは軽く頭を振った。
「ビアンカとも、知り合いだったよね、君たち?」
「あ、ああ」
「元気なのかい?あの大きな宿屋のお嬢さんだったよね」
「ビアンカは」
言いかけてヒューは口ごもった。
8歳のビアンカは村で一番かわいい少女だったが、11歳のビアンカは将来の美貌を予感させる、近寄りがたささえ持っていた。
「彼女は、いないよ」
「え」
「ダンカンさんの病気が重くなって、宿屋の仕事を続けられなくて、転地療養することになったんだ。七年くらい前に引越した」
ルークはがくぜんとしていた。
「そんな」
へへっ、とチェスが笑った。
「なんだ、おまえも厄日なんだな。ほらみろ。やっぱり、あの猫の前足がいるんだ。あいつを逃がしたりしたから、おまえもずっと運が悪いんだ。そうだろう、え?」
ルークは、何も言わなかった。
「おれなんかな、不運続きで、今じゃラインハットからの脱走兵だ。わがまま王子がいなくなって弟が王位を継いだと聞いたからあの城の兵士になったのに。実権を握っているのは王様の母親の太后さまで、これがとんでもないしろもんだ。あの城ももうおしまいだな」
「チェス、からむな」
ヒューは小声でとめた。
「ルーク、だっけ。今あの宿をやってる人は、ダンカンさんから店を譲り受けたんだと思う。どこへ引っ越したか、知ってるんじゃないか?」
「そうか。ありがとう。聞いてみるよ」
ルークは、連れの旅人のほうを向いた。
「ヘンリー、ぼく」
「ああ、わかってる。行ってこいよ」
「来ないの?」
「こいつとちょっと、世間話をしたいんだ」