運命は動く 第二話

 ルークは詰めっぱなしだった息をようやく吐き出した。
 オレストが走ってきた。
「殿下、おけがは」
「ないよ。やつらは?」
オレストは、にんまりとしか言いようのない笑いを浮かべた。
「全員逮捕いたしました。どういうわけか、どんどん味方がわいて出るのです」
見ると、遠巻きだった市民が広場へ乱入していた。恨み重なる傭兵隊が逃げるのを阻止し、ついでに一発二発殴りつけているようだった。
「おーい、とどめをさすなよ。そいつらには聞くことがある」
ヘンリーは大きく手を振って声をかけた。ときの声のような歓声が返ってきた。
 ルークは心に、小さなトゲのようなものを感じた。旅人の服はあちこちで裂け、怪物の体液を返り血に浴びていたが、ヘンリーは紛れもなく、その場の王だった。
「兄さん」
デールがやってきた。その後ろに隠れるようにして、アデルが続いた。
「大丈夫だったか、デール」
「うん。ごめんね。何もかも任せてしまって」
「気にするなよ」
 そのときだった。迫力のあるだみ声が響き渡った。
「陛下、いけませんぞ!」
先にルークがあて落とした、オラクルベリー公ゴーネン宰相だった。
「やっと起きたか、このやろう。おまえどこに目をつけてんだ?太后は偽者だったぞ。それとも、知ってたのか?」
宰相はじろりとヘンリーを見据えた。
「控えなされ、お若いの。衛兵!」
宰相が呼ぶと、そのへんからラインハット正規軍の軍服を来た兵士たちがぞろぞろと集まってきた。なかには、オレストたちに加わって、傭兵逮捕にがんばっていた者もいた。
「わたくしはまだ、当王国の宰相ですからな。陛下の御前を乱す輩は捨て置けません」
「おれたちのことか?」
 宰相は手で、捕らえろと衛兵に命じた。衛兵たちはとまどったようだが、それでもルークたちに寄って来た。ルークは疲れきっていたが、杖を真正面に構えた。
 ルークたちの前にオレストが立った。
「やめろ、おまえら。どなたに剣を向けているか、わかっているか?」
宰相はオレストと部下たちに一瞥をくれた。
「元辺境警備隊隊士オレストか。貴様にも元部下たちにも、出頭命令が出ていたはずだが。ちょうどいい。こいつも捕らえろ」
 湖畔の広場は静まり返っていた。ラインハットの人々が、息を殺して見守っているのがルークにはわかった。
「黙って聞いてりゃいい気になりやがって。おまえのボスは死んだ。おまえの力は戻らないぞ」
アデルがいきなり言った。
「ゴーネン、わたくしはあなたが何をしたか、覚えています。もう言いなりになると思わないでちょうだい」
宰相はあざ笑った。
「けっこう、では摂政を退いていただきましょう。これからはデール陛下の親政とし、わたくしが御助け申し上げる。何をしている、宰相命令だ、こいつらを拘束しろ」
「ゴーネン」
たまりかねたようにデールが言った。
「わかりませんか、彼はヘンリーです、兄です。なぜ」
「いけませんぞ!」
みなまで言わせず、宰相が吼えた。
「陛下こそ、目をお覚ましください。この男は、今は亡きヘンリー殿下の名をかたって、あなた様から王位を奪い取ろうとする者ですぞ」
ざわっという声ともうめきともつかないものが、広場を覆った。
「おれはヘンリーだ!」
「ほら、ごらんなさい、いけずうずうしい」
宰相はほくそえんだ。
「陛下、御母上のためにも王位を手放してはなりません。こやつをお下げ渡しください」
デールは首を振った。青白いほほが熱を帯びているようだった。
「断ります。私が王位についたのが間違いだった。王の座は、兄に譲ります」
周囲からヘンリーの名を呼ぶ声が沸きあがった。ちっと宰相は舌打ちした。
「陛下、私の意見を言わせていただけるなら、御譲位には反対です」
「おれも」
といったのはヘンリーだった。
「バカ言ってるんじゃないぞ、デール。おまえを追い出すためにこの国へ帰ってきたんじゃないんだからな」
デールは静かに微笑んだ。
「私たちの父上は、きっと、兄さんに位を継いで欲しいと思っていたでしょう」
「ちがう。親父が望んだのは、おれたちが、争わないことだ」
 ヘンリーは突然デールや宰相に背を向け、二、三歩遠ざかった。ヘンリーが横を通り過ぎるとき、小さな声で、許せ、と言ったのがルークには聞こえた。
 あたりは静まり返っていた。ヘンリーは両腕を湖に向かって差し伸べた。
「ラインハットをしろしめす湖の精霊よ、エリオスの子、ヘンリーの誓約を聞け」
ラインハットの人々が、兵士たちが、宮廷の貴族たちが、固唾を飲んで聞き入っていた。
「わたしは、生涯の忠誠を、国王デール一世に捧げることを、ここに誓う」
ルークの傍らで、オレストが息を飲んだ。
「誓約だと?全部、ぶち壊しに……」
オレストは飛び出そうとした。がっと音を立ててルークの杖がオレストを阻んだ。
「彼の、したいとおりにさせてあげて」
 ヘンリーは剣を抜いた。まだ怪物の体液に濡れたままの抜き身の剣をもってヘンリーはデールの正面を向いた。デールの前にヘンリーは深くひざまずき、剣をその足元に横たえた。
「私の忠誠をお納めください、我が君」
ヘンリーはそうして頭を垂れた。
「あれじゃ、本当の誓約じゃないか」
オレストは愕然としていた。
「臣下が主君にささげる臣従の誓いだ。もう取り消すことも、覆すこともできない……」
 そのときだった。誰の目にも入っていなかった宰相がいきなり行動を起した。
「スライ、あいつを殺せ!」
真剣がヘンリーの無防備な背中に襲いかかった。ルークはスライと呼ばれた傭兵に体当たりを食わせた。ヘンリーはとっさに飛び退って無事だった。
「やめろっ」
その口から大声を聞いたことがなかったものは、みな驚いて動きを止めた。デールだった。今、デールは見たこともないほど怒っていた。
「宰相、もうたくさんだ」
デールはつかつかと宰相に歩みよった。
「本日ただいまを持って、宰相を罷免し、オラクルベリー公爵の位を剥奪する」
「何を言う」
宰相は笑い飛ばそうとした。デールは、ヘンリーによく似た皮肉な微笑を唇に乗せた。
「どんな高官でも王の意志一つで罷免できるようにしたのは、あなたでしたね、ゴーネン」
 宰相はぎょっとしてあたりを見まわした。スライは石畳の上にひっくり返っていた。
「オレスト」
突然呼ばれて、オレストは飛びあがった。
「ゴーネンを拘束しなさい」
「はっ」
 それは明確な王命だった。オレストと部下がゴーネンを取り囲むと、ゴーネンはがくりと肩を落とし、いきなり十も老け込んだ。
 デールは自嘲のような笑みを浮かべ、足元からヘンリーの剣を取り上げた。わざわざヘンリーの前に来ると、両手で柄を握ってヘンリーの前にかざした。
 ヘンリーの顔に、何か複雑な表情が浮かんだ。ヘンリーは再びその場に膝をつき、誇り高い頭を下げた。デールは重い剣をゆっくり持ち上げ、剣のひらでヘンリーの肩に静かにふれた。
「わたし、デール一世は、ラインハットのヘンリーの忠誠を受け入れ、本日をもって彼を、当王国の全権をつかさどる宰相に任命する」
ヘンリーは驚いて顔を上げたが、デールは宰相任命の際の伝統的な言葉を口にした。
「彼の言葉は、王の言葉である。あわせて彼を、オラクルベリーに封じて大公となす。オラクルベリーのヘンリーよ、立て」
ヘンリーは立ち上がり、デールの手から剣を受け取った。
 そのとき沈黙は破られた。ヘイル、ラインハット、ヘイル。王国を寿ぐ叫びが巨大な歓声となって広場全体から立ちのぼった。
 市民が怒涛のように押し寄せ、誰彼となく抱き合い、手を握って振りまわし、声をからして叫んでいた。今、ラインハットが一つになって、新しい宰相の誕生を祝っていた。

 ルークは、大騒ぎの渦の中からピエールを救い上げた。
「乱暴である」
背が低いので二三回踏まれたらしい。ぼやくピエールをなだめ、ルークは喜びに沸き返る広場を一度眺めた。
 深くため息をついてルークは広場を後にした。