院長襲撃

  勢いよく飛び込んだところは、図書室のような広い空間だった。もしかしたらトロデーン城の図書室よりも広いかもしれない。だが、どことなく神聖で、禁欲的な雰囲気があった。
 四方の壁は一面を残して天井までの本棚になっている。立派な装丁の大きな本がきちんと収納されていた。本棚の上のほうの本を取るためだろうか、低い、二、三段のはしごが作りつけられている。
 ところどころに緑の鉢植えが置いてあった。
 本棚のない壁は入り口の正面だった。レンガ造りのままだったが、中央に大きな木のフレームがかかっている。そこに飾ってあるのはマイエラ修道院の信奉する教えのシンボル、三叉の槍だった。
 よほど大切にされているらしい。シンボルフレームの下に金縁のある紅のどっしりした布をかけた灯明台が置かれ、左右のはしにひとつづつ赤々と燃える灯明が捧げられていた。
 しかし、入り口からその台までの間に、青い制服の聖堂騎士がひとり横たわっていた。
 たっとククールが先に立った。
「おい!何があった!?しっかりしろ!!」
ククールは傍らに膝をつき、手でその男の頭の後ろを支えて起こすと、片手をとってゆすった。
長い髪を額からすべて後ろへなでつけた総髪の騎士に、エイトは見覚えが会った。やや長めのあごをした、まじめそうな騎士団員である。宿舎で見たことがあった。腕に覚えもありそうなようすだったのだが、今はひどく傷ついている。顔色が青ざめていた。
 騎士は少し頭を起こしてククールを見た。
「よか…た…応援が…はやく…院長様が…」
「どうした!?いったい誰が!」
騎士は相手がククールだと気付いたようだった。最後の力を振り絞って騎士は告げた。
「ヤツは…強い…マルチェロさま…も…あぶな…い…ぐふっ」
沈黙があった。信じられないという顔でククールはその場に硬直した。しばらくしてククールは肩を落とし、首を振った。そして騎士の上半身をその場に横たえ、眼を閉じさせてやった。
 ククールは立ち上がった。騎士団仲間が、組織上「兄弟」と呼び合う人間が、目の前でなすすべもなく息を引き取ったのだ。ククールの顔は蒼白だった。
「上だ。行こう。お前も来てくれるな?」
階上で何かが起こっているのは明らかだった。ならば、行くしかない。
「来るなと言っても」
エイトがそう答えると、ククールはちょっとまなざしをゆるめた。
「…すまない」
 そのときだった。凄まじい悲鳴が階上から聞こえてきた。
「うわああああーっ」
エイトたちはあわてて階段へかけつけた。壁に、階段に、いたるところに体を打ち付けて別の聖堂騎士団の男が転げ落ちてきた。だが、男は階段の下に転がったままではいなかった。落ちたところにうつぶせのまま、片手を階段のほうへ延ばし、無理やり起き上がろうとする。
「あの道化師…だれか院長を…っ!!」
無念そうに顔をゆがめ、男はぐふっとうめいた。エイトが彼の頭を起こそうとしたときはもうこときれていた。
「道化師ですって!?」
うしろでゼシカが激しくささやいた。エイトはゼシカたちと視線を合わせた。やつがいる。あのドルマゲスがここにいる。この階段の上に!エイトたちは階段をかけあがった。

 聖堂騎士団長マルチェロは、その長身で小柄なオディロ院長をかばい、抜刀したまま空中を見上げていた。
マイエラ修道院長の居室は、このはなれの二階をワンフロアとする広い部屋だった。天井は高いドームで、三方に緑の葉と輝く太陽のステンドグラスを入れてある。
そのドーム天井を背景にして、赤と紫の太い縞柄の道化師服の男が宙に浮いていた。道化師装束風にすそをぎざぎざにして玉飾りをひとつづつつけているのだが、何かにあおられるように玉飾りがゆれていた。袖は派手にふくらませ、真っ白に塗った顔の目の上下に赤い化粧を施していたが、おどけた雰囲気はみじんもない。まさしく悪魔だった。
彼の足元には、配下の騎士たちが何人も転がっていた。まだ命のある者がどれだけいるかもわからない。
 にやりと道化師は笑った。悪意のしたたるような笑顔だった。くちばしに宝玉をくわえた鳥の形の杖を両手で支えていたかと思うと、いきなりマルチェロに向かって突き出した。
 眼に見えない巨大な手がマルチェロをはねとばした。二階のレンガ造りの壁にマルチェロは背中から激突した。
「兄貴!」
叫んだのはククールだった。エイトをひとあしで追い越すと、上着のすそを翻してかけよった。
 マルチェロは苦しそうに眼を閉じ、うつむいて肩で呼吸をしている。ククールはその傍らに膝をついて心配そうに異母兄をみつめた。
「やら…れた…すべて…あの道化師の仕業。ヤツは…強い…ゲフ!」
ククールの顔がこわばった。階下の騎士たちも、何か吐き出すような呼吸とともに息を引き取りはしなかったか。だが、マルチェロは片眼を開いて道化師ドルマゲスをにらみつけた。
「だがあいつの思い通りには…っ!!」
気ばかりあせるのだろう、動こうとするが、どう見ても重症だった。
 ククールが手を出した。マルチェロの脇に手を差し入れて、立たせようとしたのだろう、とエイトは思った。
 手袋をはめた手でマルチェロに触れかけた瞬間、マルチェロの表情が変わった。さっとククールの手を払いのけると、頭ごなしに言いつけた。
「命令だ、聖堂騎士団員ククール!!」
あくまで弟と認めないつもりらしかった。
「院長を連れて逃げ…」
 ドルマゲスが再度杖をふるったのはそのときだった。ククールは杖の直撃をまともに浴びて転がった。
「…クックック、これで邪魔者はいなくなった」
うれしくてたまらない、という顔でドルマゲスは邪悪な忍び笑いをもらした。エイトはぞっとした。ドルマゲスが狙っているのは、オディロ院長なのだった。マスター・ライラス殺しだけでは、もの足らないとでも言うかのように。
 マルチェロたちもそれに気付いたらしい。マルチェロは今の攻撃を横転して避けたようだった。うつぶせから上半身をおこし、左手を床についてかろうじて体を支えているが、ドルマゲスを防ぐことは無理のようだった。ククールも尻をつき、壁にぶち当たった姿勢のまま足を軽く広げひじをついている。上半身は斜めにかしぎ、とても院長をかばって逃げることなどできなさそうに見えた。それでもマルチェロは気丈だった。
「くっ…!オディロ院長には指いっぽん触れさせん…!!」
「案ずるな、マルチェロよ」
命の危険にさらされている本人が、まるでなだめるようにそう言った。マイエラ修道院の誰からも慕われる、心優しい院長、オディロだった。
 だが、痩せて小柄な体をオディロがドルマゲスのほうへ向けたとき、エイトは目を瞠った。大地に根付いた大樹のようにどっしりとした存在感がある。オディロは目の前の殺人者をまったく恐れていないのが見て取れた。
 いつのまにかオディロの手には、教会のシンボルが握られていた。
「私は神にすべてを捧げた者。神の御心なら私はいつでも死のう」
ドルマゲスは無表情に宙に浮いているだけだった。
「だが」
オディロの目が、きらりと輝いた。
「罪深き子よ、それが神の御心に反するならばお前が何をしようと私は死なぬ!」
磐石の確信をこめてオディロはシンボルを眼前に突き出した。
「神のご加護が必ず私とここにいる者たちを悪しき業より守るであろう!」
翼の下に雛をかばう親鳥のように、自分よりも背の高いマルチェロやククール、聖堂騎士たちを後ろにしてオディロ院長は立ちはだかった。老いた聖職者の目は、何かを突き抜けて明るく、不敵でさえあった。
 ドルマゲスは声を立てずに笑った。
「…ほう、ずいぶんな自信だな。ならば…試してみるか?」
とっさにエイトは駆け寄ろうとした。そのときだった。
「待て待て待てーい!!」
それはトロデだった。エイトを突き飛ばし、一番前へ飛び出すと、両手を左右に突き出した。
 ドルマゲスが、オディロが、マルチェロが、ククールが、一瞬あっけにとられてこちらを見ていた。ヤンガスが全員の心境を代弁した。
「おっさん、いつのまに!」
 トロデはずいと前に出た。
「久しぶりじゃな、ドルマゲスよ」
ドルマゲスは驚きから立ち直ると、杖を持った右手を背に回し、左手を前にして一礼した。胸前の手のひらは上に向ける。それはトロデーンの宮廷風作法だった。
「これは!トロデ王ではございませんか」
恐縮しているわけではない、とエイトにはわかった。慇懃無礼はほとんどいやがらせだった。
「ずいぶん変わり果てたお姿で」
なんともうれしそうな声だった。トロデは拳をにぎって上下にぶんぶん振り、その場で飛び跳ねた。
「うるさいわい!!姫とわしを元の姿に戻せ!よくもわしの城をっ!!」
ドルマゲスはまだ笑いながら手にした杖を天井に向かって差し伸べた。杖の先に白い光球が生まれた。ドルマゲスの白塗りの顔がさらに白く飛び、黒い影がうまれる。光球はふくれあがり、トロデはまぶしそうに目を細め腕で顔をかばった。
 エイトの視界も白くつぶれていく。院長の居室は巨大化した光球以外は床のシルエットだけだった。
 いきなりドルマゲスが杖をトロデめがけて投げつけた。エイトははっとした。明らかにドルマゲスは、トロデ王を抹殺する気でいるらしかった。エイトはダッシュした。トロデを突き飛ばすことができれば…
 飛来する杖も影を持っていた。細長い黒いシルエットは、小柄な人影をさくっと貫いた。大きなひげがゆれる。
 ドルマゲスは片手をちょっと動かして杖を呼んだ。杖は来た道をそのままに主のところへもどっていき、杖が抜けた反動でシルエットは崩れ落ちた。
 エイトは目をしばたたいた。まだ視界は完全にはもどっていない。だが、トロデは無事だった。まぶしくないことに気付いてトロデは手を下ろし、自分が無事なことをいぶかるようにしげしげと腕を見ている。目の前のドルマゲスは、床と水平に浮いている紫色のオーラを帯びた杖を眺めている。
 トロデは左右を見回し、そして、はっとした。
「な…なんと!!」
わなわなと震えだした。
 床に倒れているのは、オディロ院長だった。
「悲しいなあ」
あざけるような声でドルマゲスが言った。
 エイトさえ間に合わなかったあの瞬間、オディロが飛び出してトロデの前に立ち、代わりに恐るべき攻撃を受け止めたのだった。
「お前たちの神も運命も、どうやら私の味方をして下さるようだ…」
ふわりとドルマゲスは浮いて、後方へさがった。背後には大きな窓があった。窓の向こうの夜空には満月が見えている。両手を軽く広げ、右手に杖を持った姿でなおもドルマゲスはあざけった。
「キヒャヒャ!…悲しいなあ、オディロ院長よ!」
ドルマゲスは人々を見下ろした。手にした杖のにぎりの、宝玉をくわえた鳥の部分に、魔力解放時のようなルーン文字の帯が二つの白い輪になって浮かび上がった。その封印はついに抵抗しきれなくなったのか、ついに砕け散った。紫のオーラは、いまや真紅に輝いていた。ドルマゲスは左手に杖を持ち替えていた。右手に杖のにぎりを受け、うっとりと鳥を見つめた。
「いいぞ、このチカラだ!…クックックッこれでここにはもう用はない」そういったとたん、魔力のようなものが杖の先端へ向かって一瞬で凝縮した。
 危ない、とエイトが思った瞬間、ドルマゲスは胎児のように身を縮め、それから一気に手足を伸ばし、同時に魔力を解放した。さきほどはマルチェロ一人、ククール一人に限定していたチカラを、爆発するに任せてほとばしらせたのだ。背後の窓のガラスが激しい音を立てて砕け散った。
「さらばみなさま、ごきげんよう」
慇懃無礼な一礼をもういちどすると、ドルマゲスの体は後ろ向きに移動し、窓の外へゆうゆうと脱出した。あっというまに豆粒ほどの大きさになり、やがて消えてしまった。エイトのいる場所からは、その姿は満月に吸い込まれるように見えたのだった。