海原の王者 1.マール・デ・ドラゴーン号入港

 ドォン、と港の銅鑼が鳴った。
 水平線の彼方から、二つの舳先がそろって波を裂いてくる。
 風は追い風、高めの波に、船は一度落ち込んでから大きく前へ跳ね上がるようにして進んできた。
 港に群がる船という船が、うやうやしく進路を譲る。
 船影は次第に大きくなり、やがてはっきりと姿をあらわした。
 海上の城、浮かぶ都市、巨大双胴船マール・デ・ドラゴーン!
 海鳥に心があれば、眼下の情景にためいきをつくだろう。遠い国から波涛を越えてきた遠洋漁業用の船舶を、豆粒のように見せる巨体である。後ろへ長く引く水尾がくっきりと白い。複雑な形に張った何枚もの帆の間を、水夫たちがきびきびと動いている。帆の間をかすめたカモメたちが、嘆声に似た鳴き声をあげて飛んでいった。
 普通の船から見ると、この船の甲板ははるか高みにある。振り仰げばかざした手の指の間から、熱い太陽がきらめいた。
「帆をたためーっ」
しおから声の指示が響いた。陽気な水夫たちがヨー、ホゥと応じた。
 舵を取るのは、その人ありと知られたカデル航海士である。この船は、凡百の舵手にはまっすぐに走らせることさえ難しい。が、カデルの手にかかれば、正装した淑女がワルツを踊るように、やすやすと入港する。
 今、優雅で壮大な回頭が始まろうとしていた。
 港に居合わせた人々は、一人残らず首を伸ばしてその手腕に見とれている。
 船はゆっくりと動いた。太陽はいよいよ熱く、気流に乗って海鳥の群れが、けたたましく鳴きながら舞い上がる。
 巨大船が角度を変えるに連れて、反対側にあった舳先が姿をあらわした。その先端に、一人の男が立っていた。索具に手をかけて身を乗り出し、じっと接岸を見守っている。その男の背を覆う黒髪を、突風が吹き散らした。長身、長髪、遠目にもわかる男ぶり。
「……シャークアイ!」
 マール・デ・ドラゴーン号キャプテンにして、伝説の大海賊、そしてコスタール王国の友である。海の全てを版図とする広大な王国の主であった。
 人々は、はじめ声をひそめ、やがて声に出して、朗々と高く、その名を呼び始めた。だがシャークアイは、湧き上がる歓呼の声をかもめが鳴くほどにも気にとめていないらしかった。
「あいかわらず、どえらい貫禄だな、あの人は」
その姿をはるかに見上げて、小さな漁船の船長がうれしそうにつぶやいた。
「ボルカノさん、知ってんですか、あ、あの」
「おう。いっぺん海で助けてもらったんでな。あの人もすげぇがあの船もすげぇ。惚れ惚れするぜ、なぁ、アルス?」
アルスはうなずくことしかできなかった。船長に背を向けたままで、アルスはじっと見つめ続けた。無意識に唇が動き、声にならない言葉をつむいだ。
“お父さん……”
 その声に気づいたかのように、シャークアイが視線を突然こちらへ向けた。
 その瞬間アルスはさっと身を翻して船室へ入った。何かに追われるような息子の姿を、ボルカノがじっと見守っていた。

 フィッシュベルから南下すること一ヶ月以上。コスタールは遠い国だった。
 今回のアミット号の航海は、フォロッド大陸周辺の豊かな漁場で仕事をするためと、今後の取引のためにコスタールの市場に顔を通しておくという目的でおこなわれている。
 乗組員は船長ボルカノと漁師数名、コック、網元の代理マリベル、そして漁師見習で船長の息子、アルスである。
「おお、集まってやがる」
 コスタールの港は、大小無数の船でごったがえすようだった。魚と潮の匂いのする港町を、アミット号の乗組員たちはきょろきょろしながら歩いた。
 コスタールの町は、それ自体が巨大な灯台である。
 湾曲しながら沖へ突き出した灯台の土台の部分に人が集まって町を作り、かつては王宮もあったという。今でもこの町の建物は、カーブした土台の弧の中に守られた部分に浮かべた、一種のいかだの上に作られていた。
 ゆらゆらする建物は、陸の人間なら酔うところだが、船乗り、漁師、水夫にとっては日常の一部である。ボルカノは至って居心地がよかった。町を歩くのは、やはり同業者が多い。しかもいろいろな国から来ている。
 どっちを向いても異国訛りが聞こえる。だが、どの声もとまどっているようだった。
「聞いてくれよ、おれのところは、去年の六割がただ」
「おれのとこなんざ、半分以下だぜ」
「へっ、うちは一割にもなりゃしねぇ」
ボルカノは眉を寄せて聞いていた。
「魚のこってすよね」
カンチというフィッシュベルの漁師の一人がそっと言った。
「だろうな。どこもひでぇや」
ボルカノは首を振り、漁師たちは顔を見合わせた。
 海底王がご機嫌を損ねたらしい、と人は言う。
 どこの海でも、いっせいに魚が取れなくなったのである。赤潮があったともきかないし、こんなにいちどきに魚が減るのもおかしい。きっと、どこかの国が大量に獲りまくっているにちがいないといううわさがたった。
「ほら、あそこ、フォロッドででくわしたでかい漁船の」
カンチが言う方を見ると、前歯の突き出た小男が、自分よりでかい水夫たちを従えて、肩で風を切るようにして歩いていくところだった。
 小男は船長だった。いきなりアミット号に停止を命じる信号を出すと、けんか腰で乗り込んできたのである。船内をくまなく捜索し、わずかな獲物しかないとわかって初めて、こっそり魚を獲り尽くしたやつがいるらしい、という噂を教えてくれた。
 そのときくっついてきた柄の悪い水夫たちによると、この船長はメザレで一番大きな網元の息子でキャプテン・ブラガムというらしい。
「なんでぇ、やっぱりこっちへ来てたんじゃねえか」
水夫仲間で血の気の多いジフが歯軋りした。
「あいつ、いけすかねぇ、カンチ、後ろから一発殴ってやっか」
ボルカノは大きな手を振った。
「まあ、よせ、おめぇら」
「船長は人がよすぎますよ。キャプテン・ブラガムだか何かしらねえが、あんなのがアミット号を探し回っても大きな声ひとつださねぇで」
「誤解だとわかったんだ、いいじゃあねぇか」
 フォロッドに着いてみると、港中に王の名でおふれがでていた。世界中でいっせいに異変が起きている、とそれは告げていた。
 魚が取れなくなっているばかりか、今までなかった浅瀬が突然あらわれたり、渦巻きが発生したり、季節外れに海が大荒れしたり、何かが起こっている、と。
 またおふれは、フォロッドの王が原因を探るために動いている、動揺しないように、と言っていた。被害の出た国の王たちは話し合って、コスタール王に解決を依頼した、と。
 こうしてコスタールは、この異変の解決を見ようと、ほとんど世界中から船乗りが集まることになったのである。
「なんでコスタールなのか、やっとわかりましたよ。切り札があったんだ」
「マール・デ・ドラゴーンか。あのキャプテンなら、公平なお裁きをつけてくれやすね」
 陸地、船乗りの言う“おか”の法律は、もやい綱を解いた瞬間に力を失うと海の男たちは言いならわしてきた。海の事は海の法で裁くのがスジである。そして海の法とはすなわち、水の民の総領の裁定だった。
 カンチは首をかしげた。
「でも、なんで、あの男前のキャプテンはコスタールと仲いいんですか?」
「昔、ここの王様と親友だったからよ!」
若い娘の声がぴしっと言った。
「わかったらそのうっとおしい口を閉じといて。とっくの昔にわかってることをうだうだ言われると、頭にカビ生えそうだわ」
若い漁師たちがぴたりと黙り込んだ。
 網元令嬢マリベルは、自分より頭の回転が遅めの人間をけして容赦しない。そのなかには、自分、ボルカノも、せがれのアルスも含まれているようである。
「まあ、まあ、マリベルお嬢さん、今夜は久々に湿っていない枕とシーツの上に手足を伸ばしてお休みになれますって」
ジフがおそるおそるご機嫌をとる。その顔を、マリベルがじろっとにらんだ。
 コスタールは町中の宿屋が各国の船乗りでいっぱいになり、ボルカノ一行は以前泊まったことのある宿から満室を言い渡されてきたところだった。
 きりきりと柳眉を逆立てたまま、マリベルは不穏な微笑を浮かべた。
「あらやだ。あたしはアミット号の船室でいいのよ。そんな贅沢、ご遠慮するわ。こう見えても野宿だの何だのには慣れてるの。陸にはあがらなくて、いいわ!」
ジフが泣きそうになった。
「いえ、そんな、だって」
「なあに?あんたも海の男でしょ?陸がどうだっていうのよ」
「殺生な、ここはコスタールじゃないですか」
普段は無口なペグまでが、熱心に説得にかかる。
「アルスもなんか言ってやれよ、幼馴染だろ」
「え」
きょとんとした顔でアルスが聞き返した。
「ぼくも船でいいよ?」
「バカ野郎、後ろに控えてるのを何だと思ってるんだ、遊園地じゃねえ、天下のカジノ・コスタールだぞ?男だったらひと勝負だ。きれいなお姉さんたちがい~っぱい」
マリベルの雄弁なひとにらみを浴びてペグは沈黙した。
「だから、なに」
震え上がった水夫たちに、アルスは前へ押し出されたかっこうになった。
「マリベル、あの、なつかしくない?」
「なんであたしがバニーのお姉さんをなつかしがらなくちゃいけないのよ」
「そうじゃなくて、ほら、マリベルがバカ勝ちした台があったよね。ラッキーパネルが一発で全部開いたのって初めて見たよ」
「……」
マリベルはきびすを返した。
「お嬢さん」
「おなかがすいたわ。宿は後」
そう言って、カジノへ向かってすたすたと歩き出した。
「よろこべおまえら、お許しが出たぞ」
ボルカノの言葉に水夫たちはいっせいに安堵のため息をついた。