グランバニア城の長い廊下を、八歳のローリと双子のローズが楽しそうに歩いていた。
「お母さんが、お母さんが、お母さんが、いる」
「お母さんに、お母さんに、お母さんに、あえる」
二人とも嬉しさのあまりデタラメな歌を歌い、歩きながら踊っていた。
グランバニア王アベルが王妃フローラを大神殿から救出してから数日がたっていた。アベルは冒険を一時中断してフローラの養生を見守ることにしていた。おかげでグランバニアの双子、ローリことフロリオ王子とローズ王女は、昔からあこがれだった「お母さんのいる日々」を満喫していた。
フローラは、王妃付きの侍女たちのアイドルだった。実は双子の生まれる前からそうだった、と聞いてローリもローズも驚いた。
「お帰りをお待ちしておりました」
眼をキラキラさせた侍女たちが女主人のために繊細でぜいたくな衣装を取り揃え、熱心に着替えを手伝い、髪を結いあげ、アクセサリを選び、化粧を施し、うっとりと眺める、という情景がほぼ毎朝繰り返されていた。
「なんてお綺麗な……」
「お似合いになりますわ」
誉めそやされてもフローラは、ヘンに謙遜することなく、嬉しそうに答える。
「まあ、ありがとうございます」
メイドたちを従えたフローラがグランバニア城内を行くときは、王妃の行幸というよりも、仲の良い乙女たちが笑いさざめいているような明るさ、朗らかさがあった。
今日のフローラは体調がよいらしく、徒歩でサンチョの家を訪ねることになっていた。
サンチョの住む家は城の敷地の中にある一軒家だった。家事全般が得意なサンチョのおかげで家はきれいなもので、特に今は前庭の花壇に早咲きの植物が可憐な花をつけていた。
前庭で作業をしていたサンチョが、近づく一行を見つけて飛び上がった。
「フローラさま!こんなところへわざわざお越しとは!さあさあこちらへ。お供の娘さん方もお座りください。お茶がよろしいですか?それとも蜂蜜酒?」
庭に出したテーブルの椅子を引き、クッションを並べ、サンチョはばたばたしていた。
くすくすとかわいい声をあげてフローラは笑った。
「サンチョさんに会ったら、おうちへ帰ってきた、っていう気がしてきました」
ははは、とサンチョも笑った。
「こんな爺の顔でよければいくらでもご覧になってくださいよ。おおそうだ、このあいだ作った焼き菓子に果実酒を沁み込ませておいたのです。そろそろ食べごろですな。おあがりになるでしょ?」
「はいっ」
メイドたちも顔を輝かせている。青空の下、サンチョ自慢の花壇の前で、お茶会が始まった。
「おやおや、にぎやかだと思ったら」
城のほうから、兵士の一団がやってきた。先頭にいるのはグランバニアの宰相オジロンと、その娘のドリスだった。
「これはオジロン様にドリス嬢様。よいお日和で。ごいっしょにお茶はいかがです」
「ごちそうになるよ、サンチョ。いやいや、フローラさまがお元気になられてよかった」
フローラは花のような笑顔で応じた。
「オジロンさまには、すっかりお世話になりました」
「これは恐れ入ります」
ローズはそっとローリの袖をつまんで引いた。
「見て、ドリスお姉ちゃんが」
ローズとドリスは、いっしょに筋トレをするほどの仲良しだった。そのドリスが半分ぼうっとしてフローラを眺めていた。
くすっとローズが小声で笑った。
「ドリスお姉らしくない」
「でもぼく、気持ちわかるな」
「あたしも」
ローリとローズは顔を見合わせてちょっと笑った。とても若くて綺麗な「お母さん」という存在が、二人にはまぶしいくらいに嬉しくて、尊い存在で、要するにちょっと自慢だったのだ。
サンチョの花壇のお茶会はよほどにぎやかだったようで、オジロン親子のあとからも、兵士、庭師、料理女等々、城の人々が詰めかけてきた。お帰りなさい、ご無事でよかった、心配していましたよ、そんな声がいくつも聞こえた。フローラはひとりひとりに笑顔で応じていた。
「みんなお母さんと話たがってるのね」
ローズの言葉に、ローリは答えなかった。
「ローリ?」
ローリは、にぎやかなお茶会とは別の方向を眺めていた。
「ローズ、あれ」
ローリが指しているのは、緑の植え込みだった。その上の方で、何やら紫色のものがゆれていた。
「お父さんじゃない。何してるのかしら」
どう見てもそれは父のターバンだった。それはいきなり植え込みの中に引っ込んで消えた。
「あ、逃げちゃった」
双子は顔を見合わせてうなずきあった。そっと中座すると、植え込みに近寄った。
「お父さん?」
植え込みの奥には、大きなキラーパンサーがうずくまっている。その陰に隠れるように、父のアベルがいた。
「……」
アベルが極端に無口だということに、双子はもう慣れていた。サンチョたちに聞いた話では、祖父のパパスもいたって口の重い男であったらしい。
「お母さんのとこへ来たいの?」
アベルは地べたにうずくまり、膝を抱えて座り込んでうつむいている。チロルがみにゃあ、と鳴きながらアベルの頭を鼻づらでつついていた。これでもアベルはこの国の王で、六尺豊かな長身に戦士の筋肉をまとう、おそらく地上最強の男なのだ。ローリとローズはためいきをついた。
「人がいっぱいいて怖いの?」
アベルはふるふると首を振った。上目遣いに少し顔を上げると、浅黒いほほに血の色を上らせて、唇を噛んだ。
「えっ、お父さん、お母さんに甘えたいの?!」
ローリが言うと、アベルは赤面したまま、こくんとうなずいた。
「ローリ、よくわかるわね」
「うん、まあ、ほら、ぼくも、おしゃべり、苦手だからさ」
ローズは父に向き直り、伯母のデボラ譲りの容赦ない正論をぶつけた。
「お父さん、しっかりしてよ!お母さんと話したいなら、自分でそう言わなくちゃ!」
一瞬、う、という表情になったが、のっそりとアベルは立ち上がった。だが、なかなか足が動かないらしかった。
「しかたないわ。あたしがサンチョさんに話をするから、ローリはここまでお母さんを連れてきて」
「うん、わかった!」
なんだかんだ言ってローズは世話焼きだな、とローリは思う。見ていると、ローズがサンチョに駆け寄って何か耳打ちした。
みなさん、とサンチョが両手を広げて言い始めた。
「テルパドールからいいコーヒーを手に入れたのを思い出しました。ひとつ味見といこうじゃありませんか。さあさあ、入って入って」
屈託なく言うと、人々をどんどん自宅の中へ入れ始めた。
そのすきにローリは母に駆け寄った。
「お母さんはこっちへ来て?」
「あら、どうしたの?」
ほら、あっち、とローリが指で示した。植え込みではまた紫のターバンがゆらゆらしていた。
「アベルさん!」
フローラは植え込みのほうへ走り寄った。
「アベルさん?」
アベルは何も言わずにフローラを抱き寄せた。
フローラは、小さな両手で夫の顔をはさみこんだ。アベルとフローラは互いの目をのぞきこんだ。
「忘れるわけがないじゃありませんか」
「……」
「サンチョさんも、オジロン様も、ドリスさんも、他の人もみんな好きです。でも一等はアベルさんです」
「……」
「はい、知ってます。朝からずっと、でしょう?」
「……」
ローリと、サンチョのところから戻ってきたローズは、物陰からようすを見ていた。
「なんで会話が成立してるの?」
「お母さん、すごすぎ」
双子にもわかっていた。母の横顔が、とても幸せそうなのだ。朝からそれまで他人に見せていた笑顔にも嘘はなかったが、今アベルにだけ見せている顔こそが真実なのだろうとローリたちは思った。
「アベルさん、抱っこしてくださいませんか?いつか、してくださったように」
傍ではゆったりとチロルが身を伏せている。その体にもたれてアベルは座り込み、膝の上に妻を抱え込んだ。フローラは両手を夫の胸にあて、その間に自分の頬をくっつけた。
「私、幸せです」
ん、とアベルがうなずいた。嬉しそうに目を細め紅潮しているアベルもまた、この上なく幸せそうだった。
了(2023年2月6日twitter上のイベント「フローラの日」のために)