主ヘン十題 4.翠緑 前編

 金属であるはずのそれが、絹のリボンにしか見えない。
 黄金の装身具は、ラインハットが古来、得意とする、美しい工芸技術だった。
「わが国の彫金、工芸技術は、昔からたいへん水準が高く、すばらしい作品がいくつも残されています。もともと金の装飾品は権力を表し、使用している金の重さで装飾品の値打ちを測ったのですが、中世後期の天才ラディーニは、それまでの重厚な装身具を一新して、デザインそのものに価値のある繊細なスタイルを創始しました。
 当時の傑作のひとつが、この、『アデルの首飾り』です。ラディーニは当時、ディントン大公の庇護を受けて、それまで師事していた工房から独立していました。この首飾りは、ラディーニがディントン大公の依頼で、大公の兄エリオス六世の妃、アデル王妃に献上するために製作したものです。
 ラディーニは惜しみなく黄金を使用して、金の薄板を、花結びにしたリボンのような形に加工し、その上に金の小粒をちりばめました。リボンの中心とフリンジの部分に、エメラルドを全部で12個とりつけています。金と緑は、ラインハット王家の紋章に使われるため、王国のテーマカラーだったのです」
「ここだけ一箇所、色が違いますね?」
「実は、アデル王妃が、この部分をむしりとったと言われています」
「アデル王妃、というと、後の太后アデルですね?怪物だったという」
「そのとおりです。アデル王妃にこの首飾りが献上されたとき、アデルの義理の息子、ヘンリー王子が、いたずらをしたのだそうです。えりぐりにみみずを入れた、とか。王妃が驚いてみみずをとろうとしたときに、首飾りもいっしょにむしりとり、それで壊れてしまった、と伝えられています。変色は、後に修理をしたところです」
「ヘンリー王子?」
「のちのオラクルベリー大公ですね。面目躍如というべきでしょう。しかし、かわいそうなのはラディーニでした。この事件のおかげで王妃ににらまれ、ラディーニは、狙っていた国王お抱えの飾り職人になれませんでしたし、少しあとでディントン大公も刑死して、パトロンがいなくなってしまったのです。ラインハット政変がおきるまでの数年間、ラディーニは元の工房にも戻れず、仕事もなく、どこでなにをしていたか、まったく不明です」

 ラインハットに雨が降る。
 湖から城の周りのお濠へ水を引き込むための小さな運河にかかる橋の上で、ラディーニはじっと暗い水面を見つめていた。小さなミルククラウンが絶え間なくできていた。
「これが本当に、本当の、最後だからねっ」
せっぱつまった声で女房が言った。
「ほんとに、やり直す気はないんだね?」
「おれは、もう疲れた」
ラディーニは、顔も上げずにそう言った。
「何が天才ラディーニだ。人間苦しくなると、金も宝石もいらねえもんだ。エメラルドじゃ腹はくちくならねえしな」
 降り続く雨のおかげで川の水は濁り、だいぶ増えていた。
「おめえも、もっと稼ぎのいい職人を見つけていっしょになってくれよ」
「そんなこと、聞いてんじゃないっ」
女房がどなった。
「おまえさんさえやる気をだすんなら、あたしゃどんな貧乏暮らしだって笑って過ごせるんだ。けど、なんだい、そのざまは!最後に糸鋸を持ったのは、いつだった、え?あんなにすごい職人だったのに!おまえさんいったい、いつまでへこんでんだよっ」
「おれは、もう、だめだよ。つかれちまった。王家のお抱え職人にはなれなかったし、ディントンの殿様は亡くなった。もう、どうにもならねえよ」
 風が出てきたようだった。びしょぬれのラディーニ一家を、無常な横風がなぐりつけた。風雨の中に女房の泣き声がまじった。
「おまえさんって人は……こうしてやるっ」
いきなり女房は手に持っていた木の箱を、橋にたたきつけた。ラディーニの道具箱だった。ディントン大公が亡くなって一家が路頭に迷っても、女房はこの道具箱だけは絶対に金に換えようとしなかった。
 道具箱は橋の上にころがった。力任せに女房は、箱を水面に向かって蹴りだした。
「なんだい、なんで黙ってるんだよっ」
ラディーニは、ぼんやりと沈む木箱を見ていた。心のどこか奥に鈍い痛みがあり、同時に何か安心したような気がした。おれはとうとう、宝石職人じゃなくなったんだ……
 女房は、まるで侮辱されたかのようにかっとした。昔のラディーニが大切にしていたものを、次々とたたきつけ、踏みつけ、蹴り落とした。鬼女のようなその形相を、少しはなれたところで小さな息子がおびえた目で見ていた。
 金属細工の型、羊皮紙を束ねたデザイン帳、細工場で使う前掛け。こんなもんまで女房は大事にとっておいたのだ、と、ラディーニは、人事のようにそう思った。
 女房の木靴の底で、麻袋がざりざりと音を立てた。一部が破れて、中身が転がり出た。エメラルド、翡翠、孔雀石、緑瑪瑙……
「こんなもん、こんなもん!」
暴れながら女房は泣いていた。
「おい、そいつは昔使った石の残りだ。そんなにしないで、持っていってくれ。少しは暮らしの役に立つ」
「バカにおしでないよぉっ!」
そう叫ぶと女房は、やっと背を向けた。
 ラディーニはのろのろと動き、小さな麻袋を取り上げ、幼い息子の手に握らせた。
「母ちゃんを、頼んだぞ」
息子は、悲しい目で見上げた。
「父ちゃんは来ないの?」
「ランドル、行くよっ」
鋭い声で母親に呼ばれて、息子のランドルは歩き出した。大小二つの人影が、激しく降る雨の中を遠ざかって行った。
 ラディーニは、二人が振り返るのを恐れるように橋を渡りきり、土手を下りて、橋の下へもぐりこんだ。
「ごめんな」
小さく言ってみた。厚いかさぶたで覆ったような心は、はしがめくれて、血を流している。橋の下の濁流が早くおいでと誘っていた。ラディーニは自分が死ぬ理由をもう一度声に出してつぶやいてみた。
「人間、ぎりぎりまで苦しくなると、金も宝石もいらねえもんだ。エメラルドじゃ腹はくちくならねえ。ただきれいなだけのもんなんて、役立たずだよ」
誰かが答えた。
「そんなことねえさ」
驚いてラディーニは飛び上がった。
 若い男の声が、もう一度聞こえてきた。
「悪いな。おれ、さっきからここで雨宿りしてたんだ。今、面の割れていない相棒が宿を探しに行ってるんでね。それで聞こえちまったんだ、いろいろと」
どうやらその若者は、橋を支える太い柱の、向こう側にいるらしかった。
「別にかまやしねえ。けど、身投げのジャマはしないでくれ」
皮肉たっぷりに言ってやった。
「ああ、承知した」
あっさりとその若者は言った。
「でも、これから死のうってやつからモノを盗んじゃ寝覚めが悪いからな。これ、返しとくぜ」
柱の向こう側から、ぬっと手が突き出した。その指がつかんでいるのは、さきほど女房が投げ捨てた、ラディーニのデザイン帳だった。
「風で、ここへ吹き寄せられてきたんだよ」
ラディーニは、デザイン帳を受け取って、ちょっとためらった。
「中を見たのか?」
「ん?まあな。さ、返したから、もういいぞ?さくさく死んでくれ」
ラディーニはもう一度川の前に立った。が、さきほどラディーニをひきこもうとした魅力は、どうしたわけか、半減していた。
「おい」
「ああ?まだいたのか」
ひどい若造だ、とラディーニは思った。
「その、デザイン、どう思う?」
「おいおい、あの世へ行くんだろ?聞いてどうするよ」
「気になるんだよ」
「そんなもんかね。あんたの考えじゃ、役に立たないんだろ?ただきれいなだけのもんは」
「おまえさんはさっき、なんとか言ってたな。ええと」
「おれ?ただきれいなだけのもん、ていうのも、役立たずじゃない。そう思ったからそう言ったまでだ」
「そう、思うのか?本当に?」
柱の向こうで、若者は座りなおしたようだった。
「おれ、ちょっと以前に、死のうかと思ったことがあったんだ。ひどいところにいてさ」
小さな沈黙のあとに言葉は続いた。相変わらず、雨は降り続いている。
「一晩かけて数人がかりで、徹底的に痛めつけられてみろよ。自分がどんなにちっぽけで、虫けらみたいに無力か、よくわかる。自分ってものさえどこにあるかわからないみたいだった」
ラディーニは、若者の声の底に潜む何かに、冷やりとするような戦慄をおぼえた。
「その夜、放り出されたままで、おれはぼうっとしてた。そうしたら、いつのまにか、夜明けになってたんだな。外が少し、明るくなってた。おれは外の岩場に出て、谷底へ飛び込んじまおうと思った。そのとき、崖の下から、何かが上がってきた。
 今思えば、翼竜タイプのモンスターだったんだろう。真下から垂直に上がって来て、さらに上へ、上へ、すごく大きな円を描いてぐるりと回転した。小鳥のようなかわいい羽じゃないんだが、黒っぽい革の翼が、力強く、なめらかに、ほんとにきれいに動いていた」