グランバニアからの手紙 第二話

 ラインハット城の国王居住区のすぐ近くに、国王の生母アデル太后がひっそりと暮らす一角があった。小庭園によって宮廷のざわめきから離れ、俗塵をまぬがれた一種の離宮だった。
 宮廷貴族たちがあやしげな交誼を求めて離宮を訪ねても、心きいた年配の侍女たちが言葉だけはやわらかく、しかし断固として追い返す。今もなおじゅうぶんに美しい太后は、小鳥と手芸を友として穏やかに老い、たまに病弱な息子を見舞う という毎日を送っていた。
 白いタイルに青で描かれた波型十字模様のうえに午後の太陽が柔らかい光線を落としている。ポーチをへだてた庭園には小鳥のためにえさ箱がおかれ、わざと刈り残した草むらに草の実が落ちていた。
 ポーチの向こうに侍女が現れ、ささやくように告げた。
「太后様がお会いになります」
ネビルがついていこうとすると、侍女がとがめた。
「大公殿下お一人だけ、お入りくださいませ」
ヘンリーは片手でネビルをとめた。
「大丈夫だ。ここで待っていてくれ」

 オラクルベリー大公ヘンリーは、小鳥の鳴き声しか聞こえない静寂の離宮に足を踏み入れた。侍女が表情を殺して一礼した。
「ご案内いたします」
ヘンリーの反応は、思わず引き込まれるような微笑だった。
「ありがとう。以前から義母上のところで見かけるね。御名前をうかがってもいいかな?」
 セイラはめんくらった。
 王妃時代のアデルに仕え、一時はひまをもらったものの、またお呼びがかかってこうして太后の侍女を務めている。セイラに名を聞いた訪問者は、ヘンリーでやっと二人めだった。
「セイラでございます」
「セイラさんか。義母上は最近お元気でいらっしゃるのだろうか?」
 ラインハット王家の子どもたちは、たいてい器量良しだった。特に王子たちは例外なく美形に育つ。
 ただしどういうわけか、無責任でお調子者で、遊び好きの女好きという厄介な性格もいっしょに受け継ぐらしい。
 いっそ、そんな欠点さえいかにもラインハット男らしい魅力のうち、とセイラには思える。そしてセイラにとって、最高のプリンス・チャーミングは、亡くなったエリオス六世だった。
 セイラは、女主人がかつてどれほどの激しさでエリオス国王とデール王子を愛したかを知っていたし、同じ情熱のありったけを傾けて継子のヘンリー王子を憎んだかも知っていた。アデルがヘンリーを売り渡した事もうすうす察していた。
 それを思えば、いくら国民に絶大な人気を得ているとはいえ、いきなりヘンリーに心を寄せる事はセイラにはできなかった。が、成人したヘンリーは、あまりにもエリオス六世に似ていた。
 顔立ちよりも、声や姿に共通点がある。斜めから光の差すポーチに一人立つヘンリーを見たとき、セイラはひそかに、背筋に鳥肌をたてた。
「今日は刺繍に、興が乗っておられるごようす」
セイラはようやくそれだけ言った。
「なにとぞ、お静かに」
 セイラは先に立って廊下を導いていった。アデル太后はいつものように、居間で、木の枠に張った布に色糸を刺していた。
「大公殿下がおみえになりました」
アデル太后は目を上げた。
「お久しいこと、ヘンリー殿」
刺繍を脇において、太后は手を差し出した。ヘンリーはためらいなくかがみこみ、その手を取って甲に唇を触れた。
「ご無沙汰して申し訳ありません、義母上。おうかがいしたいことがあって、参りました」
「世を捨てた、わらわに、か?」
太后はわずかに微笑んだ。ヘンリーはすぐそばにすわりこみ、太后の手を取って自分の手で包みこんだ。
「十年ほど前の事です。サンタローズから来た旅人がはじめて城へ現れたとき父上がなんと言っていたか、覚えておられませんか」
太后はためいきをついた。
「それは思い出したくない時代の事。残酷な事を聞かれることよの」
「御願いです」
ヘンリーは真剣な目で見つめた。
「今おれが頼れるのは義母上しかいません」
太后はしばらく宙に目をこらして記憶をたどっていたが、やがてぽつぽつと話し出した。
「陛下は、遠いところから古い友人が来てくれた、とおっしゃったように思う」
「それから?」
「そうとうの堅物だが女を見る目はあって、奥方はたいそうな美人だと。それでわらわが気をもんで、どんなお方かとお尋ねしたら」
太后は自嘲に近い微笑をもらした。
「『世間並の女ではない』、でありましたか。その奥方は不思議な目をしている、と」
「まちがいない」
とヘンリーはつぶやいた。
「ほかには?」
「あとは冗談に紛らせておしまいになった、と思うが、セイラ、何か覚えているかえ?」
セイラは咳ばらいをした。
「『誰しも女では苦労する』というような事をおっしゃったように存じますけど」

 四隅に柱を立てて天蓋で覆った寝台の上から、猫の鳴くような声がしていた。 マリアは、生後半月ばかりの息子を抱き上げてあやし始めた。
「こんなに何もかも小さいのに、よく生きてんな、こいつ」
「ええ。壊れやしないかと思います」
 存在することが奇跡のように見える赤ん坊の五指に、マリアは自分の指を触れさせた。赤ん坊は母親の指をきゅっと握り締めて泣き止んだ。
「デールが名前の一覧表を作ってよこしたぞ。そのなかから、いいのをいくつか選ぶ事になってるんだけど、見た?」
赤ん坊を抱いたマリアは、寝台にヘンリーと並んですわり、世にも大切で楽しい作業にしばらく没頭した。
「ここでこんなに油を売っていてもいいのですか?」
「ほっとけ」
ヘンリーは威勢よく言ったが、そのまま黙りこんだ。
「なあ、パパスさんのこと、マリアはどう思う?」
「グランバニアの方だった、という証拠はつかめなかったのでしょう」
「だめだった。けど、親父の友達だったんだから、とりあえず名もない庶民とは考えにくい。一目見ればわかるよ。あの人はただ者じゃなかった」
ヘンリーはため息をついた。
「いったいおれの友達は、どこの誰なんだろう。考えてみればルークのことも、パパスさんのことも、おれはなんにも知らないんだ」
マリアはそっと夫の肩に顔を寄せた。
「出身地がそんなに大事ですか?あなたとルークさんの、お父さんどうしが友達だった。すてきなことだと思います」
ヘンリーは、他人にはめったに見せない表情でマリアの肩を抱きよせ、ぽつりと言った。
「ルークんとこに子供が生まれたら」
「はい?」
「このちびと友達になるかもしれないな」
「ビアンカさんのお血筋ですもの。きっとかわいらしくて、頼もしいお子さんですよ」
「おれたちみたいに何もかもうまく行っていれば、あと何ヶ月かで生まれるはずなんだがな」

 半月後、再びラインハット城会議室で、最高会議が開かれた。前回の会議で出された課題は、有能な閣僚によってよく消化されていた。一通り報告が終わると、宰相がグランバニア問題についてわかった事を報告した。
「では、特にグランバニアに関係する者は見つからなかったわけですね」
デールが要約した。ヘンリーは軽く頭を下げた。
「力及びませんでした。したがって、まったくのとびこみですが、グランバニアに良材を輸出してくれるように頼む使者を送らなくてはなりません」
ヘンリーが答えた、ちょうどそのときだった。侍女のエリスが会議室へ入ってきて、視線で合図を送った。
「どうした?」
「たったいま、ネビルさんが大公殿下へのお手紙を受け取られたようです」
賢いエリスは、ちらりとネビルのいる控え室のほうを見た。
「サラボナ経由で、ゆうべオラクルベリーへ着いたようなのですが、差出人がグランバニアになっておりますので、お知らせにあがりました」
ヘンリーはすぐデールのほうを振り向いた。
「陛下、御前会議の途中ですが、ここで読んでかまいませんか」
「ええ。グランバニアのほうからよこした手紙なら、議題とも無関係ではありませんからね」
エリスがひっこむと、かわって、あわてたようすのネビルが羊皮紙の巻物を持って現れた。ヘンリーの従僕ジュストは、ここ数日休暇をもらって実家に帰っていた。おかげで秘書のネビルがしぶしぶ雑用をこなしている。ジュストだったら、エリスに言われるまでもなくすぐに手紙を持ってきているはずだった。
 見慣れない封印をはがしてヘンリーは巻物を広げ、視線を落とした。
 そのままヘンリーは一言も言わなかった。
 会議室には沈黙が落ちた。
 ヘンリーは、ほうけたような表情でじっと文面を見つめていた。
 イェルドが咳払いをした。
 ヴィンダンとユージンが顔を見合わせた。
「大公、グランバニアからは、なんと言ってきたのですか?」
雰囲気を察して、デールが尋ねた。ヘンリーは気づかないようすだった。
「大公?あのう、兄上?」
兄弟だけならば知らず、余人を交えた場所で、ヘンリーが主君である弟を無視するのは、初めてだった。デールは上座を離れて兄に近寄った。
「ねえ、兄さん、どうしたの?」
ヘンリーはぼんやりと弟の顔を見た。それからいきなり目に理解の光が宿った。
「デール!やったぞ、全部解決だ!やった!」
そのまま息も止まれとばかりに抱きしめた。デールは目を白黒させた。
「殿下、殿下、そのようにされては、陛下が」
あわてたオレストがヘンリーを止めた。
「ルークだ。あいつ、王様になるんだ」
「はあ?」
「読んでみろよ。パパスさんはグランバニアの国王だったんだ。名君シルバヌス・ペレグリノール!ルークはその一人息子だ」
ヘンリーはばさっと羊皮紙をうちふった。
「オジロン殿禅譲により、グランバニア王ルキウス七世の誕生だ。ラインハット最高の友が、よりによってグランバニアの国家元首だ。こんな豪華なコネは聞いた事がない!」
オレスト始め閣僚たちは手紙の上に額を集めるようにして読んだ。一人、二人、やがて全員が、事態を呑みこむにいたった。
 息を吹き返したデール一世が穏やかに言った。
「では、誰を使者に派遣しますか?」
はしゃいでいたヘンリーが、はたと止まった。
「兄さんが自分で行きたいのでしょ?」
くすりとデールは笑った。
「オラクルベリー大公ヘンリーは直ちにグランバニアへ赴き、新王陛下にわが国からの慶祝の意を伝え、当会議の必要とする交渉を行う事。以上勅命を持って命じます」
ヘンリーはぱっと顔を輝かせた。
「御意!」
そう叫ぶや否や、気の早い大公は、準備に飛び出して行った。