ハッピーハミング 第二話

 パストルは目を細めてシルビアを見つめた。
「いや、あなたは、うわさに聞くスターのシルビアさんか。どこかでお目にかかったかな?残念ながら」
ため息めいた声でシルビアはパストルを遮った。
「もう二十年くらいたってるのね、アタシが息子さんのカイルと取っ組み合いのけんかをしてから」
カイルが、えっと言ってシルビアを見た。
「あの時もたしか、ホントなら俺がソルティコの主人だ、とかなんとか言って、アタシが訂正しろって怒鳴って、それで喧嘩になったんじゃなかったかしら。ねえ?カイル?」
「えっ、だって、あれは……、えっ?」
シルビアはくすっと笑い、かすかに目を細めてキスをせがむかのように唇をかるく尖らせた。
「ゴリアテよ、アタシ。気付かなかった?」
パストルとカイルは、口をぱかんと開け、目玉が飛び出しそうな顔になっていた。
 グレイグは笑いそうになったのを咳払いでごまかした。旅芸人シルビアの正体に気付いたときに俺がどれほど衝撃を受けたことか。
「ほどほどにしておけ、ゴリアテ。今のおまえから昔のおまえを思い出すのは絶対に無理だ」
つん、とシルビアは横を向いた。
「そんなの、鈍感だけよ」
ジエーゴがにやりとした。
「俺はひと目でわかったぞ?」
「ほら、見なさい」
 勝ち誇ったジエーゴ親子の前でパストルはどうにか顎をもとに戻した。
「は、はは、ジエーゴ様は見かけによらず冗談がお好きなようだ」
「そうですよ。シルビアさん、ゴリアテはあなたのように華奢ではなかったです」
きゃしゃ?とつぶやいてシルビアは珍しく絶句した。片手を自分のほほにあて、とまどったように周囲を見回した。
「ああ、その、パパとグレイグとアリスちゃんが周りにいると、さしものアタシも少しは小柄に見えるかしらね」
そしてのどぼとけを真珠のドッグカラーネックレスで隠し、たくましい肩と上腕をストールで覆っていると、一見男か女かわからない。グレイグはある意味感心していた。
「困ったわ、パパ。ここではしたない真似もできないし」
「しかたねえ。着替えてきな」
「ええ、そうします。失礼するわね、カイル、それにパストル小父様」
アリスを引き連れてシルビアが席を立った。

 イレブンの判断は早かった。
「マルティナ、かまわないからシルビアのドレスひっぺがして化粧落として。ベロニカ、セーニャ、一緒に楽屋でシルビアの着替えと髪を手伝ってくれる?」
「いいわよ。着替えはどこ?」
のみこみのいい女子組はもう椅子から立っていた。
「アリスさんに頼んで馬車出してもらって、ホテルまで装備一式取りに行く。カミュ、いっしょに来て」
「おう」
「あとは、あの人たちがジエーゴさんを責めたてるのをグレイグさん一人で防ぐのは無理です。おじいさま、お願いします」
ロウはにんまりした。今夜はカジノへ遊びに行くためにおしゃれな先王装備で固めていた。
「どれ、年の功を見せてやるとするかの」
全員が動き出した。

 パストルの子、カイルにとって、ジエーゴ父子は常に目の上のたんこぶだった。パストルの一族はソルティコの住民だった。昔デルカダールの名門がソルティコ守護のためにこの地へ子弟を派遣したあと、王都に残った本家はほとんど血筋が絶えてしまった。その末につらなる人々がソルティコの分家を頼って移り住んだのが、パストルの家系のはじまりだった。
 現在パストルはなかなか成功した商人であり、カイルはその跡取りだった。パストルの扱う商品は王都からの認可が必要だったのだが、最近王都とのパイプが途絶えてしまい、認可が取り消され、商売の行く末が微妙になってしまった。パストルの目が次期ソルティコ領主に注がれたのは、必然だった。
「ジエーゴ殿、久しいの。わしじゃ、ユグノアの隠居じゃ」
 シルビアの去ったテーブルに新たな客がやってきた。パストルの長広舌にうんざりしていたジエーゴは、その声を聴いて顔が明るくなった。
「おお、ご隠居か。これは奇遇。ご一緒にいかがかな?」
「願ってもない」
パストルたちが口を挟む間もなく、隠居と名乗った小柄な老人はテーブルへ座り込んだ。
「ちょ、今、取り込み中で」
パストルが言うより大きな声で老人はウェイターを呼びつけた。
「メニューの上から順番に持ってきてくれんかの。ジエーゴ殿、今夜はとことん呑もうぞ」
「受けてたとう!」
 そのあとはパストル父子にとって悪夢のようだった。パストルかカイルが養子のよの字でも口にしようものなら、すっかり寄って赤くなった隠居がぺらぺらとしゃべり始める。そこへもってきてソルティコの音に聞こえた頑固親父がからからと大笑いで応じてすっかり収拾がつかなくなるのだった。
 せめてグレイグの同意を取り付けようとそちらへ話をふっても、はかばかしい反応をよこさない。にもかかわらず、妙ににやにやした顔でこちらを眺めているありさまだった。
「ジエーゴ殿!私は本気で……」
ついにパストルが声を荒げた。
 カジノフロアに足音がした。また客か、と思いカイルはふりかえった。その客はつかつかとやってきて、ジエーゴに声をかけた。
「遅くなりました……」

 楽屋は台風が過ぎ去った直後のようなありさまだった。大きな姿見の前でシルビアはカリスマスーツを身に着けてバランスを点検していた。
「こんなもんかしら」
マルティナはカリスマスカーフを手に取った。
「腕出して?結ぶから」
「お願い」
片腕を差し出してシルビアはくすん、とつぶやいた。
「アタシのドレスちゃん~。パパがつくってくれた、特注のドレスちゃん~」
マルティナはくすくす笑った。
「ほんとに綺麗だったわよ。でもスーツも素敵。元気だしてよ、シルビア」
腕に赤いスカーフを結ばれて、シルビアは肘を曲げて腕の動作を確かめた。
「アタシが一番頭に来てるのはね、あいつらが言ったのは本当だってことよ。パパのあとにソルティコを守る人がいないの」
シルビアの言葉はマルティナの胸にも小さなトゲとなって存在している。もしマルティナが自分の望むままに道を進むなら、父のモーゼフ・デルカダール三世には、後継ぎがいなくなるのだ。
「あいつらにはアタシがかっこよく、“ソルティコはアタシが守るんだからほっといてちょうだい”ってタンカ切れればいいんだけどねぇ」
「でも、ジエーゴ様はシルビアに、自分の騎士道を貫けと言ったんでしょ?」
それはマルティナにとって、少しうらやましかった。
「そうなのよっ。だからムカついてるんじゃないの」
はぁ、とシルビアはため息をついた。
「シルビア……」
いつも陽気に盛り上げてくれるシルビアに、マルティナはどう声をかけようか迷った。
 ふっとシルビアが肩の力を抜いた。
「大丈夫よ、マルティナちゃん。とりあえず、あいつらがパパにおせっかい焼くのを止めさせるのもアタシのジャスティスなの」
「そうね。ソルティコの未来はジエーゴ様の胸一つ。少なくともあの人たちが決めるものじゃないわよね」
「そうですとも!」
シルビアはすらりと立って、スーツの襟を指で締めた。
「さ、芸人シルビアの、第二幕を始めましょうか」
「ちょっと待って」
マルティナは化粧パフとアイブロウ、櫛を手にした。
「シルビア、少しかがんで……これでどう?」
いつも持ち歩いている丸い手鏡でシルビアは修正を確認した。口元が笑いの形になった。
「いいわ。これ、最高。じゃ行ってくるわね」

 やってくるのは、背の高い男だった。金の縁取りのある明るい青緑の上着と白いパンツというかっこうで、広い肩幅と厚みのある胸板、長い足、堂々として姿勢のいい立ち姿が印象的だった。
 彼はジエーゴのテーブル目指してまっすぐにやってきた。数歩の距離で立ち止まり、声をかけた。
「遅くなりました……父上」
ジエーゴがにんまりした。
 カイルは身をひねって彼を見上げた。背の高い男だった。端正な顔立ちの上に、上着が筋肉質の体型を強調している。肩から太いベルトをかけ、腰に佩刀していた。そして、あたりの注目がすべてこのテーブルに集まるほどのオーラを持っていた。
 カイルは彼の顔に昔の面影を見つけ、おそるおそるつぶやいた。
「ゴリアテ、か?」
「ああ。そう言っただろう?」
こともなげに彼は答えた。その声は低く、たいていの女がくらっと来そうな美声だった。
 ジエーゴは空いている椅子を指した。
「まあ、座れ。飲むか?」
「いただきます」
長すぎる足を組んで腰かけ、ブランデーグラスを手に取った。長い指の大きな手の中にグラスは握りこまれそうに見えた。
 カイルは十数年ぶりに見るケンカ相手をまじまじと眺めた。前髪の一部がジエーゴと同じように額に乱れ、見れば見るほどこの父子はそっくりだった。
 気が付くとあれほど饒舌だった隠居が完全に沈黙していた。どういうわけか、目を白黒させていた。そしてもう一人、デルカダールのグレイグも、喉に何か詰まったような顔だった。
「あ、お、お前は」
ゴリアテはグレイグの方を見て、口元をかすかにほころばせた。
「もう酔ったのか、グレイグ?」
ぶるぶるっと身を震わせ、デルカダールの将軍は不思議な動作をした。手からわざわざ白手袋を脱ぎ、その手で自分の目をぐいっとこすったのだった。

 イレブンはじめ残りのパーティは物陰からテーブルのようすをうかがっていた。シルビアが最初のひと声を発して以来、パーティは驚天動地の心境だった。
「びっくりした……」
と小学生並みの感想を勇者が漏らした。カミュが、ベロニカが、セーニャが、物も言えずにただコクコクとうなずいた。
 セーニャは両手で自分の顔をはさんだ。
「凛々しいシルビアさま、とっても素敵です」
 反則だろう、とカミュはつぶやいた。
「タッパがあってイケメンで気働きがまめで由緒正しいお坊ちゃまで稼ぎが良くて腕が立つって、てめぇてんこ盛りじゃねえか」
ベロニカは辛らつだった。
「あたしの知ってるシルビアさんじゃない。誰よ、アレ」
うふふ、とマルティナが笑った。
「シルビアは女顔なのよ。柳の葉みたいな細くて長い眉もお母さま譲りでしょうね。だからそれをファンデでつぶして少し太めのまっすぐな眉を上から描いて、髪型をジエーゴ様に似せたらああなったの」
「それだけ?ほんとにそれだけ?」
まだ信じられないようすでベロニカが言った。
「あの男声はシルビア本来の声でしょ。あとは演技力で“ジエーゴの息子”をあの場所に造りだしているわけよ」
「女装するときは理想の女を描くなら、今のシルビアさまは理想の男を描いているんですね」
とセーニャが言った。

 ジエーゴはにやにやしながらパストルを見た。
「さて、何の話だったかな?」
パストルは赤くなったり青くなったりしたが、口をきけないようすだった。
「いいかパストル」
とジエーゴが話し始めた。
「おまえはソルティコの守りについて誤解している。そろばん勘定だけじゃ町は守れん。俺が何のために騎士たちを養成してきたと思ってるんだ?ソルティコ騎士団はこの地方で最大の武装勢力だし、そのくらいの力がなければ水門守護はおぼつかねえ。内海の海賊が押し寄せてきたときにソルティコを守れるのか、お前に。お前のせがれに」
 すうはあと呼吸をしてやっとパストルが口を開いた。
「ゴリアテ君にはできるのですか!」
ジエーゴは息子の方を見て、言ってやれ、というしぐさで顎をしゃくった。
「できます」
一言でゴリアテは言いきった。
「では、ソルティコを一生守ると約束できるんですなっ!?」
言ったとたん、ジエーゴ父子が同時に冷たい視線をパストルに向けた。
「黙れ」
「差し出がましいな」
ぴたりとパストルは口をつぐんだ。空気が突然ひんやりと感じられた。カイルはなんとなく父に寄り添った。じろりとジエーゴがにらみつけた。
「倅が俺のあとを継がないとしても、こいつが俺のただ一人の相続人であることは変わらん。こいつがソルティコをどうしようとこいつの自由だ。いらぬおせっかいはやめてもらおうか」
えらく目力のある親子がそろって射殺すような視線を浴びせてくる。カイルはぞっとした。
「父さん、今夜は出直しましょう」
パストルも怯え切っていた。もたもたした動作で席を立った。ジエーゴが手をたたいてカジノのスタッフを呼んだ。
「お客がお帰りだ。出口へご案内してくれ」

 ぶつぶつとパストルはつぶやいていた。
「まさか、ジエーゴの息子が帰っていたとは」
大喧嘩をして出奔したと聞いていたのだが、ゴリアテの存在はパストルにもカイルにも、まったくの寝耳に水だった。
「馬車が来ていないな。今呼んできますから」
カイルはパストルを正面入り口に残して馬車だまりへ向かった。“ゴリアテよ、アタシ。気付かなかった?”、“ああ。そう言っただろう?”。頭の中で二つの声が響いた。
 あれ、とカイルは思った。結局どっちがゴリアテだったのだろう。ジエーゴに娘がいるとは聞いたことがなかったが、婚外子でもいたのだろうか。
 考え事をしながら馬車だまりへ来たとき、通路の前方に誰かいることに気付いた。背の高い人物が壁にもたれ腕を組んでいた。こちらへ顔を向けたとき、カジノ正面の灯りを受けて目が光っているように見えた。
 カイルは立ち止まった。先ほどまで同じテーブルにいたゴリアテにちがいなかった。
「カイル?」
カイルは身構えた。先ほどの冷たく見下すような視線が脳裏によみがえった。
 ゴリアテは腕を解き、壁を離れた。そのまますたすたとこちらへ近づいてきた。月光が通路の上から差し込み、ゴリアテを照らし出した。
 その場で彼は片手を腰に当て、重心をゆっくりずらしていった。すらりとした足が斜め前に伸びた。
 くす、と笑いが漏れた。片手で額に落ちた前髪を後ろへなでつけ、ゴリアテはつぶやいた。
「そうおびえなくていい……わよ、カイルちゃん?」
「は?」
声が変わった。“ゴリアテ”の声はなめらかに高くなり、あの歌手の声に近づいて行った。
「そうよ、“シルビア”よ。もう忘れちゃったの、おバカさんねぇ?」
近々と顔を寄せ、長いまつ毛の目をぱちんと閉じて見せた。
「パパとケンカしたあと、アタシは町を飛び出して旅芸人になったの。それが今のアタシ。今日はパパの誕生日だったものだから、カジノのショータイムのゲストになったのよ」
カイルはぽかんとしていた。
「では、本当に、二人とも」
「二人じゃないの」
片手を気取ったしぐさで胸に当て、シルビアは言った。
「アタシは一人だけよ?」
「戦えるとさっき言ったじゃないかっ」
カイルは思わずわめいた。
「おネェの旅芸人ふぜいが」
 シルビアの手がひらめいた。気が付くとカイルの顎の下の柔らかい場所に何か固いものが突きつけられていた。しばらく短い呼吸をしてやっとそれが鞭の柄だとわかった。
「おネェの旅芸人が強くて悪い?」
その柄でえぐるようにして、カイルの顔を上げさせた。
「戦えるわよ、アタシ。戦ったことあるもの」
間近に見るシルビアは美貌であり、半眼閉じた大きな目に長いまつ毛の、したたかな顔をしていた。
「アナタのパパに忠告しておいてちょうだい」
右手で鞭の柄を握り腰から背にかけて長い鞭を回し、高く掲げた左手で鞭の中ほどを掴んで先端をおろし、高みからカイルを見下ろしてシルビアは言った。
「今度ソルティコのジエーゴにうるさく言ったら、アタシが許さない、ってね」
カイルは後ずさり、喉をさすった。
「最強の騎士の跡取りが……恥ずかしくないのか」
シルビアは優雅に手の甲を口元にあて、高笑いをした。
「アーラ、どうして?アタシはシルビア、世界を笑顔にするスーパースターよ?」
カイルは手も足も出なかった。
「さあ、お帰んなさい。馬車ちゃんはあっちよん」
クソッと声に出してカイルは馬車に向かった。シルビアのそばを通り過ぎるとき、苛立ちにまかせて馬車だまりの止め木をつま先で蹴った。
 そのとたんに耳へ低くささやかれた。
「二十年前の喧嘩の続きをやりたいのなら、オレはいつでも相手になるぞ」
カイルは戦慄した。あわててふりむくと、シルビアがしなをつくってしゃなりしゃなりと去っていくところだった。

 テーブルにはジエーゴはじめ、パーティの仲間が全部集まっていた。
「おかえり~」
「お疲れ」
ねぎらう声に迎えられてシルビアはいそいそと席に着いた。
「妙なところを見せちまったな」
隣でジエーゴがそうつぶやいた。
「アタシもついむきになっちゃったわ。お誕生日だってのにね」
ふん、とつぶやいて頑固親父は腕を組んだ。何か言おうとして口をつぐみ、頭を振った。
「パパ?」
「さっきのステージな、お前、美人だったぞ」
「ホント?!」
シルビアの目が輝いた。ジエーゴは照れくさそうに横を向いた。
「ママにはまだ及ばんがな」
シルビアが人さし指を唇につけた。
「美人でママにかなわないなら、アタシは芸でママを超えるわ」
ジエーゴは腕を組んだまま笑い声をあげた。
「俺は、おまえが誇り高く生きてそれで幸せなら、何も言うことはねえ」
 パーティは、仲の良い親子の会話を見守っていた。シルビアはくすりと笑い、父の腕をやさしくたたいた。
「ありがと、パパ」
 ロウが声を上げた。
「さて、せっかくの誕生日じゃ。ここは乾杯でいかがかな?」
賛同の声が湧き上がり、ウェイターが呼ばれた。
「ジエーゴ殿の誕生日に!」
「麗しのガーベラに!」
「ソルティコの繁栄に!」
いくつもの声が上がった。
「乾杯!」
グラスがぶつかり氷がふれ合う音は、とても幸せそうな響きだった。