頬を伝う涙

「龍ノ啼ク箱庭拠リ」(by弱音P)二次創作

 森は静まり返っていた。沈黙は平安ではなく、嵐の不穏さをはらんでいた。
 王都の郊外にその森はあった。広大な地所のほとんどを、手付かずの森林が占めている。公道をそれて森へいたる道は途中で厳重に閉鎖されていた。関所めいた頑丈な石のアーチを設け、それを堅く閉じて太い鎖で封印している。にもかかわらず、そのアーチの上には、案内が掲げてあった。
「ラングレー館」、とあった。
 時刻は夕暮れを少し過ぎたあたりだった。大型の馬車が数台、その関所を目指してやってきた。陰鬱な太古の森、禁忌の封印に似合わない、明るくはしゃいだ声があがっている。馬車に乗っているのはまだ怖いものを知らない若者たちだった。裕福な身なり、傲慢な態度である。どうやら、馬車の中でそうとう飲んでいるようだった。一人の若者が馬車から降りて、カリカチュアのような派手な身振りで鎖の鍵を解き放った。鎖を落とし、アーチの下の扉を押し開ける。一斉に歓声があがった。 怖いもの知らずの甘やかされた少年少女は、次々と馬車をアーチの下へ乗り入れ、軽快な音を立てて奥へ走り去った。烏の群れがいっせいに飛び立った。

 パーティをやろう、と言い出したのは誰だったのかわからない。ミゼル一族の若い世代の一人で、その年かその前の年に社交界へデビューした者だったのだろう。
「年寄りにつきあうのはバカらしいじゃないか!」
「酒をたくさん持っていこう!どこかみんなで騒げるところへ行って、一晩おもいっきりはめをはずそうぜ!」
 ロンドンにあるミゼル一族の豪壮な大邸宅には、シーズンの最初の大舞踏会のために一族が集まっていたのだった。舞踏会は厳格なマナーを守って行われる。それにあきたらない若者たちの中からたちまち賛同者が現れ、話はどんどん具体化していった。
「どこかいいところないか?ロンドンじゃだめだ。一晩で行って帰れるくらいの田舎で」
そして誰かがそのとき、致命的な一言を言ったのだった。
「ラングレー館はどうだ?」
ミゼル一族の若者たちはあっと言った。
「あれか?前の当主様が隠居していた」
「今は誰もいないだろ?」
彼らは互いに目で探りあった。そこに居合わせた若者、ミゼル一族ではないが一族と親交のある若い男爵が不思議そうに聞いた。
「ラングレー館?なんだそれ?」
誰かが答える前に、あまり頭のよくなさそうな娘がつぶやいた。
「幽霊の出る古い家でしょ?それとも、殺人鬼だっけ?」
あはははっと声を上げて笑った者がいた。
「ひどいなあ!」
屈託のない声だった。明るい青い瞳が彼らを見ていた。
「大伯父様は確かに人嫌いで変わり者だったけど、おばけでも人殺しでもないよ。芸術家ってところかな?ラングレー館にはもう10年以上誰も住んでないんだ」
娘は唇をとがらせた。
「なんだ、つまんない」
「幽霊を見たかったの?でも、大伯父様や、その前の当主が残したものならあると思うよ?不気味な絵とか彫刻とか」
くすくすと少女たちが笑った。
「そういうのちょっと、いいんじゃない?」
「そうね、変わった趣向だわ」
たがいにひじでたがいをつつきあった。
「あなたもいくでしょ?カイト?」
「どうしようかなあ」
すっかり飲む気になっている若い紳士が言った。
「おいおい、お前が行かなきゃ、ラングレー館の鍵を開けられないじゃないか」
「カイヤナイト・ミゼル!一族で鍵を渡されてるのはおまえのとこだけだろ?」
にこっとカイトは笑った。
「そんなことないよ。亡くなった先代、大伯父様の兄弟はみんな鍵を継承したんだ」
カイトはちょっと視線を横へ向けた。緑の巻き毛を大きな縦ロールにした美しい少女が、仲の良い女友達としゃべっていた。
「ねえ、ミク?」
彼女は気付かないようだった。
「ミカエラ・ガブリエラ!」
「え、なあに?」
花がほころぶように彼女は笑った。
「ラングレー館の鍵を持ってるだろ?」
「ええ、おじいさまから受け継いだわ。ねえ、本当に行くの?開かずの館じゃなかった?」
「だからおもしろいんだ!」
「ミクも行くだろ?」
親類筋に当たる若者たちが口々に言う。しかたないわね、という顔で彼女はうなずいた。
「じゃあ、レンもいっしょでいい?」
え~っと声があがった。
「あの子を一人で残しておけないわ」
ミクのそばにいたあどけない顔の金髪の少年は、美しい従姉の後ろに隠れるようにした。
「子どもはうるさいからイヤなのよ」
レンと呼ばれた少年は、うつむいてもじもじした。パーティを計画した若者はうんざりした顔になった。
「どうすんだ、おい。行くのか?」
一人が意地悪そうにつぶやいた。
「ミゼル一族じゃないのに?」
レンはさっと顔を上げたが、泣きそうな表情のまま何も言わなかった。
「やめて」
きっぱりとミクは言った。
「ファーレンハイトは、エステル叔母様の一人っ子なのよ?ミゼルの姓は持ってないけど、血は流れているわ。そのほうが大事よ、そうでしょ?」
カイトが口を挟んだ。
「だから、レンも鍵持ってるよな?」
レンはこくりとうなずいた。
やれやれ、という顔でみんな首を振った。
「しょうがないな。じゃ、坊主を連れて行くならミクも来るよね?」
「そうね」
ミクとカイトは互いの顔を見合わせた。
「もう一人、いっしょに行きたい人がいるんだけど、いいかしら?」
ミクが遠慮がちに言い出した。
「まさか、あいつ?」
「あんな陰気な……酒がまずくなる」
「やつは一人が好きなんだろ?そっとしとこうぜ」
ほとんど全員がぶつぶつ言い始めた。
 突然バシッと何かたたきつける音がした。革で装丁した分厚い本で、誰かが扉の枠をを殴ったのだった。
「くだらない!」
目つきの鋭い背の高い若者だった。その場にいる浮かれまくった親族たちに厳しい視線を走らせると、そのまま踵を返して出て行こうとした。頭頂近くでひとつにまとめた長い紫の髪がひるがえった。
「待てよ」
カイトがその肩をとらえた。
「大伯父様が亡くなって二十年近い。ラングレー館が今どうなってるか、知りたくないか?」
彼は肩越しにカイトをにらんだ。カイトはその視線にひるまなかった。
「お前もミゼル一族の立派な一員だ。行く権利がある。っていうか、おまえも鍵を渡されただろ?ほかならぬ大伯父様から」
 ミゼル一族の先代は、三男一女の兄弟の長男だった。カイトと長髪の若者は次男の子孫で従兄弟どうし、ミクは三男の子孫、レンは他家へ嫁いだ娘の子孫である。先代当主自身は子孫を残さなかった。現在に至るまで豊かにして強大なるミゼル一族には当主がいない。ただラングレー館の鍵を渡された家のどれかから次代当主が出るだろうと言われていた。
 もっともその家長継承がどのように行われるか、先代の遺言執行をまかされている弁護士をのぞいて誰も知らなかった。
「決まりだな。おまえも行くんだ、モーリス」
きっぱりとカイトは言った。

 風が雲を吹き払い、夜空に銀色の満月が姿をあらわした。月明かりの下のラングレー館は、荒れ果てていた。
 両翼に棟を構える堂々とした館なのだがいたるところに蔦がはびこっている。ガラスは何枚か割れていたし、カーテンは色あせてすりきれていた。
「いいわいいわ!」
軽々しい歓声があがった。
「いかにもなんか出そうじゃない」
「よーし、入ってみようぜ」
肝試しのようなノリでミゼル一族の若い者たちは館へ入っていった。
 エンポリアムは天井の高い立派な部屋だった。これほどまでにほこりが積り、くもの巣だらけになっていなかったらさぞ見事だったろうと思わせた。誰かが持ち込んできた燭台に灯をつけて高く掲げた。
「それにしても陰気な家ねぇ!」
素っ頓狂な声が上がった。
「壁紙は暗い灰色、家具は黒檀、カーテンは濃い紫色。絨毯は暗い緑に鉄色と来たわ」
浮かれた若者たちはさらに奥へと入っていく。
「階段のてすりはガーゴイル、装飾燭台はゴブリン。徹底してるわね」
「さあさ、次は何?」
長い廊下をかたまって歩いていくと、つきあたりにひときわ立派な扉があった。
カイトが言った。
「そこは大伯父様の書斎だよ、たしか」
そう言ってモーリスの方をふりかえった。苦虫をかみつぶしたような顔でモーリスは一行の一番後ろにいた。彼は黙ったままうなずいた。
「じゃあ、ここにしよう!」
「最高のパーティ会場だぜ」
きしみをあげて大きな扉が開いた。
「わあ……」
 その部屋は、今まで見た中でもっとも豪華で広い部屋だった。扉の正面が天地いっぱいの大きな窓になっている。カーテンは両脇にしぼってあったので、館の背後に広がる森とその上空の満月が額縁つきの絵のように見えた。
「意外に明るいよな」
手持ち燭台の灯を、部屋のなかのろうそくに次々とうつしていく。ほどなく細かいところまで見えるようになった。
「これがミゼル一族の当主の部屋ってわけ?へええ」
「うわさにたがわぬ変わり者だわ」
ミクが一歩壁際に近寄った。
「これ、何かしら」
 部屋の壁は、作り付けの書棚と窓以外は絵画がかかっていた。ミクが見つけたのは青空のように見える作品だった。まぶしい太陽の下、何かが飛行している。
「大伯父様の空想画かしら。龍だわ。頭が二つある」
彼女はじっとその絵を見上げて動かなくなった。
 たいていの者は室内があるていど明るくなると、持ち込んだ酒や食べ物を出して並べ始めた。
「おっ、ピアノがあるじゃないかっ。音が出るかな」
珍しそうに蓋をあけたりしている。
「なあ、カイト?」
「待って」
カイトは暖炉の上に並べられたものにじっと見入っていた。
「ドラゴンばっかりだ。これはオリエンタルドラゴン。たぶん香港からもっていらしたんだな。こっちはインドの英雄神と悪竜。これは?黒い龍か。セントジョージのドラゴン?でも聖人はいない」
 カイトは翼のある紅い眼の黒い龍の小像を手に取り、物思いにふけりはじめた。
 室内の浮き浮きした気分から、レンも取り残されていた。誰からも忘れられて部屋の隅にうずくまっている。ふと、額に入った黄ばんだ紙が目に入った。何かの線画だった。
「この図面、この館のかな。間取り図、断面図、ガーデンの設計図。ここは?塗りつぶされた場所……池があるはずだった?」
 ガラスの表面に指を置いてレンはぶつぶつとつぶやきながら架空の庭園を辿り始めた。
 遊びに来た若者たちはうれしそうにはしゃいでいる。中の一人が室内に置かれた黒いグランドピアノの蓋を開け放した。
「誰かピアノひかないか?派手な奴をたのむ」
わっと歓声があがった。腕に自身のあるらしい娘が笑いながら立ち上がってピアノの前にすわろうとした。
「あら、何これ?」
その正面に置き去りにされた楽譜があった。
「捨てていいでしょ?」
仲間たちがはやしたてるなか、娘はその楽譜を背後へ放り出した。重厚な絨毯の上にそれは転がり落ち、綴じた糸が切れて中身がちらばった。その楽譜を、長い指が拾い上げた。
 それまでモーリスは黙ったままあたりを見つめていた。ロンドンにいたときはどこか苛立ったような表情だったのだが、今は微妙に変化している。モーリスはしげしげと楽譜を眺めた。無音のまま唇が動き始めた。歌詞を読んでいるのだった。
「これは」
すぐそばでは、先月ロンドンの劇場で大当たりをとった芝居の、主演女優が歌った陽気なメロディをにぎやかにひいている。だがモーリスの耳には別の旋律が聞こえていた。
「大伯父様が、弾いていらした歌だ」
この部屋、このピアノに向かって。それは彼の最晩年だっただろう。幼いモーリスは父に連れられてこの書斎にいた。バカ騒ぎをしている若者たちに重ねて、モーリスの目には大伯父の姿がうつっていた。
「どうしたの」
いきなり聞かれてモーリスは我に返った。一族のはしにつらなる少年、レンが不思議そうな目で自分を見つめているのにぶつかった。
「私はこの部屋を知っている、と思っただけだ」
「十何年も前だね」
「そうだ。けれど、大伯父様は私をここに立たせ、あのピアノで不思議な旋律を弾いてくださった。覚えておきなさいとおっしゃって」
モーリスは手の中の楽譜を見た。
「それで?」
「あのとき、ピアノを弾き終わってから、大伯父様は、私の顔に触れた」
「顔?」
モーリスは自分の手を上げ、左目の下に触れた。
「ここだ。何度も、確かめるように、大伯父様は私のほほに触れ、そして低く笑っていらした」
それきりモーリスは口を閉じた。レンも黙っていた。
 きゃあ、と歓声があがった。酒瓶を回し呑みしていた男たちが、同行してきた娘にムリヤリに酒を勧めていたのだった。少女はふざけながら逃げるそぶりをした。
「待て~」
もう酔っ払った男が追いかける。
「いや~ん」
派手な嬌声をあげて少女はソファをまわった。二三人が立ち上がり、彼女を追い、中の一人が酔いに足を取られてよろめいた。
 おっと声を上げてその男は壁際にあった人の背ほどもある箱型の大きな時計にぶつかった。どん、と音がした。何かがかちりと動く音がした、と思った次の瞬間、いきなり時計がよみがえった。
 ごぉん、ごぉん、と荘重な音色で時計が時を告げた。ピアノの娘はびくっとして演奏をやめてストールから立ち上がった。酔ってはしゃいでいた者たちが急にくちをつぐんだ。逃げるそぶりをしていた少女は立ち止まり、妙に不安そうな顔になった。
「おい、なんだよ」
一人が元気よく言おうとして、かえって声を震わせてしまった。鐘の音が響き終わったあとの沈黙の中に、時計の立てるちくたくという音が流れ始めた。
「なんだ、ねじは巻いてあったんだな」
と誰かが早口で言った。
「それを金具でとめてたのが、今のでとれたんだ。それで動き出しただけさ」
あはは、と笑ったが、続けて笑う声はなかった。
「なんだよ、やな雰囲気だな」
誰かがつぶやいた。
「さあ、また派手なもんを弾いてくれよ。今度は踊るか!」
さきほどの少女がもう一度ピアノの前にすわろうとした。そのピアノの鍵盤の蓋がいきなり閉じられた。
「退け」
モーリスだった。
「大伯父様のピアノから離れてくれ」
ピアノの少女は驚いて目を見張った。
「何よ、いいじゃないの」
 元々気の強い少女だった。ミゼル一族の本家直系だろうが鍵の継承者だろうが、偏屈で陰気なモーリスを半ば見下していた。いつもなら少し言い募ればすねたようにそっぽを向いてしまう彼が、ピアノの前に立ち彼女に命令している。
「何むきになってんの。遊びに来たんじゃないの」
ねえ?と後ろにいる仲間に声をかけた。が、遊び仲間は今までの威勢のよさをどこかへ置いてきたような顔だった。
「え、なに、やだ。ねえ、カイト、何とか言ってやって」
ひそかに好意を持っているカイトに彼女は声を掛けた。暖炉の傍に立っていたカイトがゆっくりとこちらを見た。その表情を見たとき、彼女は産毛がそそけだつのを感じた。
「モーリスが正しい。どきなさい」
あの明るく輝く瞳と、ひとあたりの柔らかさ、優しさはどこへ行ったのだろう。カイトは無表情だった。
「早く!」
びしりと命令されて彼女はピアノの前から飛びのくように退いた。それがくやしくて彼女は顔をひきつらせた。
「やってられないわ!あたし、帰るわ」
挑戦的に言い放ったつもりだったが、浮き浮きして遊びに来た仲間の大部分の気持ちを代弁したようになった。
「こんなとこ、つまんない!」
「そ、そうだな」
呑み散らかしたあとを片付けもせず、男たちも腰を上げた。
「やっぱり田舎はだめだ」
「町へ戻ろうぜ」
言い訳をする口調が、だが不安に震えている。
「ミクも帰るだろう?」
ミカエラ・ガブリエラは、青白くさえ見える細面をあげ、長いまつげを伏せたまま答えた。
「聞こえないのね」
若者たちが恐れおののいたのは、カイトの変貌よりもミクの変化だった。そこにいるのは誰からも愛される一族の花ではなく、人形のような不吉な美女だった。
「なんの話よ」
ピアノの娘は、とりわけミクの親友を自認していたのだった。ミクのすぐそばに金髪の少年が立った。
「ミク姉さん、カイトとモーリス、ぼく。聞こえてるの、それだけみたいだよ」
この子がこんなふうにしゃべるのを聞くのは初めてだったかもしれない。その場にいる誰もがショックを受けていた。
「図に乗るなよ、ちび」
カイトやミクに言い返せない若者が、八つ当たり気味に叫んだ。いつもならびくっとふるえ、従姉のスカートの影にかくれる子が、昂然と顔をあげてこちらを見る。薄い笑いさえ浮かべていた。
「雑魚が」
とレンは面と向かって吐き捨てた。
「なんだと!」
「あんたたちは選ばれなかった」
あざけりに近い笑みが口角をつりあげる。
「帰りなよ」
遊びに来た若者たちはいつのまにかふたつに別れていた。モーリスたち支配する者と、不安に駆られ逃げ腰になっているその他大勢と。支配者たちは誰からともなく正面の大きな窓の前に集まっていた。背景は森と月。まるで禍々しい絵の額縁に収まったように見えた。
「やめてよ。ほんとに帰っちゃうわよ。馬車も乗って帰りますからね」
「好きになさい」
ミクがつきはなした。
「どうなってんだよ」
情けない声があがった。
「おまえら、どうかしてる。特にモーリス!」
モーリスはピアノの蓋を開け、指一本でキーを次々とたたいた。暗いメロディが流れ出した。小さく彼はつぶやいた。
「歳月の過ぎる間に、血の軌跡を見失ったか」
無視された若者が気色ばんだ。
「おい!」
その手首をカイトがつかんだ。
「やめろ、無礼者」
しめあげる力の強さ、こちらを見据える瞳の冷たさに若者は息を呑んだ。
「ロンドンへ帰ったら、おぼえていろ!」
 その捨て台詞を最後に、ミゼル一族の若者たちは急いで館から出て行った。最後の馬車が追い立てられるように走り去ると、ミクは顔を上げて従兄弟たちを見回し、小さくうなづいた。
「始まるわ」
残った4人は確信を込めて互いの顔を見合わせた。

 夜のラングレー館の庭は暗く、広大だった。樹木が多く今にも方角を見失いそうになる。郊外へ遊びに出た、その瀟洒な衣装、軽い靴のまま、ミゼルの血を引く4人は黙ったまま廃園の中を歩いていた。
 先頭を行くのはモーリスだった。ピカデリーで待ち合わせの約束がある男がシティの市街をいくように、何の迷いもなく歩いていく。そのあとを滑るように他の三人が続いた。
 風は吹いて雲が途切れ庭の上に光を注ぐ。闇は深く、何の鳥か、不吉な声をあげた。
 しばらく行くと、赤錆びた鋳鉄の柵が現れた。庭と森の境界のようだった。モーリスはその前に立ち、闇を見透かすような目になった。
「こっちの方角なのだが」
カイトがつぶやいた。
「だが、道はなくなっている」
レンはあたりを見回し、潅木の中へ手を入れて探った。
「あった!ガーデンの設計図を見たんだよ。ここを開ければ」
レバーを押し込む音がした。柵の一箇所が音を立ててはずれ、きしみをあげて開いた。
「ほら」
その先はもう、いちおう整地をほどこした土地ではない。人の手の入っていない森林だった。
「どっちへ行けばいいか、わかる?」
モーリスは当然のようにうなずいた。
「ついてこい」
 森の中を歩いたのはほんのわずかだった。モーリスは従兄弟たちを難なく導いた。それはあきらかに人工の建造物だった。
 かなり広い水面のある池を掘り、その中央にあずまやのある島ができていた。池のまわりはコリントタイプの柱を等間隔に配置し、地面ではなくタイルを敷き詰めて固めてあった。周囲のうっそうとした森の中にぽつんとあるそれは、まるでギリシアの野外劇の舞台のように見えた。
 池はどこからも水を引いていないのだが澄んでいた。おそらく湧き水があるのだろう。
 何かにせかされるように4人は池の周囲をめぐった。あずまやと岸をつなぐ橋があるのが見えた。
 くっとモーリスがつぶやいたのはそのときだった。まるでひどい侮辱を受けたかのように頬を紅潮させ、いきなり走り出した。まっすぐに橋を渡り、あずまやへ向かっていく。その屋根の下に何かモニュメントのようなものがあった。
 丸いものがうずくまっているようにしか見えないそれにたどりつくと、モーリスはいきなり両手でそれにつかみかかった。
「このっ」
わしづかみにしたのは、何か蔦のような植物だった。むりやりにむしり取るとびきびきと音がした。モーリスは肩で息をしながら、次々と蔦をむしる。爪は緑色に染まり、強靭な植物の繊維でこすったのか、モーリスの手のひらが血しぶきを吹いた。
「モーリス!」
カイトとレンが手伝いに飛び出した。三人がかりでも蔦をはがすのはかなり時間がかかった。ミクがたどりついたときそれは厳重な緑の戒めを解かれ、本来の姿を取り戻していた。
「ドラゴン」
荒い息の下からカイトがつぶやいた。
「大伯父様の暖炉の上にあった。黒い、龍だ」
 もちろん、はるかに大きいのだが。モーリスが手を高く伸ばし、龍の頭部から下がる最後の蔦を取り除いた。縦長の虹彩のある瞳が露わになった。傷ついた手のひらから血が滲み出して龍の身体にかかった。
 その瞬間、広い水面にさざなみがたった。と思う間もなく、奇妙な地鳴りのような鳴動が始まった。4人はとっさに立ち上がった。天空で満月がゆがむかのように見えた。
 コウモリのように鍵爪のある大きな翼をそなえた龍の像は、前足を地に着けてうずくまった姿勢のまま、大きく震えた。
「来たか」
月明かりの泉に集う4人のミゼルは、初めて龍の声を聞いた。
 龍の像は大きく、頭部はサラブレッドのような位置にある。瞳に光がよみがえる。黒い虹彩を持つ紅の瞳が彼らを見ていた。
「我に水面を見せよ。月の色を見せよ」
敬意を表して頭を垂れつつ、彼らは二人づつ左右に分かれた。黒龍は水面をのぞきこんだ。
「いまだ白銀のままか」
激しい失望は深い吐息となってその口元から吐き出される。
「あれより幾年か経つ?」
「今は1909年です」
ぽつりとモーリスが答えた。龍はうめいた。
「まだか、まだ、ならぬか」
目に見えない戒めに縛られた翼、動かぬ体のまま、黒龍は吼えた。
「我が身を碧空へ解き放て!」
真紅の瞳から煮え湯のような涙があふれて滾り落ちる。
「さもなくば、我が命をここで絶て!」
聞く者の心をかきむしるような啼き声だった。冷ややかな白銀の月が水面から龍を見守っている。月下の咆哮は長く続いた。
「どうか、お鎮まりを」
モーリスが言った。
「約束の日は明日かもしれません、100年先かもしれません。お待ちにはなれませぬか」
動かない身体にくやし涙をたたえて龍は沈黙した。
「待とう」
ついに龍が答えた。
「また100年をこの廃園にて待とうぞ」
押し殺したような吐息を龍は吐き出した。
「数千年を待ちつくした。いまさら百年が何であろう」
モーリスの手が龍の首に触れ、やさしく愛撫した。
「月が紅く染まる夜を待とうぞ。そのときはこの身は己らと再びひとつになる」
4人のミゼルたち、その身体のうちに黒龍の血を潜ませる者たちは、次々と黒い鱗に触れた。
「この翼が風を切るとき、我は再び双頭となるであろうよ」
「待ちましょう」
とミクが答えた。
「また100年待つのなら、何度でもよみがえってそのときを待ちましょう」
「愛し子ら」
龍はささやいた。
「ならば、その100年この身を養わねばならぬ」
カイトが答えた。
「なんなりと」
「石と化したわが身には、肉もいらぬ、血もいらぬ。我には歌を与えよ。歌によって我は、我が心を養うであろう」
「御意」
4人は立ち上がった。そして彼らは歌った。

夜の帳下りて 月が舞台 照らす
私は一人踊るの
これは影の叙事詩 誰も知らぬ 物語(Tale)
語られることなき 記憶 

 双頭のひとつを斬りおとされ、地に災いをもたらす力を封印され、黒い龍はこの森の中に身動きできぬままに縛り付けられたのだった。最初の千年は嘆き、憎み、恨み、双頭の龍が舞う故郷の地への渇仰に終始した。

今宵 拝跪す 地の徒が為
龍刻 縛す
意思の暗闇 深淵く 根を張り 
閉ざされた森の中 息潜め待つ 
絡まる蔦断ち 楔外る
意味を 知りて 

落とされた頭は地に落ち、やがて腐り、地虫によって食い尽くされた。虫どもも鳥に食われ、鳥は獣に食われ、その連鎖は果てしなく伸びた。その“汚染”が一人の人間の身に集約されたのは、いったい何の偶然だったのか。

茨草喰い込む 身体抱き 昇る
災う力 解けせど 
遠く龍啼く空 届かぬ声重ね
いつか 碧空に帰らん

その男は、深い森をかきわけて黒龍の元へもどってきた。再び合体する術を持たず、そのことを狂ったように哀しみながら。これこそ、最初のミゼルだった。

此の身体 回紆す 血の軌跡を
准り 蠢く
其の鼓動は 深淵くへ 潜み
私の中で彼方 息潜め待つ 
戒められし身体 羨望む 
意思の 宿命

衆に優れた体力、気力、知力を彼は併せ持っていた。いつしか富と力を得て、最初に彼がしたことは、黒い龍を隠す森をすべておのれのものとして囲い込むことだった。

暗き泉の淵 月が水面 照らす
私の姿 映るわ 
今宵流れるのは 誰も知らぬ 円舞曲(Waltz)
歌われることなき 旋律(Melody) 

それが終わったとき、彼は自らの肉体を地に投じようとした。それ以外に新しいミゼルを生み出す方法があるだろうか?だが、まだ少女のような妻が赤子を産んだとき、考えが変わった。

原始の記憶 誘う彼の地を想い
煌く星達 彩る天空は遠く
龍啼く箱庭の中 
吐息は灼熱の焔を 喚びて 

「ミゼルの家長は龍の庭を守らなくてはならぬ」。初代の遺訓は永く残された。一世代に最低一人でいい。龍の記憶を共有し、本体を離れて活動できるモバイルパーツとして働くものが必要だった。それ以外の者には、家長が存分に働けるように補佐する役目を持たせる。

深き森の最奥で 独り彷徨う日々
道標は見えると 信じて
翼の戒めに 秘められし存在
制し空へ帰らんと
双頭の龍舞う 遥かなる彼の地は
古より変わらずに 
月が紅く染まる 約束の其の日を
恋焦がれ 焼けた涙 頬を伝い堕ちる

そのほほに涙の痕を刻むミゼルたちが、こうして代々嘆きの龍を守ってきたのだった。今、一族の当主の位が継承された。明日、モーリスはロンドンへ帰り、一族の弁護士をたずね他の者をいっさい人払いしたあとで、部屋を暗くして変色した自分の目と“涙の痕”を見せるだろう。冷静沈着を旨とする弁護士は先代の奇妙な遺言が実現したことに驚き、畏怖を感じるが、それでも職務に忠実な彼は、モーリス・ミゼルを次代の長と認め、一族の財産を左右する権限を与えるだろう。

茨草喰い込む 身体抱き 昇る
災う力 解けせど
遠く龍啼く空 届かぬ声重ね
いつか 碧空に帰る日 

時は1909年4月。百年の歩みは早くはないがそれでもやがて時は廻るのだ。

想い 祈る