初恋の終わり 2.第二話

「説明が、つかないというと?」
「たとえば、シリンさんの眼の前で、カリューさんの頭の上に重たい置物がふってきたというのですが、建物の上へのぼっても誰もいなかった、とか」
アリーナが口を挟んだ。
「そんなの。逃げたに決まってるじゃん!」
「でもアリーナさん、そんなことが何度もあったのですって。いつもいつも逃げられるかしら?」
「う~ん」
ミネアはブライのほうに向き直った。
「それで、もし呪いがかかっているとしたら、それを解く方法はあるでしょうか。たしか古の呪文の中には、解呪法があると聞いたことはあるのですが」
「“しゃなく”のことですかな。しかしあれは、わしも魔法書の中で見たことがあるだけですじゃ」
ミネアはがっかりした。
「そうですか……しかしこのままでは、辛い思いをする人が一人、いえ、少なくとも、三人はでるんです」
「ミネア、どうして三人なの?」
「カリューさんでしょ、おさななじみのシリンさんと、カリューの婚約者のリーザさん」
かた、とユーリが羽ペンを置いた。
「その人たちだって、また家族も友達もいるはずよ。ミネアさん、ブライさん、なんとかならないんですか?」
ユーリは真剣な目をしていた。他人の痛みを自分の痛みとして感じてしまう彼女の癖は、彼女の優しさや勇気の源なのだが、同時にミネアは少し、危ういものにも感じられてしかたがない。
「ユーリどの」
ブライは、孫のような年頃のこの少女に、いつも丁寧に呼びかける。
「ひとつだけ方法があるかもしれません。聞いてくだされ。もしこれが呪いだとしたら、誰か人間が呪いを発し、その呪いを引き受けた“魔”がいなくてはなりません。カリューとやらに襲い掛かった災厄は、その“魔”が引き起こしておるのです」
「その魔物を退治すれば、呪いは解けますか?」
「やってみる値打ちはありましょう。だが、はたして、どこのどんな魔物が悪さをしているのやら」
ユーリはまた顔を伏せてしまった。
 その肩を、ちょんとアリーナがつついた。ん、という顔つきでユーリが顔を上げた。えへ、とアリーナが笑う。二匹の子猫がじゃれているようでもあった。
「ユーリ、だいじょうぶよ。ほら、あたしたち、魔界にコネがあるじゃない?」
ユーリの目が、丸く見開かれた。

 エドガン姉妹が寝泊りしている部屋には、大きな姿見が置いてあった。マーニャのお気に入りである。ユーリは、鏡の前に香炉を置き、ある香木をくすべた。
「これ、きらい。硫黄臭くて」
アリーナが鼻の頭にしわを寄せてささやく。
「我慢して、アリーナ、ね?」
ユーリがささやいた。アリーナは、ミネアが知る限り最強の女武道家だが、同時に少女そのものでもあった。思ったことをすらっと口にしてしまう癖がある。
 逆に同じ年頃のユーリは、寡黙で、自分を殺しがちだった。己に対して非常に厳しいとも言える。アリーナとユーリは、お互いに憧れあっているらしく、なかなかいいコンビだった。
 香煙が姿見の表面を覆っていく。一瞬、鏡面がゆらいだかと思うと、鏡の中から、低い男性の声が聞こえてきた。
「私を呼んだのか」
ミネアは、ごくりと唾液を飲み込んだ。声だけで、すさまじい威風だった。もともと尊大な口調なのだが、こけおどしでもなんでもない。ものすごい魔力をその声の底に感じる。
 無理もなかった。魔王デスピサロその人が、じかに話しているのだから。しかし、ミネアは硬直してしまっていた。
 こほん、とブライがせきをした。
「いかにも、お呼びした。ちと、用を頼まれていただきたい」
「用だと?」
なんとも不機嫌そうな声だった。
「あの」
ミネアは一生懸命声を張った。
「この町に、エンドールに、呪いを受けて困っている人がいるんです。カリューという名前の、若い王宮戦士です。カリューさんへの呪いを担当している……人が誰かわからないでしょうか?」
 鏡はしばらく沈黙していた。
「何かと思えば、そのようなくだらないことでこの私を呼びたてたのか?」
「ご、ごめんなさい、でも」
いきなり部屋のドアが開いた。
「ちょっと、人の部屋で何やってんのよ!」
マーニャが帰ってきたのだった。ドアのわくに片手をかけ、室内を見下ろすような何気ないポーズさえ、なんとも姿がよくて粋だった。
「大きな鏡が必要だったのよ。ジャマしないでね、姉さん」
「ああ、ピーちゃん呼び出してんのね?早く言いなさいよ」
彼をピーちゃんと呼ぶのは、マーニャだけだった。おそらく世界中で彼女一人だろうとミネアは思う。ミネアはため息をついた。
「姉さん、飲んでるでしょ」
「昼間っから飲みやしないわよ」
 自分のベッドへどっかりとすわりこみ、長い足を組んでしまった。我が姉ながら、きれいな脚だと思う。行儀の悪ささえ、色気になるのだ。しかも、しらふでやっているらしい。
 紫の長い髪を片手で高くかきあげて、マーニャは鏡に向かい、流し目を送った。
「ひさしぶりねぇ?ここんとこ、お見限りじゃない。今晩あたり、いらっしゃいよ」
 ミネアはひやひやした。エンドールの酒場のバニーガールが、客に色目を使っているのではあるまいし、その言い方はなんなんだろうと思う。だいいち、当のピサロは今、十中八九恋人のロザリーといっしょにいるのだ。
 はたして、うんざりしたような口調でピサロは言った。
「これ以上用がないのなら」
だがマーニャが皆まで言わせなかった。
「なあに?マーニャ姐さんの頼みを断ろうっての?あんた、何様のつもりよ」
だからピサロ様よ、とミネアは思ったが、マーニャは目がきらきらしている。赤い爪を鏡に向けて振った。
「いい、ユーリに逆らったら、あたしが承知しないわよ?」
機嫌の悪そうな声で、ピサロは言った。
「勇者よ、さきほどのは、おまえの頼みだったのか?」
ユーリは、はためにもわかるほど身を硬くした。
「そうだ」
「なぜ人助けをせねばならない。どうして私が引き受けると思ったのだ、おまえは?」
「わたしは」
言いかけてユーリは鏡を見据えた。
「あなたが協力してくれると言ったのを覚えていた。魔王の一諾はさぞかし重いものだと思っている。違うだろうか」
鏡の表面は、ゆらゆらと揺らいでいるだけだった。マーニャが笑い声をあげた。
「あんたの負け。言うこと聞きなさいって!」
ミネアは耳を疑った。鏡の向こうから、なんとも人間臭いつぶやきが聞こえてはこないだろうか。
 “まったくどうしてこの私が、こんなつまらぬ話につきあわなくてはならないのだ、雑用係ではないぞ…”
「あの、ピサロさん?」
荒々しい声で魔王は宣言した。
「今晩、そちらへ行く。待っていろ!」
 ああ、怒らせちゃった、とミネアは首をすくめた。が、依頼は聞いてくれたらしい。
 マーニャは満足そうに微笑み、次第に暗くなっていく鏡に向かって、キスを投げた。
「もう、ピーちゃんたら、かっわいい!暗くなるまで待っててね。うんときれいにしとくから」
絶対いやがらせでやっている、と思ったが、ミネアは気づかれしすぎて、姉をたしなめる元気が残っていなかった。

 日が暮れて、エンドールの町に灯がともるころ、町には、昼とはまた別の種類の活気が訪れていた。
 この町の七不思議のひとつが、歓楽街のど真ん中に教会があることだった。急激に発展したために、劇場や酒場などが乱立し、ついには教会の周辺にまで、歓楽街が勢力を広げてしまったのである。
 おかげで聖なる会堂のまわりには、妖しげな期待に満ち溢れた男たちや、着飾った美女たち、後ろ暗い生業に手を染めている者たちが、今夜もうろついていた。
 そんな場所にマーニャが姿を現すと大変だった。あたりの空気が一度に変わるのだ。
「お姉さん、きれいだね」
「どうかな、お近づきに一杯?」
紅の唇に薄く微笑みを浮かべ、露骨に群がってくる男たちに向かって、マーニャは手を振った。
「ごめんなさいね?今夜は先約があるの」
「うわ、残念……と、思ったら、こっちのお姉さんも、いいねえ、清楚で」
ミネアにまで手を出そうとする者がいる。
「あ、あのっ」
「こっちは子猫ちゃんたちか。かわいいなあ。カノジョたち、いくつ?」
 ユーリは眉をひそめたが、アリーナは無邪気な目で答えた。
「あたしもユーリも16!好みの男の人は、強い人かな」
哀れな阿呆は目を輝かせた。
「お、おれ、強いよ?」
にぃ、とアリーナが、いたずらっ子の目で笑った。
「試してみる?」
「アリーナさんっ」
ミネアはあわてた。ここはダンジョンでもフィールドでもない。町の中で、相手は一般市民だ。
「ほっときなさいよ、ミネア。いい薬だわ」
そのとき、ガチャ、と鎧の触れ合う音がした。
「姫、弱いものいじめは感心しませんな」
からかっているような、渋い、いい声だった。
「ライアン!見てたの?」
ぺろ、とアリーナはかわいい舌を出した。
 あたりの男たちが、遠巻きになっていく。王宮の剣術師範とは知らない人間でも、ライアンの堂々たる体格と貫禄のある戦士ぶりに、恐れをなしたらしい。
 鼻で笑って、マーニャが話しかけた。
「こんなとこで、何してんの、ライアン?珍しいじゃない」
なれなれしく鎧の肩当に片手をかけて引き寄せ、顔を寄せてくる。これをやられて、正気を保てる男がこの世界にはいくらもいないのをミネアは知っていた。
 が、ライアンは、数少ない例外の一人だった。片手を細腰にまわして、彼女の体重を余裕で受け止める。抱き合っているようなかっこうになった。
「調べたいことがあったのでな。マーニャ殿こそ、どうした。このような風紀の悪いところに、この面々で」
歓楽街の酔っ払いたちは、その面々を垂涎状態で見ているしかなかった。艶麗なマーニャ、理知的なミネア、可憐なユーリ、溌剌としたアリーナ。それが逞しい戦士を取り囲んでいる。
「あの、鏡に伝言がしてあって」
ミネアは説明した。
「このあたりでピサロさんと待ち合わせをすることになったんです」
ライアンは、自慢の口ひげをひねった。
「カリューのことでかな?」
ミネアは驚いた。
「なんでご存知なんですか?」
「拙者も、そのことを調べていたのでな」
ライアンは、通りの向こうを指さした。
「待ち人は、あそこにおいでだ」
あっと小さく叫んでユーリが立ち止まった。ライアンが示した方角には、長髪の吟遊詩人が建物に背中をもたれて、腕を組み、人を待つ風情で雑踏を眺めていた。