赤城おろし 第二話

「番凩」(by仕事してP様&佐々木ササ様)二次創作

 出雲一行が今夜泊まることになっていたのは、この宿場町の中の大きな宿屋だった。甲斐は目の前に刀を横たえ、案内された部屋に正座してじっと出雲の帰りを待っていた。
 これと言う理由もないまま正式な捕縛命令に背いた以上、平手打ちくらいの罰ではすまないことはわかっている。出役見習いの身分ではいられないかもしれない。だが、将来のことよりも、自分を育て、信頼して、今回の旅に同行を許してくれた出雲を失望させたことが何よりも辛いとげとなって心が痛んだ。
「あの女」
甲斐の心が痛みを忘れるのは、あの二枚扇の女のことを考えるときだけだった。
「何を渡そうとしたのだろう。そもそも、あの女、何者だ」
彼女は大人だ、と甲斐は思う。だが、幼な顔を想像するのは容易だった。幼い彼女が泣き出しそうにしている顔が、あまりにも簡単に目に浮かんだ。
「見たことがあるのだ」
甲斐は当然の結論にたどりつく。
「夢に出てくる少女か、まさか」
焼き払われたふるさとを逃げ出してきたときの、小さな同行者。
 甲斐は立ち上がり、刀を手に取った。
「出雲様があのひとを捕らえる前に、もう一度会わなければ」
そして、教えてもらうのだ、自分が誰なのかを。その思いに突き動かされて甲斐は宿を出た。
 宿場はすでに日が落ちて、すっかり夜になっていた。宿の前にまだおおぜいの野次馬が出て、先ほどまでの捕り物騒ぎについて興奮したようすで話していた。出雲はおろか、安中藩の藩士たちの姿がない。どうやら山へ分け入ってしまったらしい。
「どっちへ行けばいいものやら」
あせりながら歩いていたときだった。誰かに袖をひかれた。
「もし、お若い旦那」
手ぬぐいでほおかむりをしている小男が立っていた。
「あの、お紅姐さんを助けてくだすったのは旦那で?」
「おこう?ああ」
二枚扇を使う紅の旋風にはふさわしい名だと思った。
「ついてきておくんなさい。姐さんのとこへお連れしやす」
「あの女(ひと)は、お尋ね者につながる人なんだろう?そんなところへ私が行っていいのか?」
小男は目を眇めて甲斐を眺めた。
「本当はお侍なんか連れていきゃあしねえんですけどね。姐さんの言いつけだし。第一、忠治の隠れ家なんてこの宿場じゃみんな知ってまさ」
「安中藩の人たちは知らないようだった」
あっはっはと小男は笑った。
「下々は知ってるってことでさ」
小男は振り向くと、甲斐のいでたちをしげしげと眺めた。
「そうさなあ、いかにも侍っていうそのかっこうじゃあ、みんな驚くなあ。すいませんが旦那、ちょっとそこまで寄ってもらえませんかね」

 提灯を片手に小男が甲斐を案内してきたのは、町から出て山に分け入ったあたりの小屋だった。戸を開いたのは、あの女、お紅だった。
「おまえさん」
目を丸くしてそう言うと、お紅はくすくすと笑い出した。
「変わった格好になったもんだ」
「笑わないでくれ」
甲斐はうつむいた。お紅の使いの小男は甲斐がもともと身につけていた質のいい着物と袴一式を脱ぐように言い、古着屋にあったものを渡して着替えさせたのだった。地味な着付けに筒袴と袖なしの羽織である。
「男前になったって言おうと思ったんだよ」
まだ笑いながらお紅が言った。
「お入り、渡すものがあるから」
甲斐はわらじを脱ぎ、お紅について土間から上に上がった。囲炉裏を切った小さな部屋があった。
「そのまえに、教えてくれ。私は、誰なのだ」
お紅は囲炉裏の前に座り込んだ。先ほど見たときの袴は身につけていない。白の着付けの上に朱赤の長着をしどけなく羽織り、細帯を胸高にしめているだけだった。かなりの鳩胸で、やや開き気味の襟のあいだから白桃のような素肌の一部が垣間見えた。
「悪いね」
膝の傍に煙草盆を引き寄せキセルを一口吸い付けると、ぽつりとお紅は言った。
「あたしも詳しくは知らない。あんたはある日村の道場の先生が、どこかから連れてきた男の子だったんだ。みんなどういう関係の子だろうって言ってたけど、先生から素性を聞き出すひまもなく村がやられちまったんだよ」
甲斐は絶句した。そのときの火事のことは、夢にも忘れられない。
「どうして」
「島村の伊三郎と言う男が理不尽な言いがかりをつけて道場の先生を脅したんだ。先生が言うことを聞かないものだから、見せしめに村が焼かれた」
島村の伊三郎と言う名に甲斐はおぼえがあった。
「昼間、おまえがなぐりこんでいたところか」
ああ、とお紅は自嘲の笑いをもらした。
「長いわらじをはこうと思ってるもんでね。その前に村の仇を取りたかった。この扇、一回だけでいいからくらわせてやりたかったんだけど、邪魔が入っちまった」
甲斐は赤面した。
「あ、すまん」
またお紅はくすりと笑った。
「いいさ、もう。そうだ」
ぽんと音をたてて煙管をタバコ盆の縁ではたくと、お紅は立ってすみに作られた神棚から何か細長いものを下ろしてきた。武士が常用するよりもやや短めの刀、脇差のようだった。お紅はありふれたこしらえの柄を握って刀を抜いた。
 何の変哲もない黒い鞘から、真紅の刀身が滑り出た。甲斐は息を呑んだ。
「これだ」
夢に何度も出てきたのはこの刀だった。
「これはあんたに渡すよ」
「いいのか」
「先生が、あんたに譲るって言ってたから」
お紅は寂しそうに笑った。
「赤い刀、前から欲しいって先生に言ってたんだけど、あたしは女の子だからだめだって。代わりにこの扇の技を教えてくれた」
その目。笑うときにちょっと肩をゆする仕草。優雅な手の動き。甲斐は飽きずに見つめている。夢に出てきた少女が、そこに透けて見える。
「やだ、穴があいちまう」
からかうように笑われて甲斐は赤面した。
「そんなつもりでは」
「あんた、そうだ、名前を聞いてなかったっけ」
「縹田甲斐」
「縹田って、あのときいっしょにいたお侍の名前かい?」
「いいや、あの方は出雲様だ。私の上司で師匠でもある。『縹田』は私を江戸へ連れてきた僧がつけた名だ」
「でもその名前、あんたによく合ってるよ。『縹』って、きれいな青い色のことだろう」
「学があるのだな」
「芸者の頃にちょっとだけ習ったんだよ。三味線も。今度聞かせてやろうか」
誰かが咳払いをした。
「え~、よござんすか、お二人さん?」
甲斐をここまでつれて来た小男だった。
「大事なことをお話しやすから、二人っきりの世界に入ってないで、よっく聞いておくんなさい。特にお紅姐さん」
「さっきから聞いてるじゃないか」
「嘘ばっかり。ああ、これがあの、デレデレした顔を誰にも見せねぇで男嫌いで鳴らした姐さんかと思うと、あたしゃ首をくくりたくなる」
「誰も止めやしないよ。さっさとくくっちまいな」
「つれねえなあ」
「話があるんなら、早くしとくれ」
「へいへい」
男は真顔になった。
「国定の忠治親分は、関所を抜けて会津へ行こうとたくらんでおいでです」
甲斐は驚いた。
「関所?手形があるのか?」
「あるわけねえじゃねえですか、天下のお尋ね者ですぜ。関所破りですよ」
「大猷院様の定められた法度を破る気なのか」
「しょうがねえんですよ。目明し殺しの罪がかかってる」
そのことは甲斐もよく知っている。
「親分を死なせるわけにいかないよ」
とお紅が言った。
「命の恩人なんだ。島村の伊三郎に村を焼き討ちされたとき、子分をひきいて助けに来てくれたのが忠治親分だった」
「では、私も?」
お紅はうなずいた。
「あんたとあたし、手を握っていっしょうけんめい駆けたじゃないか。泣いているあたしを、あんたが手を取って走ってくれたんだ」
そうだ、と甲斐は思った。この子の手をつかんで、いっしょうけんめい逃げたあの夢。
「忠治親分も驚ぇたそうですよ。島村のが悪さしに行ったってんで一家で助けに行ったら、山道でほんの子供がふたり、樹の陰で寝てたんですから」
「では、私も」
「そういうことになるね」
とお紅が言った。
「あんたとあたしは、村の外のお寺に預けられた。でも、あんたはすぐにどこかへ消えてしまった。あたしは城下町の置屋へ世話になって」
「私は江戸へ連れて行かれて出雲様のところで育てられたわけか」
お紅は少しの間、黙っていた。
「さ、預かっていた刀も渡したし、これで思い残すことはなくなった」
さばさばとした口調だった。
「あたしはこれから、宿場のはずれでひと騒ぎやらかすんだ」
「なぜ?」
「捕り方をできるだけ多くひきつける。そうすればそれだけ忠治親分の関所破りがやりやすくなるだろう」
「そのためにだけ?」
「あたしにできるせいいっぱいの恩返しだもの。命を助けられ、芸者のときも、女博打打になってからも、ずっと見守ってもらった」
「でも姐さん」
と小男が言った。
「親分はいつも姐さんに、『幸せになりなせえ』って言ってたじゃねえですか。暮らしなれた土地を離れて凶状持ちになって、いったいどこへ行こうってんですか」
「さあねえ。風に聞いとくれ」
投げやりな言い方には聞こえなかった。どこか覚悟を決めたようなそんな表情が、辛さ苦しさをなめてきたはずの女の横顔にいっそ童女のようなあどけなさを添えていた。

 言われるままに古い刀を抱えて甲斐はその小屋を出てきた。
「あのひと、お紅さんは、これからどうするんだ」
迎えに来た小男について宿場へ戻る道すがら、どうしても気になってそう言うと、知り合いらしい小男は首を振った。
「言ったとおりにやるんでしょうよ。姐さんはいつだってそうだ」
「あのひとは強い。けど」
出雲は関八州取締り出役として、かなり多くの人手を動かすことが出来るのだ。
「戦い続けたら、いつかは疲れる」
そのときに襲い掛かられたら、どうなるのだろう。華麗に舞う蝶は投網の下でもがくだろうか。甲斐は足を止めた。
「そんなのは、だめだ」
「ちょっ」
小男が声を上げた。
「まいったな、旦那を無事に宿へつれて帰っておくれとあっしは姐さんからきつく言いつけられてんですよ。あともうちっとなんだ、だだをこねないでくだせえよ」
「だが!」
「さっきまで着てたもんはすぐ近くに隠してありやすからね、大小のお拵えも。さっと着替えりゃまたお侍に逆戻りさ」
「私は」
「もし旦那に情けがあるんなら、姐さんが暴れだしたときに遠巻きにして手をださねえでくだせえよ」
小男はじろじろと甲斐を見た。
「姐さんはあんたは強ぇって言ってたけどほんとか?こんな坊ちゃんヅラが」
甲斐が言い返そうとしたときだった。夜風をつんざいて呼子の音が響いた。あわただしい気配やおたけびが次第にはっきりしてきた。
「なんだ!」
騒ぎはすぐ近くのようだった。
「あそこだ!まさか、姐さん」
甲斐は走り出した。
 二人がいたのはゆるやかなくだり坂だった。坂を下りきると山道はなくなり、穫り入れが終わって切り株だけになった枯れ田が延々と広がっている。周囲は上州の山々に囲まれ、遠くに宿場町の灯りが見えていた。
 その広大な田んぼの一箇所が、妙に明るくなっている。捕り方が掲げる御用提灯の列だった。屈強な武士の一団が抜刀して誰かを取り囲んでいる。覗き込むまでもなく、中にいるのはお紅だと甲斐は直感で知った。
「姐さん、姐さん、くそっ、宿場まで行かれなかったのか!サンピンども、罠はってやがったなっ」
甲斐は呆然として遠くに揺らぐ提灯の灯りを見ていた。
「だめだ」
出雲は岩のようだった。峻厳な武家社会を支えるひとつの大きな礎だった。だがお紅は風だろうと思う。闇夜と捕り手の輪の中に、猛々しい女の目が爛爛と輝いているのを見たと甲斐は思った。
 その輝きに呼び寄せられるように甲斐が飛び出した。
「え、旦那?」
走りながら腰に手を伸ばしたが、使い慣れた刀はそこにはない。手にしているのは古い脇差だけだった。抜刀の瞬間、甲斐は集団の中へ飛び込んだ。無数の傷を負ったお紅が血まみれの扇をかざしている。その目が甲斐を捉えて大きく見開かれた。
「甲斐!」
出雲が叫んだ。服装が変わったていどでは彼の目はごまかせない。
「お許しください、出雲様」
甲斐は声を絞りだした。
「不忠、不幸、このうえなしと存じております。がこの娘を渡せと仰せならば」
甲斐は刀を高い位置で構えた。
「お手向かいいたします」
「愚か者がっ」
出雲が悲痛な声で叫んだ。
「そののぼせた頭、冷やしてくれる。捕らえろ!」
全方位から殺気が襲ってくる。甲斐は刃を外へ向けて一気に握りなおした。
「だいじょうぶか」
小声で肩越しに問いかける。はっ、はっという荒い呼吸にまじって舌打ちが聞こえてきた。
「せっかく宿へ返したのに」
「おまえが死ぬと思ったら、がまんできなかった」
「バカだねえ、ほんとにバカ。おまえ、どんだけのものを失うかわかってるのかえ?」
「私、いや、おれはいったいなにほどのものを持っていると言うのだ。自らの素性さえおぼつかないのに」
お紅は黙り込んだ。
 じわりと捕り方がせまってきた。出雲の目の前で剣の技を披露するのはこれが最後、と甲斐は悟っていた。出雲の弟子だった誇りにかけて、甲斐は師匠以外の者には指一本触れさせるつもりはなかった。
「行くよっ」
露骨な闘志が彼女の全身を覆う。音を立てて扇を開いたとき、血しぶきが飛び散った。
 背中合わせの状態からわざと離れて取り囲む男たちにすきを見せる。好機と見て襲い掛かってくる者はかっこうの獲物だった。紅の刀と紅の扇が同時に翻ってとどめを刺す。たちまち二人の足元に数名が転がった。
 何度飛び出しても、とどめをさすと、背後に目がついているかのように二人とも同じ位置にぴたりともどり、油断なく武器を構える。一連の動きはまるで舞のようだった。
 紅藍の旋風が田舎侍をあらかた切り裂いたとき、哀しそうな目で出雲が刀に手をかけた。
 まずい、と甲斐は思った。もともと出雲の弟子として道場剣法は習得していた。実戦にも何度か参加して、人の肉体を斬ったのは初めてではなかった。しかし、今夜はちがった。
 軽い。刀がひどく軽く、やすやすと人体を裂き、人骨を割る。手にした紅の刀が甲斐は少し恐ろしかった。
乱戦の中で手傷はいくつか負い、みずから血を流している。だが負ける気がまったくしない。相手が出雲だとしても。すなわち、今夜この場でこの人を殺してしまうということだった。
「いけません、出雲様。逃げてください」
かっと出雲が紅潮した。
「情けをかけるか、わしに!」
いきなり最上段に刀を振りかざし、出雲はどっと間合いを詰めた。応じようとした甲斐を抜き去った者がいた。
「お紅!」
一瞬出雲が目を見張った。お紅はいきなり出雲に背を向け、出雲のみぞおちへ肘をたたきこんだ。
「ぐっ」
一言うめいて出雲が昏倒した。
「まったく、融通がきかないんだから!」
あきれて言うお紅に甲斐はひきつった笑顔を向けた。
「ありがとう、助かった」
 ひぃひぃと泣きわめきながら、提灯を下げた小男が走ってきた。
「何をやってんです!さ、逃げましょう、逃げましょうよっ」

 捕り物は一晩中続いた。出雲は、あのあとどうにか起き上がって、山狩りを始めたようだった。八州廻り出役は優秀な狩人でもあった。だが、このあたりの山道をお紅は知り尽くしていたし、忠治を慕う博打打ややくざ者、そして恩を感じている農夫、木こりなどが手引きをしてくれる。二人は何度か捕り方をだしぬいて、夜明けまで走りぬいたのだった。
 逃げ続けた二人は、いつか上野の国の境をのぞむ峠まで来ていた。あたりが次第に明るくなっていく。日の出だった。高い山々の向こう、遠い空の高みが神々しい色合いに染まる。夜明けの風が二人のまわりをめぐっていた。
「国境を越えよう。それからどこへ行こうか?」
役人、採り方の呼子はだんだんと近くなってくる。
「風に聞くのではなかったのか?」
からかうように言うと、色気のある目でにらまれた。
「じゃあ、あとで聞いてみよう」
繊細な手首が翻り、二枚扇がその手に渡った。美しい凶器が開花する。その背後で甲斐は、右手で紅の刀を抜き、左手には短刀をかまえた。
「あいつらを蹴散らしたら!」
落ち葉の音が、囲まれていると教えてくれる。番のこがらしの口元に、うっすらと笑みが漂った。