赤城おろし 第一話

「番凩」(by仕事してP様&佐々木ササ様)二次創作

 真紅と黄金の雨が間断なくふりそそぐ。遠い空、高い山の上から吹き降ろすこがらしが二人のまわりに落ち葉を巻き上げているのだった。
 千葉万葉を踏みしだき、男と女は手に手をとって山道を走っていく。季節は晩秋だった。やがて上州の山々は短い黄金の季節を終えて、長い冬を迎えることだろう。
 山は簡単には白くはならない。西のはてから吹き寄せて、天険に遭って雪を振り落とした風は、この上州にはただ激しく吹き降ろすのみだった。
 赤城おろしである。
 ぴりぴりと笛の音が遠くから聞こえてきた。関八州取締り方の下役たちが、お尋ね者を追うのに呼子を吹いているのだった。
 女は立ち止まった。
「本当に、行くの」
ひゅるひゅると風が鳴る。凶状持ちとして生きるということが何を意味するか、彼女は知っている。白の着付けに紅の袴、黒い細帯、そこにはさんだ仕込み扇二本、背中に負った三味線ひと棹、それだけが今の彼女の持てるすべてである。故郷は既になく、身を休める場所もない。追っ手を逃れたとしても、いつ野垂れ死ぬともしれぬ暮らしが待っているのだった。まだ若い二人を、上州の山々と、高い空を流れる雲が見下ろしていた。
「お前が行くなら、どこへでもいく」
言葉少なに男は応じた。女を見つめる目は真摯だった。身につけているのは、昨夜会ったばかりの若いばくち打ちが手渡してくれたものだった。灰青色の着付けに水色の筒袴、袖なしの羽織である。強い風から顔を守るために、鮮やかな藍色の布を首に巻きつけていた。腰には古びたこしらえの長脇差。
「このまま帰れば、まだお武家様だろうに。長脇差なんぞじゃなく、立派な二本ざしだ」
本差、脇差の二振りを装備するのは武家の象徴である。
「そんなもの、おれはいらぬ。知っているだろう。おれにはこれがふさわしいのだ」
その真剣な口調に女は笑いを誘われたようだった。
「バカだねえ」
目元にも口調にも、情をたたえてそう言った。
「ああ」
目を優しく細め、情けのこもった短い返事を男は返した。
「さあ、走ろう。あいつらをひきつけて、逃げるだけ逃げてやる」
男の目は赤城山を見上げていた。
「走れるか?」
「あたしの庭だ、この辺の山は。おまえこそ、遅れるな」
きっちりと足ごしらえをした女は、一度後ろを振り返った。
「親分さんが関所を越えなさるまで、けっしてつかまるわけにいかないよ。そして逃げ切ったら」
言葉を切って男の顔を見た。男はうなずいて答えた。
「この日の本の六十余州どこへ行っても風は吹く。その風に乗って、どこまでも吹かれて行こうよ」
この男とめぐり合ったのは、思えばほんの数日前だった。あのときの線の細い優男が、今はどっしりと肝を据えた顔になっていた。

 五畿七道のひとつ、かつての東山道、今の中山道は、近江に始まり美濃、飛騨、信濃の各国を廻ってこの上野国へと至る。上野南部の平地を領国としているのは、安中藩三万石。藩内を抜ける街道は絶えず旅人を届け、宿場町は先ごろの飢饉でさびれたとはいえ、それなりの賑わいを見せていた。
 日が暮れ、宿に灯りが入る頃、一人の武士が供を連れてその宿場へやってきた。貫禄のある壮年の男で、目つきが鋭く、峻厳な雰囲気を持っている。
 主人の武士は馬に乗っている。供回りは、足軽二人と道案内らしい小者のほかに、初々しいような若い侍だった。旅装用の羽織と大きな笠、手甲脚絆で身ごしらえをしていても主人に比べればまだ頼りないようすである。人ずれのしていない性格らしく、夕餉のしたくでにぎわう宿場のようすをものめずらしそうに見回しながら歩いていた。
「どうだ。少しは見覚えのあるところがあるか」
太い声で主人の侍が聞いた。若者は寂しそうに微笑んだ。
「いいえ、まったく。この国を出たときは、私はまだほんの童でございました」
宿屋の前で待ち構えている年増の女中たちが、主従を見て下卑た嬌声をあげた。
「お泊りはお決まり?」
若者は赤面して顔をうつむけた。主人のほうが苦笑して、手で女たちを追い払った。
「生まれた村は覚えているか?お上の御用が早く終われば、甲斐、おまえだけでも行ってみるか」
甲斐と呼ばれた若い侍は軽く首をかしげて思案した。
「無理でございましょう。村の名前も定かではありません。覚えているのは朱色の鳥居を多く連ねた参道のある神社がその村にあったことですが、おそらくそれも失われているはず」
若者は言葉を濁した。
 鳥居を連ねた社、手の中に舞い降りてきた紅の葉。狐面の少女。古びた道場と、その道場主。彼は士分だったのか、豪農だったのか。そしてなぜか真紅の刀身を持つ刀。
 子供の頃を思い出そうとするといつも一続きの夢を見ているような気がする。そしてその夢の終わりは決まって恐ろしいことになる。
「すべて焼かれてしまったのですから」
黒くこげた柱、瓦礫の下の、かろうじて人の姿をとどめた死体。凶暴な声がいくつも襲い掛かる。顔色を変えた道場主は刀をひっさげて飛び出したが、あえなく血しおを吹いて倒れた。
 逃げろ、逃げろ、逃げろ!手の中にあるのは、白魚の指をした少女の手のひらか、ただの紅葉のひと葉なのか。
「大丈夫か」
いきなり問われて彼は飛び上がった。主人が自分の顔をのぞきこんでいる。
「あっ、すいません」
「気をゆるめるでないぞ。目明し殺しの下手人はまだこのあたりに潜んでいるはずだからな」
甲斐は主を見上げた。
「出雲様がこうしておいでになったのですから、きっとすぐにお縄につくことでしょう」
出雲様と呼ばれた主人は、はは、と笑った。
「そう簡単には行くまいよ。この土地の生まれで山にも詳しい者だそうだ。知り人も多く、匿われているというから」
甲斐は初々しい顔立ちを紅潮させた。
「法を破ったような者をなぜ助けるのでしょう」
 出雲は“出役”だった。関八州取締役出役、八人で関東全域を巡回して警察業務を引き受ける役人の一人である。八州廻りとも呼ばれていた。出雲はやや顔を引き締めた。
「そうだな。その男、禁制の賭場を開帳して金を集めるなどして、このあたりの無頼の束ねであったらしい」
「では、無法者どもがそやつを逃しているのでしょうか」
「それだけではない。そやつ博打で集めた金をなげうって、このあたりの百姓どもを助けたのよ。その恩に感じた下々が次々とそやつをかばっているようだ」
甲斐は目を見張り、一度言葉を飲み込んだ。
「そのようなことが」
「おお。あるまじきことよな。お上にもこの安中藩にもできなんだことをそやつ、やってのけた。この天保の大変は、とりわけ学問好きなおまえならば知っておろう」
数年前、ひどく寒い夏がこのあたりを訪れ、その年の秋はまれに見る不作となった。天保の大飢饉の発端である。
「どの藩も内証は苦しいものだ。百姓から搾り取らなければ立ち行かなかった。どれほど不作の年でもな。食うための米さえも取り上げられた百姓を助けたのは、ばくち打ちの頭しかいなかったのだ」
甲斐はまだ純粋な表情をくもらせ、うつむいてじっと考え込んだ。その横顔に向かって出雲は説いた。
「だが、法は法。その男がお上の御用を手伝う目明しを殺した以上、捕らえなくてはならぬ。長岡忠次郎、というのがその下手人の名だ」
甲斐は主の顔を見あげた。
「またの名を国定忠治」

 賭場は熱気に満ちていた。ツボ振りが賽の目を開ける瞬間以外はざわざわと絶えず落ち着かない。博打うちどもにとって、その夕べはもう一つ気になるものがあったのだった。
 女だった。いまどき珍しい袴姿である。白の着付けに紅の袴をつけ、丸ぐけにした紐でたすきをかけていた。
「祝女(はふりめ)のお紅(こう)だ」
誰かがこっそりと耳打ちした。
「芸者崩れの女博打うちだよ」
「いい女だなあ」
ぎらぎらした目つきが女に集中していた。お紅は長い指を反り返らせて新しいコマ札を盆茣蓙の上に置いた。形のいい唇がきりりとした声をつむぎ出した。
「あたしは、丁方に」
ごくり、と男たちが息を呑む。そのコマ札は今までの彼女の儲けのすべてだった。
「賭けっぷりのいいお姐さんだ」
袴の下の細帯には、扇が一対差し込まれている。お紅は一本をそっと抜いて開き口元を覆うようにした。
「負けなすっても大丈夫ですよ。姐さんみたいな方には、胴元のほうからコマ札を借りてやっておくんなさい、と頭を下げに来まさ」
下心丸出しの男が話しかけた。扇の陰でちょっと女は笑った。
「あら、ご挨拶さま……。でも退け時ってものがありまして」
勝負!と盆茣蓙に伏せたつぼから、見事に丁目の賽が現れた。嘆声の上がる中をコマ札がかき寄せられてきた。
「さ、楽しく遊ばせていただきました。これであたしはお開きにさせていただきますよ」
膝の前にコマ札の山を作ると賭場の下働きを呼んだ。
「おあしに換えてくださいな」
すげぇ、とすかんぴんになった客がつぶやいた。全部で十両近くあるだろうか。庶民にはひと財産だった。
 下働きはコマ札を受け取って引っ込むと、若頭を連れて帰ってきた。
「お姐さん、真に申し訳ないんですが、こちらにも持ち合わせがありませんでねえ」
「ま」
扇をもてあそんでいた女は意外そうに目を見開いた。
「天下の伊三郎親分の賭場で、そんなへまがあるもんですかねえ」
若頭はむっとしたが、それでも頭を下げた。
「へえ。申し訳ねえこってすが、これでご勘弁を」
儲けた駒札の半額にもならない金を差し出されてお紅がふんとつぶやいた。
「お兄さん、女と思って見くびってもらっちゃ困るんですよ」
「とんでもない」
といいかけた男に、お紅は声をたたきつけた。
「じゃあ今すぐここへ耳をそろえて持ってきなッ」
女の金切り声ではない、腹からどんと前へ出る叫びだった。
「客を賭場へいれといて、金がありませんで通ると思ってんのかい!」
「ですから、その」
「ああそうかいそうかい。それじゃああたしがそのはした金を持ってこのと場を出て行くとしようか。それでおまえさん、あたしがこの宿場のあっちこっちで『島村の伊三郎も落ちたもんだ』と言いふらして、それでよもや文句はなかろうね」
なんだと!と、島村一家の若い者が騒ぎ出した。
「おだまりっ」
開いた扇を自分の肩へたたきつけるようにして一気に閉じた。底光りのするような怖い、だがきらきらして綺麗な目で、お紅は賭場じゅうをにらみつけた。
「呼んでおくれな」
とお紅は言った。
「島村の親分さんを、ここへ呼んでおくれな。え?どう挨拶するか聞きたいもんだ」
「ふざけやがって!」
思慮の足りない若者がついに暴発した。女一人と思ったのか、素手でつかみかかった。
 びしっと音がした。人の皮膚が破れて避ける音だった。島村一家の若い衆は土間まで殴り飛ばされていた。その首から胸にかけて、一筋の朱線が走る。鋭利な刃物ですっぱりと斬られた傷だった。
「え、あ?」
驚きがおさまると同時に痛みがつきあげてきたらしい。若い衆はのたうちまわった。
「なにをやったんだ?」
血の気の多い若いのが、お紅を取り囲んで騒ぎ始めた。
「扇だ」
と一人が言った。
「祝女のお紅、または三味線引きのお紅、そして二枚扇のお紅。ありゃ、仕込み扇だ」
左右の手に一本づつお紅は扇を持っている。危険な微笑を浮かべて彼女はゆっくり扇を開いた。片方は黒の青海波に雪笹、もう片方は赤の地に白菊黄菊。だが扇の扇面の裏表の間に、かみそりのように研ぎ澄ませた細い刃を仕込んである。青海波の扇の縁は、血に染まっていた
 だん、と若頭が音を立てて立ち上がった。
「二枚扇のお紅!聞いたことがあるぞ。おまえ、国定忠治の手下か!」
お紅は凶悪な笑顔になった。
「そう思うんなら、かかっておいで!」

 かなり近いところからいきなり木の板をぶち破ったような音がした。続く怒声、情けない男の悲鳴、どすのきいた女のタンカ、血しぶきの音。そこまで聞いて甲斐は出雲を見上げた。出雲も眉をしかめている。
「何事だ」
大江戸八百八丁なら南北奉行所配下の捕り方が飛んでくるところだった。安中藩の城下では、そこいらにいた武士があわてて走ってくる。
「失礼!」
馬上から出雲は声をかけた。
「八州廻り出役、出雲と申す!何事ですか」
声を掛けられた武士は驚いて見上げたがすぐに答えた。
「博徒どうしの刃物沙汰です」
「ならば、役目のうち。御免」
手綱を絞って騒ぎの方向へ馬首を向けた。甲斐はあわててその後を追った。
 騒動の元は町のはずれの古びた寺の前で起こっていた。男たちが誰かを取り囲んでいる。乱れた服装や物騒な持ち物からして城下の良民ではないようだった。
 囲まれているのは女だった。どことなく巫女のような姿だが、両手に一本づつ血まみれの扇をかまえている。襲い掛かってくるやくざを狙って二枚扇を振りかざすと、刃うなりがした。
 舞のようだ、と甲斐は思った。長い袂がひるがえり、扇がいとも簡単にごろつきを切裂いていく。獲物を仕留めた扇が空中でぴたりと停まる。静止が姿よく決まり、まるで役者絵を見るようだった。
「島村の伊三郎!出てきな!あたしが怖いか!」
雌狼のように猛々しい。長い袂が返り血をあびて点々と赤くなっている。豪華な衣装のようだった。
 じり、と男がひとり背後から狙ってきた。ぴく、と扇の女の眉が動いた。とつぜん肘を真後ろに突き出して男のみぞおちに一撃を決める。つむじ風のように旋回して、痛みでうずくまった男の背に凶器の扇を一閃させた。
「ぎゃあ!」
衣服どころか背骨が見えるほど肉を割られて男はあわてて退いた。
 城下から集まってきた武士たちが遠巻きにしている。
「強いぞ、あの女」
「あの二枚扇、くせものだ」
女博打うちと街中で斬り合って負けたとあっては、家禄を召し上げられかねないほどの醜態である。侍たちはしり込みした。
「甲斐」
出役の出雲は静かに呼んだ。
「やってみろ」
「私がですか」
「周りを見ろ。今あの女を取り押さえられるのは、おまえしかいない」
やくざの男たちはもう震えているだけだった。安中藩の武士たちはためらっている。
「関八州取締り出役見習い、縹田甲斐(はなだ・かい)。下手人を捕縛せよ」
「心得ました」
正式な命令だった。甲斐は懐からたすきを出してきっちりとかけ、自分の刀を抜いて正面に構えた。そのまままっすぐ女の正面へ進み出た。
「このお侍、ずいぶんと優男だねえ」
返り血をなめて女は笑った。
「どきな、坊や、ケガするよ」
甲斐は挑発の相手にならずに刀を構えなおした。
「女」
出雲は馬上から声を掛けた。
「おまえは二枚扇の殺法をつかうが、その男はわしが教えた弟子の中では最高の使い手だ。逃げられぬぞ」
 ものも言わずに真っ赤な風が襲い掛かってきた。甲斐はなんとか刃をあわせた。荒れ狂う旋風は次々と凶器をたたきつけてくる。
 一撃一撃が信じられないほど重かった。女の細腕、しかもかみそりのような武器からの攻撃とは思えない。甲斐は腰をすえて刃を立て、仕込み扇を一撃づつていねいに防御しながらじっと女を見守った。ごろつきどもが翻弄されていた二枚扇の速さを、甲斐は難なく把握している。
 薄く女が笑った。次の瞬間、一瞬のうちにたたんだ扇を短刀のように使って至近距離から顔をえぐりにきた。
「うっ」
あわてて甲斐は飛び下がった。目を狙われた、とわかった。背筋をいやな汗が伝う。あら、という顔で女は艶やかに笑い、やや間合いを取った。いやみなほどゆっくりと扇を開き、顔を半分隠すようにかざした。その唇の美しさに、甲斐は陶然となりかけた。
 甲斐は片手で剣を保ち、自分の懐をさぐった。
「何か悪さをしようっていうのかい?」
危険な扇が全開になる。一枚は下から上へ、もう一枚は上から下へ。絶妙な間合いで襲ってきた。
 雪崩落ちてくる扇を刀で支える。必殺の刃が真下から突き上げてきた。かっ、と金属がぶつかりあう音がした。懐から探り出した小刀一本で甲斐は恐ろしい扇を防いでいた。
 初めて女が顔色を変えた。敏捷に下がると、値踏みをするような目でじっと甲斐を見つめた。馬上の出雲が声をかけた。
「両手で武器を使えるのが自分だけだと思ったか?」
だが女は出雲には目もくれなかった。射殺すような目でこちらを見ていた。甲斐の右手の刀は正面に、左手の小刀は身体の後ろへまわっていた。
ふいに女が言った。
「二刀の構え、誰に習った」
「知らぬ」
と甲斐は答えた。
「二刀を持ってみよ、と初めて言われたときから、自然にこの構えになった」
「あんた、誰だい?」
女は扇をおろした。
「私は」
女はつかつかと歩いてきた。まるで、まわりには誰もいないかのような振る舞いだった。女はためらいもなく刀の届く間合いへ踏み込んできた。
「あんた、どこで生まれた?江戸かい?」
まだ刀を構えたまま甲斐はためらった。
「そんなことをどうして聞く?」
「上州の生まれじゃないのかい?」
頭一つぶん小さい女の顔は、目のすぐ下にある。その表情が、ひどく真剣だった。
「私は」
生まれ在所を覚えていないと答えようとしたときにぽつりと女が言った。
「紅の鳥居」
全身が脈打った。呼吸さえ一瞬とまった。
「狐の面」
そう答える自分の声が、ふるえているのがわかった。腕がさがり、刀のきっさきが力なく地面を指すのは意識していなかった。
 くしゃっと女の顔がゆがんだ。その泣き出しそうな顔を知っている、と唐突に甲斐は思った。
「何をしている!」
出雲の叱責が飛んだ。
「甲斐、その女を捕らえよ」
横合いから誰かが叫んだ。
「姐さん、こっちだ!」
やっと我に返ったのは、その声のためだった。目の前の女はすばやかった。さっと身を翻し、声のほうへ駆け出した。
「追え!」
出雲が命じた。配下の足軽や安中藩の武士たちが一斉に走っていくのが見えたが、どういうわけか甲斐は一歩も動けなかった。
 いきなり女が振り向いた。
「あんたに渡すものがある!あたし」
だが、あとが続かずに、手引きの小者といっしょに走り去っていった。呆然としている甲斐の肩に誰かがいきなり手を乗せた。振り向こうとしたとき、頬が高く鳴った。
「出雲様」
殴られた顔を手で抑えたまま、甲斐は呆然としていた。
「なぜ追わなかった!」
上司であり、師匠でもある出雲の顔がゆがんでいる。甲斐はその目を見ることができずにうつむいた。
「申し訳ありません」
「もう何も言うな、腹が煮える!」
甲斐はしょんぼりと武器を鞘に収め、たすきを解いた。恥をかかせてしまった、と思うと、身の置き所がない。
「追跡は私が行く。おまえは宿で謹慎していろ」
吐き捨てるように出雲が言うのをただ聞くしかなかった。