ポーロックの双子

「桃源郷」(byすずきP様)二次創作

 暁闇が風に吹き払われていくようだった。黒々とした視界がしだいに明るくなっていく。白い霞が深山幽谷にたなびいた。足元のようすが次第にはっきりしてくる。芳醇な黒土だった。踏み込むと沓の跡がついた。
 遠くに見えるのは天を突く奇岩奇峰だった。いく筋か滝が流れ落ちているが、とちゅうで白くもやがかかり、滝つぼまではわからない。いかにも清らかな瑞雲が山塊の前をなめらかに滑っていく。
 気がつくと歩く道の両側が薄紅色に染まっていた。濃いめの薔薇色の花びらが枝という枝をうめつくし、びっしりと咲き誇る。桃の花だった。
 むせ返るような香りの向こう、大河の上に張り出した一枚岩の上に優雅に反り返る屋根を持ったひとつの亭(あずまや)があった。誰かがすわっていた。卓上には茶器のひとそろいがある。この夜明けに、茶を喫していたのだろうか。
 その人はこちらに顔を向けて微笑んだ。
「やっと来たわね」
あ、と彼は思った。
「青い旗袍ね。なかなか似合うわ」
「私は」
そのあとが続かなかった。自分は誰なのか、ここがどこなのか、この人が誰なのか、皆目見当がつかない。
「そんなことで頭を使うのはやめなさい」
「ですが」
 その人は女性だった。じっと彼を見つめ、ふっと微笑んだ。紅の髪を結って飾りをつけ、白い裙には朱雀が一面に刺繍されている。赤い領布が肩からひざへふわふわとまとわりつく貴婦人だった。
「さあ、お茶が入ったわ」
瑠璃色の小ぶりの茶碗から、緑茶の香りが漂った。
「いらっしゃい、カイト」

 特殊加工を施したアルミ板を壁一面に貼り、その上から線刻を施してある。そういう細工だとわかっているのだが、照明の当て方ひとつでその壁に南画風の巨魚が波とたわむれているようすが浮かび上がるのは見事だった。
 その魚、「鯤」は、この会社のシンボルマークだった。日本のNECと上海共和国、香港市国の企業体が出資したIT企業、KWON。
 KWON支社周辺は独特の雰囲気を持っていた。一世紀前には中国の代名詞だったアジア的な混沌が影を潜め、そっけないほどのクールさ、整然とした美しさ、機能美が支配している。
 チャイナ・テクノ。KWONを訪れる人々は冗談にそう呼んでいた。
 シルバーを基調とした受付に、訪問者がやってきた。黒一色のチャイナカラーの制服を身につけた女性レセプショニストが、アーモンド形の目で彼を見上げた。
「ご用件をどうぞ」
「オペレーション室長に呼ばれて、本社危機管理部から来ました」
アーモンドアイがすっと細められた。彼女は立ち上がった。
 同僚に目で合図すると、彼女は訪問者を導いて歩き出した。
「申し訳ありませんが、他社からのお客様もいらっしゃいますので」
男は事情を飲み込んだようだった。
「危機と言うな、ということですか」
「お願いいたします」
 その場所は上海市の郊外に特別に設けた一種の聖域だった。環太平洋地域のデータを一手に取り扱う超大型マザーサーバーを管理する場所である。
 大事なマザーマシン「開斗」が、今がらくた一歩手前の状態になっているのだった。

 ほほほと艶やかな笑い声がした、と思った。カイトは茶碗を卓においてあたりを見回した。
 彼らのいる亭は、大河に張り出した大岩の上に建てられている。足元から河の流れる音がする。きゃしゃな欄干の向こうには、先ほど見えた滝が豪快に落ちかかっていた。
 足音は背後から聞こえてきた。
「こんにちは」
甘い声だった。白いもやの中から二人の女性が姿をあらわした。
「遅くなりました、西王母さま」
やはり神仙なのだ、とカイトはぼんやりと思った。自分がこんなところに居合わせてよいものか。
「あの、お邪魔でしたら、私は」
西王母と呼ばれた女仙は眉を上げた。
「何を言ってるの。あんたが呼んだんじゃないの。こちらは碧霞元君」
翡翠色の透き通るような仙衣と領布をつけ、豊かな緑の髪を頭部の左右にわけて編み上げた少女が微笑みかけた。
「ようこそ、桃源郷へ」
「それが、この里の名前ですか」
もう一人の女が答えた。
「お望みなら他の名前で呼んでもいいわ、アガルタ、シャンバラ、シャングリラ、と。どれも同じことよ」
「つっかからないの」
西王母はやわらかくたしなめた。
「こちらは九天玄女」
桃の花を耳の脇に挿し、同じ色の髪を結わずに背へ流した美女だった。刺繍入りの濃い茶色の上着の下に、幾重にも重ねた薄紅の裙をまとっている。花びらのようだ、とカイトは思った。西王母に促されて、女仙たちはカイトの左右に席を占めた。両側からすばらしくいい香りがした。
「このような、私は、なんで……」
「深く考えてはだめ。さあ、桃はいかが?好きだったでしょ?」
いつ卓上に出てきたのか、茶碗茶卓とそろいの瑠璃色に金線使いの華麗な鉢がいつのまにか供されている。取れたての桃はみずみずしく、おいしそうに見えた。
「食べる?」
碧霞元君は桃を手に取り、白魚の指で柔らかそうな皮を剥き始めた。

 いつも技術系のスタッフが詰めている「開斗」専用のオペレーション室に、不穏な雰囲気が漂っている。
 スーツ姿の営業畑らしい男が、白衣の男性に懇願していた。
「それだけは!今『開斗』を停めたら、どれだけの損害賠償をわが社が負うことになると思っているんですか!」
白衣の男は疲れの見える顔で首を振った。
「後回しにしてもどうしようもないということですよ」
「なんとかならないんですか!」
それは悲鳴に近かった。室内の人々はうつむき、あるいは舌打ちした。
「『開斗』は、MS系のシステムを採用しています。現在主に使われているシステムはほとんど互換性があることはご存知でしょう。そのことが現在の世界を支えているのですが、今はそれがあだになった」
「というと?」
「世界中のシステムが、この『開斗』につられて次々とシステム異常を起しているんです」
「それがわからない。素人にもわかるように説明してくれませんか。『開斗』はいったい、今なにをやってるんですか?」
白衣の男は深いため息をついた。
「『開斗』は、桃源郷にいます」
「コンピューターが?」
オペレーション室の大きな窓から、KWON支社ビル中央にある巨大吹き抜け構造が見えた。温度や空調など厳重な管理を受けてそこに設置されているマシンが、「開斗」だった。
「実際は、とあるプログラムを走らせているところです。だが、いまだにプログラムを終了していない」
「なぜ?!」
「わかりません!」
白衣の男はかみつくように叫び返した。
「プログラムのミス?システムのバグ?チェックが追いつかない。別のマシンでチェックをすると、あっというまに桃源郷へ連れて行かれてしまう」
「桃源郷?」
「我々が仮につけた名前ですよ。プログラムが一定の区画で堂々巡りを する場所です。ふつうそんなことになったら、あちこちでエラーが出るはずなのに、開斗のやつはすべて良好と言うサインを返してくる。ある意味酔っ払っているような状態です」
「酔っ払ったコンピューター?いつかは醒めるのですか?」
「わからない。本当にアルコールが入っているわけではありませんからね」
くそっとスーツの男はつぶやいた。
「私の部下だったら、横っ面を張り飛ばして、“いつまでも夢を見てるんじゃないっ”と怒鳴るところですがね」
「そうしたいのはやまやまですが」
「なんとかならないんですか」
「『開斗』とまったく別タイプのマシンを使ってチェックするしかありません」
「ならばそれを早く手に入れてください」
「そう簡単には行かないんです。そんなマシンは、ただひとつしかないんですから」
「なんだ、あるんじゃないですか」
「それは個人の持ち物です。貸していただけるかどうかわかりません」
「費用なら営業がなんとかします」
「そういうものじゃないんです」
「もっとはっきり言ってもらわないと、こちらも」
スーツの男はいらいらした口調で詰め寄った。室内が険悪な雰囲気になった。
受付から来た男は、遠慮がちに白衣の男に近寄った。
「室長、今戻りました」
「君か!先生はなんとおっしゃった?」
「残念ながらお嬢様を派遣していただくことはできませんでした」
白衣の男は肩を落とした。
「だめか!」
スーツの男が面食らったような顔をしていた。
「お嬢様?」
「世界に唯一つの、二足歩行自律学習型ボーカロイドです。通称『ミラクル』」

 もう一度茶碗を手に取ろうとしたとき、すっかり冷めていることにカイトは気付いた。あたりはまだ夜明けのうす闇の中だった。いったいこの亭でどれだけの時間がたったのだろうか。
 美しい女仙たちは、ときおり笑い声をたてて何か親しげに語り合っている。
「タグがお笑いぐさだわ」
「ええ、あのコメントはないわね」
「あたしのPVのコメで他人の話をするってどうなのよ?」
 何の話かわからないまま、カイトは視線を上に向けた。見上げるような滝のそのまた上を、身をくねらせて竜が泳いでいく。奇岩から奇岩へ、鹿に似た瑞獣が群れをつくって飛び降りていった。
 不思議なところだった。カイトはうっとりと桃源郷に見とれた。どこからか、犬の声がした。
「あら」
紅唇をほころばせて西王母がつぶやいた。
「お客様よ」
「犬ですか?」
ほほほ、うふふ、と女仙たちは笑い転げた。
 後ろから男の声がした。
「何かおもしろいことでもござったか、娘々」
紫の髪を持つ、武将のように見える若い男だった。後ろに大型の犬を従えている。戦袍の袖の中から何か取り出して彼は犬にほうってやった。
「二郎真君」
西王母が小さく笑った。
「いっしょにお茶しない?」
「喜んで」
西王母の隣に二郎真君と呼ばれた男が坐った。
「河を見てきたの?」
二郎真君は片手で前髪をすきあげた。
「いや、明け方まで主君に付き合わされてへとへとゆえ、ちょっと散歩に出たまで」
奇妙に親しげな不思議な会話だった。なぜ自分がこの中にまじっているのか、カイトはまだわかっていない。
「退屈させてしまったかしら?」
九天玄女が声を掛けた。
「いえ、そんなことは」
ふふふ、と西王母が笑った。
「そろそろおやつかな」
空はまだ、夜明けの薄闇のままだというのに。
「誰か氷蔵へ行ってくれない?ピーチシャーベットがいいわ」
急に喉が鳴ったのはなぜだろうか。
「涎のたれそうな顔よ?」
女仙たちはくすくすと笑った。
 その微笑がいきなりこわばった。
「来たわ」
「来たわね」
二郎真君が立ち上がった。ひゅっと口笛を吹いて愛犬を呼ぶと、片手を剣の柄にかけて振り返った。
「ここは我が引き受ける」
え、とうろたえている間に女仙たちはさっと席を立った。
「娘々方を頼む」
「何をすればいいのかわからないんですが」
険しい目でにらまれた。
「ふざけていると、また犬をけしかけるぞ」

 本社に事情を説明し、「開斗」のチェックが出来るマシンを探して欲しい、と訴えたのが昨日のことだった。本社の危機管理部は、妙なことを言った。
「まるで“ポーロックから来た男”だな」
「何の話ですか?」
はは、と彼は笑った。
「英文学史上有名な話だよ。詩人コールリッジがほとんど幻視状態で詩を書いていたとき、ポーロックから男が訪れた。コールリッジは追い返したが、結局詩想は破られ、作品はそこで中断して完成しなかった。それが、『クブラ・カーン』だ」
クブラ・カーンはザナデューに、歓楽の館を作れと命令した……。
「室長?」
「失礼。だいぶ眠っていないもので」
「きみ」
と営業部長が声を掛けた。
「『ミラクル』の噂は聞いている。どうしてもそれでなくてはならないのかね?」
「『開斗』のチェックは他のマシンと互換性のあるシステムでは不可能です。『ミラクル』はシステムにKBver.3.2を搭載しています」
「KB?聞かない名前だな」
「KB、カガミネブレインはver.3.0以後は他種とまったく互換性がありませんから。特にKBver.3.2は、非常に特殊なシステムです。あれは、ある特別なプログラムを動かすためだけに造られたもので、まだ開発途上です」
オペレーション室長は首を振った。
「鏡音先生が『ミラクル』をとても大切にしているとは聞いていたが、やはりダメか。しかしそうなると、もう手がないのか」
「そうでもありません」
危機管理部から来た男はポケットから何かを取り出した。
「ハードディスクにKBの一部をコピーさせてもらってきました。Ver.3.0です」
それは磨いた鏡面をもつキューブだった。
「もちろん『ミラクル』そのものではありません。しかし、チェックだけなら、人間の身体をつかさどる複雑な運動系や表情系のコントロールはいりませんからね」
室長は震える手でキューブを受け取った。
「それを適切なマシンに入れて、『開斗』をチェックしてください。すべての領域を、同時進行で」

 滔滔と流れる河の上を一艘の船が軽快に滑っていく。両側は見上げるような絶壁だった。流れは速く、棹の下で白い泡が次々と生まれては消えていった。
美しい女仙たちは固まって坐っている。棹を操っているのはカイトだった。
「とりあえずDドライブへ行って退避所を探すわ」
と西王母が決めたのだった。
「急いでちょうだい。もうだいぶ領域が制圧されている」
「真君はどうなったのかしら」
碧霞元君がつぶやいた。
「連れ戻されたみたいね」
唇の中で“あのフカシナスが”とつぶやいて九天玄女が答えた。
「いざとなったら、カイトだのみね」
「え?」
驚いてつぶやくと女仙たちがいっせいににらみつけた。
「何をボケてんのよ!」
「と言われても」
そのときだった。空気が振るえた。峡谷の向こうから目に見えない空気の塊がこちらめがけて襲ってきた。
「ちっ」
九天玄女と碧霞元君が立ち上がり、胸の前にさっと片手を突き出して指で印を切った。
 空中に壮麗な館が現れた。気流はその館にぶつかり、激しく逆巻いている。
「今のうち!」
カイトはわけのわからぬまま棹をあやつる手を早めた。
「あああ!」
悲鳴が起こった。空中御殿が崩れていく。激しい気流のあたったところから砂と化して崩れ落ちていくのだった。
「これまで」
口惜しそうにつぶやいて薔薇色と翡翠色の女仙はうっすらと残像となり、消えていった。

 オペレーション室から、感嘆の声があがっていた。今までチェックを受け付けなかった領域がエラー自動修正によって次々と開放されていくようすが、モニターに表示されている。
「これがKBの力か」
営業部長は声も出ないようだった。室内から嬉しそうな声があがった。
「列島河川・ダム監視システム『神威』、正常に復帰しました!」
「気象衛星統括システム『LUKA』、もどりました!」
ほおお、と声があがった。
「今、オーストラリア緑化モデル地区から『ミレニアム9』が帰ってきた、と報告がありました」
「そうか」
オペレーション室長は安堵のあまり立ちくらみを起しそうになった。
「あとはどうなってる?」
危機管理部の男が答えた。
「大陸高速交通網を掌握している『美光(メイグォ)』がクリアになれば大物はもう大丈夫です。あとは『開斗』自身ですが、ちょっとやっかいかもしれません」
「うむ」
と室長はつぶやいた。
「やつは、やつの世界の中では最強だからな」

 山々が造る隘路のような急流を小船は勢いをつけてくだっていた。だがその上空に敵は迫っていた。
 かすかに明滅する金色の輝きだったそれはみるみるうちに大きくなっていく。やがて大きな翼を持ったあどけない少女が見えてきた。丈の短い上着は黄色、カンフーパンツは黒、袖が長めだが右手の拳を左手でつつんでいるらしく左右の袖がつながったままだった。
 無表情な少女は愛らしい唇を開き、ふっと息を吹きつけた。圧倒的な攻撃力のある空気塊と化すまでわずかの時間だった。
「よくも!」
西王母が小船の上で立ち上がった。
「カイト!」
「え、はいっ」
彼女は有翼の少女をにらみつけていた。
「これでたぶん、あたしは消えるわ。でもムカつくからあの小娘なんとかしなさいよ?」
はっと気合を入れ、胸の前で両手のひらから何か解き放つようなしぐさをした。
急に上空の雲が風に吹き寄せられたように見えた。白雲が山間の隘路へ殺到する。まるで白い大きな薔薇が金色の蝶々を飲み込むように、雲は有翼の少女を捕らえた。次の瞬間、凄まじい勢いで薔薇は内部から弾け跳んだ。
「うわっ」
砕かれた岩が雨のように降り注ぐ。その一つが小船を木っ端微塵に破壊した。紅の女仙は、怒りに満ちた表情のままかききえた。
「あとは、あなただけ」
水中へ投げ出される直前、カイトはそんな声を聞いた。
 ごぼごぼごぼ、とくぐもった音があたりを支配している。だが水の中は驚くほど澄んでいた。強い水流に押し流される。カイトはようやく岩のひとつにすがり、身体を引き上げた。
 カイトはぎょっとした。自分が捕まっている岩の上に、あの少女が立って顔をのぞきこんでいるのだった。
「殺される!」
そう思ったのと、身体が反射的に動いたのと同時だった。カイトはあわてて飛び下がった。
 足が岩の一つを捉えて、危なげなく着地した。黄の少女はまだ対岸の岩にいる。自分がジャンプ一つで河を跳び越したことをカイトはようやく悟った。
「あなたを連れて帰ります」
抑揚のない声で少女が言った。
「いやだ」
水浸しの旗袍の袖をカイトは引きちぎった。何をどうすればいいのか、次第に理解してきていた。
 指が耳の中をさぐる。針のようなものが手に触る。意外でもなんでもなく、カイトはそれを引き出し、つまんで振った。針は急速に伸び、手になじんだ武器としてよみがえった。両端に金の輪をはめた漆黒の神珍鉄、如意金箍棒である。
「どうしてもというのなら、斉天大聖がお相手しよう」

 マザーマシン「開斗」の中のエラー区域“桃源郷”は、ほとんど消滅しかかっている。だが、最後まで抵抗を続けているセクションがあった。
 室長はうなった。
「開斗のやつ、がんばってるな」
営業部長は心配そうだった。
「カガミネブレインは太刀打ちできますか」
室長は直接には答えなかった。危機管理部の男はじっとモニターをにらんだまま言った。
「カガミネブレインには、ひとつ特徴があるのですよ。それを開斗のやつが理解しているかどうか。まったく見知らぬシステムだから、わかっていないかもしれない。そうすれば勝てる」

 少女の武器は、唇から吐き出す気流、そして身軽な体さばきだけだった。うなりをあげる如意棒の前に彼女は無力だった。
 一度でもその身体に当たれば、けしとんでしまうだろう。それほどに少女はきゃしゃだった。
「帰れ。君を傷つけたくない」
これほどに幼く、あどけないものを。
「あなたをここから出すことが、私の仕事です」
少女は言い張った。その顔すれすれに如意棒がかすめた。
「次は当てるよ?」
少女は間合いを取った。何か考え込んでいるようだった。
「なぜあなたはこんなところにいるのですか」
時間稼ぎか、とカイトは思った。
「わからない。でも、居心地がいいんだ」
「いごこち」
少女は不思議そうにつぶやいた。
「それは、人間なら知っているはずのことですか?」
「さあ。私も人間じゃないのだから」
ふと思いついてカイトは訊ねた。
「君の名前は?」
「鏡音鈴」
「ジン・イン・リン。綺麗な響きだ」
あまりにもあどけない顔立ちのきゃしゃな少女だった。カイトはしかたなく如意棒を挙げた。
「どうしても帰らないなら、君をここで殺す」
彼女の表情は変わらなかった。カイトは腕に力を込めた。
「そして」
唐突に彼女は言った。
「私の兄弟が、鏡音冷」
ジン・イン・レンというその響きを、やはり美しいと感じた瞬間、首筋に強い衝撃が加わった。うめくことすらできず、カイトはその場に倒れた。
 最後に意識に残ったのは、少女と同じ衣装、同じ顔立ちの童子が背後からのぞきこんでいる姿だった。

 KBver.3.0を収めたキューブを危機管理部の男は受け取ろうとしなかった。
「先生にお返ししなくてもいいのかね」
「必要ないとおっしゃってました」
「そういうものか。見事な作品なのに」
KWONのお宝、マザーマシン「開斗」は正常に戻り、日常業務は再開された。なんとかシステムを停止することなく事態が解決し、オペレーション室は平静さを取り戻している。
「さきほどのことですか。KBはもともと、二つで一組なのです。全領域を同時に解放していった結果、カガミネペアは最後に残った開斗のセクションで出くわしました。開斗はそれを理解していなかった」
室長はキューブを手に取ると自分のデスクへ運び、ていねいに引き出しへしまった。
「こんなさわぎはもうゴメンだ」
危機管理部の男が聞いた。
「しかし、そもそもの発端になったのは、どんなプログラムだったのですか?」
「日常的なデータ管理プログラムだよ。今コードを読み直させている。まさか、管理対象になっていたフォルダが原因じゃあるまい」
「どんなフォルダですか」
「古い音楽データばかりの、害のなさそうなフォルダだよ。聞いてみるかね?」

おいでませ ここ桃源郷 過去も未来もない蜃気楼
いびつな迷路 くぐりぬけ うつろな魂 迷い込む

おいでませ ここ桃源郷 アガルタ シャンバラ シャングリラ
いつかはここを離れても 花咲くたびに思い出す

皆 かつて落とした涙 その一滴に龍が棲む
昏い夜明けに風が吹く 桃の香りが惑わせる

皆 いまは忘れた涙 その一滴を虎は飲む
昏い夜明けに聴こえているのは 遠くささやく神仙の声

「砂デ建テタ御殿ノヤウニ 雨ガ降レバ全テ崩レユク」
「雲デ出来タ薔薇ノヤウニ 風ガ吹ケバ皆 失ハレユク」
「水面ニ曳ク航路ノヤウニ タッタノ2秒デ泡トハジケトブ」

さらわれる… 揺れる意識の向こう側へ

おいでませ ここ桃源郷 花咲き乱れるユートピア
乾いた理性のなれはてを 夢の淵へと誘い出す

おいでませ ここ桃源郷 マハラジャ ハシエンダ キサナドゥ
すべては嘘と わかるけど 花散るたびに思い出す

皆 かつて落とした涙 その一滴に龍が棲む
昏い夜明けに風が吹く 桃の香りが惑わせる

皆 いまは忘れた涙 その一滴を虎は飲む
昏い夜明けに聴こえているのは 遠くささやく神仙の声

「木々ニ萌エル緑ノヤウニ 秋ガ来レバ ヤガテ変ワリユク」
「雪デ出来タ友ノヤウニ 春ガ来レバ 皆ミナ去ッテユク」
「空ヲ射抜ク流星ノヤウニ 闇ニ飲マレ ソレゾレ散ッテユク」

うつろえる… 時の流れの裏側へ

おいでませ ここ桃源郷 過去も未来もない夢の中
いびつな迷路 くぐりぬけ うつろな魂 迷い込む

おいでませ ここ桃源郷 アガルタ シャンバラ シャングリラ
目が覚めここを離れても 歌を聴くたび思い出す

さようなら この桃源郷 恐怖も希望もないデストピア
甘い香りを漂わせ うつろな魂 引き寄せる

さようなら ここ桃源郷 はらいそ アヴァロン アルカディア
いつかは夢が終わっても…? 花咲くたびに思い出せぇ~!!