不思議の館へようこそ 7.失われた台本

「Bad∞End∞Night」「Crazy∞Night」(ひとしずく×やま△様) 二次創作小説

 白衣のポケットに両手を入れ、カウンセラーはうなだれていた。
「先生」
ためらいがちに、だが、熱意を込めて助手が言いかけた。
「ここで終わりじゃないですよね?先生ならきっとできますよ」
「限界ぎりぎりなんだ。患者の体力と気力がね」
「でも、もったいないじゃないですか」
美空はこの悪夢を毎晩に近い頻度で見ているが、実は内容を漠然としか覚えていない。覚えているのは、恐怖、絶望、死にいたる苦痛なのだ。カウンセリングを受けるようになって初めて美空は催眠状態で悪夢の細部をあかしていた。
 そして催眠で引き出した悪夢に限って、『ミク』は失敗する前の時点から再トライが可能だった。ここで打ち切れば、また同じプロセスを繰り返さない限り、試行錯誤ができない。
 カウンセラーは、しばらくためらっていたが、先ほどのフォルダから別の書類を取り出した。古風にも、カーボン紙をはさんだコピー式の三枚綴りだった。
「ちょっとした危険を犯してみるか」
助手はぱっと顔を輝かせた。
 カウンセラーはその書類を助手の方へ向けた。それは、患者に対して特殊な薬品を使うことの許可を求める申込書だった。
「まさか、これを?」
「私1人では使えないんだ。立会人になってもらえるか?」
「はいっ」
カウンセラーは自分と助手の署名を加えて書式を完成させた。
 それをもってカウンセリングルームを出ると、しばらくして彼は戻ってきた。
「始めるか」
その手には、厳重に封印されたアンプルと注射器があった。
「私の声が聞こえますか?」
薬品を投与された患者は、ベッドの上で薄く笑った。
「聞こえます」
「あなたはどこにいますか?」
「不思議の館だわ。あたしは扉の前にいる」
「けっこうです。さあ、行きましょう」

響くカーテンコール 止まない喝采
もっと もっと 響かせて?
開演ブザー 幕が上がった
1、2、3 で はじまるよ

 ミクは、扉の前でためらっていた。
「どうしても?」
おぼつかない口調で彼女は聞いた。
「どうしてもです」
頭の中の声がそう答えた。
「どっちみち、ここまで来てしまった以上、館へ入らなければ何も始まらない。前へ進みましょう」
「また殺されろというの」
拳を握りしめて彼女はあらがった。
「今度はうまく脱出できるかもしれない」
「嘘よ」
「いや、あるモノを見つければ可能です」
「何のこと?時計の針なら手に入ったけど、だめだった」
「本を探して欲しいんです。394ページ以上の厚い本です」
ミクは考え込んだ。
「あのページのことを言ってるのね」
「あれを持っていますか?」
「ううん、時計の針を調べた時に、落としたらしいの」
「必ず取り戻してください。いいですか、あれは台本でした。あなたの行動はほとんどすべてその台本通りになっていた。逆に言えば、元の台本を調べれば、助かる方法が見つかるかもしれない」
ミクは目を見開いた。
「そんなことって、ある?」
「もしかしたら、台本を取りあげてしまえば、すべて解決する可能性だってある。彼らが本当は人形なら、アドリブなどできるはずがないんです」
それでもミクは、未練がましく自分の背後を振りかえった。
「いけません。どっちへ行っても戻ってくるのでしょう」
「そう」
とミクはうなずいた。
「わかった。行くわ」
そうして不思議の館の扉へ近づき、ノッカーを鳴らしたのだった。
 開かないはずの扉が両側からゆっくり開いた。微笑を浮かべた執事とメイドが出迎えた。殺し殺されを繰り返した二人を前にして、ミクは緊張のあまり肩をこわばらせた。
「これはこれは」
「ようこそ、不思議の館へ」
ミクは唾液を呑み込んだ。
「あの、あたし、道に迷ってしまったんです」
「そうでしょうとも」
ミクは咳払いをした。
で、家族があたしのことを心配していると思います。帰り道を教えていただけませんか」
グミがぴく、と眉を動かした。さりげなく執事が手でメイドを制した。
「御家族もさぞ御心配でしょう。ですが、夜の山道は危険です。明日、明るくなってからお送りいたしましょう」
本当は孤児だということを見透かされたようだった。ミクは、教会の慈善事業で孤児院に配られた古着を着ていることを嫌でも意識した。
 くす、とグミが笑ったようだった。
「こちらへどうぞ、お客様。ただいまお茶をお持ちいたします」
吹き抜けの玄関ホールの向こう、廊下の先で扉が開いたようだった。カイトをはじめ、館の住人が獲物に気付いてやってくるのだろう。
「負けない」
心中そうつぶやいて、ミクは不思議の館へ足を踏み入れた。
 よく知った場所をよく知った人物と歩き、よく知った会話をする。まるでお芝居のせりふを読んでいるようだとミクは思った。
「この家にはめったに客はこないので、食事をご一緒していただければ家族も喜ぶでしょう」
「ねえ、この人をすぐにお返ししたりしないでしょ?」
「御食事を一人分追加してちょうだい。ふさわしいワインもね」
熟知している台詞が、順番通りに出てくる。ミクは機械的に受け答えしながら、室内を観察していた。
「あれは」
ミクは思わずつぶやいた。部屋の奥には、カイトのものらしい両袖の大きな机があった。インク壺、羽ペン、ガラスのペーパーウェイト等の文具にまじって、茶色に金文字の装丁の贅沢な本が載っていた。
「どうしました、ミクさん?」
ミクは、その机の上の本を指差した。
「ずいぶん立派なご本ですね」
カイトは微笑んだ。
「物語がお好きとは趣味が合いそうですね。キャロル氏の『不思議の国でのアリスの冒険』ですよ。挿絵つきの完全版です」
前回と違う会話はそれだけだった。グミが食事の支度ができたと言いに来るまで、ミクはその本のことが気になってたまらなかった。
 晩餐会は、前回と同じように始まった。執事がワインを選び、主人がチョイスを褒め、メイコが全員で乾杯しようと提案する。酔いつぶす気だとわかっているが、少なくともこのテーブルについている間は、殺すか殺されるかのゲームをやるつもりはないらしい。つかの間の安息であり、前夜祭だった。
「さあみんな、一滴も残してはだめよ?」
メイコは自分のグラスを掲げた。
「乾杯、楽しい一夜に!」
「乾杯、巡り会った縁に!」
うふふ、あはは、と双子が笑い、高い音を立ててグラスをぶつけあった。
 獲物を眺める狩人たちをミクは強い視線で見返し、双子が声を上げる前に自分のグラスをさっと掲げた。
「乾杯、クレイジーナイトに!」
わっと歓声があがるのを聞きながら、最初の一杯をミクは飲みほした。
「台本、必ず手に入れるわ」
 実際、その夜の宴は楽しかった。みんなの出すなぞなぞの答えを知っているのだから、いくらでも当てることができるのだ。
「あなたは車を運転しています。道路の上に子猫がいた時と、酔った弁護士が転がっていた時。さあ、どう違うでしょう?」
酔っ払って頬を赤くしたルカが言いだした。
「ミク、ミクはわかる?」
ろれつもあやしいようだった。
「わらる、わかる」
もう笑いながらミクは答えた。
「子猫ちゃんだったらかわいそうだから、急ブレーキを掛けます!」
くすくす笑いながらミクは言った。落ちを承知しているらしい館の住人たちは、ワイングラス片手にもう笑い転げていた。
「でも、弁護士のクソ野郎だったら、アクセルを踏むんでぇす!」
ぎゃははは、と笑い声が重なった。
「あたりぃ!」
ルカはワインをミクのグラスに注いだ。
「ほら、当たったから、飲んで」
「ちだうわ?はずれたら、飲むのよ」
「いーの、いーの」
「やーだ、ちだ、違うわよ」
この間の会話と違う。台本から筋がずれてきている。そう主張したいのだが、頭は酔ってくらくらするし、舌はうまく回らなかった。
「いーから、いーんだから!」
 まわりは酔っ払いだらけ。
 そうだ、どうでもいいのだ。今はただの前夜祭。酔いが覚めたら殺すか殺されるかのゲームが始まるのだから。
 グラスを掲げ、ルカ、メイコ、カイトと次々と縁を触れ合わせ、甲高い声でミクは叫んだ。
「乾杯!」
酔って理性のたががはずれたような笑いが次々と返ってきた。
「ハッピーナイトに!」
「クレイジーナイトに!」
 こんな楽しいことは生まれて初めて。今いっしょに飲んでいるこの仲間は、世界中どこをさがしてもいやしない。浮き浮きわくわく、殺し殺されあうチームなんて。
 ぷっはぁと息を吐いてミクはとろんと半眼を閉じた。
「酔いが覚めたら、すぐに時計の針を取りにいくわ。そして、狩りをするの」
あたしはもう、殺されすぎた。あれを繰り返すのは単純すぎてつまらない。狩りをするなら、最初っからカイトを狙うのはどうかしら?そして彼の上着を手に入れて、他のみんなをだますの。ほら、元の筋書きが狂ってくる。
「やだ、あたし、天才なんじゃない?」
そこだけ口に出してミクはつぶやいた。
「天才、天才!」
「ジーニャス、ジーニャス!」
すかさず双子人形がはやし立てた。二人がいとおしくてたまらず、ミクは少年と少女を抱きしめた。
「ね~、呑んでる?」
リンとレンは満面の笑顔で答えた。
「呑んでるよっ?」
「楽しいねえ」
「じゃあ、乾杯!」
ミクのろれつが完全にあやしくなった。
「とろし……ころろ、ろしあいに、きゃんぱぁい」

ぐるぐる 1、2、3で 酔わせて酔って
もっと もっと 騒ごうぜ
単純なのはつまらない?
なら、もっと狂わせて

 ミクは、目覚めと同時に行動し始めた。ぐずぐずしているとリンとレンが部屋へやってくる。その前にあの大時計の前にたどりつかなくてはならなかった。
ミクは廊下の壁に張り付いてカイトの部屋のようすをうかがった。この部屋は玄関ホールと廊下の二か所にドアがある。ホール側のドアが開き、足音がした。
「執事だわ。トレイを持ってる」
長身長髪の執事は空になったコーヒーカップの載ったトレイを片手に持ち、もう片方の手で胸ポケットから懐中時計を取りだして時間を確認した。そして、ほとんど足音をたてずに歩き去った。
 しばらく息を殺してミクは中のようすをうかがった。物音はなかった。意を決してミクはドアノブをそっと回してわずかに開けた。
 部屋は無人だった。薄暗がりの中、正面にあの大時計が見えた。ミクは時計に近寄った。大きな時計の筺体の下、厚手の絨毯に隠れて、破れたページが落ちていた。
「あった」
ページと、そしてもうひとつ。ミクは早々に時計の盤面からカバーをはずし、ネジを緩めて時計の針を持ち出した。
「これでいいわ」
ミクはふりむいた。薄暗い部屋の中で、カイトの机の上の本は光を放っているかのように目立っていた。
 この前この本は、本当にここにあっただろうか。覚えていない。立派な装丁の分厚い書物で、表紙には「不思議の国のアリス」とあった。
 重い表紙をめくったとたん、うっとミクはつぶやいた。
「セクションナンバー1
あなたは道に迷って山の中を歩いたあげく、立派な御屋敷を見つけました。
1.ドアをノックする
2.道を引き返す」
あった……、そう思って急速に気持ちがふくれあがった。本当に台本はあったのだ。
「道を引き返すとどうなるの?ナンバー2へ?」
ナンバー2は隣に印刷されていた。
「セクションナンバー2どの道を歩いてもあなたは同じ御屋敷の前にたどりつきます。ナンバー1へ戻る」
やっぱり。ミクはどきどきする胸を片手で押えてページをすすめた。本当に台本なのだ。次々と選択肢が出てきて、果てしなく筋は分岐するようだった。
「このなかにあるんだわ、ハッピーエンドが!」
 そのときだった。足音がした。
 ミクは、はっとした。最初のトライのとき、ミクを秘密の部屋へ追いやったあの足音だろうか。リンとレンと話をした時間を勘定に入れると、あのときのミクはちょうど今頃このカイトの部屋へついたころだろう。
「誰なの?」
ページをめくった。が、足音の正体は書いていなかった。
「どうしよう」
足音がとまった。ドアノブの回る音がした。
 ミクはとっさに大時計の振り子室のカバーをはずして秘密の部屋の入口を開け、本を抱えて秘密の部屋へとびこんだ。が、今度はわずかに隙間を残した。このあいだのような不意打ちはもう嫌だった。
 隙間からもれる光の中で、ミクは一生懸命分岐をたどった。どれを選んでいいかわからないときは、元のページに指を挟んでおいて次のセクションへ行く。そこにも分岐が合って指をはさむ。そのうち、ページをめくるための指がなくなって唇と顎でセクションを探す始末だった。
「これは、バッドエンドだわ。こっちも。これも」
ミクはいらいらした。どの分岐をとっても、最後にたどりつくのはセクションナンバー422なのだ。こうしてあなたは死にました……。
「なによ、これ!」
ミクはかっとした。結局ミクが確認したのは、自分がたどってきたエンドばかりだったのだ。
 カイトの部屋から、話し声が聞こえてきた。
「こちらです、奥様」
グミが、メイコに話しかけているらしい。気がつくと足音も声も複数だった。隣の部屋に住人が集まってきているようだった。
「まあ、時計の針がないなんて、これでは時間が進まないわ」
ミクは細い隙間に身を寄せ、息を殺して隣室のようすをうかがった。
 考えてみれば当然だった。あのときミクは足音に怯えて秘密の部屋へ逃げ込んだ。棺の山に気付いて戻ろうとするまで、時間はごくわずかのはず。そのわずかな時間のあいだに館の全住人は隣室に集合してミクのすきをついたのだ。
 今は当然、集合、そして、待機のはずだった。
「まいったな。どうしたものか」
と、カイトが言った。
「考えるまでもありませんわ。舞台は続けなくてはならないの」
毅然としてメイコが答えた。
「この次はどうなっていて?」
「それが、次のページがなくなっております」
執事が答えた。
「なに?!」
カイトとメイコがうろたえた声をあげた。
「ここから先へ進めないじゃないか」
「まことに。一大事でございます、旦那様」