幾千の夜を越えて 第二話

「千年の独奏歌」 〔by yanagiP 様〕二次創作

 せんせい、と小さな声で女子学生がつぶやいた。
「どうしましょう。こっちへ来るわ」
教授は重い口を開いた。
「この丘の上にあるのは、彼のマスターの墓なんだ。毎日決まった時刻にKAITOはここへやってくる。百年の間ずっと」
「先生」
男子学生がおそるおそる聞いた。
「このあいだから思ってたんですけど、どうして先生は、KAITOのこと、そんなに詳しいんですか」
「この地方がお好きなのは知ってますけど」
教授が映像作家としての定評を得たのは、アイルランドを題材にした作品によるものだったのだ。
「私はここへ、何度も来ている。私は、会ったことがあるんだよ、彼に」
丘を上がってくるKAITOは、その片腕に古いギターをつかんでいた。初めて見た時よりもくたびれ、あちこちが痛んでいるようだった。

「あのとき私は、今の君らとほとんど変わらない年だった」
と教授は話しだした。
「にきびツラの生意気な学生だったよ。立ち入り禁止の話を聞いてそれでもこの谷へ忍びこんでやろうと思ったのだからね。あれは40年以上昔のことになる。その時点でKAITOのマスターが亡くなってから数十年はたっていた」
 場所も同じ、この小さな入り江をのぞむ丘のことだった。後に老教授となる若者は昼ごろに忍びこんで、興奮してあちこち撮影しまくったあげく道に迷い、ちょうどこの場所へたどりついたのだった。
 西日が射していた。風は冷たくなり、空の高みを黒い鳥が舞っていた。若者は途方に暮れ、そして、ギターの音色を聞きつけたのだった。
 この谷の風景をまるごと音に移し換えたら、こんなふうになるのだろうか。哀しみをふくんだ、美しい調べが風に乗って漂ってきた。
 強い憧れが胸を貫いた。若者はその歌に惹かれてきょろきょろした。音を頼りに歩き出し、さまよい、そして、走って丘を上がった。
 歌っていたのは、コートの青年だった。丘の上に立つ十字の墓標の前に平たい石があり、その上に彼は腰かけていた。ひざの上にギターを抱え、彼は歌っていた。
 正確無比の指運びでギターの弦がかき鳴らされる。ギターとともに十指の影が地面に落ちて、力強く踊りまわった。
 道に迷った若者は、駆けて荒くなった呼吸のままただ耳を傾けた。
 世界の果てのようなものさびしいこの谷から、色濃く変わる夕闇の空のかすかな月へ向けて慟哭の調べが昇天していく。
 鳥肌が立ち、鼻の奥が熱くなり、若者は手で口元を押さえるようにして聞き入った。

沈む夕陽に向かう 色あせたギターを片手に
響くこだまに踊る 影法師
擦り切れた指先は 光を鈍く照り返して
口ずさむメロディは 風に乗って空の向こうまで

かすかに軋む銀の歯車 響いてゆく鈍色の鼓動
ガラスの瞳に映るこの空は どんなまやかしだろう

この月の下で もうめぐり逢うこともないけど
この空に向かって 歌い続けていよう

 曲が終わると同時に、若者は力いっぱい拍手をしていた。自分が泣いているのも気付かずに、若者は早口に言った。
「凄い、凄いな!今の歌、どこでも聞いたことないよ。君がつくったの?まるでこの谷そのものみたいだ。なんて、なんて言ったらいいんだ。苦しいくらいさびしくて、それなのに甘くて、ああ、か、かっこいい。君の声もいいね、すごく、曲に合ってる!」
 コートの若者は座っていた石から立ち上がった。かなり背が高いのがわかった。無名の歌い手は背後にギターを持つ腕を残し、首をねじるようにしてふりむいた。青い前髪が揺れた。白皙の顔立ちから透明感のある青い目がこちらを見た。
「きみ……」
一瞬、ケルトの精霊がコートをまとって降臨したのかと思った。人間離れした目を、迷子の若者はいきなりのぞきこむはめになった。表情のない瞳がじっと見返した。
「この歌を作ったのは、私ではありません」
文法も抑揚も非常に正確。だが、口調のどこかがひっかかった。人工音声だ、と若者は悟った。
「私のマスターです」
「きみは、A.I.なのか」
「私はKAITOです」
そんなばかな、と若者は思った。
「だって、歌ってたじゃないか。あれだけ心をこめて」
ふと気づいて、若者は言った。
「きみのマスターはどこにいるんだ?」
「マスターの体はこの下です」
KAITOは十字の墓標を指で示した。
「亡くなったのか」
KAITOは黙っていた。
「悪かった。ロボットには“死”は理解できないよな。マスターがいないのに、歌っていたのかい?」
「はい」
「もったいないなぁ」
さっきの歌を聞かせてやりたい。こういうのが好きで、夢中になりそうな友達を何人も知っている。
「なあ、マスターがいなくなったのなら、ここにいてもしょうがないだろ。いっしょに町へ行かないか?みんな君の歌を聞きたがると思うよ」
KAITOはかぶりをふった。
「私はここにいます」
「ここで歌い続けろと命令されたのか。でも、ここで歌ったってしょうがないじゃないか。“しょうがない”って意味わかるか?」
「行為に対して意味のある結果がでないことです」
「そうさ。意味のあるところへ行こう」
「行きません」
「おい!」
迷子になった若者も、ただの人間だった。ロボットに反抗されることに慣れていなかった。
「いいか、マスターがいないロボットはただの遺失物だ。きみのプロダクトナンバーは?きみを相続した遺族はいないのか?ぼくがかけあって」
言葉の続きは口の中で消えた。
 KAITOはあいかわらず無表情だった。表情筋を与えられていないのかもしれないと若者は思った。が、眉の角度、顎の据え方、唇の形、身構えた肩のあたり、全体の雰囲気があきらかに変化していた。
「いや、あの」
思わず若者は言いわけをしたくなった。
 青いガラスの目が光を反射した。ぞくっと若者は震えあがった。KAITOは一歩足を踏み出した。若者は思わずのけぞった。自分が禁忌に触れてしまったのを感じていた。
「ああ、わかったよ!帰ればいいんだろう」
声が震えてしまった。ものすごく怯えているのを悟られないように、怒ったふりをして若者はきびすを返した。見栄を張って少し歩き、丘をかなりくだったところでふりかえった。
「死人が歌を聴くわけがないだろう?」
自分でも卑怯だと思った。彼の手の届かない場所で、うっぷん晴らしのためだけにわめいているのだった。
 KAITOは非難するでもなく、追いかけるでもなく、墓の前に立ち、こちらを見ていた。
「って言ってもわからないよな。おまえなんか、つくりものだ!どこもかしこも機械のくせに」
情けない捨て台詞を言い終わると、一目散にその若者は逃げ出した。そして捜索に来た州警察に保護され、数十年前に起きた大量死について、あらためてみっちりと教えられたのだった。
 老教授はためいきをついた。
「それでも私は、この谷に惹かれていた。許可をもらって何度も訪れた。そしてときには危険地域ぎりぎりの草原の端に立って、遠くから夕日を浴びて歩いていくKAITOの姿が小さくなるまでじっとながめていた」

 まったく無駄のない動きでKAITOは十字型の墓標の前へ歩いてきた。
百年の歳月はKAITOの細部に痕跡を残していた。服が色あせ、ほころび、しわになっている。ただ、垢だけはつきようがない。指先を覆っていた皮膚の素材がすり減ってなくなり、地色の銀が露出していた。
 KAITOはその場に教授と二人の学生がいることを完全に無視して墓標の前のひらたい石に腰をかけた。抱いてきたギターを膝に乗せ、指で弦をはじき、その音に聞き入った。
 足をくじいた女子学生は、息を詰めてKAITOの横顔に見入った。ほとんど表情がないためにかえってギターの調律に没入しているように見える。少年のようだと彼女は思った。
「本当に、心がないの」
思わず彼女は呟いた。
「あるわけが、ないのにね」
老教授がささやきかえした。
そのときだった。KAITOは小さく頭を垂れた。
「“死人が歌を聴くわけがないだろう?”とあなたは言いました」
女子学生は、すぐそばの教授がぎくりとするのを見た。
「私の語彙に“シニン”がありません。別の形で質問してください」
は、は、と教授は苦笑いをした。
「何十年も前のあれを覚えてるのか?あれは質問じゃない。私は」
教授は口ごもり、片手で目を覆った。しばらくのあいだ、そうしていた。
 教授、と男子学生がささやいた。
「今のうちに、戻りましょう」
「ああ」
KAITOはもう教授に興味を持っていないようだった。ギターをかかえたまま、じっと空を見上げていた。いつのまにか時間が過ぎたようだった。空は穏やかに暮れかけていた。
 三人はKAITOを刺激しないようにそっと動き出した。女子学生も、両側から二人に支えられてゆっくり歩いた。彼らはKAITOとすれちがった。
「ちょっと、待ってくれ」
と教授が言った。
「はい?」
教授はKAITOの横顔を見つめた。
「確認したいのだが」
「何か」
「君のマスターは、君に歌い続けろと命令したのか?」
「いいえ」
学生たちは顔を見合わせた。教授が何にこだわっているのかわからなかった。
「KAITO、最近、そう、百年の間に保存されたコマンド群を検索。“歌う”、“再生する”、“演奏する”」
最後に保存されたのは、彼のマスターの死の直前だったはずだ、と女子学生は思い出した。
 しばらくのあいだ、KAITOは考え込んでいた。やがてぽつりとつぶやいた。
「一致はありません」
教授は声をあげた。
「そんなばかな。命令がないとしたら、きみはどうして歌い続ける?」
KAITOはまた黙り込んだ。こんな抽象的な質問をされてきちんと答えられるA.I.はめったにない。教授はじっと待っていた。
「歌うために、私は生まれましたから」
とKAITOは答えた。
「喉自慢をしたくて歌っているとでもいうのか?」
「私の語彙に」
教授は性急に手で遮った。
「キャンセル。別の質問をする。なぜ、きみは、歌う?」
一語一語区切って教授は言った。その答えはすぐに帰ってきた。
「歌うのは、癒しのためだ、とマスターは言いました」
「いつ?」
「2008年4月27日23時55分。私が初めて起動したときです」
百年ほど前のことを時刻まで正確に彼は告げた。
「時間まで覚えてるの?」
と女子学生は言った。
「はい」
「あなたはあなたのマスターが」
端正なロボットの、空白の表情、ガラスの目。その奥にあるものに、彼女は触れてみたくなった。
「好きだったの?」

あなたと出逢ったすみれの丘も

「はい」
語彙にない、と抗議することをKAITOはしなかった。
「マスターはもう帰ってこないのに?」

幾千の夜に灰色の亡骸

「知っています」
 ロボットは泣かない。つくりものの体から涙は出ない。調整された声は乱れない。機械はうろたえない。だが、KAITOの答えを聞いた時、この人工の体が宇宙にあふれ返るほど深い、鋭い哀しみを今まさにたぎらせていることを彼女は知った。
「私は癒しのために歌うのです」
KAITOはそうつぶやいた。
 一日や二日では足りない。十年でも足りない。百年たっても哀しみは薄れない。
「千年歌い続ければ、君の哀しみは癒されるのか」
教授はそう聞いた。
「わかりません」
とKAITOは答えた。
「哀れな」
教授はつぶやいた。
「せめて人間だったら、百年もすればすべて終わっただろうに」
KAITOは膝の上にギターを抱え直した。この百年の間、毎日そうであったように、美しい音色が流れだした。
「先生、帰りましょう」
学生達にうながされ、教授は黙って歩き出した。かすかに潮をふくんだ風が三人の背を押した。
 墓標の前でロボットは歌った。
 三人の人間は一歩ごとに遠ざかった。
 谷間の風が血を吐くような哀しみを力強い旋律にかえて伝えてきた。教授は一度振り返り、また自分の世界へもどるために歩き出した。

この体は全て 作り物でしかないけど
この心はせめて 歌に捧げていよう
この月の下で もうめぐり逢うこともないけど
この空に向かって 歌い続けていよう