斬り込み支度

 ……真っ白な霧の海を見下ろしているのだった。たちこめる霧の中から巨大な骨がいくつか見えている。いずれも巨人のような骨格に角や牙を持ったしゃれこうべの、人外のむくろだった。
 ぼろぼろになった武具を白骨にまとっているものもあった。霧の海に野ざらしになっていなかったら、さぞかし立派な鎧だっただろうと思われた。
 巨大な骨格は、あるものはうずくまり、あるものはすわり、頭骨のあごの部分を胸につけて永遠の眠りについている。もっと小さななきがらは、霧に包まれて見えないのだろう。その荒野は、地平の彼方まで骨に埋め尽くされていた。
 犬夜叉は、骨格だけの鳥の首の辺りをそっとたたき、もう一度旋回させた。眼下の風景は寒々として、動くものはない。しゃれこうべに開いた眼の孔を風が吹きぬけるとき、かすかに立てる音がすべてだった。
「かごめ……」
もしや彼女の匂いはしまいか。あの声がちらとでも聞こえはしまいか。気持ちばかりがあせるが、葬送の大地に少女の姿はなかった。
 そのとき犬夜叉は、別の匂いをかぎつけた。
「あいつも来てんのか!」
いけ、と骨鳥に方向を指示してやると、鳥は従順に翼をめぐらせた。
 ここはこの世ならぬはざまの世界だった。かごめがそこへ引き込まれたと知り犬夜叉は夢中であとを追ってきたのだった。珊瑚が巻き込まれなかったのはわかっているし弥勒もついている。
「七宝のヤツは、まあいいとして」
いささか薄情につぶやくと、犬夜叉はようやく視界に入ってきた彼を見据えた。
異母兄、殺生丸。
「じゃ、あのちびもこっちか」
あのちび……と呼んではいるが、もしかしたら義理の姉ということになるかもしれないりんという少女がさらわれた、それ以外に殺生丸がこんなところまで出向く理由がなかった。
 犬夜叉が骨鳥の背中から見下ろしているのは、うずたかく積みあがって小山のようになった骨の塊だった。その頂上、ややひらたくなったところに殺生丸はいた。
「だいぶやられたみてえだな」
愛用の胴鎧が、無残に砕けている。肩を守る防具もなくなり、つねに体にかけている美しい毛皮がなかばちぎれ、血で汚れていた。愛刀天生牙を足元についてようやく体を支えているようなありさまだった。
 だが、一敗地にまみれたにしては、彼の眼光は炯炯と輝き、虚空をにらみつけている。諦めるつもりはさらさらないようだった。
「おい、なにやってんだ!」
上空から一声かけ、犬夜叉は彼のそばに飛び降りた。うるさそうに一瞥をくれただけで、殺生丸は何も言わなかった。
 ほほやあご、首筋、手首などに擦り傷が無数にできている。豊かな髪が乱れ、絹の衣にも細かい裂け目が見られた。
 肩をそびやかすようにして殺生丸は肩から毛皮を払い落とした。やおら腰紐をひき、砕けた鎧を片手でむしりとった。がらんと音を立てて鎧が転がった。
「鎧、いいのか」
「邪魔だ」
短く答えると、殺生丸は長い振袖から腕を抜きにかかった。
 ようやく犬夜叉は気がついた。殺生丸は、身だしなみをかなぐり捨てるつもりらしい。戦いに備え、用を成さなくなった防具を落とし、毛皮をおろし、腕を動かす邪魔になる振袖をはずそうとしている。
 それだけ強敵なのだ、と犬夜叉は思い、背中に戦慄を感じた。
 ふと気づくと、殺生丸は自分の衣にてこずっていた。片腕ではたしかにやりづらいだろうと犬夜叉は思った。
 ためらったのは一瞬だった。
「貸せよ」
そういうと、兄の衣の襟の、右肩のあたりを強く引いておろしてやった。殺生丸は何も言わずに世話をされるままになっている。
 こいつ、こういうの慣れてやんのな、と胸の中で犬夜叉は思った。が、始めたことなので、戦支度を続けてやった。
 振袖から両肩を抜いてしまうと、剣を持つ右手は下着の小袖だけになり、動かしやすくなる。上に来ていた振袖はこの時代……戦国の貴女の腰巻装束のように袴から下へさげるようにした。
「髪を直してやる。座れよ」
なぜか素直に殺生丸はその場へ腰を下ろした。そばに転がった鎧の残骸から房のある細紐を犬夜叉は取り上げた。兄の長い美しい白髪をあまさず手にとって軽く手ぐしをいれ、細紐で束ねて後頭部高くできっちりと結んだ。
 背後からわずかに見える横顔が、誰かを思い出させた。が、兄の表情は父のそれほど余裕のあるものではなく、唇を薄く噛み、眼をすえている。さらわれた少女のことを考えているのか、と犬夜叉は思った。
「斬りこむんだろ?」
かすかに殺生丸はうなずいてみせた。
「おれはおれで、勝手に行くからな」
しばらく殺生丸は黙っていた。が、かるくあごで斜め前を指した。
「あちらだ」
「あ?」
「あの娘がさらわれた先だ」
「かごめのことかっ」
またひとつうなずくだけ。
「よしっ」
すわったままだった殺生丸が、動いた。胴鎧にからんで落ちていた腰紐をたぐりよせると、無言で犬夜叉につきつけた。
「なんだよ」
殺生丸が立ち上がった。斬りこみの身支度を整えた彼は、向うべき先に視点を据えたまま答えた。
「あちらだ。侮るな」
犬夜叉は、兄の手からやや幅のある布の細帯を受け取った。
「かっこつけやがって」
犬夜叉は細帯の先端をくわえると左腕を突き出した。左のわきの下から右肩の上へぐるりと帯を回し、さらに右脇をくぐらせてきつくひく。きっちりとたすきをかける間も、犬夜叉の視線は兄の見ている方向から離れなかった。
「まもなく霧が晴れるぞ」
「おう」