パラケルサスの犯罪 9.第二章 第三話

 受話器を握って、マスタング大佐はためいきをついた。
「また君か。私は忙しいのだが」
「中尉にウラ取るぞ、こら」
どんな顔をしているのか、だいたい想像がついた。
「何が気に入らないのか、きちんと話したまえ」
「練成陣の連続作動問題を解決するような大物錬金術師が、南部で野放しになってる」
「冗談も休み休み」
「じゃあこっちへ来て、状況を検分してみろよ。どう見ても、連続作動が起こったとしか思えないんだ」
「それで?」
書類を持ったまま自分をにらんでいるホークアイ中尉の視線を気にしながら、マスタングは聞いた。
「要するに何をして欲しいんだ?」
「話が早いなぁ、大佐」
こいつは電話の向こうで舌なめずりをしているんじゃないだろうか。
「あんたなら、国家錬金術機関に提出された論文を閲覧できるはずだ。この問題について発表された論文を全部調べて、研究者のリストを作ってくれ」
「こっちだって、仕事が溜まってるんだぞ。私を動かしたいなら、きちんとお願いしてみろ」
「お願いしろだ?もともと今回の派遣はおれたちの貸しだぜ?とっとと働け!」

 看護婦は、白い制服に白いエプロンと制帽をつけていた。十字の印がくっきりと鮮やかだった。からだ全体に、職業的な落ち着きが漂っていた。
「あなたは、エルリックさん?」
アルは足をとめた。
「はい」
看護婦は、片手を差し出した。
「シャーロット・ターナー。母と甥のリッキーが、何日か前に汽車の中でお目にかかったと言ってました。本当に鎧を着ていらっしゃるのね」
「リッキーくん……ああ、あのときの」
アルは、彼女の手をそっと握った。母と甥というのは、りんごをくれた男の子と、そのおばあちゃんらしい。アル自身は食べられないのだが、好意がうれしかった。
「リッキーは、あなたのことがすごく印象的だったみたい。よく、あなたの絵を描いてますわ」
「ターナーさん、ぼく……」
アルは言いよどんだ。ターナー看護婦は、さっと手を振った。
「ああ、ごめんなさい。甥にもよく言っておきましたから。これでも商売柄、顔やからだにけがをした人とはつきあいが多いんです。まして東部では内乱があったんですもの。顔を見せたくない人がいても、当然ですわ」
アルは、彼女の誤解をそのままにしておくことにした。まさか、見せるべき体がまったくない、とは思わないだろう。
「その、御理解いただいてありがとうございます。リッキーくんには、よろしくお伝えください」
「ありがとう。あの子、私の姉の息子なんですけど、生まれつき心臓に異常があって、病院で治療を受けるためにこちらへ来てるんです。あまり外で遊ぶわけにいかないもので、あら、あたしったら」
看護婦は、さっと職業的な態度に立ち戻った。
「院長先生が、エルリックさんとお兄様に、おいでいただきたいとおっしゃってます。ええと、エドワードさんはどちら?」
「職員用食堂だと思います」
「あら、幹部用じゃなくて?」
 幹部用食堂はホテル並に贅沢なつくりで、ランチは毎回5ディッシュのフルコースが出る。アルは食事に付き合うことができないので、一人で幹部の間にまじると、からだの小さいエドはどうしても目立つのだった。
 それがいやで、エドはここ数日、職員食堂を使うようになった。だがアルは、兄の名誉のために言い訳を使った。
「あ~、職員食堂のほうが、味付けがあっさりしてるみたいで」
「好みは人それぞれ、というところかしら」
アルがターナー看護婦と連れ立って病棟を歩いていくと、あちこちから視線が浴びせられた。入り口解放の大型病室などは、わざわざパジャマ姿の病人が見物に出てくるのだった。
「居心地悪い?」
「いえ、慣れてますから」
「みんな、感心してるのよ。このあいだは、凄かったわね」
「見ていたんですか?」
「ええ。特等席で」
ふたりのいる廊下は、グラン・ウブラッジの下のほうの階層だった。廊下の窓からは、かつての古戦場がよく見えた。
「怖くなかった?」
「これでも従軍看護婦なのよ」
すっとあごをあげて言い放つ。ああ、とアルは思った。この人は、ホークアイ中尉に似てる。外見とかじゃなくて雰囲気に共通するものがあった。
「周りを見たら、わかるでしょ。あたしたちは、お姫様じゃないの」
床に敷いたリノリウムがすりきれて、アルの足にひっかかる。ただ真っ白に塗っただけの壁は、ところどころ傷ついている。鉄枠で覆った裸電球が、わびしい光を投げている。廊下にとめてあるワゴンには、血で汚れた包帯が山のように積んであった。
「幹部用の階層とは、大違いでしょ?」
「え、あの」
「ま、いいわ。行きましょう。そちらよ」
つきあたりの階段から下へ降りると、職員用の食堂だった。病棟とはうってかわって、ここは驚くほどにぎやかだった。倉庫のような広い食堂の一方の端に、料理の置かれた長テーブルがある。その前を、手に手に皿を持った人々が、わいわい言いながら列を作って進んでいるのだった。
「なんだよ、このトリ、骨だけで肉がついてねえじゃねえかよ」
「ええっ、もうビーフないのっ?」
「げぇ。あたし、トマト煮きらい」
「おいおい、このサラダ、にんにく効きすぎ!」
「きゃーっ、最後の卵だったのに」
「オレンジは一人一切れ!誰だ、ごっそり持っていきやがったの!」
 ざわめきの中から、聞き覚えのある声がした。
「アルフォンスさん、こっちです」
食堂の長いテーブルに、エドはすわっていた。アルを呼んだのは、その隣にいたペインター大尉だった。ふたりの前にあるしんちゅうの皿は、すっかり空だった。
「あ~、食った、食った。アル、どうした?そちらさんは?」
「看護婦のターナーさん。院長先生が呼んでるって、知らせに来てくれた」
大尉が、うっと言った。
「ついに呼び出しですか。今朝、だいぶかっかしてましたからね」
「あら、うまく行ってないの、大尉?」
意味ありげな視線で、ターナー看護婦が大尉を見た。
「例の品物が出てこないんですよ。院長にとっては、面目がつぶれるのよりも、あれが出てこないほうがこたえるんじゃないかな」
「そろそろ、セントラルから偉い人が来るんですもんね」
「あれってなんだ?」
大尉とターナーは、顔を見合わせて咳払いした。
「薬品です」
「だから、何の?」
大尉は、口の中でこもったような音を立てた。
「その、ここだけの話にしていただきたいのですが、院長にとっての大事なモノなんです」
「はあ?」
ターナー看護婦が、唇のあたりに、微妙な微笑を刻んだ。
「院長先生に会ったんでしょう。どう思った?」
即座にエドが答えた。
「やなやつ」
「兄さん!」
「あいつ、ぎらぎらしてた。軍部には多いよな、ああいうの」
「『いつか這い上がってやる』っていう目をしてるでしょ。院長は、軍医総監を狙ってるのよ」
エドは興味なさそうな顔でつぶやいた。
「業界のトップ狙いか」
「グラン・ウブラッジの病院長は、軍医業界でも屈指の地位らしいけどトップじゃないわ。ライバルの中から頭一つ抜け出すには、業績がいるわけ。今回横流しをされて消えてしまったモノっていうのは、その業績のタネだったの」
「医者の業績って言ったら、ふつう患者を治すことだろ?手術で成功するとか」
「そんなんじゃもう、業績のうちにはいらないのよ。もうすぐ、南方司令部を頭越しにしてセントラルから、視察に人が来るの。人事関係の顔のきく、偉いさんだって。大きな仕事が出来るってことをその人に見せることができれば、院長は」
シャーロット・ターナーの横で、大尉が小さくなっていた。
「あの、ターナーさん、もうちょっと小さな声で」
「もう、いいじゃない、大尉ったら、ここのスタッフはみんな知ってるわよ?」
「そうなんですけど、エチケットというか、マナーというか、ほら、エドワードさんたちは部外者なんだし」
エドは大尉の肩を叩いた。
「心配すんなよ。聞いたことぺらぺらしゃべったりしないからさ」
「はあ、まことに、どうも」
食堂の入り口から、ウィーバー軍曹が声をかけてきた。
「ペインター大尉、そろそろ管理部で打ち合わせ始まります」
「ああ、今いくよ。ターナーさんにいじめられてたんだ」
ターナー看護婦はにやりとした。
「シャーロットって呼んでって言ってるのに」
後ろのほうから、同僚らしい看護婦たちが声をかけてきた。
「ロッティ、また大尉をからかってるの?」
わざと憤慨したような表情で、彼女は言い返した。
「あたし、本気よ?この人を再婚相手に狙ってるんだから」
あたりから笑いが巻き起こった。あわてて大尉が立ち上がった。
「待って」
「え、なにか?」
「地下は?探してないのじゃない?」
「ターナーさん」
大尉は本当に困ったようだった。
「なんだ、地下って」
エドが聞いた。
「グラン・ウブラッジは、実は巨大な地下層があるんです。今は例外を除いて、使われていません」
「それなら、何か隠すには都合のいい場所じゃないか?」
「事情があって、立ち入り禁止なんですよ」