パラケルサスの犯罪 7.第二章 第一話

 ジョン・クラウンは、片手に花束を持って、グラン・ウブラッジの中を歩いていた。思わずきょろきょろしてしまう。
「でかいと聞いてはいたが」
編集部であらかじめ調べてみたのだが、軍部専門の病院の見取り図など、手に入るはずもなかった。
 もっとも、グラン・ウブラッジには、病院部分のほかに個人の住宅もある。そのほとんどは病院職員の住居だったが、ローフォード大佐はわざわざそういう家の一つを手に入れて、ここに住んでいたようだった。
 よほど思い入れのある町らしかった。
 千人を越える住民や長期の入院患者のために、商店街や学校などの施設も作られている。職員やその家族のために病院内の食堂も充実しているらしい。老人の一人暮らしでも、贅沢を言わなければ、生活にそれほど支障はなかっただろう、とクラウンは思った。
「おっと!」
人ごみに押されて、花束がつぶれそうになっている。大事な小道具をクラウンは抱えなおした。
 外来はにぎやかだった。前線から送り返されてくる傷病兵が患者の大半だが除隊した元兵士たちも外来にかかりにくる。また、兵士や元兵士の家族も、この病院で診察を受ける資格があるらしかった。
 総受付は、順番を待つ外来患者や見舞い客などでごった返している。かなり広く、クラウンは、セントラルにある大きな鉄道の駅をひそかに思い出したほどだった。
 連想は、丸型の高い天井のためかもしれない。その下に、群集のざわめきがこだましている。
 清潔だが飾り気がなく、床も壁も白一色。照明は暗めで、明り取りは小さく、窓には鉄格子がはまっていた。一階から地下へ降りるらしい階段などは、板で打ち付けて厳重に封鎖してあった。元は要塞だった、という殺伐とした雰囲気があちらこちらに残っている。
 総受付から先に廊下が伸びている。いろいろな科の診察室の名札が見えていた。もっと上には検査室、手術室等がそろっているらしい。さらに上がると、国内でも一二のベッド数を誇る入院設備があるはずだった。
「すいません、病棟はどちらですか」
制服の看護婦にクラウンは話し掛けた。クールな顔立ちの看護婦は、にべもなく言った。
「面会時間は午後からです」
「え~、そうなんですか。知らなかったなぁ」
軍部で働く女性は珍しくない。事務や兵站などはもとより、最前線で実力を発揮する女性兵士や婦人将校も多かった。
 だが、衛生と看護は昔から軍部内の女性の職場であり、総婦長ともなると少佐相当の地位である。
「失礼」
そう言って行こうとする看護婦の前にクラウンはさっとまわりこんだ。胸の名札には、S・ターナーと書いてあった。
「いや、ここ、広くって、ターナーさん、お仕事たいへんでしょう?」
「ええ、まあ」
「さっき、隣に居た人から聞いたんだけど、あのラッシュ少佐が入院してるんだって?」
「ラッシュ少佐に御用なの?絶対安静で面会謝絶ですよ」
ターナー看護婦の口ぶりが、クラウンのカンにひっかかった。
「ラッシュ少佐って、どんな人だったの」
「あ」
ターナーは冷静なマスクを一瞬崩した。
「〝ラッシュ容疑者〝のことは、詳しくは」
ここは押しの一手。
「いや、お姉さん、なんか知ってるなぁ。教えてくださいよ」
「お姉さんじゃありません」
「あれ、奥さん?」
「夫には先立たれましたけどね。少佐は〝職人スナイパー〝だったわ」
「ああ、いるよね、そういう人。ガンコ親父だった?」
くす、とターナーは笑った。意外とかわいらしかった。
「立派なへそまがりよ。あの性格じゃ出世しないのもわかるわ、って看護婦仲間じゃ言ってたんだけど、狙撃をさせると凄かったんですって?もう、引退する年なのに、このグラン・ウブラッジの近くにある射撃の訓練所で、教官をやっていたそうよ。少佐の生徒たちは、先生をすごく怖がっていたけど、けして嫌ってはいなかったわ」
「少佐はその訓練所のほうに、宿舎があったんでしょ?」
「そうだけど、持病の治療によくここへ来ていたわ。看護婦は医者や患者から女中扱いされることも多いんだけど、ラッシュ少佐は絶対」
言いかけてターナーは、一瞬声を震わせ、指で目をおさえた。
「こんなことになって。少佐はもう、助からないのかしら」
クラウンは、ポケットからハンカチを取り出した。だが、ターナーは顔をそむけた。
 別の看護婦が横を通りかかり、せかせかと声をかけてきた。
「ロッティ、急いで。もう一人二人、人手がいるわ」
「今行くわ」
ロッティ・ターナーが顔をこちらへ向けたときには、またあの冷静なマスクをかぶったようだった。
「少佐のことは、あくまで個人的な意見です。仕事ですので失礼します」
「もう一つだけ。マクラウド副院長とは、面識がありました?」
「いい人はみんな死ぬのね」
そうつぶやいて、ターナーは行ってしまった。
 クラウンは、取材メモを出して書き付けたが、とちゅうでつぶやいた。
「だめだ。ローフォード大佐も、ラッシュ少佐も、ちっとも悪役らしくない。これじゃ受けないな」
編集長の顔を思い浮かべて、クラウンはためいきをついた。
 この間送った記事は、まさしく大スクープになった。新聞は増刷になるほど売れ、編集長はほくほくしている。
 グラン・ウブラッジ出張中に、どうしてもあと一本大きな記事を書け、とクラウンは電話で言い渡されていた。
 あてずっぽうで階段をいくつか上がると、そこからは病棟になっていた。殺風景な廊下が延々と続いている。一階の総受付はあれだけ人がいてもどこか殺伐としていると感じたのだが、病棟はひとけがなく世捨て人の世界に足を踏み入れたような気がした。
 足を引きずりながら、患者が一人、壁に沿って歩いてきた。その包帯の下から漂う臭いにクラウンは顔をしかめた。
「すいません」
ぼそっと患者が言った。
「なに?用?」
「どいてくれませんか」
「ああ、こりゃどうも」
クラウンがあわてて壁から飛びのくと、ずるっ、ずるっと音を立てて、患者が通り過ぎた。クラウンはしかたなく数歩先へ歩いてふりかえった。ちょうど、包帯の患者もこちらを見た。
「や、はは」
クラウンはとっさに、一番手近な病室へ飛び込んだ。
「おや、また会ったね」
意外なくらい明るい声がクラウンを迎えた。
「ああ、ええと、ディビスさん」
口ひげのある、小柄な老人が、ベッドに座り、カーテンの陰からクラウンを見上げていた。汽車で乗り合わせた、ローフォード大佐の元部下、フランク・ディビスだった。
「そのせつはどうも。お話をありがとございました」
 病室は十ばかりのベッドを入れた、大部屋だった。窓はなく、病人に見えるのは白い壁だけ。ベッドはそれぞれ、ぶ厚いカーテンで仕切るようになっている。
「フランク、知り合いかい?」
隣のベッドの患者が、ディビスに話し掛けた。
「話してやったろう!汽車でいっしょだった、新聞記者さんだよ」
おお、と患者は言った。同じ部屋の患者たちもこちらを見に来た。
「『セントラル絵入り新聞』だろ?」
「あんたの書いた記事、読んだよ」
「いやあ、どうも、どうも」
クラウンはへらへらした。
「フランクが見せて回るんだよ。ここにおれの名前が載ってるぞ、ってな」
はっは、とディビスは笑った。
「記事は切り抜いて、孫に送ってやったよ」
クラウンはちょっとうれしかった。
「そうですか。お孫さんに。いらっしゃるお年ですよね。遠くにお住まいで?」
「孫かね?息子夫婦が、イースト・シティの近くに住んどるよ」
「汽車でお目にかかったときは、てっきり、東部からこちらへ来た方だと思いましたよ」
「ああ、東部で同窓会があったもんで、息子のところへ泊まって出席した。その帰りだったんだよ。本当は入院患者だ。ここは老兵が古傷を癒すには、いい場所でな」
ディビスのとなりにいた患者が笑い声を上げた。
「こーのへそ曲がりが!息子の嫁さんとおりあいが悪いと言ったらどうだ!」
遠慮のない笑い声があがった。ディビスが言い返す。
「女房に愛想つかされたてめえに言われたかないわ!」
ひとしきり、冗談交じりの罵りあいがおさまったあと、ディビスは笑いながら聞いた。
「あれから、記事はどうだい、え?」
「いやあ、なかなか進展しないですね。何かネタがあったら、教えてくださいよ」
「上のほうで何をやっとるかなんぞ、わしらにゃわからんよ」
クラウンは頭をかいた。
「また、たれこみが来るのを待つしかないな」
「たれこみ?」
「ええ。編集部に、匿名の電話がかかってきたんです。このグラン・ウブラッジで何か起きている、ってね。調べてみたら、副院長先生が自殺してるじゃないですか」
「それでかけつけてきたわけか」
「ええ。これでもいろいろ調べてきたんですよ。情報によると、犯人はどうも、錬金術師らしいってことで」
ふいに、患者の一人が声をかけた。
「フランク、おまえさんも昔、錬金術をかじっとったんじゃなかったかね?」
「そりゃ、入隊前のことだ」
「へえ、そうなんですか?」
「いやあ、町の錬金術師について、ほんのぽっちり基礎を習っただけさ。もう忘れちまったよ」
顔の前で手をひらひらふって、ディビスは言った。
「それより、そうだ、ラッシュ少佐が入院したのを知っとるかね」
クラウンは思わず身を乗り出した。
「そうですってね!意識戻ったんですか?」
「そこまで詳しくはないが、事務の姉ちゃんたちは、四階のつきあたりの部屋に入ったと言っておったぞ」
「四階のつきあたりですね。さっそく行ってみます、ありがとう!」
 ラッシュ少佐の病室はすぐにわかった。ドアの前で、ふたりの憲兵が銃を構えて立っているのだった。クラウンは、がっかりした。
「ここは、入れないな」
あきらめかけたときだった。ドアが開いた。憲兵たちが敬礼する。中から、青い制服の士官と、赤いコートの少年が出てきた。そして、頭をかがめるようにして、あの中世の鎧が動いて出てきた。
 クラウンは、先導の士官に見覚えがあった。スケッチブックを取り上げないでいてくれた、ペインター大尉である。
「あれじゃ、事情聴取は無理か」
とコートの少年、エドワード・エルリックが言った。
「医師団がついて回復を見守っていますが、あまり見込みはよくないようです」
「と、なると。グラン・ウブラッジには、今回呼ばれたおれたちのほかは、錬金術師はいないんだな?」
クラウンは、話し声が聞こえるていどの距離を置いて三人の後を追った。
「国家錬金術師は、いません。が、人事部が履歴書を調べたところ、錬金術の素養のある人間は何人かいます。ヘイバーン院長がじきじきに面接したのですが、決定的に疑わしい容疑者は出ませんでした」
「長期の入院患者はどうだ?」
大尉はためいきをついた。
「病歴はともかく、錬金術を学んだことがあるかどうかは、個別に会って話すしかないですね。そちらのほうはボイドさんたちが手分けをしてやっています」
「他にはヒントなしか」
「あとは今のところ、〝パラケルサス〝は、だいたい、ローフォード大佐ほかと同じくらい、つまり引退しているか、そろそろか、というくらいの年齢の男性ではないか、という仮説が出ています」
三人は、廊下の突き当りから非常階段らしきものを上がっていく。クラウンも足音を忍ばせて追いかけた。
 階段のつきあたりは、むりやり破ったらしいドアだった。この病院に常駐している兵士たちが、機関銃斉射を停めようとして溶接されている扉を壊した痕だろうとクラウンは思った。
 ドアの向こうは、強風が吹いていた。要塞都市グラン・ウブラッジの中腹にいるのだった。小さな山ほどもある斜面が段をつくり、そこにつぶれた砲塔がずらりと乗っている。砲塔を縫うように敷かれた細いキャットウォークだけが足場だった。目を下に転じると、グラン・ウブラッジの古戦場が広がり、そのむこうにマッチ箱のような駅舎が見えた。
 風に乗って、かすかなオレンジの香りがする。このあたりはオレンジ、ブドウ、オリーブなどの果物や小麦がよくとれ、雨の多い豊かな土地だ、とクラウンは聞いていた。遠くにかすんで見えるのは、地平線いっぱいに広がる果樹園のようだった。
 じっと見ていると、目がくらむような気がするほどの高さがある。実に巨大な要塞だった。