フィッシュベルの奇跡

DQ版深夜の真剣文字書き60分一本勝負(第34回) by tonnbo_trumpet

 ドン、ドンと大きな音で二回ノックしてから、ボルカノは遠慮なくドアを開けた。
「いるか、ホンダラ!」
弟の家はあいかわらずとっちらかっていた。ほとんど掘立小屋でベッドとタンス、小さなテーブルくらいしか家具らしいものはないのだが、何に使うのかわからないビンやツボが部屋中にころがっていた。
「兄貴か。脅かすなよ、借金取りかと思ったぜ」
ホンダラは被っていた毛布から顔を出した。
「借金?またおまえは……」
ボルカノは一人立ちの漁師だった。なかなか稼ぎも良く若い漁師仲間では一番だった。それを認められて2年前、フィッシュベルの村の娘マーレを嫁にもらっていた。それにくらべてホンダラの方は、誰に似たのかギャンブル好きの遊び好きで、漁師仕事は大嫌いだった。
「しょうがねえじゃねえか。ツキが逃げちまったのさ。またツキがくりゃ借金なんか」
「バカ野郎!!」
ボルカノは怒鳴りつけた。
「おまえはまた、そういうことを……。もうちょっと地に足をつけて生きられないのか。そもそも俺が今日来たのは、おまえが不始末をしでかしたと聞いたからだぞ」
「ああ?なんだそれ」
本当に分かっていない顔だった。
「なんだ、っておまえやっただろう。昨日の真昼間、フィッシュベルの南の井戸のまわりで奥さん連中がたくさんいたところへ珍妙な格好で乱入して、大声で下品な歌をがなったってな。もう村中大騒ぎだぞ」
ホンダラは拍子抜けした顔でごろんとベッドへ横になった。
「なんだ、あのくそ婆ぁどもか」
「なんだじゃないっ。おれはいちいち謝ってまわったんだ!」
ホンダラは指で耳に蓋をした。
「うるせえなあ。寝かせてくれよ」
「てめぇ」
ボルカノは思わず弟の服の襟をつかんで引き起こした。
 いま20代前半のボルカノは後年に比べれば半分くらいの横幅だが、腕は太く逞しく、プロの漁師の筋力をつけている。ホンダラはほとんど吊りあげられそうになった。
「ぎゃー、兄貴、苦しいっ」
「おまえがさんざんバカやらかしたんだろうが!ちっとは反省」
と言った時だった。木の扉がきしむ音がした。
「ホンダラさん、いるかい?」
ボルカノは振り向いた。自分が開けっぱなしにした扉が少し開き、そこから若い女がのぞきこんでいた。
「マーレじゃねえか、どうしたんだ」
マーレは夫がいるのに気づくとちょっととまどった顔になった。マーレは結婚2年目、はたちの新妻である。後年の彼女に比べると横幅は三分の一ていどだが人のよさそうなおかめ顔と色白の綺麗な肌は同じだった。マーレは手にしたものを木のテーブルへ置いた。ふきんをかけた皿のようだった。
「届けもんだよ」
小声で言うと、ホンダラに声をかけた。
「タラとじゃがいもでパイを焼いたのさ。好みかどうか知らないんだけど、よかったら」
漁師の女房らしい気取らない口調だが、声はかわいらしく少し震えていた。それだけ言うと、じゃ、とつぶやいてマーレは帰ってしまった。
「なんなんだ、あいつ」
ボルカノはぽかんとしていた。兄貴、死ぬ、と言われてやっとボルカノはホンダラの襟を絞めたままだったことに気付いた。手を放すとホンダラはぜぇぜぇと荒い息を吐いた。
「マーレのやつ、よくパイを持ってくるのか?」
「めったにねえよ」
「なんかあったのか」
ホンダラは手で喉をさすっていたが、横目で兄を見た。
「兄貴はいろいろできがいいけど、女房のことになると鈍感だなあ」
「何のことだ」
けっとホンダラは言った。
「兄貴が謝ってまわった婆さん連中はな、昨日井戸んとこで水仕事していた義姉さん取り囲んで、赤ん坊はまだかって騒いでたんだぞ」
ボルカノは面食らった。
「それがどうした。おれもマーレも若いし、ひとにどうこう言われることじゃない」
「へー、そうかい。“やることやってんの”、“ケンカしてるんじゃないの”、“あんたより遅く結婚した奥さん、もう子供いるわよ”、“いつまでも娘気分じゃダメよ”って、婆ぁども言いたい放題。なのに義姉さん、下向いてはぁ、って言うだけなんだぜ」
「マーレはいつもそうだよ。落ち着いて聞き流してる。それでいいじゃねえか」
「兄貴、目ぇついてんのか?」
「何を言いやがる」
ホンダラはためいきをついてみせた。
「毎晩義姉さんが海岸で何やってるか知ってっか?」
「なんだと?」
ホンダラは手を振った。
「鈍感には口で言ったってわかりゃしねえよ。自分の目で見てみな。あ、そのパイは置いてけよ?義姉さんは料理がうまいからありがたくいただくぜ。あー、もー、金とれるレベルなのに欲がねえんだからよ、惜しいよなあ」
ぐちぐち言うホンダラを小屋に残して、ボルカノは外に出た。

 ボルカノとマーレが暮らす家には、その当時ボルカノ・ホンダラ兄弟の老母がいた。冬の夜はいつも老母は身体の節々が痛くなる。その日、塗り薬が切れてしまい、マーレは網元さんのうちにあるかもしれないのでひとっぱしり行ってくる、と言って出かけた。
 ホンダラのたわごとを思い出したのはそのときだった。ボルカノは自分も家を出て、海岸の岩に隠れてマーレが来るのを待った。
 冬にしては風の穏やかな晴れた夜だった。夜空には白く星の河が流れ、きらきらと輝いていた。くりかえす波の音に眠気を誘われたころ、砂を踏んで歩く音が聞こえた。
 やはりマーレだった。まだか細い身体は寒さよけに毛織のストールをきっちりと巻き付けていた。マーレはふと立ち止まり、何を思ったか砂地に膝をついて海へ向かって両手をあわせた。
「海の神様、どうかあたしに赤ちゃんをお授け下さい」
真剣な口調だった。
「ボルカノは“まだ若いから大丈夫だ”って言うし、お義母さんは“あせることないよ”って言ってくださるけど、あたし、赤ちゃんが欲しいんです。赤ちゃんができたら、ボルカノもお義母さんもどんなに喜ぶか。近所の奥さんたちだって文句は言わなくなるだろうし」
しばらくマーレは黙っていた。
「ごめんなさい、そうじゃない!海の神様、そんなんじゃないんです。あたし、自分の赤ちゃんが欲しいんです!」
ボルカノが胸をつかれたほど激しい口調だった。
「あたしのことをお母さんだと思ってくれて、あたしがだっこして、お乳をやって、撫でて、あやして、寝かしつけて、小さな服を縫ってやって、いっしょに遊んでやって、それできゃっきゃって笑ってくれる赤ちゃんが欲しいんです!」
マーレは両手の中に顔をうずめた。
「ちっちゃくてお乳の臭いのするふくふくおなかの赤子を、この子はあたしの子だ、あたしだけの子だって思えたら、もう何も要りません。ちょっとくらい不細工でもおバカでも、きっとあたしはかわいがります。でもちゃんと躾けて、真人間に育てます。だから、神様、お願いします。赤ちゃんを授かるまで、毎晩お祈りします。ひと晩も欠かしません。約束します」
マーレの背後の岩陰で、ボルカノはしびれたようになって動けなかった。女房が血を吐くように祈る声に身体を縛られて棒立ちになっていた。
「おまえ、毎晩、そんなことを」
ホンダラ、おまえが正しい。口さがないババァどもの真ん中に暴れ込んで下品な歌で蹴散らしたって?よくやった、俺だったら殴ってたかもしれねえ、とボルカノは思った。

 波の音にまぎれてマーレは足音を聞いた。立ち上がろうとした瞬間、大きな身体がマーレのすぐ隣の砂地にざくっと膝をついた。
「あんた……」
ボルカノはマーレの方を見ずに、海へ向かって頭を垂れた。
「海の神様、どうかオレの女房に赤ん坊を授けて下さい」
マーレはぎょっとした。聞かれてしまったらしかった。
「男でも女でも、おれはその赤ん坊をちゃんと育てます。おれとマーレで、きっとかわいがって大きくします。どうか、どうかお願いしますっ」
マーレは真っ赤になった。ひどく利己的なお願いを、夫に聞かれてしまったなんて。なんだか恥ずかしくなってマーレはうつむいた。
「マーレおまえ、近所の婆さん連中に毎日いろいろ言われてたのか。毎日辛い思いしてたのか」
「……」
「バカ野郎」
ちょっと語尾を上げ気味にボルカノは言った。
「どうしてそれを、おまえ亭主に言わねえんだ。水くせぇ」
わあわあ責められていた時には意地でも流さなかった涙が、目の中にあふれてきた。
「あんた、ごめんね」
大きな腕がマーレの肩をつつみこんで、とん、とんとたたいた。
「おまえが毎晩海の神様にお祈りするってんなら、おれもつきあう。おれも赤ん坊が欲しいからよ」
ありがとう、と言いたいのに、涙と鼻水で口がきけない。マーレは夫の胸にすがりついてうなった。
「おい」
あわてたような口調でボルカノがそう言ったとき、夜の海岸がいきなり明るくなった。若夫婦はあわててきょろきょろした。光は次第に大きくなる。まるで海の中から大きな光るものが浮かび上がってこようとしているように見えた。
 ボルカノはマーレの手を引いてさきほどの岩陰まで走らせた。
「なんだ、ありゃ」
光はもう水面近くにいる。フィッシュベルの空は夜明けを通り越して真昼のように明るくなった。あちらこちらでドアの開く音や足音、犬の鳴き声がしていた。村から浜へ人が走ってきた。漁師らしく、舟の無事を確かめに来たようだった。
「ボルカノ!何があった?」
「わからねえ。いきなり明るくなって」
光はついに水面を越えた。空中へ出た途端、生きもののように光は空を飛びまわった。人々は悲鳴を上げた。何人かは、遅れてやってきた神父の後ろに隠れようとしていた。
「みなさん、落ち着いて」
神父と若い網元がみんなを落ち着かせようとしていたが、たいていの者は聞いてはいなかった。光の塊はどことなく楽しそうに夜空を旋回すると、いきなり急降下を始めた。
「わああああああっ?」
まっすぐにこちらへ向かってくる、真っ白な光。ボルカノはあわてて自分の背で女房を抱え込んだ。ばふっというような衝撃をボルカノは背に感じた。
「あんた、光が」
白い光は自分とマーレの間にはさまれていた。そしてマーレの体の中へするすると吸い込まれて消えた。
「おい、大丈夫か」
マーレは驚いた顔をしていたが、ゆっくり首を振った。
「痛くも何ともないよ、あんた」
 その夜のことは、フィッシュベルの奇跡、と今でも呼ばれている。何せその直後、マーレと網元の若奥さんが二人とも懐妊していることがわかったのだから。すっかり肥えて貫録のあるお母さんとなったマーレは、今でもやりくり上手の料理上手であり、亭主のボルカノの自慢の女房である。
「あんた、信じる?アルスを身ごもる前、あの白い光がお腹の中へ入って来た時、誰か上品な女の人の声が“お願いします”って言ったような気がするんだけどもね」
とマーレが言った時
「お前が言うなら、そうなんだろ?海の神様がおれたちを見込んでアルスをおまえに預けたのさ」
とこともなげにボルカノは答えたのだった。