小さなミーティア

  かわいらしい革靴が森の中の小道をたどっていた。赤いスカート、白い上着に青いケープをつけた幼い少女が、とぼとぼと歩いているのだった。癖のないきれいな黒髪は背にかかる長さがあり、前髪は金のシンプルなティアラですべてかきあげてうしろへ抑えていた。
 少女の大きな目は涙をこらえている。彼女の前に美しい女性の幻が浮かび上がった。少女によく似た顔立ちの空色のドレスの貴婦人で、同じティアラをつけていた。
「お母様……」
それより少し前、少女、幼いミーティア姫の母王妃は、病のために逝去していた。母のまぼろしはふっと消え去った。ミーティアはたまらずにがくりと膝をついた。あふれ出る涙を両手に受けようとした瞬間ミーティアは、はっとした。
 かさかさ、かさかさと乾いた音がする。風が森の小枝をゆする音とは違う、何かが動いて森の下草をこすったのだ。
 ミーティアは立ち上がった。もともと危ないから森で遊んではいけない、とミーティアは言われていた。だが母がいなくなってがらんとしたトロデーン城に耐え切れず、ミーティアは誰にも言わずに森の中へ出てきてしまっていた。
 万一ここで野生動物や、もっと恐ろしいモンスターにであったとしても、誰も助けに来てはくれない。ミーティアにできるのは逃げることだけだった。
 前方の草むらのひとつで長い尖った葉が揺れた。と思ったとき、その後ろからいきなり飛び出してきたものがあった。
「きゃっ!」
驚いた時のくせでミーティアは片手をにぎりこんで胸に当てていた。
 でてきたのはネズミだった。薄茶色の野ネズミのように見えたが、なぜか頭のてっぺんから背中の途中まで黒いたてがみがついていた。たてがみネズミは後ろ足で立ち上がると左右を眺め匂いをかぐようなしぐさで鼻面を動かした。
 右、左とみて最後に正面を向くと、ミーティアに向かってあいさつするように前足をそろえ、きゅ、と鳴いた。
「えっ、なに?」
たてがみネズミは四足でミーティアの周りを走り始めた。やおら自分が出てきた草むらへむかうと一度立ち止まってから草むらへとかけこんだ。
「あっ、待って……」
ミーティアはネズミを追って、両手で尖った草の葉をかきわけ、森の小道を離れて木立の中へ入っていった。

 ネズミが導いていった先は、せせらぎの音が心地よい、秘密めいた薄暗い空間だった。そばの泉から流れ出る小川が蛇行して水路が円形になった結果、丸い空き地がそこにできていた。空き地の中央に子供が一人倒れていた。
「あっ……」
ミーティアは両手で口元を覆った。
 あたりには誰もいなかった。ミーティアはおそるおそる子供に近寄った。青いシャツと黄色い上着の、ミーティアと同じくらいの年頃の少年だった。
「ど、どうしたの?」
子供の頭髪のそばには、さきほどのネズミがまるで保護者のようによりそっていた。肩をゆすって起こそうとしたとき、ミーティアは少年の体温に驚いてとっさに手を引いた。
「まあ、ひどい熱!」
自分がこんな熱を出したとき、母はどうしたのだったろう?そう、ベッドへ寝かせて温かいミルクを飲ませてくれた。少なくともこんなところへほおっておいたら、どんどん辛くなる。もう目の前で誰かが死んでいくのを見るのは嫌だった。
「お願い、目を開けて!」
子供は目を閉じたままうめいた。
「早く…助けを呼ばないと!」
顔を上げるとあのネズミと目が合った。大丈夫、わしがみているから。声にならない保証をミーティアは受け取った。
「うん!」
さっと立ち上がり、幼い少女だけが持つひたむきさでミーティアは駆け出した。

 ツボを捧げ持つ人魚が飾られた噴水では水が太陽光を反射してきらきらしていた。花壇はどれも花盛りで、この庭を丹精して整えた亡き王妃の手腕がしのばれた。妻を失ったトロデーン王は護衛の兵士に守られて庭に出ていた。世界は何事もなく平和で美しいが、愛妃を失った王はためいきをついていた。
「お父様ー!!」
振り向くと、妻の忘れ形見、ミーティア姫がたったっと走ってきたところだった。
「これミーティア、そんなに慌ててどうしたんじゃ?」
だいぶ長い距離を走ってきたらしく、ミーティアは息を切らせていた。
「お、お父様…。森の向こうに…男の子が…」
トロデーン王トロデは眉をひそめた。
「何じゃと!ミーティアよ、ひとりで森へ行くなとあれほど申したではないか」
ミーティアは両手でかわいいこぶしを作っていらだたしげにうちふった。
「男の子が倒れてるの!お願い、助けてあげて!」
「男の子?どういうことじゃ?とにかく落ち着きなさい」
いつも聞き分けのいいミーティアが、珍しく言い張った。
「ダメ!早くいかないとあの子が死んじゃう!」
くるっと振り向くとあっという間に駆け出した。
「これ、ミーティア、待て、待つんじゃ!」
トロデの後ろから兵士たちがついてきた。

 空き地の中央には少年が一人うずくまっていた。その頭のところにたてがみのあるネズミが、人間を怖がる様子もなく鎮座していた。
トロデは子供の耳たぶが赤みを帯びていることに気付いた。触れてみると案の定、高い熱だった。
「こりゃいかん、ひどい熱じゃ」
トロデはふりむいた。
「お前たち、すぐ城に運ぶのじゃ」
護衛の兵士ふたりは、ためらいを見せた。たしかに大臣がいたら、“そんな行き倒れの子など勝手に拾ってこられては困ります”などと言いそうなところだった。
「いいからはよう連れていけ!」
兵士たちは一瞬威儀を正し、それから子供を抱え上げた。

 案の定、大臣はじめ城の者たちは病気の浮浪児に眉をひそめた。ミーティアは最初その子供を自分の部屋へ寝かせるといったのだが、大反対された。トロデが折衷案を出し、召使部屋の空きベッドを使わせることになった。それでさえ贅沢すぎる!という城の者たちをなんとかトロデはなだめた。
 ミーティアは病気の子供から離れようとしなかった。ベッドの脇に小さな椅子を置き、心配そうに寝顔を眺めているのだった。
「どうやら熱も下がったようじゃな」
温かくした部屋で休ませると、子供の体温は平常に戻った。王家の人々の専属を務める医者はミーティアの母王妃をみとった人だった。特に患者を選ぶ風もなく、ミーティアの見つけた男の子を診察してくれた。
”栄養不足と寒さ、疲れなどから倒れてしまったのでしょう。体力は回復していくと思います。それよりも……”
トロデは心配そうな愛娘に声をかけた。
「医者も心配ないと言っておったし、もう大丈夫じゃろ」
医者はトロデに、ミーティアのほうが心配なのだと告げた。
「さあミーティアや、そろそろ休んだらどうじゃ?王妃が亡くなってから食事もろくにとっておらんと聞いておるぞ」
「いいえお父様、ミーティアなら大丈夫です。それより今はこの子のそばにいてあげたいの」
医者はトロデに、母を失ったミーティアがそのショックを忘れるためには新しく注意を寄せる対象があったほうがいいといったのだった。
“何か飼う……小鳥か子犬がお勧めですが、世話をする対象ということなら別にあの子供でもよいのではないでしょうか”。
「むう……。仕方がないのう。ほどほどにするんじゃぞ。それにしても運のいい奴じゃ」
しみじみとトロデは言った。本当なら城の世継ぎの王女が行き倒れの子などにかかわることは許されない。
「ミーティアが見つけなかったら今ごろどうなっておったことか……」

 ミーティアはうとうとしていた。母が危篤になってからずっと張りつめていた神経がようやく緩んできたかもしれなかった。こく、こくと舟を漕ぐように体が泳ぎ、はっとして目を覚ますことをくりかえした。
 何度目かにそうやって眠りかけたとき、ベッドの少年がゆっくり目を開いた。
「よかった……。気が付いたのね」
病気の男の子は枕の上で顔の位置を変え、ミーティアのほうを見た。大きな目が見開かれた。その子は、不思議そうな表情でミーティアを見上げた。
 たっと椅子を立ってミーティアはその顔を覗き込んだ。ブランケットの外に出ていた手をミーティアは両手で包み込んだ。
「心配しないで。もう大丈夫よ」
じっとその子はミーティアを見ていた。やがて安心したような表情で、再び眠りについた。