マイエラの思い出

  長かった午後の陽射しが西に傾きマイエラ平野は夕方に近づいていた。肥沃な平原を貫いて流れるマイア川の中洲に、ずんぐりとした大きな建物の塊がうずくまるように建っていた。川を横断する橋のなかほどが建物の正面入り口につながっている。橋の両側にも、入り口の付近にも、魔除けの火が灯されてかすかな音を立てて燃えていた。
 ドニの町のほうから橋へ向かって歩く小さな人影があった。子供だった。ラウンドカラーの膝丈のチュニック姿で、なかなか裕福な家の子供らしい。チュニックの内側に襟を紐結びで止めるタイプのシャツを身につけていた。ベルトは大人用らしく、この子には長すぎる。荷物は、布の包みだけだった。結び目を片手に持って男の子は橋を渡り始めた。
 午後いっぱい歩いてきたのだろうか、とぼとぼと進む足取りはつかれきっているようだった。顔はうつむき、全体に頼りなげで、これから果たす用向きがけして楽しいものではないことを物語っていた。
 子供の足には長い橋も、やがては歩きついてしまう。幼い子は建物の正面で立ち止まって、自分の行く先を見上げた。
 すぐ近くから見上げると、うずくまるというよりのしかかるような巨大な建物だった。マイエラ修道院である。ファサードは見上げるような高さにあり、その上の三又の槍の教会シンボルは首をのけぞらせるような位置だった。正面の丸い飾り窓には赤い馬のステンドグラスがついている。色といい、形といい、子供の目にはどこやら不気味に映った。天を突くような柱がいくつも立ち並び、男の子を見下している。子供がつかまるにはあまりにも高い手すりをもった幅の広い階段をあがっていくと、巨人の出入りするような大扉があった。角型ではなく、トップが変形のアーチ型になっている。怪獣のあぎとに似たその扉が、男の子をてぐすね引いて待っているように見えた。
 おそるおそる扉を開いた。誰もいない。内部は広く、寒々とした礼拝堂だった。男の子はしばらくためらっていたが、足音を忍ばせてまた歩き始めた。ものすごく高い位置に丸天井がある。足元はよそよそしい幾何学模様の敷物だった。
 いきなり後ろで、ひとりでに扉が閉まった。子供はぎょっとして飛びのいた。神経が高ぶってしかたがない。目に映るものが何もかも恐ろしく、悪意があるように見えた。
 壁際の肖像画が、自分をにらみつけはしなかったろうか。その前で揺れるろうそくの火が、いやらしい目つきの顔に見えはしなかったろうか。正面に立つ有翼の女神像が不機嫌な表情をつくり、手にした杖で自分を脅しつけはしなかったろうか。
 なんだか、怖い。子供は両手で布包みをしっかりと抱え直し、目に付いた最初のドア目指して小走りに歩いた。
 手を伸ばしてドアの握りをつかみ一気に開いた。そこは屋外だった。空が見える。広い中庭らしい。水の音がすることに気がついた。真ん中が少し高くなっている。水盤が重なっているところが、噴水になっているらしかった。
 夕日が斜めの角度で中庭に差し込んでいた。柱はどれも角ばり、石を積んで造られた壁はどれも牢獄めいて寒々しい。
 茫然としている子供の前を、修道士が通りかかった。何か急ぎの用でもあるのか、せかせかと歩いてくる。背が高く、顔が良く見えないほどだった。声をかけるのをためらっている間に修道士は通り過ぎてしまった。幼い子には見向きもしなかった。
 不安にあふれた目で子供は立ち尽くした。どうしたらいいんだろう。
 そのとき子供のほうへ、別の人影がむかってきた。先の修道士ほどの大人ではなかった。詰襟七分袖の服の上に袖のないフード付きローブをつけた、おそらく修道士見習いの少年だった。修道院の一員らしく、質素な身なりである。ひもをベルトの代わりにしていた。少年は幼い子に気がついたようだった。立ち止まり、腰をかがめて顔をのぞきこんだ。身長差は頭ひとつ分以上。かがみこんだために胸のペンダントが揺れた。金の輪の中に小さな爪が二つ出ている、変わった意匠だった。
「君、始めて見る顔だね。新しい修道士見習いかい?ひとりでここまで来たの?」
賢そうな少年だった。勉強家らしく、脇に本を抱えている。だが、冷たい雰囲気はなく、わずかにたれ目ぎみの表情が温かさを感じさせた。
 子供は、まだ不安そうな顔で大きくうなずいた。
「そうか…大変だったね。荷物は?それだけ?」
子供は両手で荷物を握り締めた。大変だったのだ。本当に大変だったのだ。ここ数ヶ月ばかりのあいだに、この子の生活は激変し、気がついてみれば住むところまで失っていたのだから。思わず唇が震えた。
「あの…父さんと母さん死んじゃったんだ。だから荷物なくて、他に行く所もなくて…」
かぼそい声で子供は訴えた。修道士見習いの少年は孤児の前にかがみこんで、視線の高さを合わせて薄い肩に自分の片手をのせた。
「僕も似たようなものさ。でもここならオディロ院長やみんなが家族になってくれる。大丈夫だよ」
幼い子は荷物で顔を隠すようにした。辛い日々の間に、誰を信じていいのかをすぐには決められないようになってしまっていた。
「うん…。うん…でも…」
年上の優しい少年は、子供の肩に置いた手を上に向けて広げた。
「…院長の所に案内する。ごめん。ほら泣かないで」
彼の手に自分の手を重ねればいいのだ、ともう子供にもわかっていた。ここ数日、不安のあまり子供は泣くことさえできなかった。目の奥で甘えに似た涙が沸きあがってくる。
「君、名前は?」
幼い子は布包みで目を拭い、片手に持ち替え、さらに目をこすってからぱっと笑った。手を差し出して答えた。
「…ククール」
その瞬間、熱した鉄に触れた人のように年上の少年はさっと手を引いた。信じられないことを聞いた、とその表情が語っていた。額には冷や汗が浮き、口が半ば開いていた。少年は立ち上がった。表情がうってかわって険しくなっていた。
「そうか君…お前がククールなのか」
少年は、拳を握りしめた。ククールは、あまりのことに差し出した手を口元へあてた。
「…出て行け。出て行けよ。お前は…お前なんか、今すぐここから出て行け!」
ずっと年下の子供に向かって、感情をぶつけてきた。ククールは口もきけなかった。ただおびえて立ち尽くしていた。
「…お前はこの場所まで僕から奪う気なのか?」
少年は吐き捨てるように叫んだ。ククールにとっては、まったく意味のない言葉だった。奪う?
 背後の廊下に、小柄な人影が現れた。見事な白髯の老人だった。聖職者の装束を身につけ、手を背中で組み、穏やかな雰囲気を漂わせているが、その目には決然とした表情があった。
 修道士見習いの少年は言葉を切った。ゆっくり足を引き、きびすを返す。もう一度ククールをにらみつけてから、元来た方向へ戻っていった。
 老人がククールと並んだ。歩き去る少年を見上げてつぶやいた。
「…すまぬな、幼子よ。今の話、すべて聞いてしもうたよ。まさかマルチェロがあのような態度をとるとは。いったい何が…」
老人はククールのほうを見た。
「…そうか。お前が…」
優しい目で老人はククールの髪を撫でた。
「マルチェロには腹違いの弟がいると聞いていたが…そうかお前がククールなのか」
ククールは涙ぐんだ顔で包みを抱きかかえ、老人をじっと見つめた。包み込むような目で老人はククールを見ていた。ククール自身とあまりかわらないほどの小柄な体格が、あふれかえるほどの優しさ、哀しみ、慈しみ、そういった心情に満たされているのをククールは感じた。深く、穏やかで、あたたかい。
「すべては時間が…ここでの暮らしが解決するだろう。…さあおいでククールよ」
老人はククールの肩に手を回して歩き始めた。
「ここが今日からはお前の家になるのだよ。みなに紹介しよう」
二つの小さな人影が、影を長く落としながら、夕日の回廊を歩き去っていった。