オウム返しの使い魔 7.マーサを求めて

 エルヘブンを出てからも、マーサは小アニマのことを忘れたわけではなかった。小アニマの真の名を呼んで、マーサは固く言いつけた。
「私がいいと言うまで、私以外の人からは隠れていて。特に声を聞かせてはダメよ」
 マーサの声で小アニマは尋ねた。
「ナゼ・デショウカ?」
 マーサは少しためらってから答えた。
「グランバニアでの第一歩をうまくやりたいの。おまえのことは、うんと仲良くなった人から紹介することにするわ」
「ワタシハ・ヒトノコエヲ・キイテ・オボエテハ・イケナイ・デショウカ?」
「それは、してもよいわ。でも、私がパパスさまと二人きりのときは、聞かないで。そういう時は、離れていてね」
 そういうわけで、マーサがパパスといる時以外は、小アニマはマーサの後ろでおとなしくして、そして聞いていた。
 そんな日々は、一年ほどしか続かなかった。マーサはグランバニアで快活にふるまい、新しい暮らしになじもうとつとめていた。小アニマにはまだ人間関係の複雑さは理解できなかったが、マーサの笑顔が周囲の人間、つまり侍女や付き添いのシスター、召使、兵士、そしてパパスの弟オジロンや、オジロンの新妻のアントニアなどに広がっていったことはわかった。
「最初はどうなることかと思いましたが、マーサさまはすっかりグランバニアの王妃にふさわしくなられましたな」
 そのころ、サンチョが嬉しそうにそう言った。
「マーサさまと目が合って、あの笑顔で御声をかけていただいたら、誰だってお味方したくなりますよ」
 マーサ付きのシスターがそう答えた。
「まあ、パパスさまは城内の貴族のお嬢様方からも人気がありましたから、そういう方の中にはまだ少し、マーサさまに含むところがある方もいらっしゃるようですが」
とサンチョは、心配半分、自慢半分につぶやいた。
「女というものは、昔は昔、今は今と割り切れないものなのです」
とシスターは答えた。
「でも、いずれ収まるところへ収まるでしょう」
 やがてマーサは、エルヘブンにいた頃のようにあちこちへ出歩くことがなくなり、長椅子の上で日々を送ることが多くなった。そして、薬草の知識に秀でたシスターが常に傍にいるようになった。
「今ではもう、マーサさまが立派なお世継ぎをお産みになるのを、宮廷の、いえの国の誰もが待ちわびていますわ」
 そうシスターがつぶやくと、サンチョは嬉しそうに問い返した。
「王子か王女か、どちらですかな?」
「どちらになっても、きっと可愛らしいお子でしょう。この間、マーサさまがこっそり教えてくださったのですが、男の子ならルキウス、女の子ならルキアという名前を考えていらっしゃるそうな」
 サンチョは身を乗り出した。
「いいですなあ、実にいい。エルヘブンの名前でしょうかな!?」
「それが、パパスさまのお部屋でマーサさまが羊皮紙の書き損じを見つけたとおっしゃって見せてくださいました。パパスさまが名前をたくさん書き散らしていらして、でもほとんど線を引いてあって、ふたつほど線で消されていないのが、ルキウスとルキア」
 サンチョはにやにやした。
「ではパパスさまの御発案でしたか!パパスさまも、気合を入れて名前を考えておられるのですなあ。まあ、いざとなったら練りに練った名前よりも、案外ひょいと思いついた名前になったりするものです」
「今は名前よりも、お産が軽いのが何より」
 そう言った後シスターはつぶやいた。
「ですけど、マーサさまの不思議な目を受け継いでお生まれになるといいですわね」

 再び小アニマの運命はひっくりかえった。その日、グランバニア城が襲われたのだった。
「エルヘブンの娘はどこだ!」
「エルヘブンのマーサを出せ!」
 暴虐と悪意が実体を持ったような、巨人のような大きさのモンスターが手下を率いて城内を駆けまわる。
「私を狙っているのね」
 城内の隠れ場所では、出産を終えて疲れ切ったマーサがそうつぶやいた。
「この子をお願い」
 マーサは腕に抱いていたものをシスターに押し付けた。
「王妃様、いけません!」
「大丈夫、すぐにあの人が来るわ。あんなやつら、きっとやっつけてくれる。でも、赤ちゃんだけは絶対に無事でいてほしいの。守ってください。お願いします」
 ふるえながらシスターは、赤子を抱き取った。
 マーサはマントのフードをわざとはねあげ、ガウンのすそをつまんで一人、走り出した。
「ゲマさま、あそこに!」
 とたんに、おほほほほ、と甲高い笑い声が聞こえた。
「マアサ、そこにいたのですか。いけませんねえ、この私から逃げようだなんて」
 空中に浮くゲマは、赤い目で城を見下ろした。
「ジャミ、ゴンズ、捕らえなさい」
 ぐははは、と醜悪な声で笑いながら地獄の鬼がマーサを追い始めた。
 童子が野の花を無造作に手折るように、鬼はマーサのきゃしゃな体をつかみ、ひっさらった。
「きゃあああっ!」
 そのまま鬼たちはマーサごと空中へ浮き上がった。
 城の石床を踏む荒々しい足音が響いた。
「マーサ!貴様ら、マーサを放せ!」
 グランバニアの王が叫んだ。
「こんなに早くここまで来るとは。ほっほっほ、妻を思う夫の気持ちは、いつ見てもいいものですねぇ?」
 捨て台詞を残してゲマはマーサを連れ去ってしまった。

 さらわれたマーサは、巨大な籠のような牢獄に入れられた。籠は翼竜たちの腹につりさげられ、夜空の中をいつまでも飛んでいた。籠の荒い網目を通して、下界の風景が移り変わり、やがて暗い海になるのを小アニマは見ていた。
「●、●◇▼#!」
 小アニマはぎくりとした。マーサが、真の名を呼んでいた。
「よかった、無事ね?」
 数時間前に出産したばかりのマーサは、疲労で息も絶え絶えだった。
「おまえに言いつけた命令を解きます。もう声を出していいわ」
「まーさサマ、ワタシタチ・ハ・ドコヘ・イク・ノ・デショウ?」
 サンチョの声で小アニマは尋ねた。
「わからないの。でも、いいこと?この牢屋が開かれたら、おまえはこっそり逃げてちょうだい。そしてグランバニアへ、パパスさまのところへ行って、私がここにいると伝えて」
「ハイ」
 いまだに半透明のガス状生物アニマは、警備をすり抜ける自信があった。
「いい子ね。おまえだけが頼りなの」
 そう言ったあと、マーサは身を震わせた。
「ああ、でも、いつもそばにいたおまえがいなくなってしまうなんて」
 マーサは、はた目にもわかるほど努力して、小アニマを手放そうとしていた。
「用件ガ終ワッタラ、スグニまーさサマノトコロヘ戻リマス」
 パパスの声でそう言うと、マーサは両手で顔をおおった。
「ええ、戻ってきて。できるだけ早く」
 翼竜が籠を下したのは、冷たい風が吹き荒ぶ高山の頂上だった。
「エルヘブンの大巫女、ようこそ」
 マーサをさらった一味のかしら、ゲマは、長い顎と赤い目を持った頭巾の悪魔だった。
「さあ、出ていらっしゃい。あなたにはひと仕事してもらわなくてはなりません」
 いやらしいほど丁寧な言い方に、マーサはきっと唇をかみしめた。狭い籠の入り口を抜けて、マーサはセントベレス山へ降り立った。
(今よ!)
 小アニマは、身を翻した。
「おっと!」
 長い爪のある骨ばった手が、がっちりと小アニマを捕らえていた。
「ああっ、やめて!」
 マーサの哀願を、ゲマは嘲笑った。
「これは使い魔ですか。ふん、ちっぽけなものですねえ。こんなものに頼ろうだなんて、エルヘブンのマーサも底が浅い」
 くすくすとゲマは笑った。
「私を捕らえたのだから、もういいでしょう!その子は放して」
「とんでもない」
 小アニマは、じたばたした。生まれてこの方、こんなひどい扱いは受けたことがなかった。
「この使い魔はダンジョンの中へ放すとしましょう。そうすればやがてその魔性を取り戻すはず。悪意や憎悪、恐怖をたっぷり吸って立派なモンスターに育つでしょう。楽しみですねえ?」
 ほほほほ、と笑う声に、マーサは唇を噛んでうつむいた。

 小アニマと呼ばれていた小さな使い魔は、その日から日の当たらないダンジョンに閉じ込められた。
 ダンジョンは岩肌がむきだしで、凍えるように寒く、大半が暗黒だった。その中を、新参者である使い魔はマーサを探して右往左往した。グランバニアへ行く方法がない以上、アニマはマーサの所へ戻らなくてはならない。マーサに対してそう約束したのだから。
「ヨルナ、ウセロ」
「殴ラレタイカ」
「話シカケルンジャネエ!」
 使い魔にわかる言葉で対応してくれるのはまだいいほうで、中には物も言わずに使い魔を追いかけまわして捕食しようとするモンスターもいた。
 使い魔は混乱していた。エルヘブンで誕生して以来、これほどの悪意にさらされたことはなかった。
 やがて、時が過ぎた。使い魔は、ある日自分と似たような不定形の存在に追いつかれ、むさぼり食われた。
 食われた後で、使い魔は自分の意識に気付いた。
 捕食したほうのモンスターの意識に、捕食された使い魔の意識が混じりあっていた。
 純真な使い魔であった存在は、それを手始めに血の味を覚え、狩をするようになった。
 自分が食った相手の心が次第に混入する。いつしか小さな使い魔はダンジョンの中で生きのびるために変質していった。ゲマが言った通りになるまで、数年しかかからなかった。
 ある日、ダンジョンの入り口が開いた。
 後年、大神殿からイブールの礼拝堂へと続く通路になるはずのダンジョンの、内装が開始されたのだ。職工や兵士がダンジョンへ入り、なめらかな敷石を敷き詰め、岩肌を化粧壁で覆い、凝った円柱を建て、階段を設置し、飾り彫りのある手すりを連結した。そして、あちこちに燭台をつけていった。明るいダンジョンというものが珍しくて、小アニマだった使い魔は内部をうろつきまわり、入り口近くまでやってきた。
 入り口のすぐ外にある作業場からざわめきが聞こえてきた。と同時に、石材を割る音もした。
「ヨシ、ハコベ」
 奴隷監督が横柄に命じていた。驚いたことに、奴隷は逆らった。
「待ってください。もう少し小さく割ります」
 使い魔はどきりとした。
――誰ダロウ。ワタシハ、コノ声ヲ聞イタコトガアル。
 ぴしっ、と音がした。気の短い奴隷監督が鞭をふるったようだった。
「これは一人では運べない。また奴隷をつぶしたら、あなたが叱られるはず」
 奴隷監督はだいぶわめいたが、ついに折れた。
「好キナヨウニシロ。アトデ、オマエモ運ベ」
「わかっています」
 奴隷は短く答えた。そのとき別の声がした。
「手伝う!」
「ありがと」
 使い魔は、矢も楯もたまらずにダンジョンの出口へ飛んで行った。
――知ッテイル、コノ二人ノ声ヲ、ワタシハ聞イタコトガアル!
 マーサ、パパス、エリオス。幸せだった時代への手がかりを求めて、使い魔はダンジョンを飛び出した。

 女子牢の牢名主は、ふてぶてしい態度にたくましい体つきの中年女だった。彼女は長年女子牢の暴君として君臨してきたが、その分、女子牢へ押し入ってくる兵士たちからも一目置かれていた。
「これで足りるか、女王さま?」
 わらの束の中から、食べ物を取りだしてヘンリーは尋ねた。
「へえ、気合が入ってるねえ」
 白いパンや干し肉、ドライフルーツなどは、本来奴隷の口にはとても入らない。教団や兵士団の幹部のためにこの山の上まで運ばれてきて、特別な倉庫に保管されている。だが、ヘンリーとルークはこっそりその倉庫から食料を盗みだしてくるのだった。
「女子牢で一人増えたからパンも増やしたぜ」
 つい最近、教団の儀式に使う皿を割ったという罪で、マリアという少女が女奴隷に落とされた。その成り行きを知っている女子牢の者たちはマリアに同情していて、この牢名主もむしろマリアには優しかった。
 からかい交じりに牢名主は言った。
「かわいい子が入るとすぐにこれだ。あんたもただの男だってこったね」
「俺は最初っから、いい女に弱いただの男だよ。だからこうして女王さまにずっと貢いでるじゃねえか」
「口の達者なガキだねえ」
 呆れたように言ったが、牢名主はまんざらでもない顔だった。
 にやりと笑ってヘンリーは立ち上がった。
「さて、そろそろ戻らないとな。お先に!」
 作業中ヘンリーは口実をつくって牢へ戻り、女子牢へ食糧を届けに来ていた。その間、外では相棒が兵士やむち男などをごまかしてくれているはずだった。
 大神殿の建設はこの十年の間にだいぶ進んでいた。もう建物の形がだいたいわかるくらいになっている。四方の壁や柱などもだいぶできてきたので、その裏側でこっそりさぼることもできた。
 石切り場へ行こうとして、ヘンリーは兵士の目のないルートを選んで歩いていた。建設途中のあれこれが置いてあって、ひと目で見通せる場所は少なかった。
 ヘンリーは、足を止めた。人声を聞いたと思った。
「あのような殿方を見たのは初めてだったのです」
 若い女の声だった。少なくとも兵士ではない。教団の尼僧か、とヘンリーは考えた。
 うふふふ、と笑い声が混じった。
――マリア?
 その声は、あの奴隷の少女、マリアのそれに似ていた。
「田舎でずっと育ったものですから」
 マリアは、誰かと会話しているようだった。
 不思議ではないな、とヘンリーは思った。マリアは元、光の教団の高位の僧たちに使える侍女だったのだから。もしかしたら、奴隷になった彼女を援助するために知り合いが会いに来たのかもしれなかった。
 好奇心にかられてヘンリーは、作りかけの壁の背後をのぞきこんだ。が、たまたま日陰になっていて暗く、目を凝らしても人がいるかどうかわからなかった。
 そのとき、マリアの声が続けた。
「ブロンズの肌と黒髪の男の方には、初めて会いました。それにあの不思議な瞳……」
 うめき声をあげそうになったのを、ヘンリーは自分の手で口にふたをして防いだ。
 この大神殿建設現場には、ある意味世界中から人がさらわれてきて働いていた。だが、濃いめの肌色に黒髪の男はそれほど多くなかった。そして何よりの特徴をマリアは語っていた。
――不思議な瞳。
 まちがいなく自分の相棒、ルークのことだろう。自分の胸を自分でつかんで、ヘンリーはこらえた。
 恋する少女は、嬉しそうにささやいた。
「あの方は男らしく手が大きくて、背中も広いのです。とても強くて、それなのに少しはにかみ屋で、優しくて。あの方を見ていると心が暖かくなりますの」
 そういうことか、とヘンリーは心の中でつぶやいた。どうして自分がこれほど衝撃を受けているのか、自分でもよくわからない。
 ヘンリーとルークはこの十年間いつも二人一組で扱われてきた。最初はひとつ年下の不安定で頼りない子ども、しかしパパス亡きあと自分が守り通すべき子分だとひそかに見なしている存在だった。今は絶対に信頼のおける味方、大事な相棒だった。
「あの方がもし、私をかえりみてくださらないとしても、私は全力であの方をお守りしたい、できることは何でもしてさしあげたい、そう思いました」
 まだ両想いじゃないわけだ、と考え、妙にヘンリーは安心した。次の瞬間、その意味に気付いてヘンリーは愕然とした。
――何言ってんだ、俺!
 ヘンリーは、珍しいことに軽くパニックになっていた。ルークとマリア、そのどちらに嫉妬しているのか自分でもわからなかった。
 外の作業場で、ざわめきが聞こえた。自分がいないことがばれると仲間に迷惑がかかる。その焦りに背を押されてやっとヘンリーはその場を離れた。
「ギザミミ、こっちだ」
 奴隷仲間が手招きしていた。ギザミミというのは、ヘンリーの耳がギザギザに切られているためについた、あだ名だった。
「何か騒ぎがあったらしくて、兵士たちがみんな行っちまったよ。ラッキーだったぜ」
「……そりゃ、よかった」
 岩壁で作業していたルークが振り向いた。
「あれ、どうしたの?」
「なんでもないんだ」
 ようやく、それだけ言えた。
「なんだか、ひどい顔してるよ」
 ヘンリーは、てのひらを前に出した。
「手を出せよ」
 ルークはツルハシを手放して、片手を差し出した。
「こう?」
 手の大きさを比べ合うなど、もう何年もしていなかった。
「大きいよな」
「え、まあね。本当に大丈夫?」
 ルークはまだ、心配そうな顔をしていた。奴隷暮らしで汚れていても彫りの深い凛々しい顔立ち、オーラをまとう容姿、そしてその、誰をも惹きつける瞳。
 マリアの言った通りだ、そう思ってヘンリーは変な笑いが出た。
「ほんとにおまえ、誰からも好かれるんだな」
「ぼくたちのこと?パンを配ったりしてるからかな」
「おまえのことだよ。おまえがいるとみんな、安心して笑顔になる」
 はは、とルークは笑った。
「変なこと言うんだね。そんなのぼくのせいじゃないよ。きみが冗談でみんなを笑わせたりするからだろ?」
 そして、何気なく付け加えた。
「何か言いたいことがあるのかい?」
――知ってるか、あのマリアって子、おまえのこと好きみたいだぜ。
 何度か口を開こうとして、失敗した。
「悪い、言えるようになったら、言う」
「わかった。それまで待つよ」
「おまえ、いいやつだな……ごめん」
 そう言ってヘンリーは歩き出した。胸のもやもやの原因はわからなかったが、ルークには何の責任もないことだけは知っていた。

 声はあるが、姿はない。命はあるが、天然の生命ではない。意志はあるが、それを告げる言葉は持たない。
 ゲマが、小アニマを投げ込んだのは大神殿からイブールの宮へ続くダンジョンの中だった。
 まったくの偶然だが、そこは光の教団が世界の四大元素から魔法技術でモンスターを生み出す実験場だった。小アニマは己と似たような出自の者たちと共食いを繰り返し、いつしか混じりあった。
 だから、そのモンスターはもう、小アニマとは呼べない。
 エビルスピリッツ。
 悪意や憎悪で狂った魂のかたまりだった。
 だが、エルヘブンで造られた使い魔の心は、そのかたまりのなかで一風変わっていた。単なる憎しみや恐怖ではなく、強固な欲求に支えられていたから。
 エビルスピリッツの心の最上位にある欲求こそ、“マーサ”だった。
――戻ッテキテ。デキルダケ早ク。
 使い魔にとって名付け親が真名をもってくだした命令は絶対だった。
 変わり者のエビルスピリッツは、ある日、聞いたことのある声に惹かれてダンジョンを飛び出した。声の主は、二人の少年だった。エビルスピリッツは姿が見えないのをいいことに、二人にまとわりつき、声を聞いていた。
 そのうちの一人、緑の髪の少年は、エリオスの声にひどく似ていた。エリオスがいるなら、マーサとパパスもいるはず。エビルスピリッツは彼らのまわりをうろうろした。
 もう一人の黒髪の少年は、エビルスピリッツにとって謎だった。声はマーサを思わせるのだが、明らかに性別が違う。パパスの声にも似ているのに、やはりどこか異なる。
 こんなによく似た存在をやっと見つけたのに!そう思いながらエビルスピリッツは彼らから離れられないでいた。
 その間にエビルスピリッツは、彼らの周りの人物の声を聞いて、記憶した。兵士ヨシュア、女奴隷のマリア、大勢の奴隷たち。
 大神殿建設現場の石切り場で、黒髪の奴隷少年が立ち止まり、振り返った。
「誰かいるの?」
 人工使い魔だったエビルスピリッツは、ぎくりとして気配を殺した。少年奴隷が、見えないはずの使い魔に向かってつぶやいたのだった。
「あれ?ぼくの気のせいか」
 この子供はときどきこうやって、使い魔の存在を知っているような行動をとる。マーサも、敏感だった。
 エビルスピリッツはいらいらしていた。これだけ似ているのに、どうしてマーサではないのか!
 敏感な子供に近づくのは少し怖かった。だからほかの奴隷たちのほうを狙い、彼らが一人でいるときにこっそり声を聞かせてみたりした。
 昔マーサが語った言葉を、マリアの声でなぞったのは偶然にすぎなかった。が、それを聞いた緑髪の少年のうろたえぶりにエビルスピリッツは気をよくしていた。
 話しかけたい。オウム返ししかできないけれど、自分の声に耳を傾けてほしい。マーサなら聞いてくれる。愛らしい声で笑ってくれる。マーサさえいれば。一年近くエビルスピリッツは大神殿建設現場をうろついた。
 ある日、唐突に、彼らは消えてしまった。マリアも同時にいなくなった。エビルスピリッツは必死で探しまわったのだが、彼らの声が聞こえなくなり、姿も失せた。
 しばらく地表をうろうろしたあげく、エビルスピリッツはしょんぼりとしてダンジョンへ戻ってきた。悪意、憎悪、恐怖、嫉妬、飢餓。そんなものが充満するダンジョンにしか、エビルスピリッツの居場所はなかったのだ。
 そしてまた、十年近い歳月が流れた。
 ある日、ダンジョンに侵入者が現れた。それは、ユウシャなのだと聞かされた。ユウシャとその一行が入ってきたら、戦って侵入を阻めと言われたが、エビルスピリッツはじめモンスターたちはまっぴらごめんだった。運の悪い者がぶつかるのはしかたないが、自分から戦いに行くなんてそんなつまらないことはしたくなかった。
 教団の方にはへいへいと言っていればいいだけ。
 いいだけ、のはずだったのだが。
 気が付いたらダンジョンは壊れていた。
 入り口が開けはなたれ、うるさく管理に来る光の教団は壊滅し、ダンジョンの主たるイブールは消滅したらしい。少なくとも、モンスターどもをダンジョンに縛り付けている圧力はなくなっていた。
――オヤ、ソレナラ、私ハ自由ナノカ。ドコヘ行くノモ私ノ好キニシテイイノカ。
 そう気付いたエビルスピリッツは、勢いよくダンジョンを飛び出した、己の心の最上位の欲求、“マーサ”をかなえるために。
 セントベレス山を取り巻く内海を越えてエビルスピリッツはさまよった。数か月さまよったあげく、エビルスピリッツはラインハットへ到達していた。知っている声が聞こえる、というのがその理由だった。かつての奴隷の若者、エリオスに似た声と、女奴隷マリアとして知っている声を見つけたとき、エビルスピリッツは有頂天になった。ここにいれば、もしかしたらマーサにつながる何かを見つけられるかもしれない。
 無邪気で、同時に邪悪なエビルスピリッツは、ほとんど舌なめずりをしてラインハットの闇に潜むことにした。そして夜が来ると、得意の声真似を始めた。
――ぶろんずノ肌ト黒髪ノ男ノ方ニハ、初メテ会イマシタ。