オウム返しの使い魔 3.災厄

 ラインハット城の上の階にある兄夫妻の居室をデールが尋ねるのは、めったにないことだった。
「めずらしいな。入ってもらってくれ」
 ネビルはさっと引っ込んだ。入れ替わりに、従僕も侍女も連れずにデールが一人だけ入ってきた。
「兄上、お話があります」
 デールは息を切らしていた。
「そりゃ我が君の言うことだ、なんでも聞くが、まあ座れよ。階段駆け上がったのか?身体、大丈夫か?」
 ヘンリーは自分たちが座っていたソファに病気がちな弟を座らせ、マリアは身軽に立ち上がった。
「今、何か、お飲み物を」
「いえ、義姉上もいらしてください」
 デールは何か興奮しているらしく、いつも青白い顔が微熱でもあるかのようにほんのり染まっていた。
「兄上、思い出してほしいのです、子供の頃のことですが、父上の雑談の中身を」
「親父?」
「私は小さいころ、母上に連れられて父上のところへご機嫌伺いに行きました。場所は城のサロンで、そこには貴婦人がたくさん来ていました。父上はご満悦でご婦人方にいろいろ話していました。そんなことを覚えていらっしゃいませんか」
「そりゃ、あったと思うぞ?親父は美人に囲まれてちやほやされるのが好きだったからな」
 兄弟の父、先王エリオスは二度結婚しているが、それ以外にも女性関係が華やかな人物だった。
「私はサロンでお茶とお菓子をいただいていました。そのとき兄上はサロンの外のバルコニーにいたのでは?」
 このラインハット城には、秘密の通路や隠し扉がたくさん仕掛けられている。王族が緊急時に脱出するために作られたらしいが、コリンズほか歴代の王子たちはその通路を縦横無尽に遊びまわっていた。幼児だったデールも少年時代のヘンリーにくっついて一通り抜け道を歩いていた。
「俺?」
「父上は、オウム返しをする使い魔の話をしていました」
 デールの興奮が、その時ヘンリーへ伝わった。
「ああ、してた! “オウム返しの使い魔”、親父はたしかにそう言った!それって、こないだセイラが聞いたあれと同じやつか?」
「そうかもしれません。とにかく、これは手がかりです!」
 マリアは思わず口をはさんだ。
「犯人がわかったのですか?」
 デールは首を振った。
「私が聞いたのはその一言だけなのです。そのすぐ後に家庭教師が来たので一緒にサロンを退出してしまいました。でも兄上、あのときサロンの外の隠し通路にいましたね?兄上と子分たちの声が聞こえましたから」
 育ち過ぎたいたずら小僧はチッとつぶやいた。
「バレてたか。たしかにいたぞ」
「父上は、続きを話しました?」
 てのひらを口元にあて、ヘンリーは黙り込んだ。そしてブツブツつぶやき始めた。
「“オウム返しの使い魔”。言ったのは、親父だ。誘拐前のことで、俺はガキだった。この城にいた……会話を聞いてた……ツカイマって何だろうって思った……」
 マリアには見当がついた。ヘンリーを含めラインハット王家の一家は、自分が見たり聞いたりしたものをほとんど忘れない。そのために記憶を探るだけで時間旅行に近いことをやってのける。
 デールにもわかっているらしく、黙ったままヘンリーの時間旅行が終わるのを待っていた。
「『実は余は、使い魔を造れるのだ。いやいや、本当だとも。昔、実際に造ったことがあるのだ。最初は半透明でほとんど見えないが、声だけは出せるのだ。どんな声か、と言われても、使い魔は自分の声を持たぬ。他人の声を聞いて、聞いた通りに他人の声で繰り返す。そうだ、あれは余の声も真似をしたぞ。オウム返しの使い魔だな』」
 すらすらとヘンリーはエリオスの話したことをたどった。
「そこまでは私も聞いていたのですが、そのあとは」
 ん、とヘンリーがつぶやいて、後を続けた。
「『今、ここでか?ははは、残念ながら。それは心外だ。魔法陣も呪文も覚えているさ。だが、造り方はわかっても材料がないのだ。たいへん珍しい特殊な素材が必要だから。秘密の魔法の里があって、そこの女長老のアトリエには貴重な素材がたっぷりとあった』」
「それです!」
とデールが言った。
「その女長老という方なら、このオウム返しの使い魔をなんとかしてくださらないでしょうか。父上は、魔法の里については何か言いませんでしたか?」
 まるでエリオスになりかわったかのようにヘンリーが答えた。
「『それは言えぬな。余は若い頃、グランバニアのパパス殿とその従者といっしょに旅をしたのだが、そのとき偶然行き着いたのだ。正直言って、もう一度そこへ行けと言われても場所がわからぬ』」
 マリアは息を呑んだ。
「パパスさま……!きっとルークさまなら、ご存知ですわ」
 ヘンリーの顔も明るくなった。
「ああ!聞いてみる値打ちは十分だ。ルークなら世界中を旅しているし、きっと知ってるはずだ」
「すぐに人を選んでグランバニアへ派遣しましょう」
と、デールが言いかけた。
 ヘンリーが口を開き、何も言わずに閉じた。
「……そうだな。誰か、適任者がいるだろう」
 デールはじっと兄を見つめた。
「ご自身で行きたいのですか?」
 不自然なほどに答えは早かった。
「そんなことはできない」
「でも」
 ヘンリーはマリアの肩を抱いた。
「今のラインハットにマリアを一人にしておけるか。第一、仕事を放り出すわけにいかないじゃないか」
 ラインハットは文字通りヘンリーが動かしている国だった。
「確かに、私には国政をみることはできませんが」
とデールは言いかけた。子供の頃から病弱で、玉座よりもベッドにいる方が長い、ラインハットの名ばかりの王。マリアはヘンリーデール兄弟がそのレッテル貼りを嫌っているのを知っていた。
 何かを避けるようなしぐさでヘンリーが手を上げた。
「おまえを責めてるわけじゃないんだ。ただ、今は時期が悪い。ちょうど忙しくて」
 相手が貴族や商人なら眉ひとつ動かさずに嘘をつくが、ヘンリーは兄弟に対しては正直だった。
――顔に出ていますわ、あなた。
「とにかく、少し時間がほしい」
「……わかりました」
 低い声でデールはそう答えた。

 苛立ちは最高潮に達していた。
 そのモンスターは、昔知っていた声を頼りにラインハットへたどり着き、ここひと月ほど城内の闇に潜んでいた。その気になれば自分の姿を透明化して誰にも見つからないようにすることは可能だった。
 が、膨れ上がる怒りのために、透明化しにくいほどになっている。
 なぜ、あの女がいない!
 こんなに探しているのに!
 絶対近くに居るはずなのに!
 それはそのモンスターの確信だった。だって、昔彼女といっしょにいた人々と同じ声、か、同じでないにしても実によく似た声が、この城で聞こえるのだ。
 かつて小さな使い魔だったものは、いくつもの邪悪な魂と混じりあってしまった。今の使い魔は、被害妄想、猜疑心、自暴自棄の塊だった。
 幼く無邪気だった使い魔は、いつしか幼稚で短絡的な思考をするようになっていた。誰かが彼女を隠したのだ、と。
――ユルサナイ。……後悔サセテヤル!
 そのモンスターの内部で、使い魔と共食いしあったいくつもの邪悪な魂たちが凶暴な歓声をあげた。

 オウム返しの使い魔の謎は、とある魔法の里にある。エリオスの記憶からそう導かれてから、数日がたっていた。
 ヘンリーは、ずっと落ち着かなかった。窓際に立って指で窓枠をこつこつ叩きながら遠くを見ていたかと思うと、宰相の執務室の机の上に書類を大量に積み上げ、猛然と処理していたりした。その結果、突然ゼンマイが切れた人形のように動かなくなり、城の一番上にある王族居住区のソファでぐったりしていた。
「兄上は少し無理をしているのではないですか?」
 デールにそう尋ねられ、マリアは答えに窮した。
「……そうかもしれません」
 表面上ラインハットは穏やかだった。噂は相変わらず城をかけめぐっていたが、マリアは動揺したところを見せまいとがんばっていた。それもあって、表だってマリアを糾弾する者は今のところいなかった。最初にアデルが宮廷の女たちをけん制したのも功を奏したらしい。ただ、冷たい雰囲気はそのままで、温まるようすもなかった。
「あの、グランバニアへは、連絡がいったのでしょうか」
とマリアは尋ねてみた。
「あれからすぐに私の名で手紙を書き、キメラの翼を持った使いを送りました。ただ、ルークさまご一家は今魔界におられるらしく、すぐのお返事はもらえなかったようです」
「そうですか」
 落胆を顔に出さないように、マリアは身を引きしめた。
「そう言えば、コリンズは?」
とデールが聞いた。
「今頃はお部屋で、一生懸命宿題をしているはずですわ」
 城内の不穏なうわさに耳を傾けるひまがないように、コリンズはこのごろ家庭教師たちから多めの宿題を与えられているはずだった。
「あの子はもしかしたら、気付いているのでしょうか」
とマリアはつぶやいた。
「勘のいい子ですが、それ以上に賢い子ですから。たぶんコリンズは大人にはなにも」
 デールは言いかけて、黙った。何か音を聞いているようだった。
「あれは、なんです?」
 マリアはあたりを見回した。遠くの方で雷が鳴るような音がしていた。時刻は昼下がりだった。空はまだ明るく、雨雲の気配もなかった。
「マリア!」
 ソファからヘンリーが起き上がった。
「なんだ、これ!」
 答えようとして、マリアは思わず両手で頭を抑えた。耳鳴りがする。遠雷はますます大きくなっていった。
 その瞬間、轟音がした。何か大きなものが城の外壁にぶちあたったかのようだった。
「宰相さま、陛下!」
 警備の兵士たちがとんできた。
「城の上空に異変です!」
 ヘンリーは窓へ駆け寄り、大きく開けはなった。
 そこから見えるのは城の中庭だった。さきほどの轟音を発した衝突で、城の壁の一部が壊れ、中庭に散乱していた。
「キャアアアアッ」
 悲鳴がいくつも聞こえた。ヘンリーは蒼白になった。
「なんだ、ありゃ」
 デールとマリアは、窓から中庭を見た。ヘンリーの視線の先は、城の上空だった。
 風が強い。空は城の真上だけ暗い鉛色に変わっている。その空を背景に何か巨大なものが浮いていた。
 うっとデールがつぶやいた。遠雷に乗って現れたのは、不気味な闖入者だった。
 それは一見、空を覆う紫色のガスの塊だった。だがその中にいくつも顔があった。目鼻口がわかるのだが、その顔がどれも苦しそうに歪んでいた。絶望したり、泣き叫んだり、怒りに我を忘れたような表情がいくつもの顔に次々に現れる。なんとも気色の悪い怪物だった。
「エビルスピリッツ、というものでしょう」
 押し殺した声でデールが言った。
「なんで、あんなものが、ああっ」
 デールの声は小さな悲鳴で終わった。エビルスピリッツが暴れていた。憎悪や激怒に歪んだ顔で十面、百面の異相と化し、エビルスピリッツはいきなり旋回した。正方形の中庭を暴れまわり、あちこちにぶつかった。ガス状物質に見えるのに、ぶつかった壁は砂の細工物のように崩れ落ちた。
「マー、サー、マー、ザー!」
 ほら貝のような声で奇妙な音を発し、いきなりエビルスピリッツが急降下した。助けてと叫びながら走って逃げるメイドの上にのしかかった。というより、ガス状の身体で彼女を包み込んだ。エビルスピリッツが浮上したとき、哀れなメイドはその場に文字通り固まり、動かなくなった。どこか色彩が抜け、生気がなく、まるで人形のようだった。
「あの野郎!」
 ヘンリーはがっと窓枠をつかんだ。
 怒声が上がった。兵士たちが集まり、陣形を取って槍を構え、一斉にエビルスピリッツに突進したのだった。
「構え、すすめーっ」
 鉄の穂先はエビルスピリッツの身体をするりと抜けた。そして兵士たちも狂った人魂の塊に包まれ、陣形を保ったまま驚き騒ぐ姿で硬化した。
「なんということを!」
「しっ」
 ヘンリーだった。歯ぎしりしそうな顔で中庭を見下ろしていた。
「見ろ。あの兵士だけは襲われてない」
 その通り、中庭の隅で腰を抜かしている若い兵士がいた。恐怖のあまり、声も出ないらしい。先輩兵士が魂の無い抜け殻と化すのを、震えながら見ていた。
「なぜ、彼だけ?」
とデールがささやいた。
「声かもしれない」
 ヘンリーがささやき返した。
「あのバケモノ、よく目が見えないのかも。大きな声を出さないほうがいい」
 ヘンリーは振り向いた。
「正門全開、跳ね橋下せ!全員、城外へ誘導しろ!ただし、大きな声を出すな」
 警備兵の隊長が敬礼した。
「しかし、陛下がたは」
「コリンズと太后さまを連れ出すのが先だ。みんなを頼むぞ」
 はっと答えて兵士たちが走りだした。
「俺たちも行くぞ」
 幸い、その日は特に城で会議やパーティもなく、避難するのは城主一家の他は召使や兵士、城詰めの役人、たまたま居合わせた商人たちなどだった。
 ヘンリー、マリア、デールの三人は従僕や侍女たちとともに玉座の間へ降り、そこから階段を下った。
 セイラを始め、侍女たちがアデルを囲んで離宮から脱出してきた。
「母上!」
 デールが声をかけると、アデルが寄り添った。
「何があったのじゃ」
「わかりません。とにかく、お急ぎください」
 もうひとつ階をくだると、パニックになった人々が一斉に逃げようとしているところだった。すべて正門へ向かっているが、あまり大人数で詰めかけたため、玄関ホールでは人波が動かなくなっていた。
 もともとこの城は敵の侵入を拒むために、濠を渡れるのは跳ね橋だけ、玄関口はわざわざ柱で狭くしてある。
「どけ!国王様ご一家が先だ!」
 警備の兵士が叫ぶのを、ヘンリーが止めた。
「落ち着け。俺たちが割り込むよりそのまま行ってもらったほうが早く進むはず」
 再び轟音がした。中庭を囲む城外壁の一部が、倒壊したのだった。玄関ホールも無事ではなかった。上から建材がふりそそぎ、人々は両手で頭をおおい、悲鳴を上げた。怒号や悲鳴はエビルスピリッツにとってかっこうの目印だった。
「みんな、声を出すな!」
 ヘンリーがささやいた。近くにいた者たちは、掌で口を抑えてうずくまった。恐怖にこわばった目で、醜悪な顔の塊がすぐ近くを漂うのを眺めていた。
「マー、サー……マー、ザー」
 何か探しているかのように、エビルスピリッツはうろうろしている。同じように虚ろに響く声で、何事かつぶやき始めた。
「ワタシハ・ナンテ・チッポケ・ナノデショウ・ヨルナ・ウセロ・殴ラレタイカ・七日前ノ夜晩餐ノアト・オ城ノ厨房ノ食器室カ中庭ニイラッシャイマセンデシタカ?」
 支離滅裂な言葉なのだが、いくつか聞き覚えのある声がした。まわりの人間は口をつぐみ、あるいは手で顔の下半分をおおっている。奇妙なつぶやきはエビルスピリッツから出ていた。エビルスピリッツが声を真似てしゃべっているのだった。
 エビルスピリッツは身動きの取れない群衆の上に時々覆いかぶさった。ゆっくり浮き上がると、その下にいた人々は魂を吸い上げられた抜け殻となっていた。
 エビルスピリッツは、また、早口でつぶやいた。
「聞キマシタカ。生マレタテノ・あにまガ・シャベリマシタヨ・スグニアノ人ガ・来ルワ・アンナヤツラ・キット・ヤッツケテクレル・宰相サマ・軍ノ関係者カラ・派手ニ・くれーむガ・来テマス・イッタイドウシタラ」
 色々な人の声を再生しながら、怪物は中庭の方へ漂い出ていった。
「これは困った……」
 デールの視線の先には、城の出口があった。詰めかけていた人の波は、そのまま動かない障害物となって出口を完全にふさいでいた。
 ヘンリーが、無言で片手を上げ、厨房を指した。そして先頭に立って城の一階廊下を引き返し始めた。厨房からは、中庭に出られる。中庭の別の出口からは城の東翼一階に入れる。そこにある秘密の出入り口は城を取り巻く濠へつながっていた。
 一言も発しないが、恐怖のあまり喉を鳴らし、生きのこった人々は動き出した。兵士たちがそっと厨房から中庭をうかがった。エビルスピリッツは、はるか上空にいた。空の彼方からブツブツ言う声が聞こえるだけだった。
 足音を忍ばせて人々は東翼へのドアをくぐった。
 ヘンリーは真っ先に秘密の出入り口を開いた。大昔、彼が少年だった頃、王子誘拐犯の一味が乱入してきた扉だった。
(さあ、ここから出て城の角を曲がれば、跳ね橋へ行かれるぞ)
 城の人々はおそるおそる外へ出て、それから跳ね橋目指して走り始めた。