オウム返しの使い魔 1.謎の声

 少女は、棚を開いて高価な皿を慎重に重ねた。かちゃかちゃという音が夜の食器室に響いた。
 料理人の指揮でお城のディナーが終わり、厨房では後片付けと明日の仕込みをしている。下働きの少女たちは床を掃除したり、洗ってふきあげた食器を食器室へ戻したり、いそがしく働いていた。
 誰かが食器室へ入ってきた。
「あの、忙しいときにごめんなさいね、離宮から来たのですが、いつものをいただけるかしら」
下働きの少女はふりむいた。上品な年配の侍女が立っていた。
 離宮というのは、このラインハット城内にある特別な区画のことだった。その宮の主は先王の后、アデル太后で、寝る前に暖かいミルクを飲む習慣があった。
「少々お待ちください。ええと」
「いつも来る人が今夜はお休みをいただいているの。私は太后さま付きの侍女でセイラと申します」
 少女はちょっと緊張した。いつもホットミルクを取りに来るのは小間使いの娘だった。太后付きの侍女は、小間使いよりも単なる女官よりもずっと太后に近しい。
「セイラさま、ミルクはすぐに厨房で温めてこちらへお持ちします。ここは食器室なので」
「あら、私、まちがえたのね」
 セイラは穏やかな笑顔になった。やさしい人らしかった。少女は少し安心した。いえいえ、と答えようとしたときだった。どこか近くで笑い声が聞こえた。
(うふふふふ)
 厨房の下女にしては可愛らしい声だった。
 あら、とつぶやいてセイラはきょろきょろした。
「どなたかいらっしゃるの?」
「そんなはずはないのですが」
 食器棚の裏だろうか、それとも中庭だろうか。その声は小さかったが、はっきりと聞こえた。
「ブロンズの肌と黒髪の男の方……それにあの不思議な瞳……。あの人にじっと見つめられると、不思議な気持ちになるのです。この人なら私を受け入れてくれる、なんて、根拠はないのですけど」
 下働きの少女はどきりとした。
「マリア奥さま……?」
「しっ」
とセイラが言った。押し殺したささやきだった。
「厨房へ行きましょう。私たちが聞いていいお話ではないようです」
 このラインハット城の現在の女主人は、ヘンリー大公の妃マリアだった。少女もセイラも、口に出さずに意識していることがある。マリアの夫、ヘンリーは緑髪の人だった。
「あの方は男らしく手が大きくて、背中も広いのです。とても強くて、それなのに少しはにかみ屋で、優しくて。あの方を見ていると心が暖かくなりますの」
 マリアの声は嬉しそうで、“あの方”に恋をしているのは明白だった。
 少女とセイラはそそくさと食器室を後にした。
「大公様と奥さまは、ずっと仲良しだと思っていたのに」
 ヘンリーマリア夫妻とコリンズ王子は、少女にとって幸せな家庭そのものに見えた。その分、がっかりした気持ちも大きかった。
「お嬢さん、今夜聞いたことは、口外してはいけません」
とセイラは言った。最初に現れたときの穏やかさとは別人のような険しさだった。
「わかりました、誰にも言いません」
 セイラは少し表情をやわらげた。
「よい子ね。きっと何かの間違いですよ」
 セイラはそう言って、厨房でミルクを受けとると離宮へ戻っていった。
 下働きの少女は確かにセイラとの約束を守った。だが、その週のうちに城で働く者たちは大公妃の恋の話をし始めた。あっという間に、不穏なうわさが城内を駆け巡るようになった。

 太后アデルは、久々に離宮を出て城へ向かった。
 離宮と言っても実はラインハット城内にある。ただし、行政立法等の現場である城の“表向き”、城主一家のプライベートである“奥向き”、そのどちらにも属さない一画だった。
 離宮には、あまり人の訪れはない。老いた太后を中心に年配の、事情をよく知った女官、侍女たちが暮らす、静かな宮だった。
 侍女のセイラは若い頃王妃アデルに仕え、一度結婚して侍女を辞め、夫の死後同じ職場に戻って太后アデルの侍女となった。そのためセイラは偽太后に仕えたことはなかった。民間出身の太后アデルにとって、実はセイラは遠い親戚にあたる。この離宮の事情を知り尽くした侍女だった。
 離宮の事情というのは、この宮がある種の牢獄だということだった。
 もちろん外出は自由で生活費も潤沢に届けられ、太后の暮らしには何の制限も加えられてはいない。
 しかしかつてラインハットを災禍と混乱に陥れた原因と太后本人が自覚しているために、人交わりを避け、一線を退いた暮らしを守っていた。
「お支度、綺麗にできましたこと」
 純粋にセイラはそう言った。
 若き日のアデルは、その美貌でラインハット王エリオスに愛され、町娘から正妃へと登りつめた女だった。ぴしりと背筋の伸びた身体に贅沢な衣装をまとい、いまだつややかな髪を結い上げれば、今でも十分美女の名に値する。
「まあ、こんなものかえ」
 大きな姿見で自分の立ち姿をチェックして、太后アデルは満足げにつぶやいた。
「セイラ、供を」
「かしこまりました」
 離宮から城へ向かうのは、太后アデル、侍女セイラ、それに警備の兵士たち数名だった。かつてのラインハットの女主人の一行にしては簡素だが、今日の宮廷行事にはむしろふさわしい。
「主催はマリア殿であったか」
「さようでございます」
 ラインハット城の公式な宮廷行事はデール王かヘンリー卿が主催するが、今日のそれは大公妃マリアが催す私的な茶会だった。招かれているのもラインハット宮廷の女性たちのみ。
「先月起きた嵐のために、東部の教会が壊れた由にございます。そこでラインハット城内の教会から援助したいというお話がありましたそうで。今日のお茶会で婦人方から品物の寄付を募り、バザーを催して売り上げを教会に寄進するおつもりのようです」
 慈悲をもって寄付することは、昔も今もラインハットの貴婦人たちの間ではよく行われていた。困っている者に援助する志もさることながら、宮廷の女性たちにとってコミュニケーションの機会であり、さらに言えば見栄を張るチャンスでもあった。その見栄を競う行動のために援助額は跳ね上がる。
 アデルがつぶやいた。
「本来ならば、わらわのなすべきことじゃな」
 アデルの最盛期をセイラは知っている。少しもの悲しい気もした。セイラはさっと頭を振った。今は感傷に浸る時ではなかった。
 太后アデルが人前に姿を現すのは珍しい。ラインハット宮廷の物見高い貴婦人たちが興味津々とアデルの顔を見にくることは簡単に想像できた。
“あれだけのことをしておいて、どんな顔で出てくるおつもりかしら”等々、セイラには彼女たちの思惑の予想がついた。そのときは絶対にお守りする、その覚悟でセイラは供を務めている。
「気を取り直してまいろうよ」
 持って生まれた気の強さで、アデルはそう言いきった。
「セイラ、しゃんとおし。わらわの顔を見に来る女どもを、喜ばせようとは思わぬ」
「肝に命じまして」
 もしアデルが責められるようなことがあったら、マリア大公妃を頼みにしよう、とそこまで考えてセイラは眉をひそめた。
――あのうわさは、マリア奥さまのところまで届いてしまったのかしら。
 大公妃マリアは元修道女である。清貧と従順を旨とする一団の中にいた人だった。
 今のマリアはラインハット城の女主人であり夫のヘンリーとともに公的な場面に姿を見せることが多い。彼女の声は良く知られている。その声で何とも無邪気に夫以外の男性を慕う言葉を語られては、城のうわさになるのは避けられないところだった。
「もしかすると マリアはお前の方を好きだったのかも知れないけど」
 ヘンリーは、訪ねて来た友人に一度そう言ったことがあるという。それは以前からひそかにささやかれるうわさ話で、セイラも知っていた。
 城内を歩いているうちにお茶会の会場が近くなってきた。
 会場は以前アデルも王妃として使っていたサロンだった。小さめだが華やかな部屋で採光がよく、飾り付けられた生花が美しい。その部屋には老若さまざまな貴婦人たちが集っていた。お付きの侍女は入ってよいが、警備の兵士は入り口で断られる。そこは完全なる花園だった。
 部屋の奥には、本日の主催者マリアがいた。マリアの秘書を勤める女官が咳払いをした。
「皆様、大公妃さまより歓迎のご挨拶がございます。どうぞ前の方へお詰めください」
 そつのない言葉だった。礼を欠くようなものではなく、事務的でさえある案内だった。
 貴婦人の群れの一番前にいる二人の女性が、何がおかしいのか、レースの扇の陰で密やかに笑った。
 セイラは、すぐ前にいるアデルが身をこわばらせたのを感じた。
 秘書は冷静に繰り返した。
「皆様、どうぞこちらへ」
 誰も動かなかった。
 これはアレだわ、とセイラは悟った。若かったアデルが王妃となったころ、さんざんやられた嫌がらせと同じものだった。
 秘書役の若い女官が一歩前に出ようとした。
 その肩にマリアが手を触れ、微かに首を振った。
「お集まりいただきましてありがとうございます」
 マリアは感謝の言葉で集いを開始した。そしてレースの扇の貴婦人のひとりに、自然な口調で話しかけた。
「ゴートンの奥様、こちらへお願いいたします」
 セイラは思い出した。今名指しを受けた年配の貴婦人は、結婚する前、エリオス王を挟んでアデルのライバルだった。当時、アデルの持つ王妃の権限とレディ・ゴートンの意地が何度もぶつかり合ったのだ。
 どれほどアデルが大声で、怒鳴るように命令しても、レディが無視しきればレディの勝ちだった。
「あの、奥様」
 レディは手にした扇をくるりと翻した。
「何か聴こえまして?」
 隣にいた、同じ年ごろの貴婦人がわざとらしく聞き耳をたてた。
「いいえ?なあんにも!」
 わざと無視しているのは明白だった。
 別の貴婦人がおずおずと話しかけた。
「あの、大公妃さまがお呼びでいらっしゃいますわ」
 年配の気の弱そうな婦人で、セイラは彼女にも見覚えがあった。先代王エリオスは、たしかこの女性にも一時期言い寄ったことがあった。
「大公妃さまですって?何のことかしら?」
「マリア奥さまが」
 ほほほ、とレディは高笑いを響かせた。
「いらしたわね、そんな名前の方。ご存知?あの方、昔の恋人と切れていなかったそうよ?」
 サロンじゅうの女たちの間からため息とも歓声ともつかぬ声が湧き上がった。貴婦人もメイドも、老いも若きも、全身を耳にしてこの告発を聴いていた。
 マリアは唇を震わせた。
「私に何かご意見があるのでしたら、はっきりとおっしゃってください」
「あのね、あなた、悪い事は言いませんからお聞きになって」
 まったく別の所にいた女性が声をひそめてマリアにささやいた。
「不道徳なことをしたのなら、まず態度を改めてはいかが?開き直っていては、お話になりませんわよ?」
「何も恥じるべきことはしていません」
 辛抱強くマリアは答えた。
 レディ・ゴートンは、絶対にマリアに話しかけないと決心しているかのようだった。
「でも、ヘンリー様がそうおっしゃったのだそうよ?」
 あくまで内々の会話を装ってあげつらう。この陰湿にはアデルさまも昔さんざん苦労なさった、とセイラは思い出して歯ぎしりしたい気分だった。
「“もしかするとマリアはお前の方を好きだったのかも知れないけど”だそうな」
 扇の陰から、彼女たちは青ざめたマリアを見下していた。
 あなた方はそうしたかったのね、とセイラは思った。マリア奥さまを見下して堂々と咎めても大丈夫だというチャンスを狙っていたのね。
 ラインハットの宮廷は、昔も今も鬼と蛇の住処だった。
「ルークさまのことでしたら、私とおつきあいしたような事実はありません」
 毅然としてマリアは抵抗した。
 ほほほ、と高笑いが抵抗を突き崩した。
「あら、お名前が出てきたわ。お心当たりがあるのねえ!」
「やっぱりそうでしたの」
「修道女でいらした時から?まああ!」
「いやだ、耳が穢れますわ」
 この女たちは、デール王やヘンリー卿のいるところでは、こんなことは言わないとセイラは知っている。マリアが孤立無援という状況なら、こうしてチクチクと責め立てる。口ぶりは上品そうだが、自分たちがどれほど醜い顔をしているか彼女たちはわかっているだろうか。
 セイラはあたりを見回した。中心になってマリアを貶めているのは三、四人だった。にやにやと眺めているのは、あの忠告を装った決めつけ女を含めて二人ほど。先ほどのおとなしそうな夫人は気の毒そうにしていたが、助けに入ることもしなかった。大部分の女性たちは突然の告発を信じていいかどうかとまどっているように見えた。
 先ほどマリアが抑えた秘書の女官が険しい顔でマリアに小声で話しかけた。追い出していいか、と尋ねているようだったが、マリアは首を横に振った。
――がまんできません。ならば、わたくしが!
とセイラが息を吸い込んだ時、ばしん、と大きな音がした。婦人持ちの扇をたたんで柱を殴りつけた音だった。
「おだまり」
アデル太后が、女たちをにらみつけていた。
「ここをどこと心得おる。出て行きや」
 一瞬、女たちは静まり返った。だが、相手がアデルとわかると虐めのターゲットを増やすことにしたようだった。
「何か聞こえまして?」
 尊大なレディが、またレースの扇をひらひら舞わせた。
「負け犬の」
 遠吠えかしら、と答えようとしたらしい。その瞬間、白い手袋でおおった手で、アデルはレディ・ゴートンに平手打ちをかました。
「な、なんてことを」
 アデルはじり、と詰め寄った。
「まだこのような口さがないマネをしやるかえ?そうじゃ、わらわが入内したときも、よう言ってくれたのう。“どこの馬の骨”、“いかがわしい手でのしあがった”、そうほざいた顔、忘れておらぬぞ!」
 火の玉のような上昇志向と傲慢すれすれの気の強さで鬼の住処を切り開き、アデルは一度、ラインハットの女王の座へ登りつめた。
「おさがり。下がりゃ!わらわは今もこの国の国母じゃ。誰に口をきいておる!」
 にらみつける眼力は誰よりも強い。
 視線を正面に据えたまま、アデルは声を張った。
「誰かある!この不埒な女どもをたたきだしゃ!」
 驚いた警備兵たちが部屋の中をのぞきこんだ。
「まあ、太后さま……」
 先ほどの忠告女は、とっさにおもねりに切り替えた。
「私たちはね、ただ、この宮廷にふさわしいのは不道徳な女よりアデルさまのような方と思っていましたのよ?」
そう言ってにじり寄ろうとした。
「カン違いしやるな」
 アデルはぴしゃりと言った。
「よいか、ヘンリー殿はわらわを母とも思うと言うてくれた。ならばこれなるマリア殿は、わらわの娘ではないか」
女たちがそろって顔をこわばらせた。アデルが詰め寄った。
「ようもようも、わらわの娘を苛めたな?どうしてくれようかっ」
――この方は、お変わりになった。
 泣きたいような、笑いたいような心地で、セイラはそう考えた。わがままに近いほど気性が激しく、ヒステリックにわめきたてる。だがその激しさを、弱い者を守るために使うようになられた。
「ええ、どれもこれも浅ましい顔を並べおって。不愉快じゃ。とっとと去ね!聞こえぬか、出ておいきーっ」
 怒声を浴びて貴婦人たちは真っ赤な顔で逃げ出した。お付きの侍女たちがあわてて追いかけていった。遠巻きにしていた貴婦人たちも、いたたまれないようすでこそこそ退出した。お茶会の部屋は、静かになった。
 うっ、ぐっと、誰かが嗚咽の声をあげた。
 幼い少女のように、マリアが泣いていた。
「あのような手合い、取りあってはなりませぬ」
とアデルは厳しく言った。
「コリンズ殿が次の王となられた時は、マリア殿が国母の君じゃ。悪いうわさをいちいち気にしていては足を取られますぞ。よろしいか」
と言ってアデルはふりかえった。
 マリアは両手を握りしめ、涙を流していた。
「あっ……が……」
 たぶんありがとうございますと言いたいのだろうとセイラは察した。
「ありがっ……、お……かあさま」
 セイラは手で口元をおおった。女子を産まなかったアデルと、母親なしで成長したマリアの軌道が、不思議な場所で交わろうとしていた。
「ありがとう、ございます、……かあさま」
 アデルは硬直していた。先ほど荒れ狂った迫力はどこへいったものか、アデルの頬が赤くなった。とまどった顔でセイラを見、助けを求めるようにマリアの秘書を見、どうしていいかわからないようすで立ち尽くした。
 えっ、うくっとマリアが泣きじゃくる。
 困り切った顔でアデルはつぶやいた。
「な、泣くでない」
 おそるおそる、アデルが近寄った。咳払いをした。
「これ、泣き止んでたもれ。まるで、わらわが泣かせているようではないか……のう、マリア殿、そのように泣いては……こまるゆえ、のう……」
そして、まるで壊れものにふれるかのように義理の娘を抱え、そっと髪を撫でた。