オウム返しの使い魔 15.ぼくらの帰る場所

 アイルに向かってコリンズは、がくがくしている顔を向けた。
「やばいぜ。まじやばい」
「え、何なの?」
 カイも心配そうな顔になった。
「『あなた』って呼ぶのはたぶん母上だ」
「そりゃそうだよね」
「あのバケモン、ラインハット城で母上を見てたんだ。母上のそばにひそんで、何を話すかを聞いてたんだ」
 コリンズは小声で訴えた。
「その間に母上は、たぶん父上を本名で呼んでる」
 なにせひと月もエビルスピリッツはラインハットに隠れ潜んでいたのだから。
 双子は声も出ないようすだった。
 コリンズはもういちど手で口に蓋をして勝負のようすを見守った。
 ヘンリーと目が合った。独特の表情をしていた。
「やばい……」
 ヘンリーも、気付いているようだった。
 それまでの嘲笑をひそめ、静かにヘンリーはエビルスピリッツに答えた。
「俺の名は『あなた』じゃない」
 ヒッヒッヒ、とエビルスピリッツは笑った。
「ワカッタゾ・オマエノ・名」
 まった、とヘンリーがエビルスピリッツを制した。
「順番は守ってもらおうか」
 コリンズは奥歯を噛みしめた。ヘンリーの番が来る。このチャンスにエビルスピリッツの名を当てられれば、ヘンリーの勝ち、そうでなければ……
――父上!
 エビルスピリッツは、いかにもじれったそうだった。
「ナラバ・早ク・言エ!」
「おまえの名は『アベル』か?」
「ヒィヒヒヒヒィ~」
 エビルスピリッツは心地よげに笑い声を引き延ばした。
「違ウ、チガウゾ!」
 邪悪な顔が一斉に牙を剥き、嘲笑した。
「オマエノ・名前は『へんりー』ダナ?」
 その瞬間、ラーの鏡は白い光を噴き出した。グランバニア城一階の大通りは悲鳴に満ちた。
 ちっとヘンリーが舌打ちするのを、コリンズは呆然と見ていた。
「コレハ・私ノ・モノダ!」
 ラーの鏡の横にあるメダルに向かって、ガス状の身体が突進した。ルークもヘンリーも手を出せないようすだった。
「持っていけ」
とヘンリーが言った。
「サア・まーさヲ」
「まだだ」
 それは、妙に滑稽な眺めだった。紫色のガスの中に歪んだ顔がいくつも浮かんでいるのだが、すべて驚きのあまりぽかんと口を開けている。顔の群れの真ん中に白いメダルがぶらぶらしていた。
「こっちの勝負は終わってないぞ」
と、ヘンリーは言った。
「ナゼ命令ヲ聞カナイ?まりなんノ許シトますたーどらごんノ言霊ニ、オ前ハドウヤッテ抗ッテイルノダ?!」
「お前が持ってるメダルには、言霊なんかないからさ。そいつは陶製で、サラボナのアンディ氏の作品だ」
 エビルスピリッツの中の顔は、露骨な憎悪の表情になった。
「ダマシタナ?!」
 ヘンリーは、コリンズのよく知っている笑顔になった。
「俺は“このメダルをやる”と言っただけだぜ?」
 どよめきが湧き上がり、ついで満場の笑い声になった。コリンズは腹を抱えて笑いながら、ヘンリーが不利な勝負を受けた理由を悟った。
「やったぜ、父上、でも、ずるいや……」
 ヘンリーは旅人の服の襟元から改めて革ひもを引きだした。その先には、白く輝くメダルがあった。
「さあ、俺の勝負だ。他の候補は全部除外した。だから、もう、これしかない」
 エビルスピリッツは、すべての顔のすべての口を大きく開き、大声でわめこうとした。その怒号を遮って、ヘンリーの声が響いた。
「ミニーミニーノット、お前の名は『トンヌラ』だ!」
 そしてすべてが同時に起こった。
 ラーの鏡から、さきほどの光を上回る真っ白な光の波が湧き上がり、グランバニア城一階に津波のように襲い掛かった。
 名前当ての間息を殺していた群衆は悲鳴を上げて散った。
 エビルスピリッツはぐるんと身を翻し、逃げようとした。
 ルークが杖を突きだして逃走を防いだ。
 ヘンリーがどんと音を立てて壺を床に置き、明瞭に命じた。
「魂を吐き出して封印を受けろ、トンヌラ!」
 真っ白な光の中に紫のガスの塊が吸い込まれていく。たくさんの濁った声が耳を聾する悲鳴をあげた。
 光がうすれ、怒号と悲鳴が鎮まったときには、壺が床の上で細かく震えているだけだった。
 からん、と音がした。偽物のマリナンメダルが、何もない空中から降ってきて、石畳に当たった音だった。

 ラインハット城は、グランバニアと同じくあちこちで城壁が崩れていた。城内も厨房も、あの災厄の日に人々が逃げ出したときのままになっている。あれからかなりの時間がたっていた。城は危険地帯として入り口に板を巡らせ、釘で打ち付け、中庭では雑草が伸びるままになっていた。
 ルークとヘンリーがルーラでラインハット城へ飛んだとき、城の入り口はまだ魂を抜かれた人々が折り重なっている状態だった。ふたりは魔法のじゅうたんを使って城内へ入り、急ぎ足で北側一階の書庫へ向かっていた。
「デール、待ってろ!」
 壊れた木の扉を飛びこえ、階段を駆け下り、ヘンリーは地下にある旅の扉へ向かった。
 部屋の四隅には飾り彫りのある柱が立っている。デールはそのうちの一本に背中をもたれるようにして座り込んでいた。
「デール、戻ってこい。デール!」
 異母兄の呼びかけが聞こえたのか、蒼白な顔色にゆっくり血の気が戻り始めた。
「まだ体温が低い」
 もどかしげにヘンリーがつぶやいた。
「ちょっと代わって」
 ルークは、デールの前に座り、片手をデールの胸にあてた。
「ベホマ」
 高位回復魔法の光がデールを覆った。デールが身じろぎし、目を開けようとした。
「あにうえ」
 その一瞬のヘンリーの表情を、ルークは忘れないだろうと思った。いつも可能な限りクールな取り澄ました顔をしているこの相棒が、いきなりくしゃっと泣き笑いに顔をゆがめたのだから。
 ルークとヘンリーは、左右からデールの肩を支え、そっと起こした。何度かヘンな咳払いをしたあげく、ヘンリーはまだ衰弱しているデールの耳に、抑揚もなしにささやいた。
「ラインハットのヘンリー、君命をまっとうし、ただいま帰朝」
 デールはかすかに目を開き、微笑んだ。
「ずっと見ていました。ありがとうございます、兄上」
 ヘンリーは、異母弟の背をそっとたたいた。
 さあ、とルークは言った。
「デール様、少し栄養を取ったほうがいいです。上に上がりましょう」
 三人は動き出した。
「ルーク様にもお手数をおかけしました」
 ルークは笑顔を向けた。
「あの、魂は保たれている、って天空城で聞きましたが、ぼくたちのしていることが見えたんですか?」
「はい、断片的に。あの、結局エビルスピリッツはあれからどうなったのですか?」

 ルークは天空城の玉座の間にルドルフの造った封魔の壺を置いた。壺の口はロウ引きをほどこした紙をかぶせ、紐をかけてあった。
「これがエビルスピリッツことトンヌラです」
 巨大な玉座の上からマスタードラゴンは壺を見下ろした。長い首を伸ばし、鼻先で壺をつつくようにして確かめた。
「ふむ。大人しいものだな」
 ルークは咳払いをした。
「ひとつうかがいたいことがあるのですが」
 マスタードラゴンは、金の鱗をきらめかせて首を巡らせた。
「それほどヒマな身ではないが、とりあえず言ってみるがいい」
 ルークは相手の目を見た。
「あなたはぼくとヘンリーにこのメダルをくれた」
 ヘンリーから預かったマリナンの許しをルークは眼前に掲げた。
「あの時あなたは、どこまで予見していたのです?あの名前当ての一部始終を知っていたのなら、先日尋ねたとき、エビルスピリッツの真の名をぼくたちに教えればよかったですよね、マリナンのメダルではなく」
 マスタードラゴンは目をそらせた。
「……無理を言うでない」
 ぽつりともらした言葉は、すべてを見守る者としてのせいいっぱいなのだろうとルークは思った。
「いくつもの偶然が重なって、使い魔は時の選択肢のなかから突然この世界に現れた。それによって、本当はなかったはずの技法書がこの世にあらわれ、たまたまラインハットのエリオスがその技法書を読んだ。本来野生化して知性も失われたはずのエビルスピリッツが、強くマーサを欲し、奇跡的に生き延びた」
 マスタードラゴンは奇妙な口ぶりで、打ち明けた。
「信じなくともよいが、あの使い魔の真名は、いくつもの可能性が重なり合った状態で存在していたのだ」
「可能性の重なり、とは?」
 むむ、とマスタードラゴンは口ごもった。
「うまく説明できぬな。ラインハットのヘンリーが最後の答えを出したまさにその瞬間に、あの使い魔の真名は決定した。それによって、過去が一斉に塗り替わった」
「よくわかりませんが」
 そう前置きしてルークは、言葉の矢を放った。
「それはけして正常な状態とは言えないはずです。今回のことは、あなたのミスだったのでは?」
 だん、とマスタードラゴンは前足を床にたたきつけた。
「数多の罪なき命を救うためにいくつかの操作を行った。偶然が重なって、この使い魔がこちらの世界へやってきた」
 ルークは見つめ続けた。マスタードラゴンはうつむいた。
「何兆という世界のすべてを、完全に幸福なままに保つことなど不可能だ」
 玉座の間に沈黙が漂った。
 しばらくしてルークは言った。
「では、そういうことにしておきましょう」
 ルークはその場に本物のマリナンメダルを置き、エビルスピリッツの壺を抱え上げた。
「この子ですが、どうするつもりですか?」
 ふしゅ、とマスタードラゴンが鼻息をふいた。
「おまえはどうだ。どのようにしたい?」
「この子は母の使い魔でした。母がもういないことを、この子が理解できるかどうかわかりません。でもできるだけ“マーサのそば”にいさせてやりたいのです」
「というと?」
「ジャハンナへ連れていきます。あれはマーサが造った町、今もマーサの影響下にある結界でもあります。この子は人間になれるかもしれません」
「一度邪悪に染まった魂が更生するというのか?」
「ジャハンナには、そうして生まれ変わった魔物がたくさんいますから」
 マスタードラゴンは気に入らないようすでしばらく黙っていた。
「それでいいですよね?」
 さきほどの譲歩の対価なのか、マスタードラゴンはしぶしぶうなずいた。
「ルークよ、おまえがそこまで言うのなら、それでよかろう。しかし、この使い魔はいつか自分のしたことを理解し、反省する必要があるぞ」
「ぼくが言い聞かせます」
 マスタードラゴンはぼそっとつぶやいた。
「好きにするがいい」
「ありがとうございます。そうさせていただきます」
 わざと丁寧にそう言って、ルークは壺を抱えたまま踵を返した。玉座の間を出るかというときに、マスタードラゴンが呼んだ。
「グランバニアのルーク」
「まだご用がありますか?」
 足だけ止めてそう尋ねた。
「……大儀だった」
 ルークは顔を巡らせて、続きを待った。
「今回尽力した者たちにも、そう伝えてくれ」
 ルークは、やっと緊張を解いた。
「ええ、そうします。では失礼」
 槍を片手にドラゴンガードたちが通路の左右に居並んで、いっせいに敬礼した。その中をルークは意気揚々と歩き出した。

 書庫への階段を一段ずつ登りながら、ヘンリーが言った。
「あいつ、たぶんまだガキなんだ。しかも、性質の悪いガキだ」
「生き物から魂を取り上げてしまうこと?」
とルークは言った。
「いや、声真似をしながら他人のセリフを捻じ曲げて発信したことだ。それで騒ぎを起こして、その騒動を楽しんでたんだ、あいつは」
「マリアはずいぶん辛い目にあったよね。それにサンチョ。そういう意味では、ぼくも声真似されたみたい」
「それ、ある意味偶然なんじゃないか?ラインハットとグランバニアであいつはいろんな声真似を披露して、その中で一番手応えがよかったものを繰り返し言いふらしたんだ」
「人が困るのを見て喜ぶというのは、たしかに悪童ですね」
とデールがつぶやいた。
「御意の通り」
と、かつてのいたずら王子はつぶやいた。
「エビルスピリッツに必要なのは、成長することだろうな」
 ふと思いついてルークは言った。
「ね、ひとつ聞いていいかい?」
「何だ?」
「あの使い魔なんだけど、本名はトンヌラだよね」
「そうだろ?」
「サンチョとシスターさんによれば、ぼく、もしかしたら、トンヌラって名前になったかもしれないんだって」
「パパスさんの名前候補リストの、よっぽど上の方にあったんだなあ、“トンヌラ”は」
「もしぼくがトンヌラだったら、母にとっては、使い魔と息子が同名ってことになるよね」
 ヘンリーは、デールを脇から支えた状態で器用に肩をすくめた。
「でも、パパスさんは、トンヌラがもう使い魔の名前になってるなんて知らなかった。真名は秘密なんだから。知ってたのは、お前の母上のほうだ。だから母上はルキウスって名前を推したんだろ、トンヌラじゃなくて」
 あー、とルークはつぶやいた。
「そう考えるとつじつま合うね」
 階段を上がるにつれて、さきほどは聞こえなかった音が耳に入ってきた。すべて人の声だった。
「よかった……いっときは、この世の終わりかと覚悟したぜ」
「あたしだって、あんたが固まってるのを見た時は、もう」
「お母ちゃん!」
「ああ、腹減った」
「またこの世に帰れるなんてなあ」
「隊長、ご無事ですか!」
 ルークとラインハット兄弟は、誰からともなく笑顔になった。どうやらエビルスピリッツが吐き出した魂が無事に元の持ち主のところへ戻っていったらしい。
 よみがえった人々が家族や友だちと涙、笑顔、また涙という再会をやっているようで、あちらこちらで大騒ぎだった。
 三人でゆっくり城内を進んだ。
「王さまと宰相さまだ!」
 よみがえった人々が、ルークたちに気付いた。
「よかった、御無事で」
「ラインハット万歳!」
 ヘンリーは片手を上げた。よく通る声で彼はまわりに宣言した。
「見ての通りだ。王は健在!災厄は去った!」
 あの災厄の日に王の護衛についていた兵士たちが気付いてこちらにこようとしていた。
「デール、あと少しがんばれるか?」
 小声でヘンリーが聞いた。
「城門まで、出よう。町のみんなに顔を見せてやってくれ」
「それも王の務めですね。わかりました」
 そう言って動き出した。
 ルークは、デールからそっと離れて声をかけた。
「みなさん、道を開けてください」
 まだ泣き笑いしている人々をかきわけて、ルークが空間を広げる。そこにできた細い道を、兵士たちに守られてラインハット兄弟はゆっくりたどった。
 城の外から、歓声があがった。ずっと息をひそめてきたラインハットの町の人々が、城の変化に気づいたようだった。
 兵士や城仕えの役人、女官や侍女、下働きの人々、出入りの商人や職人、そして廷臣、その陪臣、あらゆる人々が城の正門へつめかけていた。
 王家の兄弟が城門を出て跳ね橋の上に姿を現した。正門の周り、濠のあちらとこちら、跳ね橋の先に広がる城前の広場が、ひと、ひと、ひとで埋まっていた。
 湧き上がる歓声の中、まだヘンリーに支えてもらいながら、デールが自分で国民に声をかけた。
「グランバニアのルキウス様と兄が、もう一度、この国を救い出してくれました」
 やった、やった、ラインハット万歳!波がどよもすような声がわきあがり、あとから万雷の拍手が注がれた。
「みんな、待っていてくれてありがとう。さあ、立て直しましょう、城と、国と、私たちの暮らしを」
 それまで人々はエビルスピリッツを恐れて声をひそめ、身をちぢめるようにして毎日を送ってきた。辛い日々が終わり、日常が戻ってくると言う安心感を、誰もが感じていた。
 ふら、とデールの身体が揺れた。そろそろ限界のようだった。ヘンリーが小声で、国王付きの女官たちを呼んだ。
「デールを頼む」
 もう一度人々に手を振って、デールは城へ引き取ろうとした。
 そのとき、視界の隅で何かが動いた。何気なくふりむいたルークは、それが旅行用の馬車だとわかった。それも、たぶんラインハットの町の入り口から城前の広場まですごい勢いですっとばしてきた馬車だった。
 御者が最大限に技術を発揮して、馬車は急停止した。普通なら御者かその助手が扉の前に踏み台を置くのだが、乗客はよほど急いでいるらしく、台を待たずにいきなり扉を開けた。
 観音開きの扉が馬車本体にぶちあたってバシンと音を立てた。
「おいおい、今度はなんだ?」
 広場に集まっていた人々は驚いてそちらを見た。
 乗客が、石畳へ飛び下りた。長いスカートが翻る。それは女性だった。たおやかな姿、華奢な体格のひとだが、着地の瞬間、何の飾りもない簡素なドレスの膝の辺りを両手でつまみ、靴を踏み鳴らして走りだした。
「ヘンリー、あれは」
 ルークより早く、ヘンリーはその名を叫んだ。
「マリア!」
 周りの人々も、その女性の正体を悟ったようだった。
「マリア奥さまだ」
「ああ、修道院からお帰りか」
 ラインハットが解放されたと聞いて、海辺の修道院から馬車でラインハットを目指したらしい。見ると、その馬車からセイラの助けを借りてアデル太后がゆっくり出て来たところだった。
 マリアは城前の石畳の広場を飛ぶように走ってきた。マリアの行く手から人々が左右に分かれ、道を造った。
 ヘンリーはまわりにいる役人や兵士たちをかきわけて前へ出ようとした。
 自分の方が動ける、そう判断したルークが少し前に出て、通り道を造ろうとした。
「すいません、ちょっと道を開けてください」
 ルークたちがいるのは、濠にかかる跳ね橋の上だった。
「あ~、ヘンリー様」
 間の悪いことに、秘書のネビルが出て来た。
「どこ行ってたんですか?私たちを城に残して一人でふらふら」
「後にしてくれ!そこをどけ!」
 焦ったヘンリーが叫んだ。
「そんなあ、言いたいことがたっくさん」
 しつこいネビルを回避しようとヘンリーはあがき、腕を伸ばした。
 マリアが猛然と駆け上がった。
 ルークは杖と手でいっしょうけんめい人の波を抑えていた。
 抑えてできた細い道を、マリアが通過した。
 ルークの背に目もくれず。
 まっすぐにヘンリーだけを見つめ。
 マリアは夫の腕に飛びこんだ。
 誰かに奪われることを恐れるかのように、ヘンリーは伸ばした両腕に急いで妻を捕らえ、全身で抱え込んだ。
 ずっとはなればなれだった夫妻は、物も言わずに互いを抱きしめた。
「見たか、今の」
 ルークの耳に周りの人々の声が聞こえて来た。
「マリア奥さま、素通りしたぞ」
「グランバニアの王様を華麗にスルーか」
「あのうわさの人だろ?」
 やっとお互いを取り戻した夫婦を、ラインハットの町中の人々が、遠巻きにし、興味津々と眺め、口々に言い始めた。
「こりゃ、浮気の線はねえな」
「なんだ、やっぱりガセか」
「俺は最初っからそう思ってたよ」
「ほんとかよ!?」
「だって、マリア奥さまだぜ?」
 よかったね、と思い、ルークは微笑んだ。マリアを取り巻く冷ややかさは、たぶんこれから消えていくだろうとルークは思った。
 ルークの横でネビルが動いていた。
「待った、今はダメだよ」
 ルークはあっさりとネビルを羽交い絞めにした。
「こっちのセリフですよ!」
 壊滅的に空気を読まないネビルが手を振りまわした。
「大丈夫、ヘンリーは逃げないから」
 ネビルは首を回してルークを見上げた。
「本当ですかぁ?あなたがまた、ヘンリー様をどっかに連れてっちゃうんじゃないんですか?」
 思わずルークは笑った。
「よく見てごらんよ」
 まわりの喧噪をすべて無視して、ヘンリーとマリア夫妻は互いの顔をこすりつけて相手の体温を感じる喜びを満喫していた。
「当分ヘンリーは、どっかに飛んでったりしないと思う」
――旅は、いいな。おまえといっしょの思い出をたくさん作れるからな。
 今回の旅の間にヘンリーがそう言ったことがあった。
「旅は確かにいいものだけど、旅はね、帰る場所があるから、旅なんだよ」
とルークは言った。