魔界豆腐

 一頭の白馬が引く大きめの馬車が荒野を横断していった。魔界の空に太陽はない。天の竜から見捨てられたこの大地は、常に暗雲たれこめる中に稲妻が走る不穏なところだった。
 黒雲の中から何か飛び出した。二頭のライバーンロードだった。鮮やかな飛翔を見せた後、やがて鉤爪を大地に突き立てて翼竜が降り立った。先頭の竜に騎乗しているのは長い銀髪の美貌の魔王だった。
「ピサロ!」
グランバニア王ルークの一家は、旧知の魔王を出迎えた。ルーク一家が魔界へ入った時からピサロとは顔なじみだった。この魔界の中心部に王国を持つ魔族の王。言い方は不愛想で態度はそっけないが、ある意味ピサロはルーク一家と親しかった。
「こんなところで何をしている」
翼竜の鞍から勢いよく飛び下りてピサロは尋ねた。
「実は迷っていたところです。先へ進みたいのに食糧が尽きそうで」
「ねえねえピサロ、何か食べるもの持ってない?」
ピサロのマントを引っ張って期待に満ちた顔で勇者アイルが尋ねた。アイルの妹、カイも声を上げた。
「お腹すいちゃったの!」
恐れを知らない双子は堂々と魔王にねだった。ピサロは軽くため息をつき、背後を見返った。もう一頭の翼竜に乗って付き従ってきた甲冑姿の騎士が、鞍かばんの中を何か探しているところだった。
「何かあるか、ピサロナイト」
「固めに焼いたビスケットとベーコンくらいですが、この量では」
尋ねるように視線を送るとルークがぺこりと頭を下げた。
「ありがたくいただきます。一日分でも先へ進みたいのです」
 ピサロナイトは、鎧の隠しから巾着を取り出した。
「よかったらこれを……水はまだありますか?」
 野宿になれた一家がてきぱき準備した結果、まもなくたき火の上にかけた鍋の中でスープがぐつぐつ煮えてきた。ピサロナイトはその中に巾着の中身をちぎって入れた。
「食べてみてください」
一家はおそるおそる口へ運んだ。
「……肉?」
かみしめるとスープの味が口の中に広がる。食感は鶏肉のような感じがした。
「いえ、豆の加工品です」
ビアンカがつぶやいた。
「信じられない。美味しいわ。これ、何ですか?」
ピサロナイトは布包みの中を見せた。
「これはグリュキネ・マクスという豆の搾り汁を加工したものをさらに凍らせて水分を抜いた保存食です。軽くて一度に大量に運ぶことが可能で、お湯があれば簡単に復元できる。しかも腹持ちがよくて、美味い」
「これはピサロナイトが地上にある生まれ故郷から持ち帰ってきたものだ。が、なかなか重宝ではある」
「魔界の特産じゃないんですか」
「もとは地上のものですが、魔界にも亜種が自生しています」
ナイトは巾着の底から豆を取り出して見せた。
「私はこれを栽培しています。地上産のグリュキネよりもやや手間がかかりますが、どんな痩せた土でもできますしなかなか味はいいのです」
ねえ、とビアンカが言った。
「少し分けていただけないかしら。うまく行ったら探索の強い味方ができそうだから、育ててみたいの。失礼ながらお礼もさしあげるわ」
ナイトはビアンカの手に豆を載せた。
「このようなことで御礼などいただくわけにはまいりません。どうぞ」
 好奇心いっぱいの双子が豆をのぞきこんだ。
「ねえ!どうすればこれ、育つの?!」
「水をやっていれば育ちます。魔界の大豆は根性がありますからね」
「ダイズ?」
「私の生まれたあたりでは、グリュキネ・マクスをそう呼びます」
ピサロナイトは一度咳払いをして滔々と語り始めた。
「大豆を育てるにはまず、水はけの良い土に直に種子、つまりその豆を播きますが、成人男性の掌の半分ほどの距離を開けて一か所に2~4粒の豆を置き、その上に小指の第一関節がもぐるほどの厚みでしっかりと土をかぶせます。その土に毎日水を与えておくと数日後に発芽を見ることができます。大豆の芽は鳥や虫系モンスターが餌として狙うのできちんと守ってやってください。発芽からしばらくするとその上に本葉が二枚でてきます。そうなったら、一か所に播いた種子の芽のうち良いものを一本選びあとは間引きします。間引きは嫌がられますがこれも丈夫で上質な大豆を収穫するための大事なプロセスなので必ず間引きをしてください。このころになると追肥が要りますがあくまでも葉の色や全体のようすをみて節度ある追肥をしましょう。肥料の与えすぎなどの甘やかしは美味しい大豆の敵です」
このへんになるとルークとアイルは話についていけずにくらくらしていたし、ピサロでさえ饒舌に語るナイトを唖然として見守っていたが、ビアンカとカイは熱心に聞いていた。
「やがて大豆は小さな花をたくさんつけます。花の後に莢ができ、その中で豆が育ちます。豆が太って莢の外からはっきりわかるようになったらいよいよ収穫です。収穫はひと仕事ですができるだけ手早くやりましょう。大豆の甘みを生かすには、収穫の傍らで大鍋にいっぱいの湯を沸かして採ったそばから鍋へ突っ込むくらいでちょうどいいです」
「茹でたお豆になるのね?」
「大豆は完熟すると黄色っぽくなりますが、未熟なうちは美しい緑色です。この状態で収穫して茹でると、塩を振るだけで美味しく食べられますよ。くにでは“枝豆”と呼んでいました」
ビアンカとカイ母娘は笑顔を交わした。
「楽しみね!」
「よく熟した大豆は蒸してから発酵させることでみそ、しょうゆ、納豆をつくることができます。熟した豆をつぶして豆乳を絞ってもいい。さらに豆乳にニガリをまぜて豆腐という食品を得られますが、この豆腐がまた油揚げ、厚揚げ、凍み豆腐など加工のバリエーションが豊かです。さきほどスープに入れたのはこの凍み豆腐で、保存に便利なのです。さらにもやし、大豆油、おから、黄な粉、湯葉……」
 ピサロは片手を額に当てた。
「そのくらいにしておけ」
ナイトは我に返った。
「申し訳ありません、つい」
半分眠りかけていたルークもはっとした。
「あ、とにかくありがとうございます。ぼくたち、何とか育ててみます、ね、ビアンカ?」
「まかして?楽しそうだわ」
ナイトは丁寧に一礼した。
「ご成功をお祈りしています。たぶん、みなさんなら大丈夫でしょう。勇者様もおいでのことですし」
「え、ぼく?」
不思議そうな顔でアイルが聞き返した。

 そのあとから起こった出来事に比べてみれば、ごくささやかな事件からすべては始まった。
 ビアンカは魔界の土を素焼きの長方形プランターに入れ、ピサロナイトに聞いた通り豆を播いてそれを馬車の最後尾の日の当たるところへ置いておいた。
 ある日、何の気なしにルークがプランターをのぞきこみ、種をまいたところが少しふくらんでいるのに気づいた。
「もうすぐ芽が出るのかな」
カイがめざとく見つけ、のぞきこんできた。
「早く出ておいで~」
ルークは指でふくらんだ土のあたりをなぞった。その時、鋭い痛みを感じてルークは指をひっこめた。
「つっ!」
「お父さん?指から血が出てる!」
針で突いたような穴ができてそこから出血していた。カイとルークは思わずプランターを眺めた。
 盛り上がった土の下で、何かがきら、と光った。土の小さな塊がぼろっと落ちた。土くれをおしのけて出てきたのは、明らかに双葉だった。その葉と葉の間に、銀色の牙が確かに煌めいていた。
「なんだ、これ……」
もう片方の指で血を抑えてルークはつぶやいた。双葉は震えていた。怖いと言うよりも、武者震いに近い。
「何か探してる」
カイが青ざめた顔をルークの指に向けた。ルークは無言でうなずき、双葉の真上で傷を抑えていた指を放した。新しい鮮血がにじみ出た。
 匂いを感じているのか、双葉は伸び上がった。真上へ葉を伸ばし、明らかに血を欲しがっていた。
「魔界の大豆って、こういうことなのか」
 こうしてルーク一家と魔界大豆の戦いが始まった。

 汲み置きの水を真鍮のカップに入れてカイは魔界大豆の上にささげた。
「準備はいい?」
とアイルが尋ね、無言でカイがうなずいた。
 アイルは、天空の剣を抜き放った。魔界の空の不穏な光を刀身がきらりとはじき返す。少年勇者は両手でしっかりと剣を握り、切っ先をプランターへ向けた。
 それを確認してカイは一滴の水を土の上に垂らした。ぴくんと土の下で何かが動いた。
「おとなしくしろ」
低い声でアイルがささやいた。
「ゆっくり出てこい。妙な真似をしたら、この剣でぶっ刺す」
湿った土の表面が割れた。極小の地割れの間から薄い緑色のものが見えた。それは震え、かすかに伸び、土を払い落とした。
「よし。そのままゆっくり伸びろ。言っとくが妹はおまえが噛みつくよりも早く魔法を使えるからな?」
魔界大豆の芽は、そっとあちこちをうかがった。やがてあきらめたのかぐっと体を伸ばし、緑のちっぽけな葉をそろそろと広げた。
 ふーっとアイルは息をして、ゆっくり剣を引いた。
「ほら、ごほうびの水よ」
カイは金属のカップを傾けて水を与えた。
「これで芽は全部出たわね」
ビアンカが双子に微笑みかけた。
「うん、慣れてきた!今度は誰もケガしなかったよ」
大豆栽培が始まってからしばらくたっていた。プランターでは、四か所から次々に発芽していた。
「やっぱり発芽前って気が立ってるんじゃないかな」
にこにこ笑ってルークがそう言った。
「魔界大豆はとりわけやんちゃみたいだし」
やんちゃってレベルなのか?という疑問を双子は互いの視線で確認してからアイルは言ってみた。
「でも、モンスターの子たちには危ないよね」
 スライムのスラリンが先日うっかりプランターに近づいた時、いきなり芽がツルを伸ばし、スラリンは捕食されかけた。あわててぴききっと叫ぶスラリンをルークが見つけ、手をひっかかれながらスラリンを魔界大豆から引きはがした。
「ブリードは互角だったわよ」
と、ビアンカが言った。
 ホークブリザードのブリードは、羽がある分有利だった。魔界大豆の芽を食べようとしたらしく上空からプランターに近寄ったのだ。
「緊張感が半端ないのよ。どっちも虎視眈々と隙を狙ってるんだもの。輝く息対ツルの鞭よ?遠くで見てたらぴりぴりして空気の色まで変わってたわ」
「ピサロナイトが、鳥型モンスターは大豆の芽を食べようとするから守れって言ってたけど、あれモンスターを守れってことだよね」
あくまでのんびりとルークが応じた。
「あの人魔界産の大豆は根性があるとも言ってたね。輝く息でも大丈夫なんてすごいよね」
「お父さん、感心するとこ、そこじゃないと思う」
「根性、ありすぎるだろ」
双子は口々にそう言った。が、このころの一家は結局のところ、魔界大豆を甘く見ていたのだった。
 双葉は順調に育ち、やがて本葉をつけ、すくすくと育ってきた。すでに草の高さは子供たちの胸の高さになっていた。
 ビアンカはある日腰に手を当てて宣言した。
「いい?今まではただのやんちゃだった。けど、今度はバケモンが相手よ。みんな、覚悟して」
ルークと双子、そしてモンスターたちはダンジョンへ足を踏み入れるような緊張感を漂わせていた。
「これから、間引きを開始します」
全員がピサロナイトのアドバイスを思い返していた。間引きは嫌がられますが大事なプロセスなので必ず間引きをしてください……。
「嫌がるって、つまり、大豆が嫌がるわけね」
ビアンカが言うと、しみじみルークが応じた。
「だっていっしょに育った兄弟の中で一人しか生き残らないんだから、嫌がるわけさ」
「お父さん、大豆に感情移入しすぎだと思う」
ぶすっとカイが言った。
 さあ!と気を取り直してビアンカが言った。
「みんな、装備は守備力重視でいきましょう。あと、手袋は厚地のをはめて。ひとり一か所で行くわよ」
ルークは振り向いた。
「プックル、たのむ」
キラーパンサーは、プランターから少し離れたところで身構えた。一度前足でちょっかいを出して、鼻面をひどく噛まれたことがあったのだ。とさかのある頭を一度低くし、ぐっと伸びあがった。牙がむきだしになり、咆哮があがった。プックルの技、“おたけび”だった。生まれてから十数日の若い魔界大豆はさすがにすくみあがった。
「みんな、今よ!」
プランターに播いた種は四か所。四人は自分の担当の根元にハサミを寄せ、狙った茎を切り落とした。
「ぎょあああ!」
だみ声の悲鳴があがった。生き残った魔界大豆はツルを伸ばしてルークたちの手から間引かれた兄弟をつかんだ。
「みんな、離れて!」
ルーク一家が見守る中、魔界大豆は本葉の間の口を大きく開き、間引かれた草を食い始めた。
 シャクシャクシャクと言う音が響く間、一家は青ざめた顔で共食いを眺めることしかできなかった。
「見て……」
にょきりと草の高さが伸び、葉の陰にもうひとつ別の口が生まれ、新しい牙がはえていた。

 間引きの後、ビアンカの発案で魔界大豆はプランターから土に植えかえられた。間引きの効果は絶大だった。それまで魔界大豆はプランターの中で直立し、ツルを伸び縮みさせていたのだが、植え替えた後は一段と葉の色つやがよくなり、草の丈も子供たちの身長ほど伸びて、そして、音を立て始めた。言語ではないが、いかにも不満そうな音をたててさえずるのだ。
 カイはぶすっとしていた。
「なんか、ムカつく。言いたいことがあるならはっきり言えって感じ」
肥料を与えると一時的にブツクサという音は停まる。ピサロナイトから肥料過剰はよくないと言われていたのだが、魔界大豆は時にぐったりしたふりまでして肥料をねだった。
 追肥という名の心理戦はしばらく続いた。魔界大豆はめきめきと育ち、成人の身長を越え、ほとんど樹木と呼べるほどの大きさになった。ルークたちは、自分たちが見ていないときに魔界大豆はそこらの不運なモンスターを捕まえて食ったのではないかと疑っていた。
 そしてそのころ、葉の間につぼみをつけ始めた。
 しみじみとビアンカが言った。
「よかったわ、あと少しね」
うん、と子供たちはうなずいた。
「命がけで肥料やったり、仲間モンスターの子がやさぐれて家出しかけたりしたけど、もうちょっとで収穫なんだね!」
ルークは微妙な表情だった。
「収穫もけっこう、大変そうだけどね」
初めて見る魔界大豆の花は、上半分が顔に、下半分がおちょぼ口にそっくりだった。ルーク一家の目の前で四本の豆の木に満開になった花が口を開いてケケケケケと笑い声をあげていた。
「なんかこう、バカにされてる気がする」
「ていうか、下品よ」
魔界大豆の花は時々口笛を吹き、あるいは物欲しそうにちゅぱちゅぱと花びらの唇を鳴らしていた。
「今に見てなさい?」
というビアンカの宣言も、どこ吹く風と彼らは聞き流していた。

 数日後、花はすべて爽となってそのなかにいくつかの豆を持つようになった。毎日その豆が大きくなり、緑の爽は目立ってふくらんできた。
 魔界大豆は巨木と化していたがおとなしかった。もう人を小バカにするような動作もしない。ぶつぶつ言う声もたまに低くつぶやくだけになった。
 ある朝起きてきた双子は、驚きに目を見張った。貴重品である飲料水をたっぷり使ってビアンカが大きな鍋に湯を沸かしていたのだった。
「お母さん、もしかして」
ビアンカは力強くうなずいた。
「完熟はしてないから、この状態で枝豆にするわ」
「あの子たちは図太くなったから、プックルのおたけびはもう効かないんだ。正面からぶつかるしかない」
ラスボス戦並みの装備に身を固めてルーク一家は打ち合わせに入った。
「ビアンカとカイは遠くから魔法をぶつけてみて。アイル、ぼくといっしょに前衛をたのむ。モンスターの子たちは何度か食われかけて怖がっているんだ」
恐ろしいことに魔界大豆敬遠組のなかにはゴーレムやブラックドラゴンまで含まれていた。
「みんな、よく顔を見せて」
ビアンカは戦いに赴く息子と娘を一人ずつ、強く抱きしめた。双子はけなげだった。
「今日で終わりになるなら、あたし、がんばる!」
「勇者は怖がったりしないんだ……大豆相手に!」
ルークはメタルキングの剣を天にかざした。紫のマントが凛々しく翻った。
「行こう、みんな!」
覚悟は完了した。ルークを先頭に一家四人はざくざくと足音を立てて、魔界大豆の林へ歩み寄った。
 おそらく魔界大豆は何か悟ったのだろう。葉のあちこちから口が現れた。それは発芽のときにルークに噛みついたあの歯に違いないのだが、驚くほど成長していた。二重になった牙の列がぐっと開いていく。その喉の奥に邪悪な輝きを放つ双眼があった。四本の魔界大豆はルーク一家をながめ、にやりと笑った。
「なんてこと。殺気だわ、大豆のくせに」
次の瞬間、何ひとつ前触れなしに魔界大豆はつぶてを放った。一家はバラバラに飛び下がって避けた。石つぶてにしては大きすぎる。成人の頭部より一回り大きいそれは完全な球体で鮮やかな緑色をしていた。
「これ、豆なんだわ!」
ビアンカはそう言ったが、その巨大豆が魔界の大地にめりこんだのを見てアイルはぞっとした。
 魔界大豆が身を震わせた。小さめのボートほどもある爽がこちらへ向かって上がり、皮がめくれ上がって豆つぶてを発射した。
「あたしの出番ね!」
たん、と軽やかな音をたててカイが躍り出た。
「霜で枯れちゃえ、マヒャド!」
魔法の雪嵐に巻き込まれ、巨大豆がぼとぼと落ちた。魔界大豆は全身にびっしりと霜を被って白くなった。葉の間の口を大きく開き、耳障りな悲鳴を響かせた。
 ルークとアイルが飛び出した。
「メタルキングの剣の切れ味を教えてやる」
超高価な豆切りナイフが空間を薙ぐ。魔界大豆は霜を振りとばして暴れた。緑のツルが四方八方から鞭のように飛んで来た。
「させないわよ?メラゾーマ!」
炎の紅球が魔界大豆に激突した。その同じところへ天空の剣とメタルキングの剣が襲いかかった。
 立ち上る黒煙のために一瞬視界が途切れた。ふるった剣に手ごたえがないことに気付いてアイルはぞくっとした。と同時に何かが風を切る音を聞いた。
 次の瞬間、右の頬に一筋の痛みが走り抜けた。
「アイル!」
地べたへたたきつけられて初めて、豆のツルにビンタをくらって吹っ飛ばされたのだとアイルは悟った。
 ルークが駆け寄ってきた。伸ばした手の先に回復魔法の輝きがもう生まれていた。父に向けて伸ばそうとした手が何かにぶつかった。
「歩いた!」
カイの声だった。アイルはまばたきした。アイルの手は巨木のように大きくなった大豆の幹にふれていた。指先に血がにじむ。噛み裂かれたのだとわかった。
 顔を上げると超大型人面樹のような大豆が、根っこで地面を泳ぐように移動していた。
「しまった……」
相手は動けないと思い込んでいた。あれほどの大暴れをしてきた魔界大豆が、歩けないなどとどうして考えたのか。牙がきらめく。アイルの手が天空の剣を支え切れなくなった。真上から大きく広げた口が襲ってきた。
 がつん、と音がした。魔界大豆が弾かれた。
「うちの子に何をする」
ルークだった。
 メタルキングの剣ではなく、ルークは彼の最強専用装備、ドラゴンの杖をつきつけていた。
 魔界大豆の全身に震えが走った。
「もう容赦しない。食うか食われるかだ」
その身の内側に黒竜を封じ込めた希代の魔物使いは、瞳の奥に狂気をゆらめかせ、長い指で使いこんだ杖を操り、構えた。
「食らえ!」
ドラゴンの杖が舞う。襲ってきたツルの鞭が引きちぎられ、豆の木の幹に穴が貫通した。

 きれいな緑色の豆に白い塩の結晶がかかってキラキラしている。
「あら、美味しい」
巨大大豆を茹でて塩を振り、ステーキのようにナイフで切り分けてルーク一家は試食していた。
「うん、いいじゃん」
アイルはほっとしていた。ビアンカもルークもにこにこしている。一家は安堵と達成感に満ちていた。
 一家がいるのは荒野の真ん中だった。そこで育てていた魔界大豆の樹は焼け焦げた切り株と化していた。周囲には足の踏み場もないほど巨大大豆が転がり、あるいは地面にめりこんでいる。
 先ほどの“収穫祭”はそうとう派手だったらしく、おそれをなしたのかフィールドモンスターはまったく近寄ってこなかった。
「枝豆は堪能したわ。あとの豆はどうしようかしら」
やっと主婦の顔にもどったビアンカがつぶやいた。枝豆の切り身をほおばっていたルークが言った。
「豆腐は?ほら、ピサロナイトが教えてくれた」

 ピサロナイトは、主君の傍らで考え込んでいた。
「どうした、ピサロナイト」
「勇者殿の御一家に言い忘れたことがありまして」
「なんだ」
言いにくそうにピサロナイトは答えた。
「もともと冷害、病虫害に強く、根性のある魔界大豆ですが、ニガリをまぜて豆腐にすると、原材料よりさらに凶悪になるのです」
ふむ、と魔王がつぶやいた。
「いつぞや、魔界豆腐の冷ややっこを試したな。あれ以上か?」
「あのようなものです」
「あのときは、私の王国が滅びかけた」
と珍しくピサロがぼやいた。
「勇者殿ならおそらく大丈夫でしょう」
 魔王主従は知らない。ルーク一家が巨大な大豆から豆乳を絞ってグランバニアへ持ち帰り、城のキッチンでニガリを入れ、豆腐を作成したことを。
 豆腐は今夜、国王一家の食卓へ上がる。大きな鍋でぐつぐつと音を立てるつゆの中、ネギと白身魚の間に隠れ、邪悪な歓びに目を輝かせ、勇者がフタを開けるその瞬間を、魔界豆腐は待っている……。