★Xに投稿したものは文字数を削っていましたので、削る前の状態でこちらに再録しています。
グランバニア城は石造りの城だった。冬は早々にこの城を訪れ、年が明けても長々と居座っている。春の訪れはまだ先のことだった。
王家に仕える尼僧がひとり、城内の廊下を歩いていた。この季節、天井の高い廊下には日差しが入りにくいので暗く、底冷えがして、寒い。シスターは手をこすりあわせ、白い息を吐きながら石畳の廊下を歩いていた。
廊下の突き当りにアーチ型の木の扉がある。その真ん中をシスターはそっと押して開いた。
この部屋は壁も床も石で造られている。大きな窓はあるが、内部に鉄格子をしこんだ曇りガラスで、外の眺望は望めない。
暖房のために窓には厚いカーテンをかけ、室内の暖炉で火を焚いていたが、部屋全体を温めるにはとうてい足りなかった。
「お目覚めでいらっしゃいますか」
部屋の真ん中に置かれたベッドの上で、身じろぎする人影があった。
「すみません、私」
ベッドにいたのは、うら若い女性だった。
「ああ、どうぞ、お休みになったままで」
なんと呼びかけたものか、シスターは迷った。
「フローラさま、何か召しあがりますか?」
彼女は、グランバニアの王子アベルの妻だった。アベルがまだ王として戴冠していないので、お妃さま、と呼ぶわけにもいかない。フローラはアベルとともにこの城を訪れ、そして体調を崩して客用寝室のひとつにかつぎこまれていた。彼女は懐妊していた。
「お手数をかけてすみません。すこし喉がかわきました」
シスターはベッドサイドのテーブルに目をむけた。お茶のセットが用意してあったが、すっかり冷え切っていた。
「さめたお茶ですが、いっそすぐに飲めてよいかもしれません。差し上げましょう」
お茶をカップに注いで手渡すと、ありがとうございますと言ってフローラは受け取った。
空色の髪も色白の肌の、透明感のある乙女だった。さなぎから出てきたばかりの透き通るような儚い蝶をシスターは連想した。彼女が長いまつげを伏せ、紅唇を椀につけるのを、息を呑むような思いでシスターは見守っていた。
「この国は寒いでしょう」
とシスターは言った。
「フローラ様は南のお生まれとうかがいました。グランバニアは、しかもこの季節は、さぞかし辛く感じられるのではないですか」
フローラの生国サラボナについては、シスター自身もうわさで聞いたことしかなかった。南国の花々に囲まれ、雨に恵まれた、温暖で美しく、裕福な国、と。その中で育ったお嬢様がこんな寒くて暗い石の部屋でこれから十月十日を過ごすことになるのが、ひたすら不憫だった。そしてアベル王子が王位につけば、少女のようなこのひとは王妃と呼ばれ、夫の責任の半ばを引き受けることを期待されるのだ。
カタ、と音がした。フローラがソーサーにティーカップを戻したのだった。
「アベルさんとの旅の間に、とても暑い国や山の多い国を通ってきました」
つぶやくようにフローラはそう言った。
「サラボナしか知らなかった私にはとても珍しく映りました。そんな私をアベルさんはずっと労わってくれました」
フローラはこちらを見て微笑んだ。
「ここはアベルさんの国。どんなに寒くても、私はきっと好きになります」
一瞬、シスターは幻影を見た。白いプルメリア、金色のパパイヤ、青いクレマチス、紅のアンスリウム。花の女神(フローラ)のほほえみには、色鮮やかな彩りがそなわっていた。
「そうだわ、私、お願いがあるのです」
「なんでしょうか」
ほっそりとした手を伸ばし、フローラが差し出したものがあった。
「これを作ってみたいのです。とてもきれいなのですもの」
●
城の警備兵から知らせがあったので、王家に仕える尼僧は部屋を出て廊下の端まで迎えに出た。
まもなく大柄な人影が階下からあがってきた。
「おかえりなさいませ」
先代グランバニア王パパスの遺児アベルが、王家の試練の洞窟から戻ってきたのだった。いつもそばにいるモンスターたちは置いてきたようで、アベルは一人だった。
「……」
シスターもアベルが無口なことに慣れてきていた。過酷なダンジョンを攻略した名残なのか、アベルは殺気すら漂わせて上がってきた。もともと彫りの深い整った男前だが、にらみつけるような険しい目つきをして、衣服のはしにはまだモンスターの返り血がついていた。
「フローラ様は、今日はお元気でご機嫌よくすごされました」
ふっと殺気が消えた。飢えた獣のような男は、人なれした大型犬のような目になった。
「奥様を見舞われますか?」
こくん、と素直にアベルはうなずいた。
シスターは先導して歩き出した。後ろからアベルがついてきた。
「アベルさまが試練の洞窟へお出かけになっている間に、フローラ様はせっせと赤子用の服を縫っておいでです。そのひとつひとつに可愛らしい刺繍をつけて」
「……?」
「フローラさまのお話では、修道院にいたころ刺繍をしたことはあるけれど、幾何学模様が多くて、花や小鳥は刺したことがなかったそうな。私とオジロン様の奥様が、フローラ様にグランバニア風の縫い取りをお教えしました。あっというまにフローラ様は師匠を越えていかれました。今は大作に挑戦中のごようすです」
廊下の突き当りにアーチ型の木の扉がある。その真ん中をシスターはそっと押して開いた。
ふわっと温かい空気が顔を撫でた。冬の真ん中だというのに、そこには別天地があった。
元はフローラがかつぎこまれた客用寝室だった。あのとき閉まっていた地厚のカーテンは左右に開かれ、室内は明るくなっている。曇りガラスの大窓は外を見ることができなくても、太陽の光と温かさは通してくれた。
暖炉には盛大に火が焚かれている。そして部屋の四隅に大きな木のたらいを置き、そこから湯気があがっていた。
侍女たちが厨房から手桶で熱湯をもちこみ、たらいに湯を足している。たらいには香草を浮かべているので、あたりにはさわやかな香りが漂っていた。香気は立ちのぼり、天井から吊るしたドライフラワーの束にまとわりついた。
石床には厚い敷物をのべ、その上に毛皮を敷いてさらにクッションを置き、その上に部屋の主がいた。
フローラと侍女たちは車座になって座っていた。その真ん中には3メートル四方はありそうな大きな布があった。
部屋を開けたとたんに若い女たちがきゃっきゃっと笑いあうにぎやかな声が聞こえてきた。
フローラも侍女たちも丸い木の刺繍枠を手にしている。枠はそれぞれ大きな布の一部をはさみこみ、そこに針がささっていた。
「アベルさん、おかえりなさい!」
華やかな笑顔でフローラは夫を迎えた。侍女たちがそろって場所をあけてくれたので、アベルはフローラの隣にうずくまった。
「そんな近くに座ったら、針が危ないですよ?」
とフローラは言ったが、アベルはかえって顔を妻の肩のあたりにすりつけて離れるのを拒んだ。
「はな?」
フローラは刺繍枠を傾けてつくりかけの作品を見せた。
「ええ、赤ちゃんのものは作り終えてしまったので、新しい作品にかかっています」
嬉しそうにフローラはそう言った。
刺繍に使っている布そのものはやわらかそうなガーゼに似た織物で、白練りの色合いだった。その端のほうからフローラたちは一斉に刺繍をしていったらしい。濃淡さまざまな緑の糸でうちかさなる葉を縫い取り、その間に美しい色糸で花々が写実的に描かれていた。
白いプルメリア、金色のパパイヤ、青いクレマチス、紅のアンスリウム。フローラが刺繍を担当している部分では、サラボナの近くで見られる南国の花が色鮮やかに咲き誇っていた。
「赤ちゃんが生まれたら」
少し頬を染めてフローラは言った。
「子供部屋のベッドのそばにこれを吊るそうと思うのです」
シスターは微笑んだ。フローラから相談されて、シスターはその巨大な掛け布の最終的な図案を前もって知っていた。
華やかに咲きそろう花々の奥には、キラーパンサーを従えたアベルの姿を刺繍糸で表現することになっている。図案の中のアベルは、やさしげな二枚目だった。
――奥様にはアベル様がこんなふうに見えていらっしゃるのだわ。
そうシスターは思ったのだが、それは別に、フローラのひいき目というわけではなかったらしい。
身重の妻のかたわらにいるアベルはあいかわらず無口だが、完全に心を許している。愛しげに、幸せそうに、花の女神の白魚の指が銀の針をあやつるさまを見つめているのだった。
了(2025年2月6日X上のイベント「フローラの日」のために)