テルパドールの戦い 8.審判:覚醒

 背後で鋭く息を吸い込む音がしたが、ヘンリーは何も言わなかった。
「君の負い目は自分で何とかしてよ。死にたがるなんて最低だ。自分の命でぼくを傷つけることだよ、それは」
低い声で返事がきた。
「おまえを傷つけるつもりなんて、なかった」
「そうかい?ぼくのために君が死ぬなんてことがあったら、ぼくが平気でいられると本気で思ってる?」
答えはなかった。
 ルークはためいきをついた。
「このあいだのあれの後、マリアに会ったよ」
「……何か言ってたか?」
「君を解放してくれって言われた。僕が君に、長いこと親分役を押し付けてきたって」
「おれは」
と言いかけてヘンリーは口ごもった。ルークは言葉を続けた。
「負い目なんてないふり。屈託のないふり。飄々とふるまい、そのくせ何かあると自分のことより僕のことを優先する。そんな親分役だよ。ぼくは知らないうちに君に親分の仮面を押し付けてたんだね」
真後ろにいるヘンリーが居心地悪そうにもぞもぞしていた。
「やめろよ」
「なんで」
「こっぱずかしいんだよ」
ルークは両手のひらを肩より少し後ろについて、顔を天に向けた。
「ぼくは、ごめんて言おうと思ったんだよ?ずっと無理させてきたんだから」
「謝るなバカ!」
ほんとに赤面しているらしい。後ろにいるヘンリーの体温が上がっているようだった。早口にヘンリーは言った。
「そんなことしたら、俺の負い目と劣等感で、ずっとおまえを傷つけ続けてきて悪かったって謝り倒してやるからな!」
大神殿の奴隷の岩牢のかたすみに、ちょうど同じ言葉でぼくを脅した男の子がいた、とルークは懐かしく思い出した。
「第一、俺は」
言いかけてヘンリーはしばらく黙っていた。
「前にオレストが、言ってた。誘拐される前の甘やかされた悪ガキの俺と、帰ってきた後の大人の俺が別人みたいだってさ」
ラインハットの現兵士長オレストは、率直で真摯な壮年の戦士だった。
「悪ガキは間違いなく親父と同じダメ男に育つ、そう思ってたんだそうだ」
ヘンリーの言う親父とは先代ラインハット国王エリオスのことで、ヘンリー・デール兄弟の父だった。ダメ男は言い過ぎだとルークは言おうとしたが、国王の務めより宮廷式恋愛のほうが得意で結果として国に光の教団を招き入れてしまったわけで、その不名誉な称号をルークは完全に否定しきれなかった。
「そうならなかったのはおまえのおかげだからよく礼を言えとオレストは言ってた。おまえのおかげというか、たぶんそれは親分の仮面のおかげなんじゃねえかと思う」
「仮面なのに?」
「仮面ていうのは、顔だろ?その顔にふさわしい行動をしなきゃと思ったらダメ男になってる時間はなかった」
ルークは後ろの方へ顔をねじってつぶやいた。
「親分の仮面のせいで君と君の負い目をゆがめてしまったと思ってたんだ、命を無駄にしたがるくらいに」
ヘンリーは背を丸めてあぐらをかき真下を向いていたが、横顔が赤くなっていた。
「うるせえ、おまえなんか、シャバへ戻ってすぐ旅に出ちまったくせに。そのあと長い間、おれは自分で自分を仮面に沿わせてきたんだ」
安心してマリア、とルークは心の中で話しかけた。彼の仮面は僕のためだけじゃないよ、君とコリンズのためでもある。
「俺の負い目は、仮面のせいじゃない。あれは、劣等感みたいなもんだ。お前が気にするな」
どう答えようか、ルークは迷った。“そんな空回りはやめてくれ”、“勝手に負い目なんか持たないで”、唇の端に乗せる前にそんな言葉は溶けて消えた。劣等感も負い目も、自分で克服しない限り消えることはない。他人に言われるんじゃだめだ、というのがルークの実感だった。
「そうだね、じゃ、ごめんは言わない」
ルークはしばらくためらった。
「その代りじゃないけど、僕の仮面の話をしていいかい?」
「おまえの?」
ちょっとくらい、いいだろうとルークは思う。仮面のほころびから時々あふれかえるどろどろした黒いものは、ヘンリーの専売特許ではないのだ。
「なんだ、気付いてなかったの?ぼくの仮面は“親分”じゃなくて、そうだな、“お父さん”かな。たぶんぼくはずっと理想の父親を演じようとしてきたんだ。僕自身の父のような、ね」
「おまえは、お前の家族は」
ヘンリーはそう言いかけて言葉を一度飲み込んだ。
「あれは演技だったのか?」
「演技なんかじゃない。ビアンカも双子も今でも好きだし、世界一大事だよ。でも父という仮面に、僕の顔はきちんと収まることができなかった。いつも何かがはみ出していた。原因は劣等感さ」
「おまえが?そんなもん、ないと思ってた」
「そうだねえ、死んだ父さんと勇者の息子以外にはないかもね。ちょっとした地獄だよ」
驚いたような気配があった。
「アイルのことは、かわいいんだ。でも、父さんさえなれなかった勇者と言う存在は僕には眩しすぎて相容れないというか」
ルークは首を振った。
「眩しいなんて綺麗に言い過ぎてるな、ぼくは。アイルが先代勇者やアイシスの魂を宿すとき、ぼくはちょっとあの子に嫉妬していたんだと思う」
ルークはためいきをついた。こんなことを吐いたのは初めてだった。
「同情してくれとは言わないよ。これが僕の運命だし、一生続くんだと思う」
その勢いで、ついぼやいてしまった。
「でも、頼むから僕が劣等感でみじめになっているときを狙って自虐を見せつけたりしないでくれないか」
「狙ってないぞ」
「ほんとかい?素でやってたの?それはそれで、なんていうかね」
「やけにからむな、おまえ」
「このあいだたっぷりからんでくれたのは誰だっけ?」
うっと背後で言葉がつまった。
 ルークはまた視線を天に向けた。はるか上方にテルパドール城一階の基礎にあたる石垣が見えていた。
「あのね、劣等感だけじゃないかも。ヒトが社会の中で生きる生き物だとしたら、ぼくはたぶんヒトじゃないんだ」
小さくヘンリーが聞き返した。
「モンスターのほうが好きなんだろ、ヒトより」
「知ってたの?」
「ああ。そこんところは、昔からな」
「そっか。じゃあ、ぼくの仮面は“理想の父親”というよりも、シンプルに“ヒト”だ」
「おまえは……」
 ルークの背後から体温が離れた。ヘンリーが居場所をずらせ、斜め前へ移ったのだった。ルークは投げ出した足の片方の膝を曲げた。伸ばした方の足のあたりに、ヘンリーの上体を引き下ろした。
 ヘンリーは特に逆らわなかった。ルークの太ももの上に緑の髪が触れ、後頭部が寝心地のいい場所を探してずれた。やがてルークの足を枕にヘンリーが寝そべった。一緒に旅をしていたころ、時々野宿になるとこうやってヘンリーはルークを枕にするくせがあった。彼は腕を広げ片膝を立て、くつろいだようすだった。
 ヤシの葉が揺れて光が射す。陽光に目を細め、ヘンリーはつぶやいた。
「いびつだってはみ出したっていい。調整の問題だから。人はたぶん一生かけて一枚の仮面を造り上げるんだ。最後はそれを顔に貼り付けて棺に横たわる」
それはルークにというより、自分に向かって話しているような口調だった。
「俺はそれでいい。そう決めた」
「それなら僕は」
ルークは少し考えた。
「そうだね、ぼくも君ががんばってるあいだはがんばるよ。そして何もかも終わったと思ったら、僕は僕の仮面を捨てる」
ヘンリーが見上げた。
「ヒトじゃなくなるのか」
その顔を見下ろして笑い、ルークはうん、とつぶやいた。
「ヒトの世界を離れて、モンスターと一緒に森へ行くんだ。ちょうどこんな綺麗な、だれもいない緑の中へ」
 ヘンリーは片手をあげ、ルークの頬に触れた。二人が腹を空かした少年奴隷だったころから、それは“元気出せよ”というヘンリーのサインだった。
「おまえはずっと、そっちへ行きたかったんだな」
「ヒトが嫌いなんじゃない。ただ、向こう側に惹かれるんだ」
 今がどんな状況か、忘れたわけではなかった。だが、すごく久しぶりに本当に二人きりでいるという奇跡が、ルークの口を開かせた。
「僕には君がモンスターに見える」
「おまえ、何げに失礼なこと言ってねえか?」
見下ろすと、むっとしたらしいヘンリーの顔があった。その顔に、そばかすだらけで唇をとがらした小さな男の子の表情が重なった。ルークは思わず笑いを誘われた。
「褒めたつもりなんだ」
「じゃ、おまえ、それを自分の嫁に言ってみろよ」
「言わないよ。ビアンカはモンスターじゃないし、ぼくはビアンカがビアンカだから好きなんだ」
「のろけに付き合う気はないぞ」
ふん!とつぶやいて横を向いてしまった相棒の前髪にルークはそっと触れた。
 真昼の太陽は西に寄っていた。庭園ではヤシの樹が影を引き始めた。ルークはつぶやいた。
「夜になったら、不利だ」
ヘンリーはうなずいた。仕掛けるなら、日のあるうちだった。
「話を戻そう。僕たちは戦える。だよね?」
腹筋を使ってヘンリーが上体を起こした。まだ視線をそらし気味だったが、ヘンリーはつぶやいた。
「俺はお前より弱いし、できないことも多いし、負い目もある。それは今も昔も変わらない。自分の弱さは百も承知だ。弱くても戦えるやり方で戦う。ずっとそうやって来たんだ」
それにしちゃずっとオレ様だったけどね、とルークは思ったがそれは呑みこんで、肝心な質問をすることにした。
「じゃあ、ぼくが君のことを足手まといだと思ったりしてないって納得した?」
このあいだテルパドール城内の別邸では荒れ狂っていた感情が、自らを律し、なめらかになっていくのが、ルークには手に取るようにわかった。穏やかにヘンリーはうなずいた。
「ああ……お前が何をしてほしいかはだいたいわかる。特に、戦うときは」
「だよね。知ってたよ。なんでわかるのかなと思ったこともあるけど」
さっと振り向いてヘンリーが突っ込みをいれた。
「おまえが単純だからに決まってるじゃないか!」
ふふふ、とルークは笑った。この手に古い友達を取り戻すのはなんと心が安らぐことか。うれしくてたまらなかった。
「もう一回聞くからね。また一緒に戦えるだろう?」
腕を組んでまたぷいっと脇をむいたヘンリーの横顔が少し赤くなっていた。
「ヘンリー?」
わかってるっ、と彼は答えた。
「おまえがリーダー、実行者だ。おれはお前がやりやすいように立ち回る」
「それでいいよ」
片方が実行者、もう一人がフォロー。その組み合わせで事に当たれば、勝てる。それはスローガンでも祈りでもなく、二人にとって成功体験であり実績だった。
「君と組めば強くなれる。昔からね」
「上から言うんじゃねえ!」
さっそく親分風を吹かせてきたヘンリーに、ルークは笑いかけた。
「それじゃ、最初の質問だ。さっき大司教って言ってたね」
ヘンリーが真顔になった。
「ああ。今わかってることを話しとく。この一件、黒幕の一人は光の教団の元大司教ボアレイズ。おまえは一度ラインハットで、ボアレイズが偽物の太后といっしょにいるのを見ている。ボアレイズは俺についてもおまえについても、質量ともかなりの情報を持ってる。おれがお前に対して持っている負い目についてまで」
へえ、とルークはつぶやいた。
「気に入らないね」
「ただし、あいつ自身は修行したりレベルをあげたりしてない。教団にとっては一種の宣伝係で、賢者っぽい見てくれと信者受けのする説教で大司教になったやつだ」
ルークはさきほどの光の教団の信者たちを思い出した。
「なるほどね。取り巻きもたいしたことないと思う。でも一人だけ、光の教団の中に魔法の匂いのするやつがいるよ。モンストロッシと名乗っていた。教団の使者として宮廷に来た男だ。あいつ力量が読めなくて不気味だ。モンストロッシは僕が相手をする」
ヘンリーは淡々と承認した。
「おまえなら、実力は十分だ。情で手が鈍ったりしないよな?」
ジャミ、ゴンズ、ゲマ、イブール、手を下したいくつもの命がルークの脳内にちらつき、流されて消えた。
「僕はもうあの時の奴隷少年じゃない。復讐は僕の人生の一部になったよ」
ヘンリーはうなずいた。
「どこでやる?」
「庭の広いとこで」
「凶器は?」
「現地調達」
「陽動は?」
「頼むよ」
「脱出は?」
「不要。皆殺しだ」
ルークたちは身を起こし、緑の隠れ場所からそっと立ち上がった。
「行くか。まずは隠しておいたアレを取りに行こうぜ」
とヘンリーが言った。
「のこのこ出て行くのはまずいよ。敵が多すぎる」
「じゃ、最初にやるのは、雑魚の刈り取りだな、とりあえず十人ばかり」
二人は周辺を見まわした。
「兵士を減らすならアレの代わりを手に入れないと。どこかに長い棒はないかな」
「庭師の宿舎の中へ入れないか?ナイフより使える刃物があるといいんだが」
ルークは、昔ドワーフの老人が編み出した鍵の技法で、管理小屋の入り口の錠前をあっさりはずした。庭師なら持っているんじゃないか、と期待した通り、長い柄の鍬が壁にかかっていた。その鍬から木でできた柄の部分だけ取り外した。
「ひのきの棒よりちょっとまし、ていどだけど、なんとかなるかな」
しゃらんと音がした。ヘンリーは、小屋の隅から長いチェーンを見つけたようだった。
「花壇を立ち入り禁止にするとき使う鎖みたいだが、おれはこれでいい」
くす、とルークは笑った。
「ナイフより、よさそうだね」
ああ、とヘンリーが応じた。
「そうだな。これがあれば、俺はかなりやれるよ」
その唇に皮肉な笑みが戻ってきた。

 吹き荒ぶ風が乾いて冷たい空気を運んできた。ひび割れて傷だらけの裸足で奴隷たちは黙々と働いた。石切場は深くて広い縦穴だった。何年もかけて石切工が石を切り出した結果だった。
 鞭が空中で何度も鳴った。
「グズグズするな!」
「さっさと運べ!」
モンスターの奴隷監督が人間の奴隷を急き立てた。大神殿建設現場は石切場より高いところにあった。大きな石を使うときは石切場から踏み車を使って縄で地上まで引き上げるが、小さめで数多く使う石は奴隷が背負って上まで運ぶ。または丸太を並べた道に石を載せて人力で移動させていた。
「ブオゥゥ、グワァァ」
奇声が聞こえてきた。奴隷たちは反射的に逃げ腰になった。
「おい、持ち場を離れるな」
奴隷監督や現場警備の兵士たちは奴隷に命じたが、同時にちっと舌打ちもしていた。
「マタ、アイツカ!」
奴隷監督のザランドが”出勤”してきたのだった。
「また工期が遅れるぞ」
「マッタク使エネエ上ニ邪魔バカリシヤガルカラナ」
「なんでクビにならねえかねえ」
奴隷監督も兵士も、現場総監督のシュプリンガーのようすをうかがった。
 シュプリンガーは苦り切った顔をしていた。大股にザランドのところへ行くとカギ爪の生えた手でザランドの襟首をつかんだ。ザランドは、奴隷を促して仕事をさせることはできないが、力関係は理解できた。シュプリンガーと面と向かっては、卑屈な態度だった。
「オマエハ石切場ニイロ」
頭からシュプリンガーはそう命じた。
「何モスルナ。タダ、見テイロ」
「ウボゥ」
とザランドがつぶやいたのは、わかりました、の意であったらしい。
 不服そうにザランドは石切場へ降りた。ザランドはイラついて樽を蹴り、木の箱に山刀で切りつけてはうっぷんばらしをしていた。ギラギラした目は奴隷の群れを眺めている。人間たちはビクビクしながら視線を合わせないようにして働いていた。
 ルークの傍らで、ヘンリーがザランドのようすを観察していた。ザランドが楽しんで切り刻んだヘンリーの耳は、刻まれた形のままギザギザに固まってしまった。今は延び放題の髪でおおわれていた。
 ヘンリーの片手がゆるい拳をつくり、ルークの手の甲を軽くノックした。それが合図だった。
 二人の少年奴隷は浅い木型で作っていたモルタルを桶に移し、現場へ運び込んだ。
「遅いぞ。つぎは石だ」
奴隷監督の鞭男はせかせかと命じて鑿をつきつけた。口の中で無気力にはい、と返事をしてヘンリーは鑿を受け取った。
 石を切るのに使う鑿は、曲がりなりにも刃物だった。石を切り出す時以外、奴隷には触らせてもらえない。その上で鞭男はヘンリーの両手首に鎖をかけた。手鎖の長さは胸部の幅よりやや広いていどで不自由ながら作業はできるようになっていた。
 ルークも同じかっこうで、共に石切場へ向かう坂道を下っていった。二人は幼い頃からこの現場にいてもう十年になろうとしていた。ある意味ベテランであり、二人の作業を監視しなくてはならない奴隷監督は、ちらっと横目で見たていどですぐに自分の担当する作業に注意を戻した。
 何も言わずにルークとヘンリーは視線を交わした。
 石切作業は数ヵ所で行われていた。その一つにヘンリーは向かった。もし真上から石切場を見ているものがいたら、石切り場そのものがいびつな円形だとわかっただろう。時計の盤面で言うならヘンリーは6時のところで作業を始めた。ルークは4時の方角にある場所の石に取り組んだ。
 片手に鑿、もう片方の手に小さい木槌を持って奴隷石切工は仕事にかかった。木槌がコン、コン、コンと高い音をたてた。それはいつものことだったし、奴隷監督も兵士もほとんど意識にとめていなかった。
 ザランドはうろうろと動き回っていた。奴隷にちょっかいを出すなと言われたザランドは、イライラを貯めまくっていた。兵士もモンスターの監督たちも、関わりたくないようすだった。最終的にザランドは退屈して、時計の盤面の中心にあたるところへすわりこんだ。