テルパドールの戦い 7.吊られた男:試練

 大司教は一瞬身をこわばらせた。が、自分からフードをおろして顔をさらした。
「そうだとも。ラインハットのヘンリー殿下。あなたに追い出されたボアレイズだ」
壮年ないし初老のテルパドール人だった。テルパドール人にはたまにいる、きわめて目鼻立ちが整った者で若いころは人目を引く容姿だったと思われた。今は真っ白になった髭と髪のせいで高徳の賢者のような姿だった。外見の印象を裏切っているのはただひとつ、ぎらぎらと執着の光を放つその眼だった。
「そうか。俺としたことが。やっと思い出した」
ヘンリーは自分に向かってうなずいた。
「その態度、改められよ」
尊大にボアレイズが言った。
「こいつらに命じてあなたを押さえつけ、わしが直々に目玉をえぐってさしあげよう。おっと、片方だけだ。片目だけ残っていれば、きさまが泣き叫んで命乞いをするときにわしが笑うのを見られるだろうからな!」
しゃべるにつれてボアレイズは、きちがいじみた笑顔になった。だがその恐ろしい宣告をヘンリーは聞いていないようだった。
「これで符丁があう。女王誘拐なんてだいそれたこと、おまえ一人でよく思いついたな」
お前の相手は俺だ、そう言おうとしてコンスはためらった。
 ついさきほどまでコンスが剣で嬲り、嘲っていた男はどこにいったのだろう。大貴族らしく尊大にふるまっていた男、流血沙汰には縁遠く武器の使い方は素人同然だった男。
「コンス、どうした!」
相棒のハバンがせかした。コンスは長剣の柄を高くあげ、苛立ちをこめてふりおろした。
 コンスの方を見ようともせずにヘンリーは片手のナイフをひらめかせ、コンスの斬りこみをはじき返した。
 キン、という鋭い音が響いた一瞬、稽古と言う名の虐めの現場が静まり返った。
 にやりとヘンリーが笑った。
「ボアレイズ……懐かしくって、涙が出そうだ!」
ヘンリーの片手が胸へ上がり、親指で留め金を外して自分のケープをむしり取った。次の瞬間、その布がばさっと音を立ててコンスを襲った。
「おいっ」
後ろでハバンが叫んだ。ケープの裾に沿って取り付けたフリンジがコンスの両眼をカミソリのように薙いだ。視界が奪われ目の痛みにうろたえたとき、剣を持つ手が強打された。愛用の鉄の剣が庭園のタイルの上に落ち、そのまま回転しながら滑っていった。
「この野郎!」
と罵る言葉はおしまいまで言えなかった。真下から顎を殴られて舌を噛み、みぞおちに膝がしらが入った。息もできない痛みにコンスは身を折るようにうずくまった。
「おい、やる気か!」
大声でハバンが威嚇した。上背のあるハバンは、斬りあいの前には必ずこうやって相手の肝を冷やして委縮させる。
「逃げられないぞ、おとなしくしろ」
ヘンリーはあいかわらず無視していた。片手にまだナイフを持ったまますたすたと大司教ボアレイズに近づいた。
「おい!」
テリャクが叫んだ。
「何やってる、おい、ハバン!おまえら!」
傭兵たちがあわてて大司教を守ろうと動き出した。ちっとヘンリーがつぶやいた。
 略礼装のケープを失い、上半身は傷だらけ、武器はナイフだけ。にもかかわらず、ヘンリーはみじめさとは無縁の表情だった。むしろ見下すように言った。
「“雑魚”ってのは、おまえの自己紹介か」
ボアレイズの顔がぐしゃっとゆがんだ。
「きさま……きさま!」
ボアレイズは口もきけないようだった。テリャクに向かって乱暴に命じた。
「殺せ!」
庭園のタイルの上で革のブーツがくるりと踵を返した。
「その首、すぐもらいに行くからな、待ってろよ」
そう言うと庭園の灌木のなかへ身を投げるようにして姿を消した。

 コンスは焦っていた。あのあと先輩傭兵に体を引き起こされ、ビンタで気合を入れられ、端っこにひっこんでいた。そうしたら隊長から、二人一組で逃げたヘンリーを追いかけろと言われた。
 テリャクもボアレイズも機嫌は最悪だった。
「せっかく捕まえていたのによ」
先輩たちも同じだった。全員のやつあたりがコンスに向かうような気がして身が縮んだ。とばっちりをくったハバンが一緒に行動していた。
 やみくもに探して見つかるほどこの庭園は狭くない。むしろ身を隠すところがありすぎだった。
「落ち着け、コンス、相手は素人同然なんだ」
本当にそうだろうか。最後の上段からの斬りこみを、ヘンリーは一番労力の少ないやり方で跳ね返した。コンスの剣の軌道を前もってわかっていたかのようだった。
「だいたいが、金持ちの貴族様なんだろう、指から血が出ただけでぎゃあぎゃあ言うぞ、普通」
「ああ、普通はな」
でもあいつは普通じゃなかった、とコンスは言いかけて口を閉じた。ハバンが黙れと言うしぐさをして指で前方をさした。
 目の前の綺麗に整えられた木の枝に何かひっかかっている。ヘンリーの来ていた上着と同じ色の端切れだった。
「枝に引っかかったのを無理に通ろうとしてちぎれたか。あいつ、こっちへ来たんだ」
 木々を透かして瀟洒な小屋が見えた。
「あそこか。おれは裏へ回る。おまえ正面を見てろ」
ハバンはそう言って、足音を忍ばせて小屋の裏へ忍び寄った。
 テルパドール庭園は女王専用の庭だった。庭園の美しさを保つためには入念な管理が必要となる。コンスたちの前にあるのはおそらく女王の庭師が必要な道具を置いたり苗や種を蓄えたりする管理小屋だと思われた。
 コンスの生まれ故郷にも農具や種を置く納屋はあちこちにあったが、そこに建っている庭師の小屋はこざっぱりして、あかぬけて、村で見かけた泥臭い物置とは雲泥の差だった。
 なんとなくコンスがそこへ寄ってみたのは、何かいいものがあったら村へ持って帰るかと思ったからだった。
 その瞬間、背後から手が伸びて、口をふさがれた。
「!!!」
やられた、という悔しさ、殺されるという恐怖がパニックを引き起こした。振り払おうともがいたとたん、足を払われ、コンスは顔から庭園の黒土へ激突した。

● 

 身代金受け渡しのために、その日地下庭園から召使たちはすべて下げられていた。ひと気のない地下庭園は静かだった。熱帯植物の大きな葉が風でかすかにこすれあう葉擦れの音にまじって、庭園で飼われている鳥やある種の猿の鳴く声が聞こえていた。
 ヘンリーと別れたときにルークにつけられたのは、モンストロッシが率いる頭巾の男たちだった。武器はなく、魔法力もなし、というのが教団の要求だった。彼らはルークを囲むようにして庭園内を移動しながら、しきりに私語を交わしていた。
「油断してるよね」
とルークは考えた。彼らにとってMP0というのはそういうことなのだ。
「おい、あまりしゃべるな」
モンストロッシが命じた。初めてモンストロッシがテルパドール宮廷に来たとき護衛していた魔法使いたちは口をつぐんだ。だが、小声でも話をやめない者が数名いた。
「新しい女王は、確かなんだろうな。トッペ、おまえ、会ったことあるんだろう」
トッペと呼ばれた魔法使いは自慢そうだった。
「大司教様によくなついてるよ。美人だしな」
「見てくれがいいに越したことはない。派手な戴冠式をあげてしまえば、国民なんてどうにでもなる」
私語の多い三人は、ちょうどルークの真後ろを歩いている。会話はよく聞こえた。
「テルパドールは金持ちの国だからな。おれは期待してる」
笑い声が上がった。
「この国をミルドラース様にささげればきっと報いてくださるはずさ」
「イブールは馬鹿だったんだ、もっとのらりくらりしていりゃあ天下が続いたのに。大司教様はもっとうまくやってくださる」
イブール、光の教団の雇われ教祖。なぜか、あまり彼を憎む気になれない。あまりにもゲマが憎いからだろうと思っていたのだが、もしかしたら自分はイブールに同情したのかもしれないとルークは心の中で思った。
 ミルドラースに命じられ、イブールは地上におけるミルドラースの代理人として光の教団を率いてきた。ある意味でイブールは真面目だったのだ。
「やっと大司教様の時代が来るな。こっちへついてよかったよ」
「贅沢三昧できるな」
こいつらは真面目でなかったほうかな、とルークは考えた。ただ光の教団にくっついて甘い汁を吸いたいだけらしい。声を潜めて嬉しそうに話し合っているのは三人だった。この三人は大司教様とやらの手下、そして後の者はモンストロッシのグループなのだろう。
 ふとルークは、あの大神殿の下のダンジョンでイブールと戦った時のことを思い出した。イブールは緑の肌で、まるでワニのような顔をして赤い被り物をつけていた。しかもアイシスが身に着けているウェセク、つまり首周りの幅広の飾りと同じく、金と赤の放射線状の模様をつけた衣装だった。赤い帽子の額の部分にもテルパドール風の立て飾りがついていた。
――イブールは、テルパドール人だったのか?
そんなはずはない。彼本人の口から、マーサと同じ村の、つまりエルへブンの出身だとルークは聞いていた。だが、もし、ミルドラースや光の教団の意向としてあの姿をさせられていたとしたら。
 城の教会で聞いた話をルークは思い出した。“このテルパドール独自の信仰では、緑のワニ顔の神セベクが海から上がってきて大地を造ったと言われています。太陽の神ラーと同じ神であるとも信じられてきました”。
 魔物と化したイブールは、では、太陽神のいでたちを真似させられていたわけか。太陽神を教祖とする光の教団。だがそれはいかにもテルパドールらしい考え方だった。
 それを考えたのは、しかしイブールではないはず。それならば、誰だろう。ルークの脳裏にはゲマの顔が浮かんだ。
 さきほどからまわりの連中が油断しているのはわかっている。だが、宮廷に現れたときモンストロッシは魔法に自信を持っているようすだった。ゲマと何か関係があったのかもしれないと思った。
――実力が読めない。
 本当に強力な魔法使いなら、今の自分がここで反撃するのは愚かだった。むしろおとなしく連行され、運が良ければアイシスの居所までつれていってもらうべきだった。
 だが、大司教派の三人はあきらかに能力が低い。彼らだけが見張りならここで蹴散らして行動の自由を手に入れることができる。どうするべきか。
 一歩あるくと飾り帯につけた財布代わりの巾着の中で金貨が音を立てる。チャリン、チャリンと響くたびにルークの苛立ちがつのった。
 モンストロッシを含め大勢対一人。勝てるだろうか、いや、逃げ切れるか、武器もなく、魔法も使えない自分が。
 頭の中にヘンリーが浮かんだ。彼だったら、どうするだろう。
 先日、つい、ヘンリーと言い争いをしてしまった。気まずい間柄は今も静かに続いていた。
 広間で諍いをした後、ルークは自分の宿に帰る前に、屋敷の中でマリアに呼び止められた。
 すっかり貴婦人姿が身についたマリアは、あいかわらず清楚で美しかった。そして初めて会った時と同じく、いちずでけなげな視線をまっすぐに向けてきた。
「あの時と同じことを言いに来ましたの」
テルパドールの屋敷の、アーチ形の天井を持つ廊下に立って、静かにマリアは言った。
「あの人を、ヘンリーを解放して下さい」
どうして許すと言わないのかとルークを詰った真摯な瞳の奴隷女がそこにいた。
「僕もあの時と同じことを答えさせてもらうよ。これは僕とヘンリーの間のことなんだ」
かつての奴隷少年から大人へと成長したルークは、言葉少なく応じた。
「そうですね。二人とも頭に血がのぼっています。だから第三者の私が言いに来たんです」
「ぼくは、ヘンリーを怨みで縛った覚えはないよ。ヘンリーの罪悪感を盾にとって、何かを強要したこともない」
「いいえ、あるでしょう?」
華奢な貴婦人は言いきった。
「あなたはずっとあの人に、親分の仮面をつけることを強いて来たのだわ」
「僕が?」
――あの時頼んだじゃないか、きみは親分のままでいてって。
「あの人は歪んでいます」
嫌な妄想がルークの脳裏に浮かんだ。素のヘンリーの顔が仮面に沿ってたわみ、歪み、無理やり“親分”の殻に押し込められていく。押し込みきれなかった部分が、突如飛び出し、仮面を破らんばかりに荒れ狂う。それがあの叫びだとルークは悟った。
「ぼくがヘンリーをいびつにしてしまったのか」
 ルークは足を止めた。
 最初、教団の者たちは気付かなかった。歩みから取り残されたかっこうのルークに、やっとトッペと呼ばれていた男が振り向き、声をかけた。
「何をやってる、歩け」
「悪いね」
いつもの癖でルークは微笑んだ。
「やっぱりだめだ。ぼくは、ヘンリーに会わなきゃ」
ルークは飾り帯から巾着をはずし、口紐を握った。トッペがぐっと手を伸ばしてきた。伸ばした手には目もくれず、金貨で重い巾着を振ってトッペの顔にたたきつけた。
「ふぐっ」
鼻血を噴いてトッペが後ずさった。
 この段階で先頭に立って歩いていたモンストロッシがやっと後尾の異常に気づいた。いきなり杖を伸ばして魔法を発動させようとした。
 が、そのままルークは庭園の林の中へ飛び込んだ。
「待て、きさま」
一度メラミらしい火球が飛んできたが、庭園の木にぶつかり燃え上がって終わった。一目散にルークは距離を取った。その間にルークの姿を見失ったらしく、いつのまにか背後は静かになった。

 はぐれたら南東へ、とテルパドール宮廷の役人は言っていた。壁に沿ってその通りにたどっていくと、女王の庭師が使う管理小屋があった。
 その傍の木立の中でルークは、自分の相棒が傭兵の若者の両腕を背にねじりあげた状態で地面に押し付け、尋問しているのを見つけた。
「おい、若いの。傭兵やって何年になる」
一応ヘンリーは相手を“若いの”呼ばわりしてもぎりぎり許される年かな、とルークは考えた。横顔を地べたにおしつけられた傭兵はなんとか答えた。
「二、三年」
「何人殺した?」
「い、いっぱい」
どん、と傭兵の背にヘンリーの体重がかかった。
「本当は?」
「……、まだ殺したことない。見張りとか、行進とか、人を脅すとか」
ヘンリーはため息をついたようだった。
「じゃ、覚えておけ。捕虜を捕らえたら遊ぶ前に確保しろ」
ヘンリーは傭兵の後頭部の毛をつかんで頭をあげさせた。
「女王はどこだ?」
「知らない」
「知らないで済むと思ってんのか?どこだよ」
傭兵はためらった。ヘンリーは右手のナイフを顔のそばで泳がせた。若い傭兵は血まみれの刃を目で追った。
「もう一回聞くぞ。女王はどこだ?」
「たぶん、この庭園のどこか」
「庭のどこだ」
「ほんとに知らない。大司教なら知ってるかも」
「そう言うなって。人間努力が肝心だ。思い出してみろよ」
若い傭兵のほほでヘンリーはナイフの血を拭った。どろっとした血が顔の上を流れ落ちて若者は泣きそうになった。
「俺ら下っ端にはわからねえんだ、ほんとに!大司教様には偉いお弟子さんがまわりについてて、近寄れねえし」
「女王を誘拐して、新女王に譲位させる計画だったよな?小さな勇者さまはどうするつもりだったんだ」
「子供だから、あんたの相棒を人質にすればなんとかなるって」
ルークは進み出た。
「ひょっとして、ぼくのことかい?」
若い傭兵が眼を剥いた。ごめんね、と言いながらルークは若者の首の後ろに手刀を入れた。
「で、大司教って誰」
傭兵が気絶すると、ルークはそう聞いてみた。何か言いかけてヘンリーは口をつぐんだ。気まずそうな顔だった。
ルークは少し笑いそうになったが、気を引き締めた。木の根元の草の中に足を延ばしてルークはすわりこんだ。
「敵と戦う前に、まずぼくたちで話をつけなきゃね。座りなよ」
 ルークたちが庭に降りてきたのは一番暑い昼過ぎだった。時はゆっくり流れ、地下庭園に差し込む光はわずかに斜めになっていた。
 しっとりと皮膚に感じる湿気が心地よい。草むらに座り込むとその周辺は緑で覆われた。ルークの鼻先に豪華な蘭が群れて咲いている。彩りも鮮やかな花弁が微風に揺らいで美しかった。
ヘンリーはそばへ来たが、隣にこようとはしないで、わざわざ背中合わせに座った。
「あの気絶した子に“若いの”とか言っちゃって、君だって十分子供っぽいじゃないか」
背中から反論が聞こえた。
「気絶した『子』?二十代じゃないか、あいつは」
「君は忘れているようだけど、ぼくだってほんとは三十近いよ」
先日屋敷の広間で噛みつかれたのと同じ言葉で反論すると、またヘンリーは黙ってしまった。
 ルークは深く息を吸い込んだ。
「はっきり言うよ。君が死んだって、父さんは生き返ったりしない」