ヘンリーのゲーム 2.出会い


 マスタードラゴンは小さく咳払いして話し始めた。
「誤解を解かせてもらうなら、わしが放棄した世界は滅んだわけではない。いわばフォークのように分岐して、存在する。ただし勇者が魔王を倒せなければ、それは平和な世界には成りえないのだがな。そもそも何かが起こればその結果として時間は分岐する。ヒトには見えないが、その気になればわしの目には平行して存在するいくつもの世界が見えるのだ」
と世界を見守る神竜は言った。
「ヘンリーが脱出できなかった世界もあるのですか」
「理論上、あり得る」
マスタードラゴンは長い首の先の大きな頭をおろし、ルークに近づけた。
「その条件から生まれた"現在"に存在するルークは、イブールを探して大神殿をさまよううちに悪魔神官とエンカウントしてそれを殺した。そのまま気づかなかった世界もあるだろう。だが、そのルークは、自分が殺したのが友達だと気づいてしまった。ルークよ、あの悪夢の中でおまえが聞いたのは、そのルークの悲鳴だ」
「……助けなければ」
「なに?」
「そんな気がしてしかたないんです。ヘンリーを殺したなんて、ぼくは耐えられない。たぶんそのルークは平行世界じゅうに響きわたる声を上げて、助けを求めたんだ。ぼくはその声を聞いた。助けたい。ぼくは、僕自身とヘンリーを助けたいんです」
マスタードラゴンはルークの目をのぞきこんだ。
「はっきり言おう。おまえがおまえであるためにはいくつもの欠かせないイベントが必要だった。しかし、ラインハットのヘンリーについてはそこまで断言できぬ。事実、おまえが大神殿での生活を生き延びたあとは、必ずしも必要ではなかったはず」
「でも、ラインハットは!」
「多少レベル上げは必要だが、おまえと仲間モンスターがいればラインハットそのものを光の教団から救うことはできる。それ以後はあの国にとってなかなか厳しい時代が続くが、それは人類全体からしてみればささいなことだ」
「そんなことを話してるんじゃない!」
手を握り締め、ルークはうつむいた。必要じゃなかったなんて、言わないでほしい。だが、それをうまく説明できずにルークはうめいた。
 ルークは顔を上げて竜の神と向き合った。
「あなたが神だと言うのなら、助けてください、僕とヘンリーを!」
「おまえたち二人を大神殿に行かないようにすることはできぬ」
峻厳なまなざしでマスタードラゴンは拒否した。
「そんなことをすれば、その世界の行く先は勇者を失い、滅ぶしかない」
「大神殿での十年が必要だというなら、甘受します!」
ルークは言い返した。
「だけどヘンリーを、マリアも、一緒に脱出させてください!」
「なぜだ。わしは成功例としてのおまえをここに確保しているというのに」
厳しいということは、こういうことなのだ、とルークは思った。国家ひとつの苦難さえ、ささいなこととマスタードラゴンは言い切った。ましてや、人間一人の苦しみや悲しみは、取るに足りないのだろう。ルークは気持ちの高ぶりで生じた全身の汗が、いっきに冷えていく気分を味わった。
「ぼくが悲鳴を聞き取ったたあのルークは」
マスタードラゴンを説得する方法を、ルークは一生懸命考えた。
「きっと、悲しいでしょう。彼はあのまま戦い続けることができるでしょうか。大神殿奥の院でぼくは先に、床に残されたヨシュアの遺言も見てしまいました。どうしてヨシュアも連れていけなかったか、遺言を見たとき胸が痛くなるほどの後悔を感じました」
実際、それは辛い体験だった。マリア……兄さんはもうだめだ……自分を逃がしたことでヨシュアが死んだのだ。
「ましてや、あんな状況でヘンリーが死んだら、ヘンリーを殺したら、戦い続けるのは無理だと思います」
本当は、そんなことはないと知っていた。まだ少年勇者がいるのだ。あの子が“お父さんいっしょに来て、助けて”と言ったら、どれだけ苦しくてもぼくは武器を取っただろうとルークは思った。
 マスタードラゴンはじっとルークを見ていた。自分のささやかなロジックが、世界を見通すまなざしの前にもろくも崩れていくのをルークは感じていた。
「よかろう」
重々しく竜の神は言った。
「本当ですか!」
「簡単なことではない。まず、おまえの悪夢の世界を特定しなければならぬ」
マスタードラゴンの目は真円だった。その中に、ほっとして腰が抜けそうな自分の姿が映っていた。
「ほんの少しだけ条件の違う平行世界は兆単位で存在するのだ。そしてその悪夢の世界を見つけたら、今度は今おまえが暮らしている世界との違いを見つけ、悪夢の結末へ行かないようにその違いを正さなくてはならない」
「その気になれば、世界を見渡せるとあなたは言った」
マスタードラゴンはためいきをついた。
「言ったとも。だが、何の手がかりもなしでは時間がかかる。ルーク、話してごらん」
「何を?」
「おまえがラインハットのヘンリーと出会ってからあとに起こったできごとを、覚えているかぎり話してごらん。それが、悪夢の世界を特定する助けとなろう」
「子供のころのことは、特に奴隷になった後の時代はあまり思い出したくないのです」
とルークはつぶやいた。
「でも、やってみます。僕が望んだことだから」
マスタードラゴンは巨大な猫のように前足をそろえてうずくまった。ドラゴンが火の息を吐けばかかりそうなところまでルークは近寄った。
「ぼくが初めてヘンリーに会ったのは、ラインハットの城でのことでした」

 調子が狂うのは嫌だ、と小さなヘンリーは思った。
 部屋の中は、きれいに片づいていた。ヘンリーが部屋にいないときに女官やメイドがわらわらとやってきて、彼女たちの好みに合うように部屋をしつらえていくのだ。大事な宝物を何度捨てられるはめになったことか……。
「片づけることになっておりますので」
冷たい口調で女官はそう言い、謝りもしなければ勝手な片づけをやめようともしなかった。
 ヘンリー付きの召使いたちにとって、この部屋は職場なのだ。ヘンリー自身さえ、ちらかったおもちゃや服、文房具、書物などと同じく、職場の付属品にすぎない。七歳のヘンリーを愛情や保護の対象にしてくれる大人は、少なくとも身の回りにはいなかった。
 どん、とヘンリーは拳をつくって自分の机の天板にたたきつけた。
「おまえら、みんな嫌いだかんなっ」
冷たい目の大人たちに向かってそう宣言しておいて、なのにどうして涙が出るんだろう、とヘンリーは不思議に思った。
「あいつ、なんだ……」
 初めてあったやつだった。それはヘンリーが"おまえら"と呼ぶ人種が送り込んできた大人だった。背の高い、黒目黒髪の戦士だった。そんなに若いわけではない。笑うと目尻のあたりにしわができた。そんな笑顔をヘンリーは久しぶりに見たと思った。
 両腕を机の天板に並べ、その上に小さなヘンリーはぽやぽやしたほっぺを乗せて考え込んだ。城内では無敵を自任するわんぱく王子の調子を狂わせたのは、その男、パパスだった。少し、話をしたい、とパパスは言った。君の父上が、私にそうしてくれと頼んだのだよ、と。
「頼む?」
それはヘンリーの知る父にはあまり似つかわしくなかったが、パパスが嘘をついているとはヘンリーには思えなかった。旅をしてきた、と彼は言った。息子と一緒に大きな船に乗って海を渡った、と。
「いいよな」
船だって!海だって!この国を離れてずっと遠くまで行くのは、どんなにセイセイとして気持ちがいいだろうか。
 身長に対してまだまだ大きすぎるアタマを小さなヘンリーは腕にすりつけた。どうしよう、と思ってヘンリーは渋面をつくった。
「いいか、勝手に部屋に入るなよっ」
初めて会った戦士、パパスにいつもの調子を狂わされたあげく、ヘンリーはそう宣言して部屋に閉じこもってしまったのだ。
「自分から、行かないとだめか?」
船に、乗りたい。海へこぎ出してみたい。それはすごく魅力的に思えるのだが、そのためには自分から部屋を出てあいつのところへ行かなくてはならないのだ。
「そんなことできるもんかっ」
プライド全開でヘンリーはぶんっとアタマを振った。
「でも……」
腕の中からちらっと目を上げてヘンリーは扉を見た。
どうする?行く?やめる?
「これもゲームかな」
それは物ごころついたときからずっとやっていることだった。ルールは簡単。逃げ出せたらヘンリーの勝ち。見つかったら、負け。勝つためには女官や従僕たちの噂話を聞きこんだり、ドアにはさむくさびや少しだけ丈夫なロープ、目立たないマントなど、ちょっとした物を素早く手に入れ隠し持っておくような工夫が必要だった。
 ときには相手を油断させるために、おとなしく家庭教師のいうことを聞くふりをすることもあった。偉そうな家庭教師に従えて、あの戦士に従えないことはないような気もする。けど……どうする?
 かちゃ、と音がした。どきりとしてヘンリーは硬直した。あいつか?!
 第一王子の私室には、もともと鍵がない。だからちびヘンリーには、誰も入るなと命令する以外にプライバシーを確保する術がないのだ。
 扉はそろそろと開いた。
 誰も入ってこない、と思った次の瞬間、ふみ~と鳴き声がした。自然に視線を下げたとき、ちょっと風変わりな猫と、黒い髪の男の子が、扉の隙間からこちらを見ているのに気づいた。
「だれだ、おまえは」
大きな黒い目の子供だった。不思議そうな顔でこちらを見ていた。自分と同じくらいか、ちょっと下、とヘンリーは見当をつけた。
 よくヘンリーは大人たちからお友達をあてがわれる。ヘンリーはオトモダチなどまっぴらだった。だって、俺には子分どもがいるし!
 身分が高く、教養のある、親に仕込まれた反応しかしないオトモダチより、厨房や厩舎の下働きをしている少年たちと遊び回っているほうがヘンリーは楽しかった。さて、こいつはどっちだ?
 着ている服はそんなに上等じゃない、とヘンリーは思った。が、こちらを見ている顔だちは意外なほど整っている。皿洗いのハナタレのような鈍重なツラとは違った。
「あの」
とその子は言った。その瞬間、ヘンリーはひらめいた。
「あ、わかったぞ。親父に呼ばれてお城に きたパパスとかいうヤツの息子だろう!」
その子供とパパスの共通点は明らかだった。まだ小さなヘンリーにはちゃんと表現できなかったが、背を丸めずにすっと伸ばし、緊張感を絶やさないのに深い包容力のある、そのたたずまいが同じなのだ。魂の高貴と戦士の資質を、子供ながらに感じ取ったのかもしれなかった。
 ぽやぁとパパスの息子は笑った。邪気のまったくない、うれしそうな笑顔で、彼はこくんとうなずいた。にこにこにこにこ……と、その子は笑っていた。
 なんだ、こいつ、とちびヘンリーは唇を尖らせ眉を寄せて考え込んだ。調子が狂うぜ、まったく!親子そろってこちらのペースを乱してくる。主導権を取り返すために、ちびヘンリーは腰に両手をあて、わざと挑発的に言った。
「オレはこの国の王子、王様の次にえらいんだ。オレの子分にしてやろうか?」
第一王子のご学友になるためにやってくるやつには、ちびヘンリーはまずこの問いをぶつけることにしていた。答え方で、そいつが何をどう言い含められて来たのか推測できるからだった。
 はい、あなたの忠実な子分になります、という奴はまだかわいげのあるほうで、いいえ、子分はけっこう、あなたの友になりたいのです、孤独な王子よ、と来る奴は腹に一物ある。そして、何をいっているのです、王子はあなた一人ではなく、弟君デール殿下がおいでです、と来た日には、確実にやばい。
 どう答えるかな、と思って見ていると、パパスの息子は真剣に考え込んだ。
「子分じゃないと、だめ?」
「オトモダチはまにあってる。子分なら募集中だ」
「う~んと、でも、コブンってよくわからないよ。一緒に遊ぶのは友達じゃないの?」
そっか、こいつ、一緒に遊ぶ友達がいるのか。まっすぐな、素直な瞳。その手は足下の猫の背をなでている。なぜかとさかのあるその猫は、飼い主の足に体をこすりつけて甘えていた。
「ぼくとビアンカとプックルは友達なんだ」
「はーん?よく聞こえんなあ!」
なぜか、いらっとした。
「もういっかい言うぞ!子分になるのか、ならないのか!」
どうして怒るの?ちょっと首を傾げ、パパスの息子は不思議そうにそう言った。
「ぼくは、きみを苛めてないのに」
怒りのあまり、ひゅっと音を立ててヘンリーは呼吸を飲み込んだ。
「もういっかい……!」
こくんとその子はうなずいた。
「ああ、わかった。怒ってるんじゃなくて、怖がってるだけなんだ。ほんとはいい子なんだね」
にこ、とその子は笑った。見ていると吸い込まれそうな、不思議な瞳だった。
「いいよ。友達どうしのつきあいが怖いなら、ぼくが子分になってあげる」
あっ、とヘンリーは目を見張った。こいつ、見抜いた!
次の瞬間、反射的にあざ笑う声をあげた。
「わはははっ、だれがおまえみたいな弱そうなヤツを子分にするか!帰れ帰れ!」
え?という顔をするその子を、ヘンリーは無理に扉の向こうへ押し戻した。追い出して扉を閉め切って、扉板に背を押しつけて初めて、ヘンリーは両手の中に顔を埋めた。
「ばかやろう」
その目で何もかも見透かすな。ひとりぼっちなのに強がってるって見抜くな。おまえなんか、おまえなんか……
 それがヘンリーとルークの、初めての出会いだった。

 マスタードラゴンは首をかしげた。
「その日がたしか、初対面だったな?」
「そうです」
とルークは言った。
「それはたいへんな一日でした」
先日までサンタローズの住人で、遊び場所は家の近所と洞窟と、そして妖精の国だった。だが、その日を境にルークの環境は激変した。しかも短時間のうちに。
「すべてを失ったのだ、おまえは」
「そうです。それまでの生活と父をぼくは失いました。そういう意味ではヘンリーもまた、すべてを失ったんです」

 片手で眼をぐしぐしこすり、もう片方の手を引かれながら、小さなヘンリーは小走りに歩いていた。すぐそばにある暗くて広大な水面から強い水の臭いがしていた。石を組んで作った通路の上にはあちこちにコケが生えている。水たまりもある。壁に取り付けた小さな獣脂ロウソクがじりじり燃えながら暗い通路と不気味な水面に黄色い光を投げかけていた。
「おれ、おれ……」
 鼻水が垂れ、眼が潤んで、うまくしゃべれない。前を行く子は黙ったまま先を急いでいた。なにもしゃべらなかったが、緊張で横顔をこわばらせ、唇を引き結び、そしてヘンリーの手をぎゅっと握っていた。
「お、おまえの父さん、大丈夫か」
汚い緑のずきん姿のモンスターが三体、パパスに襲いかかったのは見えていた。
「ルーク、王子を連れて早く外へ!」
そう叫びながらパパスは一人モンスターに立ち向かった。あまたのモンスターが徘徊する古代遺跡を通り抜けたためにかなり消耗し、そのうえ力づくで牢を破って体力が減っているはずなのに。
「……大丈夫だよ」
前の方から、小さな声で返事があった。
 ルークは誰よりも後に残りたかったに違いない。肩を並べて一緒に戦いたかったに違いない。だがルークはパパスの指示に従って、小さなヘンリーの手を引いてその場を後にした。
「おれが……おれさえ……」
ヘンリーの手のひらをつかむ手に力がこもった。
「父さんの言ったこと、聞いてた?」
「う……」
横顔がまだひりひりする。生まれて初めて、思いっきり顔をはたかれたのだ。
「聞いてたでしょ?約束したよね?」
ヘンリーはまだ子供だったが、生まれてからずっと宮廷の中で暮らしてきた。だから自分をさらったのが王妃アデルの指図だということはすぐに察しがついた。
王家の子供たちは物心ついてからすぐに、暗殺を避ける術を教えられる。王族の暗殺は城内の自然な死であるべきだった。一番いいのは病死、次は事故死。あからさまな殺意が見えるようでは、宮廷ではエレガントとは言われない。
 だがアデルは、優雅さをかなぐり捨てたのだ。
 "おまえさえ、いなければ!"
 後先を考えない、露骨な殺意。ヘンリーの父にあの子をどこへやった?と問いつめられたらどう答えるつもりなのか。ある意味でヘンリーは、そのことに一番驚かされたのだ。
「もし、親父も、承知の上だとしたら?」
そうだとしたら、助けはこない。絶対に。牢の片隅に膝を抱えてうずくまる間、見捨てられたのでは、という思いが、次第に心を黒く塗りつぶしていったのだった。
 パパスは突然現れた。背の高いその人影が石造りの牢獄を走ってくるのを見たとき、一瞬自分の父かとヘンリーは思い、すぐに人違いに気づいた。こんなとこまで親父が自分で来るもんか……。
 パパスは強引だった。牢の鍵をものともせず鉄格子を力づくでむしりとった。あ然としてヘンリーはその姿を見つめていた。
「よし、開いた!ヘンリー王子、お迎えにまいりましたぞ!」
小さなヘンリーは、そのとき、自分が子分にした男の子が一緒にいることに気づいた。あわててヘンリーは眼をこすった。いつのまにか、涙でいっぱいになっていたのだった。
「ふん! ずいぶん 助けにくるのが おそかったじゃないか」
涙声でそう言ったのは、せいいっぱいの虚勢だった。
「だいぶお待たせしたかな?」
背の高い戦士は、薄くほほえんでさえいた。
「違う!」
待ってなんかいなかった、とヘンリーは言いたかったのだ。
「 オレはお城にもどるつもりはないからな」
「なんですと?」
「王位は 弟がつぐ。オレはいないほうがいいんだ」
いつも心の中で思っていたことを、ついヘンリーは口にした。自分さえいなければ、父はむしろ安心して王位をデールに譲れるのではないか、と。
 いきなり力強い手がヘンリーの腕をつかんだ。次の瞬間、ぱん、と音がして、横顔に鋭い痛みが走った。
「な、殴ったな、俺をっ!!」
「王子、あなたは父上のお気持ちを考えたことがあるのか!?」
パパスは真剣な表情だった。
「そんなくだらない遠慮を、父上が喜ぶと思っているのか?」
まただ、とヘンリーは思った。また、見抜かれた。
「どうすればいいんだよ、俺」
パパスの両手が小さなヘンリーの両肩をつかんだ。
「父上に面と向かって要求しなさい。寂しい、かまってほしい、愛してほしい、と」
「ば、ばか!」
「いいや、バカじゃない。息子なら当たり前のことだ。父上はそれを待っておられるのだから」
「こっぱずかしくて、できるか、そんな」
ふとパパスの視線が和らいだ。
「父親はいつだって、息子とともに過ごせないことを済まない、申し訳ないと思っているものだ。息子はいつか、去っていくのだからな」
「ウソだ」
小さなヘンリーは袖で一生懸命涙を拭いた。
「父上に直接聞いてごらん。そうだ、もし王子が父上と話して許可をもらえたら、私が王子を旅に連れて行こう。海が見たくはないかね?」
海。旅。生まれ育った狭い世界を離れ、見たことのない世界を歩き回る。”脱出ゲーム”のあがりじゃないか。思っただけで小さなヘンリーは震えた。
「本当か?」
「ああ。約束だ」
パパスはほほえんだ。
「山頂から地底の湖まで流れ落ちる巨大な滝、見渡す限り砂でできた大地にたつ神秘の女王の城や、山一つがまるまる村になっていて、家と家の間がトンネルでつながれている不思議な隠れ里へ連れて行って進ぜよう」
それなら俺、と言い掛けた瞬間だった。大きな水音がした。さっとパパスが身をひねった。一瞬にしてその表情は、父親から戦士のそれへと変化した。
「くっ、早速現れたか!」
水中から現れたのは、暗緑色の頭巾で頭から覆われたモンスターだった。頭巾の下からのぞく眼は丸く、まぶたがない。パパスは剣を抜いた。
「ルーク、ここは父さんが引き受けた!」
小さなルークと大きめの猫が駆け寄ってきた。
「おまえは出口へ急げ」
「お父さん!」
明らかに自分も戦うつもりで少年は武器を構えていたのだった。が、パパスは明確に指示を下した。
「父さんは後から必ず行く。おまえは王子を連れて早く外へ!」