ヘンリーのゲーム 15.大神殿脱出

 ルークは唇を噛んだ。マリアが心配で、石切りを中断して石運びのために下りてきたのだった。
 ガスタムはマリアを岩床に突き飛ばした。腰のベルトにつけた革鞭の柄を引き抜くと、思い切り振りあげ、振りおろした。
「マリア!」
鞭の下にうずくまり、マリアは手で頭を抱えるようにしてこちらを見た。
「いけません、私に、かまうと、あなたまで、ムチで、打たれて、しまいますわ」
殴打の合間に切れ切れにそう言った。
 他の奴隷監督たちは、首を振っていた。
「仕事ガ遅レテンノニヨ。イイカゲンニシロ」
 その場にいた奴隷たちは、最初視線を合わさないようにしていたが、次第に険悪な顔でちらちら鞭打ちのようすをにらむようになった。
「ちょっと、まだ打つのかい」
「わざとやったくせに」
女奴隷たちがつぶやく。
「あいつ、マリアちゃんがなびかなかったんで八つ当たりさ」
男の奴隷たちの中には、拳を握りしめる者もいた。
「くそっ、くそ野郎の屑野郎めが」
「抵抗できないと思ってあいつ!」
顰蹙は不満になり、熱い憎悪へと育っていく。いつのまにかその熱さは、その場にいたルークの中に飛び火していた。
 ルークは、運んでいた石をその場におろした。あともう一回鞭がマリアを襲ったら、そのときは……。
 誰かが脇を通り過ぎた。
 え、と思ってその後ろ姿を見た。
 奴隷のギザミミことヘンリーだった。
「俺はもう我慢できないぞ」
めったに聞かせないような低い声でヘンリーはそう言い、鞭をふりまわす男のところへ歩いて行った。
 足は反射的に動いた。ルークは歩いてヘンリーの傍らに並んだ。
「ぼくも行く」
こちらを見ずにヘンリーはうなずいた。最後の数歩はほとんど助走だった。ヘンリーの拳がガスタムの顎の横に命中した。
「ウワッ」
情けない声を上げてガスタムはふっとんだ。打たれ弱いというのは本当らしく、誰かに反抗されるとどうしていいかわからないありさまでおろおろとこちらを見上げた。
「オイ、ソコ、何ヤッテル!」
別の奴隷監督があわてて走ってきた。ルークはその男に向かって身構えた。
「オマエモ歯向カウ気カ!」
鞭が飛ぶ。打たれる前にその下をかいくぐってルークは一発お見舞いした。
「いいぞーっ」
「兄貴、やっちゃってくださいっ!」
まわりから歓声が飛び出した。
 もう一人奴隷監督が来たことでガスタムはやや気を取り直したようだった。立ち上がるとヘンリーにつかみかかった。
「ギザミミ、キサマ、オレニ手ヲ上ゲテタダデ済ムト思ウナ?本当ニ処刑ダゾ」
「この期に及んで人頼みか」
いつも無気力にうつむいている奴隷の擬態をヘンリーはかなぐり捨てていた。親方がいなくなってからも、ルークとヘンリーは教えられた武術の鍛錬をこっそり続けていた。ガスタムに使える得物は鞭だけ。ルークと同じくヘンリーも懐へ飛びこんで鞭の特性を殺すことを選んだ。攻撃は裸の拳と、同じく裸足の足だけ。だが鈍重な魔物をほんろうするには十分だった。
 蹴りが、拳が決まるたびにぐふっぐふっとガスタムは情けない声を出した。
「オイ、兵士ドモッ、ウグッ」
顎下をねらったパンチでガスタムは舌を噛んだ。
 ヘンリー、とルークは言った。もう一人の奴隷監督はたった今、床に沈んだ。
「来ちゃったよ」
兵士たちだった。その中にヨシュアがまじっているのをルークは目で確認した。
 ちっとヘンリーは舌うちした。
「ここまでか」
応援していた奴隷たちはしぶしぶ後ろへ下がった。二人の奴隷のまわりを兵士たちが取り囲んだ。
「またおまえたちか」
隊長は呆れた顔でルークたちを見下した。兵士たちは槍を構えた。が、隊長はあたりの雰囲気を敏感に感じたようだった。
「おまえら、作業に戻れ!」
乱闘で興奮している奴隷たちはじっと兵士を取り巻いて見つめていた。無言だが、作業に戻ろうとはしなかった。
 ガスタムがようやく起き上った。
「コイツラ、ブッ殺セ!」
隊長は憎々しげにガスタムをにらんだ。
「こう毎日騒ぎを起こされちゃ困る。作業も遅れる。奴隷を挑発するのはやめてほしいと言ったはずだ」
ガスタムは目を剥いた。
「人間ノ分際デ、俺タチニ命令スル気カ?誰カ現場監督ヲ呼ンデクレ!」
唾を飛ばすようにして言い募った。
「ココニイルゾ」
シュプリンガー族の現場監督は、騒ぎが起きたと聞いてすぐにやってきたようだった。現場監督は腰に左右の手を当てて薄汚い奴隷たちを見回した。
「モウ一度言ウ。仕事ニ戻レ」
と奴隷に言い渡した。
「コノ二人ハ、罰トシテ水牢ヘ入レル。処刑ハ、今ハシナイ。仕事ニ戻レ!」
ようやく奴隷たちが動きだした。
「監督」
とガスタムが言いかけた。
「言イ分ハワカッテイル」
と現場監督は言ったが、すぐに振り向いた。
「隊長、来テモラオウカ。話ガアル」
「こちらもだ」
その前に、と隊長はふりかえった。
「誰か手当してやれ。解散。全員警備にもどれ」
マリアを指してそう言うと、隊長は現場監督といっしょに行ってしまった。

 水牢は、石切場からつながる地下洞窟を少し進んだところにあった。洞窟の行き止まりは一種の水路になっていた。山頂に降る雨や雪から水分が地中に滲みこみ、それが集まって地下洞窟の中に池をつくり、そこから洞窟の奥へと続く流れになっている。
 十年に及ぶ"ゲーム"の間にルークたちはこの場所も調べ、地図に書き込んでいた。ただし、水牢のひとつから見渡せる部分だけで水路の先はわからない。ルークの鍵開け技術でもヨシュアの鍵束でも開かない扉が池を遮っていた。
 扉の手前には、独房がいくつか造られていた。見せしめの処刑をするまでもないような反抗をした奴隷などはここにつながれる。ナマイキことルークも過去何度か世話になっていた。
 独房の壁には鉄のバーが打ち付けられ、そこに取り付けた鎖で囚人の両手首を動けないようにする。囚人は、壁により掛かることはできても基本的に立ったままでいるしかないし、食事も水も与えられない。一昼夜も水牢で過ごすと、重労働の方がましだと思えてくるのだった。
 ルークたちは兵士らによって水牢へ連れ込まれ、独房へぶちこまれていた。二人並んで壁のバーに腕をつながれているかっこうだった。
「悪かったな」
とヘンリーは言った。
「熱くなるなとか言っておいて、俺の方が先に手を出した」
奴隷監督のガスタムのことだった。あはは、とルークはつながれたまま笑った。実は胸がどきどきしていた。
「あの時あいつが、もう一回マリアに手をあげたら僕が先に殴ってたよ」
地下水がどこかへ向かって流れる音が地下洞窟にこだましていた。
「お互い損な性分だぜ」
ヘンリーは自嘲した。
「おかげでぶちこまれちまった。ちくしょう、盗みにいく算段がご破算だ。ま、処刑よりマシかもなっ」
ねえ、とルークは言った。
「君はヘンリーだよね?」
マスタードラゴンに無理を言って、やっとここまで来られたのだ。
「はぁ?なに言ってんだ、おまえ。当たり前だろうが」
「ぼくは、その、ルークだけど君の知っているルークじゃない」
平行して存在する何兆何億もの世界のひとつからやってきたルークだ、と説明することができなくてルークは悩んだ。
「よく聞いて。これからヨシュアが、マリアを連れてここへ来る」
はぁ、と言おうとしたらしくヘンリーは口を開けかけて、また閉じた。
「おまえ、……どうした?」
「本当だよ。僕は一度経験したんだ。ああ、なんて言えばいいか、この身体は今十六歳だけど、君に話しかけてるぼくは二十代の半ばをすぎてる。マスタードラゴンの助けでここにいるんだ」
「マス……おいおい、一体なにを」
「目細に伝言をちゃんと頼んだ?」
うさんくさそうだったヘンリーの表情が初めて変化した。
「なんで知ってるんだ?」
「二十年ほど未来の君に聞いたからさ」
おい、とヘンリーは言った。
「二十年後だと?おれは何をしてた?」
論争を挑むようなその口調にルークは懐かしさを覚えた。それは、子分なら募集中だと言った、そばかすの男の子そのものだった。
「君は、君にそっくりの男の子のお父さんだよ」
「結婚してんのか。俺の嫁さんは美人か?」
ルークはこんな状況でもにやりとせずにはいられなかった。
「君の好みだと思うよ?とりあえずぼくに説明させてくれるかい?」
「俺が信じるとは限らないぞ?」
「じゃ、ヨシュアが来たら信用して」
「わかった。とにかく言ってみろ」
ルークは深く息を吸った。
「このままだと、ぼくは君を殺してしまうことになる」
な、という形に口を開いてヘンリーは固まった。
「なんでかって?"ゲーム"に失敗した君は、この大神殿に閉じ込められたまま悪魔神官になるからさ。そうならないために、これから言うことをよく聞いて」
背中にあたるのはごつごつした岩壁だった。足下の床も同じような岩で、しかも湿って苔が生えていた。お世辞にも居心地のいいところではなかったが、ルークは時を忘れて話し続けた。水牢のまわりの独房は、ルークたち以外は静かで他に囚人はいないようだった。 
 地下水の流れる轟々という音に金属音が混ざったのは、それからしばらくしてのことだった。
「マジか……」
入ってきた人影をみて、ヘンリーがつぶやいた。兵士の制服を着た若者と女奴隷の二人連れ、ヨシュアとマリアだった。
 ヨシュアは懐から鍵束をだし、そのうちの一本でルークたちのいる牢の扉を開けはなった。
「マリア、急げ!」
鍵束ごと渡されてマリアは真剣な顔でうなずいた。
「はい!」
床の水たまりもかまわず駆け寄ると、マリアはルークたちの手首の鎖を次々とはずしていった。
「君は」
ヘンリーが言い掛けるのに、マリアは早口で答えた。
「先ほどはありがとうございました。どうか、こちらへ!」
ルークたちは独房の外へ出た。
 ヨシュアは、水路を閉ざしていた錠を開き、岸辺に立っていた。
「マリアを助けてくれたんだな。ありがとう」
「ヨシュアさん、あなたは」
ヨシュアはひとつうなずいた。
「大丈夫、伝言は聞いた。マリアは……なんとか連れてきた。君たち、マリアを連れてここから逃げてくれないか」
マリアは何か言い掛けてうつむいた。
「どうやって?」
「ここは死んだ奴隷を流す場所なんだ」
と元小隊長は言った。
「空き樽に詰めて水路へ流すと、この島を取り巻く海へでる。気味が悪いかもしれないが、樽に入っていれば外へ出られるだろう。頼む!」
ルークは水路を見た。地下洞窟の壁から水が湧き上がってくる。池に満ちたその水の中に見覚えのある木の樽が浮いていた。食糧倉庫で空になった樽の行く先をルークは初めて確認した。
「兄さん」
悲痛な声でマリアが兄を呼んだ。
「私……」
「いつまでもめそめそ屋の泣き虫だな」
丸刈りにされた妹の頭を撫でてやりながら、ヨシュアは優しく言った。
「この樽は三人が限度だ。おまえが行けよ」
「兄さんはどうするの」
「俺は、やることがある。俺の人生は今まで大間違いだったんだ。少しでも訂正したい」
「死んじゃう、つもりなんでしょう」
「マリア」
ルークは唇を噛んだ。ヨシュアはここへ残せば必ず死ぬことになる。しかも、おそらく拷問によって。マリア……兄さんはもう、だめだ……。
 誰かが肩をついた。
「おまえ、先に行けよ」
ヘンリーだった。
「え、ああ」
「マリア、きみも」
ヨシュアは妹をそっと押しやった。
「兄ちゃんの言うこと聞け」
涙にまみれた顔でマリアは後ずさった。
「さあ、こっちへ」
ルークはマリアを樽の中へ入れた。
「ヘンリー、君も」
その瞬間だった。ヘンリーはヨシュアにぶつかるように抱きつき、そのベルトから剣を取りあげて鞘を払った。
「ヘンリー!?」
抜き身の剣をヘンリーはヨシュアに付きつけた。
「鎖かたびらを脱いで下さい。ヘルメットも」
「何してるんだ!」
ちらっとヘンリーはルークの方を見た。
「ルーク、鍵束を取れ」
樽から離れ、言うとおりにカギをとったが、ルークはとまどっていた。これは違う。ぼくの時はこんなことは起こらなかった。
「やってほしいことがある」
「でも」
こちらに視線を投げたヘンリーは、かすかに笑っていた。
「これはまだおれの“ゲーム“だ、そうだろ?なら、アナザーエンドといこうじゃないか」

 ナタンに取って、それはいつもと何も変わらない一日だった。兵舎から出勤し、朝礼を受け(ヨシュアの奴、怒られてる)、班を組んで巡回警備、もうすぐ昼飯、というところでガスタムがまた騒ぎを起こしたと聞いた。
「奴隷女はマリアだって?」
自分がどうこうしなくても、マリアがいじめられればヨシュアがへこむ。飯を食ったらあとで慰めるふりをしてじっくり顔を見てやろう、とナタンは思ってほくそえんだ。
「あの女、どこにいるんだ?」
「現場監督が手当てしてやれって言ってたよ」
「ふーん」
と答えて、やっとナタンは思い当たった。
「現場監督は『手当てしてやれ』って、誰に言った?」
「さあ?非番のやつだろ」
せり上がる予感を押し殺してナタンは広い建設現場を見回した。兵士はそれぞれの持ち場にいるようだった。
 ヨシュアが見当たらなかった。
「ちょっと俺、詰め所に忘れ物しちまった。すぐ戻る」
「おい、サボリか?」
「すぐ帰るって」
ナタンはあせっていた。
 マリアを介抱しているのがヨシュアだとしたら?
「あいつら、脱走するぞ!」
一気に現場を走り抜けた。
「オイ、ドコヘ行ク?」
赤い鞭を持った奴隷監督がみとがめた。ナタンはかっとなった。
「奴隷が脱走したかもしれないんだっ」
「ナンダト」
ナタンは走り続けた。あとからモンスターの奴隷監督が人数を集めてついてくるのがわかった。現場の一郭から兵士詰め所へ、詰所から地下洞窟を通って奴隷の岩牢へ。
「マリアはどこだ?」
当番の兵士は鈍そうな顔でこちらを見た。
「兵士が来て連れて行ったぞ」
介抱しろと言われているのに連れ出す兵士などひとりしかいない。ちっと舌打ちひとつしてナタンは走った。岩牢から詰所へ戻り、地下洞窟経由で古い奴隷の墓場へ、そこから奥の水牢へ。
「くそっ」
開け放たれた扉を見ただけでナタンは悟った。
 独房から独房へとナタンは見て回った。ナマイキもギザミミもいない。それどころかマリアとヨシュアの姿もなかった。
「オイ、見ロ!」
むち男がわめいた。指差す先は水牢の水路の岸辺だった。何か転がっている。男の死体だった。
 男は上半身を頭から水につっ込んで死んでいた。鎖かたびら、ヘルメットとも見覚えがある。光の教団護法戦士団の標準的な兵装だった。岸辺には教団から支給されたのと同じ剣がつきささっていた。
「ヨシュアか」
とナタンはつぶやいた。さきほど現場を見まわして、ほとんどの兵士は居場所を確認している。足りないのはヨシュアだけだった。
「奴隷に殺されたのか」
呆然としているナタンの背後を、むち男たちが通り過ぎた。水面には、流出防止に張ってあった鎖が解かれて樽がばらばらに浮いていた。
「樽ガナクナッテイルゾ」
「クソッ、ヤラレタ」
「現場監督ニ言ワナキャナラン」
「誰ガ責任ヲトルンダ?」
「知ラネエヨ」
と言いながら、モンスターたちはじろじろとナタンを眺めていた。
 奴隷監督の一人が部下に向かって乱暴に命じた。
「ボンヤリ見テルンジャナイ、独房ヲ閉メロ!片ヅケテオケ!」
とばっちりが来そうなモンスターたちは首を縮めて片づけに動き出した。
「フン、樽デアノ大滝ヲ下ル気カ」
「木端微塵ニナッテシマエ!」
「オマエモ来イ」
最後の言葉はナタンに向けられたものだった。ナタンは、魂の抜けたような顔のまま立ち上がり、おとなしくついていった。
「アイツ、コレカモナ」
一人が手刀を首に当てて見せた。
 下っ端のモンスターたちはぶつぶつ言いながら水牢を片づけ、水面に散らかった樽を集め始めた。
「マタ樽ヲ倉庫カラ持ッテコナケレバ」
「イクツイル?」
相手は答えた。
「二ツダ」

 樽は激しい水流にもまれて激しく上下していた。
「ほんとに大丈夫か、これ!」
周りの水音がうるさくて、会話もしにくい。
「前は、壊れなかったよ!」
ルークは叫ぶように答えた。
「あっちの樽も平気だといいけどな」
二つの樽はヘンリーが鎖を駆使して水の流れへ導いた。二個目の樽には、ヨシュアとマリアが入っている。
 ルークはあのあとヘンリーに言われたとおり、独房のひとつから亡くなった囚人の遺体を運んできた。その身体にヨシュアの鎖かたびらを着せたのはヘンリーだった。
「これで身代わりができたんだ。“ヨシュアは死んだ”とナタンが思い込めばあえて追跡しないかもしれない。脱出しない手はないぞ」
それでもヨシュアはためらった。
「兄さん、お願い!」
決め手はマリアの嘆願だった。ついに4人は二つの樽に入って水路へ乗り出した。ルークとヘンリーは狭い樽の中で並んで腹ばいになっていた。
「くそっ、どれだけ続くんだ」
流れはどんどん早くなっていく。
「もうちょっと。もう少しで滝に出るから、どっかつかまって」
「樽ん中でか!」
憤然としてそう叫んだあと、そうだ、とヘンリーは言った。
「なあ、さっきはごまかされたが、今度は教えてもらうぞ。俺は誰と結婚するんだ?」
「えーと」
ごろごろごろ、と雷のように鳴り響く水流の中、ヘンリーに答えようとした瞬間、ルークは何か場違いな音を聞いた。柔らかい鈴の音のようだった。あくまで優しく、柔らかい音色なのに、同時に荘厳な音。それをルークは知っていた。
「天空のベル?」
思いあたった瞬間、ふっと意識が遠のいた。
「ごめん、時間切れだ。でも君はもう、会ってるから」
そこまで言うのがせいいっぱいだった。

 マスタードラゴンは至近距離から見つめていた。
「もう、よかろう」
ルークは、天空城玉座の間の中、マスタードラゴンの身体にもたれていた。
「あ」
声をあげて、ルークは頭を振った。
「終わったんですね」
「おまえの願いは聞き届けた。多少、変化はしたがな」
ルークは竜なる神を見上げた。
「あの世界では、あれからどうなったのですか?」
「おまえたちは二つの樽に入って浜辺に打ち上げられ、四人全員生還した。修道院に助けられたようだ」
すらすらとマスタードラゴンは答えた。
「ヨシュアは」
しばらく沈黙してからマスタードラゴンは言った。
「あの兵士もいっしょだ。マリアは修道女にならなかった。兄妹はオラクルベリーで働き始めた。ラインハットの事件でラーの鏡が必要となった時、神の塔に入れなかったおまえたちが兄妹のようすを見にオラクルベリーへおもむき、マリアにも事情を話したのは当然のなりゆきだった」
ルークはまだ緊張していた肩からゆっくり力を抜いた。では、あの壁に書かれたヨシュアの遺言は、向こうの世界ではもうなくなったのだろう。
「マリアは修道女ではなくても神の塔を開けられたのですか」
「信仰厚い乙女には違いないからな」
そうか、とルークは思った。
「じゃあ、そのあとはこちらの世界と同じに?」
「無論だ。ちょっとしたオプションにすぎん。ああ、ヨシュアは脱出の後、裕福で満ち足りた人生を歩む。オラクルベリー郊外に土地を得て羊を飼い始めたぞ。ヘンリーの求婚は修道院の庭ではなく、羊の群れの真ん中で行われた」
「よかった。ほんとによかった」
心からルークは言った。マスタードラゴンは、まるで照れ隠しのように巨大な翼をはばたかせて、うむ、とつぶやいた。
「すいません、あの、ぼくは」
遠慮がちに言いだしたルークに向かって、マスタードラゴンは言った。
「私が出した交換条件を覚えているか」
思わず、はい?とルークは聞き返した。
「あちらの世界でもこちらの世界でも、ひとつの命が戻る、とおっしゃいました」
「そのとおり、なのだが」
煮え切らない口調にルークは違和感を感じた。
「マスタードラゴン、誰です?誰の命が戻るのですか?」
目に見えて竜はひるんだ。

 記憶にある少年奴隷の顔と、目の前の王国宰相の顔がふっと重なった。
「今度はどうしたんだ、いったい?」
あばらが浮くほど痩せ、耳の形がギザギザになり、前髪で顔の半ばを被った垢じみた奴隷の子は、今、豪華な貴族の服をまとい、手に銀の宰相杖を軽く握り、宮廷正装用のくるぶしまであるマントに金の飾りひもをかけ、宰相執務室の前に立っていた。
 そろいのお仕着せの従僕が数名、部屋の扉を開け、椅子を整えて準備をしている。その一人に宰相杖を預けると先に立ってヘンリーは部屋へ入った。入れよ、と顔を動かして彼は合図した。
 このあいだほとんど何も説明せずに飛び出したので、ラインハットへ行くのは多少面映ゆかった。が、何事もなかったかのようにヘンリーは迎えてくれた。
 いろいろ考えたが、自分がむこうの世界のヘンリーとヨシュアを助けたことは黙っていようとルークは決めた。ルークが助けたのは別のヘンリーであり、今目の前に座っている人間ではないのだから。
「顔を見たくなっただけ」
従僕がひいてくれた椅子にルークは腰掛けた。どうやら先日の事件はほとんど片づいたらしく、城内にはのんびりした雰囲気が漂っていた。
「出たり入ったり、おまえも忙しいな」
宰相のオフィスは、今誰もいなかった。一仕事終わったあとらしく、ヘンリーが従僕その他を下がらせ、邪魔をしないように言いつけていた。執務室の贅沢な椅子に身を沈め、ルークはもごもごとつぶやいた。
「ああ、うん」
嘘が下手なのは自覚している。だがヘンリーは軽く肩をすくめた。
「まあ、いいや。今度は魔界だっけ」
贅沢な椅子の手すりに肘をのせ、軽く握ったこぶしに顎を載せてヘンリーはそう言った。
「まあね。今、いろいろ準備しているところ」
ヘンリーが何も聞かないので、なんとなくルークの方がしゃべる形になった。
「君の“ゲーム”のこと、覚えてる?」
「おまえ、こないだも大神殿のときのことを聞いたよな?何か関係あるのか?」
「え、あ、いや、なんだか昔のことをいろいろ思い出すんだ」
「へえ……」
ちょっとヘンリーは首をかしげた。
「そうだな、今考えると失敗だ」
「え?」
「俺の“ゲーム”だよ。正確に言えば、脱出そのものはできていないからな。俺は振り出しに戻ったんだ。今はラインハットに閉じ込められたみたいなもんだ」
と、国王代理を務める王国宰相は言った。
 ルーク自身、王国ひとつ分の責任を背負っている。王国を担うとは、自分勝手な行動を厳重に慎むということなのだ。閉じ込められた、というのは正しいとルークは思った。
「だから、ゲームは失敗だ」
「それじゃあ」
言いかけたルークはヘンリーの笑顔を見て口を閉じた。
「いや、ハッピーエンドさ」
いつもの悪童ぶりにも似合わない表情でヘンリーは笑った。
「おれはゲームのゴール、“かけがえのないもの”を手放した。そして“守りたいもの”を手に入れた。マリア、コリンズ、デール、お城や王国の連中……数え上げればきりがない。脱出ゲームには失敗したが、それでもおれはハッピーエンドにたどりついたんだ」
「ヘンリー……」
いや、言わないでおこう、とルークは思った。
 世界を見守る竜なる神にしても、すべてが思い通りにできるわけではないのだった。マスタードラゴンがルークの無茶な願いを聞き届けたために、諸世界を形作るタイルが次々と動いた。最後に開いた穴はひとつの命で埋められた。
 ゲマだ、とマスタードラゴンは言った。善悪を問わず、あのくらい大きな存在の命でなければこの穴を埋めきれなかったのだ、と。
 もう一度あの頭巾の悪魔と戦う日がくる。たぶんミルドラース戦と負けず劣らずの、たいへんな闘いになるはずだった。
 ルークは静かにうなずいた。何も知らない友達の澄んだ笑顔がその闘いの代償ならぼくは受け入れてみせよう、と、ルークは思った。