ヘンリーのゲーム 14.運命の分岐点

 誰にも知られずにこっそりと、運命の日はやってきた。
 若い兵士ヨシュアは、人生を棒に振った後悔と妹を失った絶望で沈みそうになっていた。
 女奴隷マリアは、今日も一日毅然と振る舞えるようにと聖女マーサに加護を祈っていた。
 奴隷のナマイキことルークは、老衰に過重な労働を課せられてその朝死んだ奴隷のために哀しんでいた。
 同じくギザミミことヘンリーは、頭の中でその日の仕事をどうごまかして盗みにいくかの段取りをつけていた。
「さっさと出ろ、仕事だ!」
奴隷監督と兵士がやってきて、牢から奴隷たちを追い出しにかかった。
 岩牢の前には、薄いスープと固焼きのビスケットが用意されていた。奴隷たちは首輪どうしを鎖でつながれ、順番に移動してその貧しい朝食をもらうのだ。ルークは鎖の列の前の方にいて、毎朝おなじみの小さな騒動を巻き起こしていた。
「なんだ、その目は!」
 ヘンリーはその日はたまたま、別の鎖の列に入れられていた。すぐ後ろに目細がいた。いつものように無気力を装ってとぼとぼ歩きながら、ヘンリーはそっと兵士ナタンのようすをうかがった。
「目細、ちょっと頼まれてくれないか」
ビスケットを口に運ぶように見せかけて、ヘンリーは話しかけた。
「あ?」
と目細は間の抜けた声をあげた。

 すぐそばにある、金の鱗で被われた巨体が突如身震いした。はっとしてルークはマスタードラゴンを見上げた。
「待て、待て、まて、マテ、マ、マ、マ」
ルークはぞっとした。こんなマスタードラゴンは見たことがない。竜であっても常に理性的だったこの存在が、ろれつもあやしくなり、まったくの獣のように吠え、じれったそうに翼を広げて打ち振り、太い尾をくねらせて暴れていた。
「何事ですか!」
ドラゴンガードたちがあわてて飛び込んできた。
「わかりません、突然、こんなふうに」
天空城はいきなり騒然となった。あとからあとから天空人が玉座の間へやってくるのだが、おろおろして何もできないようだった。
「騒がないでください!」
突然、だれかがそう言った。同時にマスタードラゴンはぐったりと弛緩した。天空人たちがあとずさった。マスタードラゴンの前に、うっすらと幽霊のようなものが現れた。ポーカーマスターのようなしゃれた身なりの眼鏡の男、プサンだった。
「やあ、ルーク、あなた、困ったことをしてくれましたねえ」
「え、僕が、何を」
プサンはこんな時でもひょうひょうとした態度で、眼鏡の位置を直した。
「こいつ、というかまあ、私ですがね、今、めまいがしてふらふらなんですよ」
「は?」
プサンはちょっとルークをにらんだ。
「しかたないでしょ!心臓の鼓動が一度打つ間に一億の世界が目の前を通り過ぎるんですから」
あっとルークは言った。
「ルーク、平行して存在する大量の世界を見比べてくれって、そう頼んだのはあなたでしょうに」
「そうです。もしかして、それが原因で?」
「その通り。とてもじゃないが目が足りない状態です。まずいな、だいぶかかりそうですよ」
「どのくらい?」
あのねえ、とプサンは珍しくいらだった。
「わかるわけないじゃありませんか。あなた、夜空の星を数えきることができますか?」
と言った口で、プサンはふっと息を抜いた。
「でも、そうですね。夜空の赤く光る星を数えきる、ことならできるかもしれません。あるいは、東の地平線に近いところで赤く光る星、ならね。ルーク、絞り込みの条件を教えてください」
「ぼくには、何のことやら皆目」
プサンはうなった。
「あなたはあの朝、その場にいたのでしょう!ヘンリーは目細に何を依頼したのですか」
ルークはめんくらった。
「え、あの」
プサンは片手を振った。
「私はマスタードラゴンの器ですからね。話はすべて聞いていましたよ」
「え~と、僕はあの朝、兵士に目つきのことでいちゃもんをつけられてました。ヘンリーの会話は聞いてないんです」
「じゃ、調べてください」
当然でしょう、とプサンは恨みがましい口調で言った。
「そもそもあなたは、彼を助けようとしてこんなことを始めたのでしょう。本人に聞くのが筋だ」
「目細に頼んだことが、ヘンリーを助ける手がかりになるんですか?」
「なるかならないか、見比べてみないとわかりません。でもこのままじゃ、世界を見守ることができないのですよ、マスタードラゴンともあろう者が!何とかしてください」

 ラインハット城では先日明るみに出た疑獄事件の後始末として、御前会議が開かれていた。場内の会議室に、事件の当事者たち、そして第三者として招かれた貴族などが一堂に会し、それぞれの言い分を申し立てているところだった。
 だいたいの落とし所は国王と宰相兄弟のあいだで見当をつけてあった。釘はきっちりと刺す、しかしあまり追い詰めすぎないようにする、というのが方針だった。
 それとは別に、と王国宰相オラクルベリー大公は十指をばきばき鳴らしながら考えていた。事件の首謀者は、俺、一、二発殴ってもいいよな?
 どうもその考えが顔に出ているらしく、招集をかけられた大貴族の誰彼の目が泳ぎ、少々挙動不審になっていた。
――兄上……。
上座に居るデールがたしなめるような視線を送ってきた。ふん、とヘンリーはつぶやいて、せいぜい中立の第三者の冷静さを装った。
 さきほどから情状酌量を求めて証言していた小太りの貴族がやっと説明を終えた。
「……ということでございまして、われわれはむしろ被害を受けた立場にすぎないということはおわかりいただけましたでしょうか」
どの口がいいやがる、ブォケが、と心の中で毒づいて、ヘンリーはできるだけ静かに微笑んだ。
「たいへんよくわかりました。ただし、被害総額の大半が」
と続けようとして、ヘンリーは言葉を失った。
 ラインハット城会議室は城の三階にある。窓はかなり大きくとって、高価な板ガラスをはめてあった。そのガラス窓の向こうに何かいた。
 いつも油を塗ったようによく回転する宰相の舌が止まったので、会議室の全員が不思議そうにヘンリーを見た。そしてその視線の先を目で追ってやはり絶句した。
 空飛ぶ絨毯だった。そしてその上に、まごうかたなく友邦グランバニアの国王が乗っていた。
 たっとヘンリーは窓に駆け寄って開け放った。
「何やってんだ、おまえ!」
聞きたいことがあって、とルークはごくまじめな顔で言った。
「ごめん、階段をあがってくる時間も惜しかったんだ。あのさ、大神殿にいた最後の日の朝を覚えてる?」
「覚えてるぞ?」
とヘンリーは言った。幸か不幸か、一度でも見聞きしたことはまず忘れない。おまけにあの脱走の日のことはめちゃくちゃ印象が強かったのだ。
「朝ご飯の時のことだけど」
「豆のスープと堅焼きビスケットだった。けっこうごちそうだったんで、逆に気持ちが悪いと思ったね」
「あのとき、目細に何か頼んだだろう?」
ヘンリーは記憶をざっとさらった。
「ああ、うん。だいぶ迷ったんだけどな、目細にこう言ったんだ。"ナタンに気をつけてくださいとマリアが言ってた"、これをヨシュアに伝えろって」
「だって、君は」
ヨシュアはナタンを友達だと信じている、だから警告は聞かないだろう、それはヘンリー自身の判断だったのだ。しかし。
「ヨシュアは、マリアの言うことなら信じると思ったんだ。あのときナタンは、ヨシュアがマリアと直に話すのをえらく警戒していたからな」
「それじゃ、あのとき、ぼくたちがマリアのために奴隷監督と喧嘩したときはもう、ヨシュアはナタンを警戒していた?」
「目細がヨシュアといつ接触したかによるが、まあそうだろうな。さすがの俺にも、あの日まさかあんな展開をするとは予想できなかった」
大神殿建設現場に出る前目細に指示を出し、仕事の最中に奴隷監督と戦闘、水牢送りになり、なんと脱出。本当に印象の強い一日だったのだ。
「本当はマリアが直接ヨシュアに忠告するといいと思ってたから、目細を伝言に使うのはどうしようかと迷ってたんだ。でもヨシュアをこっちがわに取り込みたかったから早めに動くことにしたのさ。マリアが奴隷の側にいるなら、ヨシュアは必ず味方になってくれるからな。でもまあ、食い物のためにヨシュアを利用しようとしたわけだから、こんなことマリアに言うなよ」
「言わないよ。あのさ、もし、もしもだよ?その警告をしなかったら、どうなった?」
考えながらヘンリーは言った。
「ヨシュアはたぶん、俺たちが水牢の独房へ入れられたのを知って、マリアと一緒に樽で流そうと決心したんだろう。マリアは直前に鞭打ちにあって、たぶん岩牢で休ませられていた。ヨシュアはマリアを岩牢から連れ出したはずだ。もしもヨシュアが伝言を受けず、ナタンを特に警戒していなかったら、マリアをあからさまに連れ出しただろう」
奴隷?独房?と、背後で御前会議がざわついていた。だいたいのことを察したデールが、貴族たちに静粛を促しているのもわかった。
「そうしたらどうなる?」
「どうもこうもない。ナタンはたぶん、すぐに脱走だと感づく。二人だけのときにヨシュアがそう言ったからな。だとするとナタンは隊長か誰かに通報して、兵士の人数をそろえてヨシュアを取り押さえに行っただろう」
「マリアとぼくが先に樽の中にいて、樽流しの途中で兵士たちが来たら、ヨシュア、そして君が……」
ルークは手のひらで口元を覆った。
「これだ。これが分岐点だ」
「何の話だ?」
ルークはこわばった顔をあげた。
「悪夢の話さ」
「はあ?」
ルークは首を振った。
「やっとわかったんだ。ヘンリーは正しかったよ。それでよかった。君は自分で自分の運命を救ったんだ」
妙に晴れ晴れとした顔になってルークはしきりにうなずいた。空飛ぶ絨毯は窓を離れてすっと浮かびあがった。
「もう行くよ!このことを教えれば、もう一人君を助けられるはずだからねっ」
じゃ、と手を振って空飛ぶ絨毯は行ってしまった。
「お、おう」
そう答えてヘンリーはひらひらと手を振った。長年のつきあいだが、ルークはときどき自分には理解できないことをさらっということがある。ルークにとってはまったくあたりまえのことらしいのだ。
「あいつ、変わらねえなあ」
後ろ姿にそうつぶやいて、ヘンリーは振り向いた。
「兄上、ルーク様を城内へお招きしなくてよいのですか?」
多少皮肉な口調でデールが聞いた。
「グランバニアの国王陛下には、いろいろとご多忙のようですので」
あとで話す、と仕草で言って、ヘンリーは咳払いをした。
「さて……」
御前会議に集められた貴族たちが震えあがった。

 それは神にして竜、竜にして神。マスタードラゴンはプサンの言うめまいからやっと回復していた。天空城の大きな玉座の前に鱗におおわれた巨体をどっしりと据えていた。
 長い首を伸ばしてマスタードラゴンはルークの顔をのぞきこんだ。
「おまえの依頼、今こそ聞き届けよう」
重々しくマスタードラゴンは言った。
「お前の見た悪夢の世界は特定した。その世界のなかのおまえに干渉し、おまえの見つけ出した分岐点で流れを別の方へ向けてやろう」
真円を描く目の中に縦長の虹彩がある。その人ならぬ眼でマスタードラゴンはルークをじっと見つめた。
「私がやろうとしているのは、パズルの中で一枚のタイルを動かすことだ。そのタイルがあった空間へ私は別のタイルを寄せる。と、また穴があく。次々にタイルを寄せていくとパズルは違う絵となるが、最後にタイル一枚分の穴は残ってしまう。最終的に全く別のタイルで穴を埋めることになる。それでよいか?」
「それでも勇者は存在できるのですね?」
「もちろんだ。そうでなければ、もともとおまえの依頼を聞いたりはしない。よいか、最後のタイルは、ひとつの命だ。ヘンリーがヨシュアにナタンのことを警告したために、その世界でも、またこちらの世界でも同じひとつの命が復活することになった。それでもかまわないか?」
「命が奪われるならともかく、命が戻るなら、ぼくはかまいません」
マスタードラゴンは静かにうなずいた。
「覚悟の上ならば、何も言うまい。ルークよ、手を出しなさい。別の世界にいるおまえのところへ、これから魂を飛ばしてやろう」

 びしっと鞭の鳴る音がした。大神殿建設現場地下、石切り場あたりから物音が絶え間なく聞こえてくる。
 そこは兵士の詰め所だった。ヨシュアは現場に出なくてはならないのをなんとかごまかしてそこに粘っていた。
 昔はまったく気にならなかった音、固い革の鞭の鳴る音が、今では嫌でたまらない。その音を聞くたびに、もしやマリアが打たれているのではと思い、ヨシュアも震えあがる。
「ふがいない兄でごめん」
何の助けにもならないとわかっていても、ヨシュアはそのたびに心の中で詫びていた。
 つい先ほどのこと、他の兵士の前で隊長から嫌みたっぷりに叱責された後でヨシュアが石切り場を歩いていた時に、小柄な奴隷の男が石材を背負ったままふいに寄って来た。
「ヨシュアさんだろ?」
目が細く、髪がぼさぼさした男だった。
「なんだ?」
「マリアちゃんから、伝言だ」
息がとまるかとヨシュアは思った。周囲を見回して誰も聞いていないとわかると、その奴隷を監視しているようなかっこうで隣に並んだ。ヨシュアは早口にささやいた。
「あいつ、どうしてる?大丈夫なのか?」
しっと小柄な奴隷はうつむいたまま言った。
「奴隷はみんなあの子の味方だよ。呆れ半分じゃあるけど。自分から奴隷になろうなんて娘はいないからね」
「苛められていないのか」
その奴隷はちょっとためらった。
「いや、わかるだろ?あいつらが、ああ、あんたもそうだけど」
その男は口を濁した。ヨシュアはたまらずに拳をにぎり、自分の太ももに打ちつけた。
「兵士たちか」
「ああ。ひでぇもんだよ。あそこまでしなくたっていいのになあ」
くそっとヨシュアはつぶやいた。
「悪いが俺も忙しいんだ。奴隷監督に見つかるとまずいから、伝言つたえるよ」
「あ、ああ」
「ナタンに気をつけて、だと」
「ナタン?あいつは、でも」
「おれは自分の耳で聞いてたけど、ナタンのやつ、とんだ猫かぶりのウソツキだぞ。優等生のあんたが苦しむのがうれしいらしい」
「そんな、バカな」
「信じなくてもいいけど」
その男は気分を害したようだった。
「マリアちゃんは、奴隷になってもあんたのことを心配してるんだからな?たった一人の兄貴をさ」
そう言うとその奴隷は、石を担いで行ってしまった。
……ナタンか。
詰め所にうずくまってヨシュアは考え込んだ。
「イッテェ、足ノ上ニオチタゾ!ワザトヤッテンノカ、コノ女!」
いきなり蛮声が耳に飛び込んできた。直感でヨシュアは悟った。
「まさか、マリアか?」
ヨシュアは詰め所を飛び出した。

 奴隷監督のガスタムが機嫌が悪いことは、朝から誰の目にも明らかだった。身長も横幅もたっぷりある大柄な男で、監督としての能力はむしろ低い方だった。ガスタムはグールと他種族との混血だった。事実、その気になればモンスターの姿になり、その能力を使うこともできた。攻撃役としては優秀な魔物なのだが、それを鼻にかけて監督の仕事をバカにしていた。すぐに監視に飽きてさぼりだす癖があった。
 どいういうわけか賭博が好きで、魔物仲間としょっちゅう賭けをやっている。夕べも奴隷監督の宿舎で勝負をして、だいぶ負けたらしかった。
 そのせいか、朝から不機嫌だった。ぶっきらぼうかと思えば、ささいなことに目くじら立てて怒鳴りまくった。
 その朝、牢内の飢餓牢で、前から衰弱していた老いた奴隷が息を引き取った。足腰が痛むようになって働けないとわかると、兵士たちはあっさり飢餓牢へたたきこんでしまったのだ。その日からルークたちが鉄格子ごしに食べ物や水を渡していたのだが、弱った体はそれも受け付けなくなった。真夜中、奴隷仲間に“先へ行くよ”と言い残して目をつむり、そのままになった。死に顔はむしろ、ほっとしたような微笑みだった。
 ガスタムは飢餓牢から粗っぽく遺体を引きずりだすと、先のとがった長靴で蹴りあげた。
「ヤット、クタバッタカ!」
ルークたちは何も言わなかったが、誰しもむっときていた。
「オイ、ナンダ、ソノ眼ハ!」
働かせるために奴隷を牢から出しながら、ガスタムはいちゃもんをつけ始めた。まっさきにやられるのは、いつも目をつけられているルークだった。
「別に、何も」
「嘘ツケ。オレガ気ニ食ワネエンダロウ。エ?ソウナンダロ?」
首輪についた鎖をいきなりつかんで左右に振った。朝食にもらった豆のスープの大半が小さな椀から飛び散った。
「何ニランデンダヨ、奴隷ガ!」
他の奴隷たちが鎖につながれたまま動き出すと、ルークも引っ張られて動いた。その脇にはりついて、いらついているガスタムはねちねちといびり続けた。
 やがて石切り場に着くと、ガスタムは別の奴隷を見つけて難癖をつけ始めた。聞き苦しいどなり声を奴隷の耳元でがなりたてる。相手が反抗できないのをいいことに、小突きまわし、みぞおちを殴り、大きな靴で奴隷の裸足の足の甲をおもいきりふんづけた。
「オイ、オマエモ仕事シロ」
同僚にそう言われるまで、その奴隷が謝ろうが泣こうが食いついて苛め続ける。
 あいつ、無抵抗な相手にしか噛みつけないんだ、とヘンリーは常々その男のことを評していた。打たれ弱いし、根が臆病もんさ。おまえ、あんまり熱くなるなよ。
 ルークは心の中のいらだちをぐっとおさえて石切り作業に集中した。親方の脱走の後奴隷が大量に死んだ事件のとき、実は兵士も奴隷監督も減ってしまったのだ。兵士は下界から補充したが、奴隷監督は魔界から補充したのかもしれない。見かけは二足歩行だが、正体は人狼や悪魔系などである。前よりも質の悪い奴隷監督ばかりだ、と内心ルークは思った。
 一番たちの悪い奴隷監督はヘンリーがこっそり排除した。排除する前にヘンリーの耳はナイフでギザギザになってしまったが。死んで当然、と言いたくはないが、何の理由もなく奴隷を捕まえて、衆人環視の中笑いながら指、鼻、耳たぶを切り刻むような奴だったのだ。モンスターから見ても狂った奴隷監督だった。そいつの影に隠れて目立たなかったのが、今日あちこちでいびりを繰り返している男、ガスタムだった。
「ヒャアア、ヒャヒィ」
奇声が聞こえてきた。ルークはぞっとした。その声は、あの奴隷監督が陰湿ないたずらに興じるときの声だった。
「神聖侍女様ジャナイカ!ヒャヒッ、ヒャヒィィ!」
マリアに目を付けたらしかった。魔物である自分が現場で働いているのに、奥勤めで楽をしていた(と思い込んでいる)マリアに嫉妬していたのがありありとわかる。
 ただでさえ、慣れない重労働でマリアは疲れているはずだった。今日も石切り場の上の方で、踏み車を回していた。踏み車につないだ縄に石材を結び付けて、縄を巻き取ることで石を持ち上げるのだ。
「サゾ上手ニ踏メルンダロウ、モット早ク回セ!」
不必要な早さをマリアに要求した。
 はぁはぁと息を吐いてマリアは一生懸命踏み車を踏んでいた。見かねて女奴隷の一人がいっしょに回そうと踏み台に足をかけた。
 いきなり拳が飛んだ。
「余計ナ事ヲスルナッ」
そのまま足蹴にした。骨の折れるいやな音がした。マリアが青くなって振り向いた。が、マリアが踏み車を離れれば、せっかくあげた石材が下へ落ちてしまう。
「ドイツモコイツモ役立タズダッ」
ガスタムは自分の不機嫌を自分で煽りたてた。
「来イ、オマエラ」
ガスタムはマリアともう一人の女奴隷を引きずるようにして石切り場へつれだした。その場へ突き飛ばすと、運び出すために切った石を平手でいらいらとたたいた。
「セメテ役ニ立ッテミロ!ホラ、持テ!」
踵がねじれているのに立とうとする女奴隷をマリアは手でとめ、自分が運ぼうと進み出た。
「ホラヨ」
魔物の奴隷監督にさえ重そうな石の塊をマリアに手渡した、かに見えた。最後の瞬間マリアの手に渡る前にガスタムは手をひっこめ、石は地に落ちた。
「イッテェー!!」
人を傷つけるのはかまわなくても、自分の痛みには大騒ぎをする。石はガスタムの長靴のつまさきに落ちたのだった。
「足ノ上ニ落チタゾ!ワザトヤッテンノカ、コノ女!」
「すみません!」
「ワザトカ、ッテ聞イテンダヨ!」
ガスタムはきゃしゃなマリアの両肩左右からつかんで振った。
「ひっ……」
マリアは悲鳴をこらえた。